少女を◯す
昼休みを告げる鐘が鳴った。
教師が教室を出た途端、それまで静かだった室内が一気に騒がしくなる。
学生たちは弁当を広げ、食堂へ向かい、あるいは別の教室にいる友人を呼びに立ち上がった。
レンはすぐには動かなかった。
机の上へ教科書を並べ直しながら、午前中に得た情報を頭の中で整理する。
授業の水準。
学生たちの座席と交友関係。
教師から評価されている者。
反対に、問題児として扱われている者。
そして、神崎カナタ。
午前中の授業で、カナタは一度だけ教師に当てられた。
答えは正解。
だが、目立つほど優秀ではない。
成績上位者ではあるが、学院一の天才という扱いでもなかった。
少なくとも、表向きは。
「レン」
前の席から、カナタが振り返った。
「約束どおり、学院を案内するよ。食堂も見たいんだったよな?」
「ああ。頼む」
レンは鞄を持って立ち上がった。
二人で教室を出る。
廊下には大勢の学生が行き交っていた。
カナタは歩きながら、学院の施設を順番に説明していく。
「正面の階段を下りたところが食堂。その隣が購買部。教科書とか筆記具はそこで買える」
「食べ物も?」
「一応。でも、昼休みの後半はほとんど残ってない」
「人気なんだな」
「みんな、授業が終わった瞬間に走るからね」
前方を、パンの入った袋を抱えた男子学生が駆け抜けていく。
その直後、廊下の向こうから教師の怒鳴り声が響いた。
「廊下を走るな!」
男子学生の足が、わずかに速くなった。
「止まらないんだな」
「捕まったらパンを取られるから」
「教師が?」
「いや、後ろから追いかけてる連中に」
見ると、数人の学生が同じ方向へ走っていく。
「平和な学院だ」
「今のところはね」
カナタは笑った。
気負った様子のない、ごく普通の笑顔だった。
二人は食堂、講堂、図書館の順に見て回った。
レンはカナタの説明を聞きながら、別の部分を観察していた。
建物同士をつなぐ渡り廊下。
守衛の位置。
使用されていない階段。
窓から外へ降りられそうな場所。
学生が少なくなる時間帯。
カナタに近づくだけなら、難しくはない。
席は前後。
向こうから案内まで申し出ている。
だが、殺すとなれば話は別だった。
カナタが前世の記憶をどこまで周囲へ明かしているのか。
研究成果がどこに保管されているのか。
既に他人へ技術を伝えているのか。
本人だけを殺して終わる仕事なのか。
確認するべきことは多い。
「次が研究棟」
カナタが、中庭の向こうにある建物を指さした。
本校舎よりも古い、三階建ての建物だった。
壁には無数の配管が走り、屋上からは細い煙突が何本も伸びている。
一階の大きな扉には、立入許可証の提示を求める札が掛けられていた。
「普通の学生も入れるのか?」
「許可があればね。僕は応用科学研究会に所属してるから、ある程度は自由に使える」
「へえ」
レンは初めて聞いたような顔をした。
依頼書に、研究会の名前までは記載されていなかった。
『そこで蓄電技術の研究を?』
レンは尋ねかけ、口を閉じた。
危ないところだった。
カナタは、自分の研究内容をまだ話していない。
「何を研究してるんだ?」
言い直す。
「電気を蓄える装置だよ」
カナタは特に疑うことなく答えた。
「今ある蓄電器は大きくて重いだろ? それを、もっと小さくしたいんだ」
「小さくすると、何かいいことがあるのか?」
「電気をどこへでも持っていける」
カナタの目に、わずかな熱が宿った。
午前中には見せなかった顔だった。
「今は発電所から電線を引かなければ、まともに電気を使えない。でも、小さくて長持ちする蓄電器があれば、電線のない場所でも使えるようになる」
「例えば?」
「山奥の診療所。地下の鉱山。航海中の船。それに、一般の家庭でも使えるかもしれない」
カナタは次々と例を挙げた。
その表情に悪意はない。
兵器を作ろうとしている人間の顔でもなかった。
ただ、自分の知識によって人々の生活が便利になると、心から信じている。
依頼書には書かれていなかった部分だ。
だが、善人かどうかは仕事に関係ない。
前回、それを嫌というほど思い知らされた。
「カナタ」
背後から、少女の声がした。
カナタの肩が目に見えて下がる。
「……見つかった」
「何をしたんだ?」
「まだ何もしてない」
「これからする予定だったのか」
「できれば」
足音が近づいてくる。
レンが振り返ると、一人の少女が渡り廊下を歩いてきていた。
年齢はレンより一つか二つ上。
亜麻色の髪を肩口で切りそろえ、学院の制服を隙なく着こなしている。
手には書類の束。
灰青色の瞳は真っすぐカナタへ向けられていた。
整った顔立ちをしている。
だが、柔らかな印象はなかった。
近寄りがたいというより、隙がない。
レンは少女の歩き方を見る。
一定の速度。
背筋は伸びている。
周囲の学生が自然に道を空けていた。
学院内で、それなりの立場にいる人間らしい。
「カナタ。昨日までに提出するよう言った研究棟の使用申請書は?」
少女が尋ねる。
「今、頭の中で書いてる」
「紙に書かなければ申請書とは呼ばないわ」
「新しい定義だね」
「一般的な定義よ」
「今日の放課後までには出す」
「昨日も同じことを言っていたでしょう」
「昨日の僕と今日の僕は、厳密には別人だから」
「では、今日のあなたには昨日のあなたの分まで反省してもらうわ」
少女は持っていた書類をカナタの胸へ押しつけた。
カナタが渋々受け取る。
「相変わらず厳しいな、アリサは」
「あなたが相変わらず適当なのよ」
少女――アリサの視線が、初めてレンへ向いた。
表情がわずかに変わる。
「あなたが、レン・クロード?」
「はい」
「榊アリサよ。宗一郎は私の祖父」
レンは内心で、依頼書の内容を思い返した。
榊宗一郎。
レンの身元保証人。
学院理事。
その孫。
これほど早く、直接の関係者と出会うとは思っていなかった。
「榊先生には、昨夜からお世話になっています」
「聞いているわ。祖父から、あなたの学院生活を手伝ってほしいと頼まれたの」
アリサはレンの顔を見つめる。
敵意はない。
だが、観察するような目だった。
「ご両親のことは……残念だったわね」
「ありがとうございます」
レンは静かに頭を下げた。
悲しそうにしすぎない。
平然としすぎない。
話題に触れられたくない人間の反応を作る。
顔を上げると、アリサはそれ以上追及しなかった。
「学生寮への入居を希望しているそうね」
「はい。いつまでも先生のお宅へご迷惑をかけるわけにはいきませんから」
「申請には保証人の署名が必要だけれど、祖父から預かっているわ。今日の放課後に寮務室へ提出しましょう」
「助かります」
「祖父に頼まれただけよ。お礼なら祖父に言って」
事務的な言葉だった。
それでも、レンにとっては都合がよかった。
榊宗一郎と暮らす期間を短くできる。
存在しない両親について質問される危険も減る。
それだけではない。
アリサは学院の制度に詳しい。
研究棟へ出入りするカナタとも親しい。
そして、身元保証人である榊宗一郎の孫。
今回の仕事に必要な三つの場所を、彼女一人がつないでいる。
利用しない理由がなかった。
「そういえば、カナタ」
アリサがカナタへ向き直る。
「彼を案内していたのでしょう。どうして研究棟へ連れてきたの?」
「まだ中には入れてないよ」
「入れるつもりだった?」
「少しくらいならいいかと思って」
「よくないわ。研究棟は見学者でも許可が必要よ」
「僕が付き添えば問題ないだろ?」
「あなたが一番問題なの」
即答だった。
カナタが不満そうに口を閉じる。
レンは笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
アリサが気づく。
「何かおかしい?」
「いや。二人は仲がいいんだなと思って」
「幼なじみなんだ」
カナタが答えた。
「家も近かったし、小等部からずっと一緒なんだよ」
「腐れ縁という言葉が適切ね」
「それ、本人の前で言う?」
「本人へ言うための言葉でしょう」
カナタは肩をすくめた。
アリサは研究棟の扉を確認すると、腰に下げていた鍵束へ手を触れる。
いくつもの鍵の中に、研究棟の紋章が刻まれたものがあった。
「私は応用科学研究会の会長でもあるの。研究棟へ入りたいなら、正式な見学申請を出して」
「分かりました」
レンは素直に答えた。
ここで食い下がる必要はない。
急いで入りたがれば、警戒される。
興味がないふりをすれば、カナタとの距離を縮めにくい。
「研究には少し興味があります。でも、編入したばかりなので、まずは学院に慣れてからにします」
「それが賢明ね」
アリサの返事は淡々としていた。
だが、わずかに警戒が緩んだ。
自分の指示へ素直に従う人間は、扱いやすい。
そう思ったのだろう。
人は、自分が相手を扱いやすいと思った瞬間に、相手から扱われ始める。
「それじゃあ、案内の続きをしよう」
カナタが言った。
「アリサも来る?」
「行かないわ。あなたの代わりに、この申請書を研究主任へ届けるの」
「助かる」
「原因を作った人間が言う台詞ではないわね」
アリサはため息をつき、研究棟へ入っていった。
重い扉が閉じる。
レンは、その扉を見つめた。
鍵を持つ少女。
まずは、彼女からだった。
◇
午後の授業が終わる。
レンは何人かの学生から、帝都の街を案内すると誘われた。
初日の人間関係を作るという意味では、悪い誘いではない。
だが、今日は別の予定があった。
「悪い。寮の手続きがあるんだ」
「そっか。じゃあ明日な」
「ああ。また誘ってくれ」
明るく笑って見送る。
教室に残っている学生は少ない。
カナタの姿は、既になかった。
机の中も空になっている。
レンは鞄を持ち、教室を出た。
先に寮務室へ向かう。
書類の記入を済ませ、必要な規則を確認する。
アリサから榊宗一郎の署名入り書類を受け取り、提出した。
これで三日後には学院寮へ入れる。
「手続きは以上よ」
寮務室を出たところで、アリサが言った。
「部屋が決まったら、祖父の家にある荷物を運びましょう」
「そこまでしてもらうのは悪い」
「祖父に頼まれているから」
「何でも祖父のせいにするんだな」
アリサの眉がわずかに動いた。
「何か問題が?」
「いや。面倒見がいいと言うと怒りそうだから、黙っておこうと思った」
「もう言っているでしょう」
「ばれたか」
レンが笑う。
アリサは呆れたように息を吐いた。
「編入初日とは思えないほど余裕があるのね」
「内心では緊張してる」
「そうは見えないわ」
「見えないようにしてるからな」
その答えに、アリサは一瞬だけ黙った。
レンは笑顔を崩さなかった。
嘘ではない。
ただし、緊張している理由が違うだけだ。
「それじゃあ、俺は少し学院の中を見てから帰るよ」
「正門の閉門は六時。研究棟と資料棟は五時までよ」
「覚えておく」
アリサへ軽く手を上げ、その場を離れる。
階段を下り、食堂の前を通り、中庭へ出た。
そのまま正門へは向かわない。
研究棟へ続く渡り廊下へ入る。
カナタは授業が終わる前から、何度も時計を確認していた。
制服の袖には、午前中にはなかった黒い汚れがついていた。
昼休みの間に研究棟へ入り、何かを動かした可能性がある。
そして、放課後になると同時に教室から消えた。
研究を続けていると考えるのが自然だった。
レンは研究棟の前まで来た。
正面扉は閉まっている。
耳を澄ませる。
かすかに機械の動く音が聞こえた。
人の声はない。
レンは扉へ近づかなかった。
周囲を一周する。
西側に資材搬入口。
裏手には地下へ続く通気口。
二階には廊下の窓が並んでいる。
建物の構造を覚えるだけにとどめ、今日は引き返す。
そのつもりだった。
「寮務室は、反対側だけれど」
背後から声をかけられた。
振り返る。
渡り廊下の入口に、アリサが立っていた。
書類は持っていない。
代わりに、先ほどの鍵束を手にしている。
「手続きは終わったよ」
「そのあと、学院を見て帰ると言っていたわね」
「ああ」
「それで、真っ先に立入制限のある研究棟へ?」
疑いの目。
レンは返事を急がなかった。
下手な言い訳を作れば、かえって不自然になる。
「教室を出たとき、カナタがこちらへ向かうのが見えた」
レンは研究棟を見る。
「昼間、面白そうな話を聞いたからな。研究しているところを少し見られないかと思った」
「許可が必要だと言ったでしょう」
「だから中には入ってない」
アリサは閉じた扉を見る。
その向こうから、再び機械音が響いた。
規則的だった音が、途中で一度だけ乱れる。
アリサの表情が変わった。
「カナタ……!」
鍵を差し込み、扉を開ける。
レンは動かなかった。
アリサが振り返る。
「あなたはここで待っていて」
「分かった」
命令に従う。
扉が閉まる直前、レンは靴の先をわずかに挟んだ。
完全には閉まらない。
内部から、アリサの足音が遠ざかっていく。
レンは十秒待った。
次に、十五秒。
建物の奥から声が響く。
「カナタ! 何をしているの!」
「アリサ? どうしてここに」
「それはこちらの台詞よ! 申請書はまだ承認されていないでしょう!」
「装置を動かすだけなら平気だよ」
「前にも同じことを言って、実験台を燃やしたでしょう!」
「今回は燃えない」
「何を根拠に――」
金属が軋む音がした。
二人の会話が止まる。
続いて、低い振動音。
レンは扉を開けた。
声の聞こえた方向へ走る。
廊下を曲がった先に、扉の開いた実験室があった。
室内には、レンの知らない器具が並んでいる。
銅線。
計器。
薬品の入った瓶。
壁際には、この世界で一般的に使われている大型の蓄電器が置かれていた。
その中央。
実験台の上に、金属製の小さな箱がある。
両手で抱えられるほどの大きさ。
箱から伸びた線が、数個の電灯へつながっていた。
電灯は、昼間だというのに目を開けていられないほど明るく輝いている。
カナタは装置の前に立っていた。
アリサが、その腕を引いている。
金属箱から、甲高い音が鳴っていた。
細い蒸気が噴き出している。
箱の側面が、内側から押されるように膨らんでいた。
レンには、装置の仕組みは分からない。
だが、似た音を知っていた。
蒸気機関を使う世界。
圧力鍋のある世界。
火薬を金属筒へ詰める世界。
中身が違っても、限界を迎えた容器が上げる悲鳴はよく似ている。
「伏せろ!」
レンは叫んだ。
壁に掛けられていた厚い防火布をつかむ。
実験台へ駆け寄り、金属箱の上へかぶせた。
次の瞬間。
箱が破裂した。
鈍い爆発音。
防火布が大きく膨らみ、金属片が内側から突き刺さる。
レンの身体が衝撃で床へ倒れた。
耳鳴り。
焦げた臭い。
割れた電灯の破片が、床へ降り注ぐ。
数秒遅れて、警報装置の鐘が鳴り始めた。
「レン!」
誰かが自分の名前を呼んでいる。
レンは床へ手をついた。
右腕に痛みが走る。
見ると、制服の袖が裂け、前腕から血が流れていた。
金属片がかすめたらしい。
致命傷ではない。
指も動く。
「カナタは」
レンが尋ねる。
「無事よ。あなたも動かないで」
アリサが床へ膝をつき、レンの腕を確認する。
カナタは実験台の反対側で尻もちをついていた。
怪我はない。
破裂する直前、アリサに引かれて装置から離れていたようだ。
「どうして入ってきたの」
アリサが言う。
責める口調ではなかった。
声がわずかに震えている。
「嫌な音が聞こえた」
「それだけで、破裂すると分かったの?」
「昔、似た音を聞いたことがある」
「北部で?」
「農村だからって、何も壊れないわけじゃない」
レンは痛みに顔をしかめながら笑った。
アリサは何か言いたそうにしたが、先に傷の処置を始めた。
壁の救急箱から布と消毒液を取り出す。
慣れた手つきだった。
「しみるわよ」
「待て。心の準備を――」
消毒液が傷口へ注がれた。
「痛っ……!」
「先に言ったでしょう」
「言ってから使うまでが早すぎる」
「カナタの実験に付き合っていると、怪我の処置だけは上達するの」
「誇るところじゃないだろ」
「まったくだね」
カナタが口を挟む。
アリサが振り返った。
「あなたは黙っていなさい」
「はい」
カナタが姿勢を正す。
アリサはレンの腕へ包帯を巻き終えると、ゆっくり立ち上がった。
そして、カナタの前まで歩いていく。
「何が、今回は燃えない、よ」
「燃えてはいない」
「爆発したでしょう!」
平手が振り上げられる。
カナタが目を閉じた。
だが、アリサは殴らなかった。
手を握りしめたまま、力なく下ろす。
「あなたが死んだら、研究が成功しても何の意味もないでしょう」
怒りよりも、恐怖の残る声だった。
カナタの表情から、言い訳が消えた。
「……ごめん」
「私に謝る前に、レンへ謝りなさい」
カナタがレンへ向き直る。
「すまない。僕のせいで怪我をさせた」
「たいした傷じゃない」
「でも、君が布をかぶせてくれなかったら、僕たちは――」
カナタの視線が、実験台へ向く。
防火布には何本もの金属片が突き刺さっていた。
あれをまともに浴びていれば、無傷では済まなかっただろう。
「借りができた」
「初日に貸しを作れるとは思わなかったな」
「必ず返すよ」
「それなら、学院で一番うまい昼飯を教えてくれ。それでいい」
「そんなことで?」
「食堂の料理に期待してる」
「分かった。明日は僕がおごる」
カナタが、少しだけ笑った。
警戒している様子はない。
むしろ、命を救われたことで、レンへの信頼を強めている。
意図して起こした事故ではない。
だが、利用できるものは利用する。
事故も。
怪我も。
他人の良心も。
「それより、この装置は何なんだ?」
レンは破裂した金属箱を見る。
純粋に興味を持ったような声を作る。
カナタは一瞬ためらった。
アリサが視線で止めようとする。
しかし、カナタは実験台に残っていた一冊の帳面を手に取った。
「新型の蓄電器だよ」
開かれたページには、細かな数字と図面が書き込まれていた。
レンには、その計算のすべては理解できない。
言葉が読めても、専門知識まで得られるわけではない。
それでも、いくつか分かることはあった。
同じ大きさの既存製品と比較した表。
充電に必要な時間。
放電を繰り返した回数。
蓄えられる電力量。
カナタの試作品には、既存品の十二倍という数字が記されていた。
「まだ完成してない」
カナタは壊れた装置を見つめる。
「小さくすると、内部に熱がこもる。圧力を逃がせば出力が落ちる。そこを解決できれば、実用化できるんだけど」
「十二倍というのは?」
「計算上の数字だよ。今日の実験で、半分までは確認できた」
半分。
つまり、現時点でも既存技術の六倍。
依頼書に書かれていた未来予測は、大げさではない。
カナタは間違いなく、世界の技術を数十年進める知識を持っている。
対象の確認。
研究の進行度。
成果の保管場所。
必要な情報が、一度に三つ手に入った。
「カナタ」
アリサが低い声で呼ぶ。
「あまり簡単に研究内容を話さないで」
「レンなら大丈夫だよ」
「今日会ったばかりでしょう」
「命を助けてもらった」
「それとこれは別の話よ」
二人の間に立つ。
レンは黙って様子を見ていた。
カナタは人を信じやすい。
アリサは、その危うさを理解している。
対象へ近づくうえで、邪魔になるのは間違いなくアリサだった。
同時に、彼女の信頼を得られれば、これほど便利な人間もいない。
「アリサの言うとおりだ」
レンはカナタへ帳面を返した。
「今日会ったばかりの人間を信用しすぎるのはよくない」
カナタが意外そうに目を瞬かせる。
アリサもレンを見る。
「自分で言うのね」
「信用してほしいからこそ、急がないほうがいい」
レンは壊れた装置へ目を向けた。
「ただ、こういうことを何度もやってるなら、人手は増やしたほうがいいんじゃないか?」
「研究会入門の希望者はいるわ」
アリサが答える。
「でも申請が通っていないから僕一人だった」
「私もいたでしょう」
「アリサは止めに来ただけだろ?」
「止める必要があることをしないで」
また言い合いが始まりかける。
レンは二人の間へ言葉を挟んだ。
「俺を研究会に入れてくれないか?」
二人が同時にレンを見た。
「あなたを?」
「正直、研究の知識はほとんどない」
「では、何をするつもり?」
「記録係。掃除。荷物運び。それと――」
レンはカナタを指さした。
「こいつが勝手に危ない装置を動かさないか見張る」
「僕の扱い、もうそれで決まったの?」
「出会って半日で爆発に巻き込まれたからな」
「反論しづらいな……」
アリサは腕を組み、レンを見つめた。
簡単には答えない。
レンがどういう意図で研究会へ入ろうとしているのか、考えている。
当然の警戒だった。
レンは急かさなかった。
断られたとしても、別の方法を探せばいい。
沈黙のあと、アリサが口を開く。
「研究会へ入るには、最低限の安全講習を受けてもらうわ」
「受ける」
「装置には、私か担当教員の許可なく触れないこと」
「分かった」
「研究内容を、外部へ漏らさないこと」
「約束する」
「入会を許可したわけではないわ。仮登録よ。あなたの働きを見てから判断する」
十分だった。
研究室へ出入りできる。
カナタの行動を観察できる。
アリサとの関係も作れる。
「ありがとう。榊先輩」
「アリサでいいわ。同じ研究会で、毎回その呼び方をされると面倒だから」
「分かった、アリサ」
レンは素直に呼び方を変えた。
アリサの眉が再びわずかに動く。
「順応が早いのね」
「早く馴染めるように努力してる」
「そうだったわね」
完全には信じていない。
だが、拒絶もされていない。
今はそれでよかった。
「明日の放課後、研究棟の第二実験室へ来て。安全講習を行うわ」
「昼飯のあとでいいか?」
「昼食?」
「カナタがおごってくれるらしい」
「あのね、カナタ」
アリサの声が低くなる。
「実験器具を壊した弁償について、まだ話が終わっていないのだけれど」
カナタが顔を引きつらせた。
「明日の昼食代くらいは残してくれる?」
「反省の度合いによるわね」
「レン。食堂じゃなくて、水だけになるかもしれない」
「命の恩人への礼が水か」
「水道水なら無料だよ」
「少し後悔してきた」
レンが言うと、カナタが笑った。
アリサも一瞬だけ、口元を緩める。
だが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「笑っている場合ではないわ。警報を聞いた教師が来る前に、状況を整理するわよ。隠すという意味ではなく、正確に説明できるようにするの」
「はい、会長」
「カナタ。あなたは壊れた装置の確認」
「分かった」
「レンは座っていて。怪我人まで働かせられないわ」
「片づけくらいできる」
「駄目よ」
「でも――」
「座っていて」
有無を言わせない口調だった。
レンは近くの椅子へ腰を下ろした。
「分かったよ」
アリサは破損した実験台の確認を始める。
割れた器具。
焼けた配線。
飛び散った薬品。
教師へ説明するため、一つずつ紙へ記録していく。
カナタが失敗を隠そうとすれば止め、危険な破片へ近づけば腕を引く。
口では文句を言いながら、彼女は常にカナタの安全を確認していた。
レンは、その姿を静かに眺めた。
榊アリサ。
学院理事の孫。
応用科学研究会の会長。
研究棟の鍵を持ち、カナタの研究内容を知り、本人から信頼されている幼なじみ。
責任感が強い。
規則を重視する。
他人の面倒を放っておけない。
そして、カナタを守るためなら、自分が嫌われる役目も引き受ける。
使いやすい人間だった。
同時に、使い方を間違えれば、誰よりも早く異変へ気づく人間でもある。
近づきすぎれば疑われる。
距離を取れば、カナタへ近づけない。
必要なのは、彼女が自分からレンをそばへ置きたくなる理由だった。
今日の事故で、その最初の一つはできた。
カナタを助けた人間。
危険を前にしても動ける人間。
研究の邪魔をせず、無茶を止めてくれる人間。
そう思わせればいい。
本当にそうである必要はない。
彼女が、そう信じていればいい。
「レン」
アリサが呼んだ。
「何だ?」
「今日は……ありがとう」
先ほどまでの厳しい口調ではなかった。
「あなたが来てくれなければ、カナタは大怪我をしていた」
「気にするな。たまたま間に合っただけだ」
「それでもよ」
アリサはレンの包帯へ視線を落とす。
「その怪我の借りは、私も返すわ」
レンは少し考えるふりをした。
「じゃあ、研究会を追い出されそうになったときに使う」
「規則を破ったら追い出すわよ」
「命の恩人でも?」
「それとこれは別の話」
昼間、カナタへ言ったのと同じ言葉だった。
「手強いな」
「普通よ」
アリサはそう言いながら、今度ははっきりと笑った。
わずかな変化。
だが、レンは見逃さなかった。
「明日からよろしく、アリサ」
「ええ。よろしく、レン」
彼女は、カナタを守るためにレンを研究会へ入れた。
自分一人では止められない幼なじみを、彼と一緒に見張ってもらうために。
その判断が何を招くのか、まだ知らない。
レンがカナタを守る理由など、どこにもないことも。
レンにとって彼女自身が、研究棟の扉を開く鍵でしかないことも。
ただ――鍵は、乱暴に扱えば折れる。
だから大切にする。
信頼されるまで。
必要な情報をすべて引き出すまで。
そして、役目を終えるその瞬間まで。
レンは穏やかな笑顔を浮かべながら、右腕に残る痛みを確かめた。




