研究者を◯す
光が消えたとき、レンは見知らぬ部屋の中に立っていた。
六畳ほどの狭い部屋。
簡素な寝台と机、背の低い本棚。壁には紺色の制服が掛けられ、窓の外からは車輪の音と人々の話し声が聞こえてくる。
空気には、油と石炭の匂いが混じっていた。
魔王城に満ちていた血と灰の臭いは、もうどこにもない。
レンは部屋の中を一度見渡した。
扉は一つ。
窓は一つ。
机の上に封筒。
寝台の下に革製の鞄。
鏡は、本棚の横に立て掛けられている。
誰かが潜んでいる気配はない。
そこでようやく、レンは自分の両手へ目を落とした。
指が細くなっていた。
五年間、短剣を握り続けてできた硬い皮膚も、魔王城で負った細かな傷も消えている。
握ってみる。
力が入らないわけではない。
だが、昨日までの身体とは明らかに違った。
「……また、これか」
鏡の前に立つ。
映っているのは、十八歳ほどの青年だった。
癖のある黒髪。
細身の身体。
眠たげにも見える、鋭さの薄い顔立ち。
前の世界へ送り込まれたときと、ほとんど同じ姿だった。
あの世界で過ごしたのは五年。
タクミたちと出会ったとき、レンの身体は十八歳だった。旅を終える頃には二十代へ差しかかり、輪郭や目元にもわずかな変化が現れていた。
だが、新たな世界へ送り込まれるたび、身体は十八歳前後へ戻される。
傷も消える。
病も消える。
その世界で身につけた筋力さえ、ほとんど失われる。
残るのは、記憶と技術だけ。
短剣の使い方を覚えていても、それを扱える身体は一から作り直さなければならない。
若返ったという感覚は、もうなかった。
レンは、この姿でいくつもの世界を渡ってきた。
一年で終わった仕事もある。
十年以上かかった仕事もある。
最初の頃は、過ごした年月を数えていた。
やがて合計が三桁を越えたあたりで、数えることをやめた。
外見は十八歳。
中身が何歳なのかは、本人にも分からない。
鏡の中にある若い顔だけが、毎回同じ場所へ戻ってくる。
レンは自分の唇へ触れた。
魔王城で強くかんだ傷も消えている。
それでも、血の味だけは残っている気がした。
――そんな苦しそうな顔ができるなら、何か事情があったんだな。
レンは鏡から目をそらした。
今は考える必要のないことだった。
机の上に置かれていた封筒を手に取る。
白い封蝋には、翼を広げた蝶の紋章が刻まれていた。
女神からの依頼書。
相変わらず、趣味の悪い印だった。
封を切る。
中には数枚の書類と、一枚の写真が入っている。
写真には、黒い制服を着た少年が写っていた。
整った髪。
人当たりのよさそうな笑顔。
どこにでもいそうな学生に見える。
レンは最初の書類を開いた。
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【対象者】
神崎カナタ
十七歳
帝都中央学院・高等部二年
【異界混入種別】
転生
【現状】
前世の記憶を保持している可能性が極めて高い。
現時点において、身体的および超常的能力は確認されていない。
【想定される影響】
対象者が現在研究している蓄電技術は、当該世界の技術発展を三十一年から四十八年程度早める可能性がある。
実用化された場合、産業、医療、通信、軍事および国家間の勢力関係に大幅な変動が見込まれる。
二十年以内に発生する四件の国家間紛争のうち、三件の勝敗が変動。
五十年後における国家数、国境線および人口分布が大幅に変化する可能性あり。
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書かれているのは、それだけだった。
カナタが善人なのか。
悪人なのか。
その技術によって、何人が救われ、何人が死ぬのか。
依頼書には書かれていない。
いつも同じだった。
ある世界では、異世界人が持ち込んだ薬によって疫病が消えた。
その結果、生き延びた王が戦争を始めた。
別の世界では、異世界人が一つの国を滅ぼした。
だが、その国が滅びたことで、百年続くはずだった奴隷制度も終わった。
何が良く、何が悪いのか。
その判断を、依頼書が下すことはない。
書かれているのは、その異世界人が存在し続けた場合、世界がどれほど変わるかという予測だけ。
レンの仕事も変わらない。
対象を確認し、殺す。
それだけだ。
二枚目の書類を開く。
今度は対象ではなく、レン自身についての情報だった。
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【現地身分】
氏名:レン・クロード
年齢:十八歳
所属:帝都中央学院・高等部二年
出身:北部農村地域
身元保証人:帝都中央学院理事、榊宗一郎
両親の死去に伴い、身元保証人である榊宗一郎を頼り帝都へ移住。
本日付で、帝都中央学院への編入を許可する。
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レンは書類の末尾まで確認した。
校印。
理事の署名。
編入を認める学院長の承認。
形式上の不備はない。
だが、北部農村地域にレン・クロードという人間が生まれた記録は存在しない。
両親も、故郷も、すべて架空だった。
女神であっても、世界へ自由に干渉できるわけではない。
存在しない人間を、その世界の歴史へ最初から組み込むことはできない。
大勢の記憶を書き換えることもできない。
そんなことをすれば、異世界人を排除する以上に、世界の因果を乱すことになる。
女神にできるのは、曖昧な部分へ小さなきっかけを与えることだけ。
今回であれば、榊宗一郎という人物の認識へわずかに働きかけた。
昔世話になった人間の子供を、引き取る約束をしていたような気がする。
遠い地方から、編入を希望する手紙を受け取った覚えがある。
記憶と呼ぶには曖昧な確信。
その確信に従い、榊自身が正式な書類を作り、学院へ提出した。
だから書類は本物だった。
レンを学院へ入れると決めたのも、手続きを行ったのも、この世界に生きる榊宗一郎本人だ。
ただし、深く調べられれば偽りは露見する。
榊へ両親の名前を尋ねても、答えられない。
北部の村へ問い合わせれば、レンの記録が存在しないと分かる。
神が用意するのは、世界へ入るための扉だけ。
その先で身分を守るのは、レン自身の仕事だった。
三枚目の書類には、今回の世界で使われている通貨、暦、簡単な法律が記載されていた。
それ以上の情報はない。
政治情勢も。
学院内の人間関係も。
カナタの生活習慣も。
自分で調べろということらしい。
「相変わらず、必要最低限だな」
レンは書類を元の順番へ戻した。
そのとき、扉の向こうから足音が近づいてきた。
男の足音。
歩幅は一定。
隠す様子もない。
扉が三回たたかれた。
「レン君。起きているかね?」
聞いたことのない声だった。
だが、意味は理解できた。
女神から与えられる数少ない補助の一つ。
言語理解。
どの世界へ送られても、日常的な会話と文字で困ることはない。
ただし、専門知識まで与えられるわけではない。
知らない技術の説明を聞けば、言葉の意味は分かっても、内容までは理解できない。
方言や比喩、土地ごとの習慣も自分で覚える必要がある。
便利ではあるが、万能ではなかった。
「起きています」
レンは現地の言葉で答えた。
発音に違和感はない。
声も、十八歳のものへ戻っていた。
書類を鞄へ入れ、写真だけを制服の内側へ隠す。
机の位置を整え、封蝋の欠片も拾った。
依頼書が置かれていた痕跡は残さない。
それから制服へ着替え、扉を開けた。
廊下には、五十代ほどの男が立っていた。
白髪の混じった髪。
細い眼鏡。
仕立てのよい服。
依頼書に記載されていた身元保証人、榊宗一郎だろう。
「おはよう、レン君。昨夜は眠れたかね?」
「はい。おかげさまで」
「そうか。それはよかった」
榊は安心したように笑った。
その目に疑いはない。
ただ、親しい人間を見る目でもなかった。
当然だ。
榊の中にあるのは、レンを引き取る約束をしたという曖昧な認識だけ。
共通の思い出など、一つもない。
「ご両親のことは残念だった。君のお父上には、その……昔、世話になったからね」
「父からも、先生のお話は聞いていました」
レンは迷わず答えた。
具体的な名前は出さない。
場所も時期も尋ねない。
相手の曖昧な記憶を、こちらから形にしようとしてはいけない。
榊はわずかに安堵した。
自分だけが忘れているのではないと、都合よく解釈したのだろう。
「今日は私が学院まで案内しよう。編入初日から遅刻するわけにはいかないからね」
「ありがとうございます。助かります」
「朝食は下に用意してある。支度ができたら来なさい」
「分かりました。すぐに行きます」
榊が廊下の奥へ歩いていく。
レンはその背中を見送った。
最初の会話に問題はない。
身分は機能している。
だが、榊と長く暮らせば、存在しない過去について尋ねられる機会も増える。
早い段階で、寮へ移る理由を作る必要がある。
レンは頭の中へ、新しい項目を加えた。
学院の制度を確認。
寮への入居条件を調査。
北部地域の地理と習慣を把握。
父親の仮名と職業を設定。
すべて、今日中に調べられることではない。
一つずつ処理するしかなかった。
◇
朝食を終えたあと、レンは榊とともに家を出た。
石造りの建物が並ぶ大通りを、鉄製の車両が走っている。
屋根から伸びた棒が頭上の電線へ触れ、火花を散らしていた。
路面電車。
依頼書に記載されていた名称は分かる。
だが、乗り方までは書かれていない。
レンは榊より半歩後ろを歩き、周囲の人間を観察した。
乗車口。
硬貨を入れる箱。
切符を受け取る位置。
先に乗った三人の動作を見てから、同じように振る舞う。
知らないことを、知らないままにしない。
そして、知らないことを相手へ悟らせない。
それは、百年以上を生きて身につけた技術の一つだった。
車内へ入る。
窓の外を、石造りの街並みが流れていく。
通行人の服装。
新聞の見出し。
街角に立つ警察官の装備。
時刻を知らせる時計塔。
使われている貨幣。
レンは何気なく外を眺めながら、一つずつ記憶していった。
身体は十八歳へ戻っている。
異能力もない。
銃で撃たれれば死ぬ。
高い場所から落ちても死ぬ。
相手が自分より強ければ、正面から戦って勝てる保証もない。
レンにあるのは、別の世界で積み重ねてきた経験だけ。
それも、世界が変わればそのまま通用するとは限らない。
だから観察する。
覚える。
試す。
間違えれば、やり直す。
一見すれば、迷いなく仕事をこなしているように見えるだろう。
実際には、小さな失敗を重ねながら、失敗したことさえ気づかれないように隠しているだけだった。
「見えてきたよ」
榊の声に、レンは顔を上げた。
大通りの先に、白い校舎がそびえている。
帝都中央学院。
高い鉄柵に囲まれた敷地。
正門には守衛が二人。
その奥には、制服を着た大勢の学生が行き交っていた。
「今日から、君もここの学生だ」
榊が言う。
「はい。なんだか、少し緊張しますね」
レンは穏やかに笑って答えた。
「そうかね。まあ、最初だけだよ。すぐに慣れるさ」
「そうだといいんですが。学院のことは、まだ何も分からないので」
「分からないことがあれば、先生やクラスメイトに聞けばいい。君ならすぐに馴染めるだろう」
「ありがとうございます。できるだけ早く、皆さんと仲良くなれるようにします」
その身分が、いつまで必要になるかは分からない。
一週間か。
一年か。
あるいは、前回のように五年以上か。
期間を決めるのはレンではない。
対象が死ぬまで。
ただ、それだけだった。
◇
担任に連れられ、教室へ入る。
数十人の視線が、一斉にレンへ集まった。
レンは教室全体を見回した。
扉は前後に二つ。
窓は四つ。
教師用の机。
学生の座席は五列。
出入口に最も近い席。
外から見えにくい席。
教室内を見渡せる位置。
考えるより先に、確認していた。
「今日からこの組へ編入することになった、レン・クロード君だ」
担任が紹介する。
「北部から帝都へ来たばかりだ。皆、いろいろと教えてやってくれ」
レンは軽く頭を下げた。
教室の空気が少し硬い。
視線が集まっている。
ここで黙りすぎれば、近寄りがたい印象になるかもしれない。
潜入初日に必要なのは、警戒されないことだ。
レンは顔を上げ、教室全体へ向けて明るく笑った。
「レン・クロードです。北部から来たばかりなので、まだ帝都のことはよく分かりません。学院のことも、皆さんのことも、これから少しずつ教えてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします!」
先ほどまで静かだった教室から、いくつか小さな笑い声が上がった。
「北部って、そんなに遠いのか?」
「訛り、全然ないな」
「昼休みに学院を案内してやるよ」
あちこちから声が飛んでくる。
レンは一人ずつへ目を向け、笑顔で応じた。
「本当ですか? 助かります」
「帝都のおすすめの場所も教えてください」
「食堂の人気メニューも知りたいです」
明るく、親しみやすく。
転校生としては、少し素直なくらいでちょうどいい。
その一方で、視線だけは教室の構造と人間関係を拾い続けていた。
扉は前後に二つ。
窓は四つ。
教師用の机。
学生の座席は五列。
出入口に最も近い席。
外から見えにくい席。
教室内を見渡せる位置。
考えるより先に、確認していた。
「席は、神崎の後ろが空いているな」
担任が言った。
「神崎。休み時間に学院の中を案内してやってくれ」
「分かりました。任せてください」
カナタが明るく答えた。
レンは指定された席へ向かう。
途中、何人かの学生へ軽く会釈をした。
「よろしく」
「よろしく、レン」
返ってくる声は、先ほどよりも柔らかい。
席へ座ると、前にいるカナタが振り返った。
「神崎カナタ。分からないことがあったら、何でも聞いて」
差し出された手。
レンは、その手を見た。
タクミが最後に差し出した手が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
だが、表情には出さなかった。
穏やかに笑い、カナタの手を握る。
「助かる。よろしく、カナタ」
「ああ。よろしく、レン。まずは学院の中を一通り案内するよ。広いから、最初は迷うと思う」
「それは心強いな。実は、さっきから教室へ来るだけでも少し迷いそうだった」
「本当に? じゃあ、昼休みは僕から声をかけるよ」
「ありがとう。楽しみにしてる」
握手は数秒で終わった。
カナタは前へ向き直り、すぐに教師の話へ意識を戻した。
レンはその背中を静かに見つめる。
対象との接触は完了。
顔と名前も一致した。
だが、まだ殺さない。
依頼書に書かれているのは、神が予測した未来でしかない。
対象が本当に前世の記憶を持っているのか。
どの程度の知識を使っているのか。
何を既に世界へ残したのか。
それを確認しなければならない。
カナタは、自分が狙われていることを知らない。
今、背後に座っている男が、異世界人を殺すために百年以上を生きてきたことも知らない。
それがレンに与えられた、唯一の優位だった。
レンは鞄から教科書を取り出した。
周囲の学生と同じページを開き、教師の話へ耳を傾ける。
まずは、この世界を知る。
次に、対象を知る。
殺すのは、そのあとでいい。
時間をかけることには、慣れていた。




