○○を◯す
魔王城は、空を突き刺す巨大な墓標のようにそびえていた。
黒い城壁には無数の亀裂が走り、その奥で赤黒い光が脈打っている。空を覆う雲は渦を巻き、ときおり獣のうなり声にも似た雷鳴が響いた。
タクミは、その光景を黙って見上げていた。
ここへたどり着くまで、五年。
召喚されたばかりの頃は、剣の握り方さえ知らなかった。
それが今では、世界を脅かす魔王を討つ最後の希望として、三人の仲間とともに決戦の地へ立っている。
長かった。
本当に、長い旅だった。
「……なあ」
タクミが振り返ると、三人の仲間が一斉に顔を向けた。
盗賊のレン。
魔法使いのユリ。
賢者のマドカ。
数え切れないほどの死線を越え、五年間をともに過ごしてきた仲間たちだ。
「なんだよ。今さら怖くなったとか言うんじゃねぇぞ」
レンが面倒そうに頭をかく。
口が悪く、いつも気だるそうにしている男だった。
だが、野営では誰よりも遅くまで見張りを続け、仲間が傷つけば文句を言いながら薬草を探しに走る。
そんな男だと、タクミは知っていた。
「まさか。ちょっと、言っておこうと思ってさ」
「あ?」
「レン。今までありがとう」
レンの眉間に、露骨なしわが寄った。
「……気色悪ぃ。なんだ、死ぬ前の挨拶か?」
「縁起でもないこと言うなよ」
「だったら終わってからにしろ。こういうのは面倒なんだ」
そう言いながら、レンはタクミから目をそらした。
耳が、わずかに赤くなっている。
「でも、お前がいなかったら、俺は三十回くらい死んでたかもな」
「六十二回だ」
「数えてるのかよ」
「貸しだからな。魔王を倒したら酒をおごれ。死ぬまで毎晩だ」
「それ、俺が破産して先に死ぬだろ」
レンは鼻を鳴らした。
「安心しろ。死体からも取り立てる」
「最低だな、お前」
レンの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
タクミも笑い、それからユリへ向き直った。
「ユリも、ありがとう」
「……は?」
長い赤髪を揺らし、ユリが警戒するようにタクミを見る。
「急に何よ」
「お前の魔法には何度も助けられた。それに、俺が落ち込んだときも、ずっとそばにいてくれただろ」
「べ、別にあんたのためじゃないわよ」
「五年も一緒にいるのに、まだそれ言うのか?」
「うるさいわね。あんたが暗い顔をしてると、こっちまで気分が悪くなるだけよ!」
「はいはい」
「何よ、その顔!」
ユリは頬を赤くし、タクミの脛を杖で小突いた。
地味に痛い。
けれど、このやり取りも今日で最後かもしれないと思うと、その痛みさえ愛おしかった。
「……ちゃんと勝ちなさいよ」
ユリが小さくつぶやく。
「ここまで来たんだから」
「ああ」
「勝って帰るまでが勇者の仕事よ。途中で勝手に終わったりしたら……許さないからね」
最後の言葉だけが、わずかに震えていた。
タクミは力強くうなずき、マドカへ目を向ける。
マドカは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「マドカも、今までありがとう」
「まあ。わたくしには何も言ってくださらないのかと思いました」
「そんなわけないだろ。マドカには一番世話になった。怪我を治してもらった回数なんて、もう数え切れない」
「二百と四十七回ですねぇ」
「マドカも数えてたのか……」
「そのうち九十六回は、タクミ様が無茶をなさったことが原因です」
穏やかな口調のまま、マドカが微笑む。
「……怒ってる?」
「いいえ。少し反省していただきたいだけですよぉ」
笑顔が妙に怖かった。
レンが吹き出し、ユリも肩を震わせる。
三人の笑い声を聞きながら、タクミはその顔を順番に見渡した。
この三人と出会えてよかった。
心の底から、そう思った。
「この戦いが終わったらさ」
タクミは魔王城へ目を戻した。
「みんな、何がしたい?」
「またそれ?」
ユリが呆れた声を出す。
「こういうときだからだよ。帰る理由は多いほうがいい」
「俺は寝る」
最初に答えたのはレンだった。
「一年くらい何もしない。朝から酒を飲んで、腹が減ったら飯を食って、飽きたらまた寝る」
「五年も旅をした人間の夢がそれかよ」
「俺は忙しいのが嫌いなんだ」
「だったら、なんで勇者の旅についてきたのよ」
ユリが尋ねると、レンは一瞬だけ黙った。
「……成り行きだ」
短く答え、魔王城へ顔を向ける。
タクミは特に気に留めなかった。
「ユリは?」
「私は……学校を作りたい」
意外な答えだった。
「魔法学校?」
「そう。才能がないとか、お金がないとか、女だからとか。そんなくだらない理由で魔法を諦めなくていい学校」
ユリは照れくさそうに髪を指へ巻きつける。
「この旅で、親を亡くした子をたくさん見たから。そういう子たちも受け入れたい」
「いい夢だな」
「べ、別に褒めてほしくて言ったんじゃないから」
「そこで照れる必要あるか?」
「燃やすわよ」
杖の先に小さな炎が灯り、タクミは慌てて両手を上げた。
マドカが、くすくすと笑う。
「マドカは?」
「わたくしは、小さな診療所を開きたいですねぇ」
「やっぱり人を治す仕事か」
「はい。静かな町で皆様の怪我や病気を治して、お庭で薬草を育てながら、ゆっくり暮らしたいです」
「似合いそうだな」
「皆様も、ぜひいらしてくださいね」
「俺は行かないぞ」
レンが即答した。
「お前の治療、優しい口調のわりに容赦がないからな」
「まあ。消毒が痛いからと逃げ回っていたのは、どなたでしたか?」
「知らないな」
「あんたよ」
ユリが冷たく言い放つ。
笑い声が落ち着いたあと、ユリがタクミを見た。
「それで、あんたは?」
「俺?」
「言い出した本人が決めてないなんて言わないでしょうね」
タクミは少し考えた。
元の世界へ帰れる保証はない。
この世界には家族も領地もない。勇者という肩書を失えば、何者でもなくなる。
けれど、不思議と不安はなかった。
「俺は……また四人で旅がしたい」
三人が静かになった。
「今度は世界を救うためじゃない。行きたい場所に行って、食べたいものを食べる。危険な魔物がいたら、できるだけ避ける」
「逃げるのかよ」
「もう命懸けは十分だろ」
「それには賛成ね」
「楽しそうですねぇ」
三人の答えを聞き、タクミは笑った。
「じゃあ、決まりだな」
剣を抜く。
魔王城を覆う闇の中で、勇者の剣が白く輝いた。
「魔王を倒して、四人で帰るぞ」
レンが短剣を回す。
「さっさと終わらせよう。もう五年も待ったんだ」
ユリが杖を構える。
「誰も欠けるんじゃないわよ」
マドカが静かに祈りを捧げる。
「皆様に、女神のご加護がありますように」
四人は並んで、魔王城へ足を踏み入れた。
◇
城内に待ち受けていた魔物は、これまで戦ってきたどの敵よりも強大だった。
鎧をまとった巨人。
肉体を持たない死霊の群れ。
傷つけるたびに分裂する黒い獣。
その一体一体が、かつて死を覚悟した敵に匹敵する。
だが、四人は止まらなかった。
「右だ、タクミ!」
レンの声が響くより早く、タクミは剣を振っていた。
死角から迫っていた魔物の首が飛ぶ。
「伏せて!」
ユリの声に反応し、タクミとレンが同時に身を沈める。
二人の頭上を灼熱の炎が駆け抜け、魔物の群れを焼き払った。
「まったく……無茶ばかりなさいますねぇ」
柔らかな光がタクミの傷を包み、裂けた肉を塞いでいく。
言葉を交わさなくても、互いが何をするのか分かる。
五年間をともにした四人にしかできない戦いだった。
それでも魔王の間へたどり着いたときには、全員が満身創痍になっていた。
タクミの鎧は砕け、左肩から血が流れている。
レンの短剣は一本折れ、ユリは魔力をほとんど使い果たしていた。
マドカも、杖にすがらなければ立っていられない。
その先に、魔王がいた。
六本の角。
黒い翼。
燃えるような瞳。
玉座から立ち上がった魔王は、人の形をしていながら、人とは呼べない何かだった。
ただ立っているだけで、空間そのものが悲鳴を上げている。
戦いが始まった。
魔王の腕が振るわれるたび、床が砕けた。
黒い炎が壁を溶かし、衝撃だけで四人の身体が吹き飛ばされる。
タクミは何度も床へ叩きつけられた。
息を吸うたび、胸の奥が痛んだ。
それでも剣を握り、立ち上がる。
「前に出すぎよ!」
ユリの炎が、タクミへ迫っていた黒い翼を焼く。
「出ないと、お前たちまで巻き込まれるだろ!」
「だからって全部一人で受けるんじゃないわよ!」
マドカの治癒が傷を塞ぐ。
レンの短剣が、魔王の瞳を狙う。
魔王が顔をそらした、ほんの一瞬。
その隙をタクミは見逃さなかった。
剣が魔王の胸を浅く切り裂く。
だが、魔王は倒れない。
振り下ろされた爪が、タクミの胸元へ迫る。
避けられない。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
上体をひねり、致命傷となる軌道だけを外す。
爪が鎧を砕き、肩口を切り裂いた。
タクミは血を流しながらも、踏みとどまった。
その動きを、レンだけが黙って見ていた。
戦いは長く続いた。
ユリの魔力が尽きる。
マドカの膝が床につく。
レンの最後の短剣が折れる。
それでも、誰一人として諦めなかった。
「タクミ様……今です!」
マドカが残されたすべての力を祈りへ変える。
白い光が、勇者の剣を包んだ。
ユリが最後の炎を放ち、魔王の視界を奪う。
レンが魔王の背後へ回り、折れた短剣を翼の根元へ突き立てた。
「行け、タクミ!」
タクミは床を蹴った。
魔王の爪が脇腹を裂く。
構わず踏み込む。
五年間のすべてを、その一振りに込めた。
白い斬撃が闇を切り裂く。
刃は魔王の胸を貫き、その巨体を真っ二つに断ち切った。
魔王の絶叫が城を揺らす。
やがてその身体は、黒い灰となって崩れ落ちた。
空を覆っていた闇が消えていく。
長い静寂の中で、タクミは自分の呼吸だけを聞いた。
「……勝った」
声が震えた。
「俺たち……勝ったぞ!」
ユリが杖を投げ出し、タクミへ抱きつく。
「遅いのよ、馬鹿! どれだけ心配させたと思ってるのよ!」
「痛い、痛いって!」
「おめでとうございます、タクミ様」
マドカは涙を流しながら微笑んでいた。
「本当に……よく、ご無事で……」
レンも少し離れた場所で笑っている。
「最後まで手間をかけさせる」
「レン!」
タクミは右手を差し出した。
「終わったな」
レンはその手を見た。
ほんの一瞬だけ、動きを止める。
「ああ」
タクミの手を取った。
「ようやく終わった」
その声は、不思議なほど静かだった。
次の瞬間。
胸の奥へ、冷たいものが入り込んだ。
「……え」
何が起きたのか分からなかった。
痛みさえ、すぐには感じなかった。
ただ、突然全身から力が抜けた。
視線を落とす。
砕けた胸当ての隙間から、銀色の刃が飛び出している。
刃を伝い、赤い血が床へ滴っていた。
背後には、レンがいる。
タクミの手を握ったまま、もう一方の手でナイフを突き立てていた。
「レン……?」
信じられなかった。
タクミの目は、自分の胸とレンの顔との間を何度も行き来した。
答えを探すように。
何かの間違いだと確かめるように。
けれど、レンは何も言わなかった。
深々と刺さったナイフを引き抜く。
タクミの身体が、その場に崩れ落ちた。
◇
レンの目の前で、タクミが倒れた。
その顔に浮かんでいるのは、恐怖よりも困惑だった。
魔王と向き合ったときでさえ見せなかった、無防備な表情。
何が起きたのか。
なぜ自分が刺されたのか。
まだ、理解できずにいる。
レンは血に濡れたナイフを見下ろした。
五年。
千八百日を超える時間。
そのすべてが、この一瞬のためにあった。
「すまんな」
口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
五年間演じ続けた、荒々しい盗賊の口調ではない。
誰にも聞かせるつもりのない、つぶやきのような声だった。
「ずっと隙をうかがっていた」
タクミの目が、わずかに見開かれる。
「五年間……このときのために、ずっと」
「レン……?」
ユリの杖が床に落ちた。
乾いた音が、魔王の間に響く。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に現実へ戻ったのは、ユリだった。
「何やってんだ、あんたぁぁぁぁぁッ!」
絶叫とともに、ユリがレンへ飛びかかる。
しかし魔力を使い果たした身体では、まともに立つことさえできない。数歩進んだところで膝をついた。
「どうして! なんでタクミを刺したのよ! 答えなさいよ、レン!」
「タクミ様!」
マドカが倒れたタクミを抱き起こす。
傷口に両手を当て、残された力を振り絞る。
淡い光がタクミの胸を包んだ。
だが、傷は塞がらない。
流れ出る血も止まらなかった。
「どうして……?」
マドカの声から、いつもの穏やかさが消えていた。
「どうして、治らないのですか……?」
「無駄だ」
レンは静かに告げた。
「そのナイフは、一度しか使えない代わりに、刺した相手の治癒を妨害する。この世界で手に入れたものだ」
ユリがレンをにらみつける。
「そんなものを……いつから持ってたのよ」
「三年前だ」
「三年……?」
「手に入れるのに苦労した」
レンはナイフを投げ捨てた。
床へ落ちた瞬間、その刃は黒い砂となって崩れていく。
「こいつは、強すぎた」
レンはマドカの腕の中にいるタクミを見た。
「気配の察知。毒への耐性。圧倒的な戦闘力と、異常なまでの生存能力。寝込みを襲うことも考えたが、おそらく気づかれた」
タクミが、苦しそうに呼吸を繰り返す。
「五年も一緒にいたから分かる。正面からでは、俺にこいつは殺せない」
本来なら、信頼の証となるはずの言葉。
レンはそれを、淡々と口にした。
「だから待った。普段より身体が消耗し、すべてが終わったと思い、警戒を解く瞬間を」
魔王の灰が、レンの足元を流れていく。
「五年間背中を預けた仲間が差し出した手を、疑いもせずに取る瞬間を待っていた」
「うそ……だよね…?」
ユリの声が震える。
怒りと悲しみ。
それでもなお、何か事情があるはずだと信じようとする響きがあった。
「あんた、こんなことする奴じゃないでしょう? 何か理由があるんでしょう!? 言いなさいよ!」
マドカもタクミを抱きしめたまま、レンをにらんでいる。
五年間、一度も向けられたことのない目だった。
「レン様……お答えください」
静かな声に、明確な殺意が込められていた。
「なぜ、タクミ様を……」
レンは二人の視線を受け止めた。
「俺は、この世界の人間ではない」
二人の表情が固まる。
「この男を殺すために送られた。勇者の仲間として近づき、信頼を得て、確実に殺せる瞬間まで待つ。それが俺の仕事だ」
「そんな……」
「魔王の討伐は関係ない。あの瞬間が、最も確実だった。それだけだ」
レンの足元に、淡い光が生まれる。
複雑な紋様を描く魔法陣が広がり、身体を包み始めた。
「お前たちは、タクミへ近づくために利用した」
一つ一つ、自分の中にあるものを切り捨てるように告げる。
「友情など、最初からなかった」
ユリの顔が歪んだ。
マドカの頬を、涙が伝う。
「全部、演技だ。もう関係のないお前たちへ、これ以上話すことはない」
光が強くなる。
仕事を終えた者を、この世界から連れ去るための転送陣。
五年前から待ち続けていた帰還の光だった。
「……ようやく帰れるな」
視界の中で、五年間の記憶が次々と浮かんでは消えていく。
初めて出会った日のこと。
魔物に追われ、四人で泥まみれになって逃げた夜。
タクミが作った、炭のような料理。
ユリと喧嘩をし、マドカに二人そろって説教されたこと。
毒に倒れたレンのそばで、タクミが一晩中眠らなかったこと。
焚き火を囲み、くだらない話で朝まで笑ったこと。
――魔王を倒したら酒をおごれ。死ぬまで毎晩だ。
つい先ほど、自分で言った言葉がよみがえる。
レンは唇をかんだ。
そのとき。
背後から、消え入りそうな声が聞こえた。
「……よかった」
レンの身体が止まる。
振り返ることはできなかった。
タクミはマドカに抱かれながら、わずかに顔を上げている。
焦点の合わない目で、それでもレンの背中を見ていた。
「お前が……本当に俺たちを、仲間だと思ってなかったら……どうしようかと思った」
「……何を言っている」
「でも……そんな、苦しそうな顔ができるなら……」
タクミの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「何か……事情が、あったんだな」
レンは無意識に、自分の頬へ触れた。
「お人よしめ」
今度は、はっきりと唇をかみしめる。
血の味がした。
目を伏せる。
振り返れば、何かが壊れる。
今度こそ、本当に帰れなくなる。
「レン! 逃げるな!」
ユリの叫びが響いた。
「絶対に許さない! どこへ逃げたって、必ず見つけ出してやる! 必ず……!殺す!」
「レン様……!」
マドカの声には、怒りと悲しみが入り混じっている。
「あなたがどの世界のどこにいようとも……わたくしたちは、決して忘れません」
二人の怨嗟の声を背中に浴びながら、転送の光がレンをのみ込んだ。
最後まで、振り返ることはできなかった。
光が弾ける。
レンの姿は、魔王の間から消え去った。
あとに残ったのは、魔王の灰と、血に染まった勇者。
そして、帰るはずだった仲間を失った二人の泣き声だけだった。
◇
レンは、真っ白な部屋に立っていた。
壁も床も天井もない。
境界すら見えない、ただ白だけで満たされた空間。
五年ぶりに見る景色だった。
何一つ変わっていない。
自分は五年もの時間を過ごした。
笑い、戦い、傷つき、仲間を裏切った。
それなのに、この場所には五年という時間の痕跡すらない。
ようやく仕事は終わった。
そのはずなのに、苛立ちは募るばかりだった。
「おっそーい!」
甲高く、やけに明るい声が響く。
レンの表情が冷えた。
「……戻って最初に聞く声がそれか」
何もなかったはずの空間に、一人の女が立っていた。
腰まで流れる白銀の髪。
宝石を溶かし込んだような薄紫色の瞳。
人間の美を、最も理想的な形へ整えたような容姿。
彼女は人間ではない。
いくつもの世界を管理する、女神という上位存在だった。
もっとも、口を開かなければの話だが。
「五年だよ、五年! いくらなんでも時間かかりすぎじゃない?」
女神は軽い足取りでレンの周囲を回る。
「もっと早く終わらせられなかったの~?」
レンは答えず、女神をにらんだ。
その視線だけで、並の人間なら身をすくませていただろう。
だが、女神は楽しそうにレンの正面へ回り込み、その顔をのぞき込んだ。
「なあに、その目。人間ににらまれたくらいで、私が怖がると思った?」
「五年かかった理由は、報告したはずだ」
「読んだよ。でも、途中で殺せそうな場面くらいあったでしょ?」
女神は指を折りながら数え始める。
「寝てるときとか、食事中とか、お風呂とか。別に魔王を倒させる必要なんてなかったんだよ?」
「分かっている」
レンは短く答えた。
「必要だったのは、魔王の死ではない。タクミの隙だ」
「あの勇者、そんなに厄介だった?」
「厄介という言葉では足りない」
眠っているときも、酔っているときも、タクミは完全には警戒を解かなかった。
毒は効かず、遠距離からの攻撃にも反応する。
真正面から戦えば、レンでは傷一つつけられない。
「魔王との戦いなら、普段より反応が落ちる。それ以上に、勝利した直後なら精神の警戒が途切れる」
「それで五年も仲間を演じたんだ?」
「そうだ」
「でも、レン君がいなかったら、あの子は途中で死んでたんじゃない?」
「あいつは死ななかったよ」
レンは迷わず答えた。
女神が、興味深そうに首を傾げる。
「六十二回も助けたのに?」
「助けたと思わせた」
レンが先に攻撃を弾いた。
危険を告げた。
逃げ道を作った。
だが、レンが何もしなければ、タクミ自身が対処していた。
「戦いが楽だったわけではない。傷も痛みも本物だ。仲間の助けがなければ、もっと時間もかかった。だが、あいつだけは死なない」
「魔王にも?」
「ああ。最後には勝っていた」
五年間、誰よりも近くで見続けてきた。
追い詰められるほど研ぎ澄まされる判断。
急所だけは決して外させない反応。
力を使い果たしたように見えても、最後まで失われない剣速。
「あいつは化け物だ。本人が思っているより、はるかにな」
「じゃあ、なんで助ける必要があったの?」
「信用を買うためだ」
レンは静かに答えた。
「命を救われたと思えば、人間は相手を信じる。それを何度も繰り返せば、差し出された手を疑わなくなる」
六十二回。
そのすべては、最後の一度のためだった。
女神が楽しそうに笑う。
「魔王を倒すために五年かけたんじゃない。勇者に一瞬だけ隙を作らせるために、五年かけたんだね」
「そういうことだ」
「ふぅん。まあ、結果的に魔王まで消えてくれて助かったけど」
「魔王が残っていても構わなかったのか」
「もちろん」
女神は軽い調子で答えた。
「魔王が世界を滅ぼすなら、それはその世界の内側で起きた結果だからね」
「人が死んでもか」
「私たちは、人間を幸せにするために世界を管理しているんじゃないよ」
女神は笑顔のまま、人差し指を立てる。
「レン君。バタフライエフェクトって知ってる?」
「その話なら聞いた」
「小さな蝶の羽ばたきが、遠く離れた場所で嵐を起こす。ほんのわずかな変化でも、それが積み重なれば、未来を大きく変えることがある」
女神が指を鳴らす。
何もない空間に青い蝶が現れた。
蝶が羽ばたくたび、白い空間へ無数の光景が浮かび上がる。
豊かになる国。
燃え落ちる町。
歴史に存在しない技術と兵器。
生きるはずだった者の死。
死ぬはずだった者から続いていく、新たな血筋。
「異世界人は、蝶なんてかわいいものじゃない。世界へ落ちてきた隕石だよ」
転生者や召喚者は、別の世界の知識を持っている。
普通の人間には持ち得ない力を与えられている場合もある。
一人の善意が国を救い、その国が数十年後に別の国を滅ぼす。
一人の英雄が戦争を終わらせ、その結果として生まれなくなる者がいる。
「善人か悪人かは関係ない。存在しているだけで、その世界の因果を大きく乱す。それが異世界人」
「俺が殺すことも、歴史への介入だ」
「そうだよ」
女神はあっさり認めた。
「完全に元へ戻すことなんてできない。だから、これ以上影響が広がる前に原因を取り除くの」
「それを正しい歴史と呼ぶのか」
「正しいかどうかなんて知らないよ」
女神の笑顔は変わらない。
「私たちが守るのは、人間にとって都合のいい未来じゃない。その世界に属する者たちだけで続いていく因果。それだけ」
「結局、神の都合か」
「そうだね。神様の都合」
女神は悪びれもせず、両腕を広げた。
「だから、異世界人には消えてもらう。転生者でも、召喚者でも、偶然迷い込んだだけでもね」
そして、レンを指さす。
「そのために、君がいる」
レンはこれまでも、いくつもの世界を渡ってきた。
英雄を殺した。
国王を殺した。
暴君を殺した。
誰かの父親を。
誰かの恋人を。
そして今回、仲間を殺した。
「今回もお疲れさま!」
女神が明るく手をたたく。
「ちょっと時間はかかったけど、任務完了だね!」
「俺は休む」
レンは女神に背を向けた。
「しばらく呼ぶな」
「えー、もう行っちゃうの?」
「五年分、眠る」
「それは困るなぁ」
女神の声に、困っている様子はない。
レンの足元に光が走った。
新たな魔法陣が、白い床へ浮かび上がる。
レンは静かに視線を落とした。
「……次か」
「正解!」
女神が手を振ると、空中に一人の少年の姿が浮かび上がった。
見慣れない服装。
魔力も武器も持っていない、ごく普通の学生に見える。
「その子も、今のところは普通の学生」
「今のところは、か」
「うん。でも前の世界の知識を使って、これから歴史を大きく変えることになる」
レンは少年の姿を見つめる。
「資料を出せ」
「休みたいんじゃなかったの?」
「拒めないことくらい、お前が一番知っているだろう」
女神が、意味ありげに笑った。
「そうだったね」
魔法陣の光が強くなる。
レンの身体が、足元から透け始めた。
「詳しい情報は、向こうに着いてから送るね」
「説明が先だ」
「大丈夫。レン君、現地対応は得意でしょ?」
女神は満面の笑みを浮かべ、大きく手を振った。
「それじゃあ、次の世界も頑張ってね~!」
レンの姿は光に包まれ、白い部屋から消え去った。




