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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜プロローグ〜
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1/71

○○を◯す

魔王城は、空を突き刺す巨大な墓標のようにそびえていた。


黒い城壁には無数の亀裂が走り、その奥で赤黒い光が脈打っている。空を覆う雲は渦を巻き、ときおり獣のうなり声にも似た雷鳴が響いた。


タクミは、その光景を黙って見上げていた。


ここへたどり着くまで、五年。


召喚されたばかりの頃は、剣の握り方さえ知らなかった。


それが今では、世界を脅かす魔王を討つ最後の希望として、三人の仲間とともに決戦の地へ立っている。


長かった。


本当に、長い旅だった。


「……なあ」


タクミが振り返ると、三人の仲間が一斉に顔を向けた。


盗賊のレン。


魔法使いのユリ。


賢者のマドカ。


数え切れないほどの死線を越え、五年間をともに過ごしてきた仲間たちだ。


「なんだよ。今さら怖くなったとか言うんじゃねぇぞ」


レンが面倒そうに頭をかく。


口が悪く、いつも気だるそうにしている男だった。


だが、野営では誰よりも遅くまで見張りを続け、仲間が傷つけば文句を言いながら薬草を探しに走る。


そんな男だと、タクミは知っていた。


「まさか。ちょっと、言っておこうと思ってさ」


「あ?」


「レン。今までありがとう」


レンの眉間に、露骨なしわが寄った。


「……気色悪ぃ。なんだ、死ぬ前の挨拶か?」


「縁起でもないこと言うなよ」


「だったら終わってからにしろ。こういうのは面倒なんだ」


そう言いながら、レンはタクミから目をそらした。


耳が、わずかに赤くなっている。


「でも、お前がいなかったら、俺は三十回くらい死んでたかもな」


「六十二回だ」


「数えてるのかよ」


「貸しだからな。魔王を倒したら酒をおごれ。死ぬまで毎晩だ」


「それ、俺が破産して先に死ぬだろ」


レンは鼻を鳴らした。


「安心しろ。死体からも取り立てる」


「最低だな、お前」


レンの口元に、小さな笑みが浮かぶ。


タクミも笑い、それからユリへ向き直った。


「ユリも、ありがとう」


「……は?」


長い赤髪を揺らし、ユリが警戒するようにタクミを見る。


「急に何よ」


「お前の魔法には何度も助けられた。それに、俺が落ち込んだときも、ずっとそばにいてくれただろ」


「べ、別にあんたのためじゃないわよ」


「五年も一緒にいるのに、まだそれ言うのか?」


「うるさいわね。あんたが暗い顔をしてると、こっちまで気分が悪くなるだけよ!」


「はいはい」


「何よ、その顔!」


ユリは頬を赤くし、タクミの脛を杖で小突いた。


地味に痛い。


けれど、このやり取りも今日で最後かもしれないと思うと、その痛みさえ愛おしかった。


「……ちゃんと勝ちなさいよ」


ユリが小さくつぶやく。


「ここまで来たんだから」


「ああ」


「勝って帰るまでが勇者の仕事よ。途中で勝手に終わったりしたら……許さないからね」


最後の言葉だけが、わずかに震えていた。


タクミは力強くうなずき、マドカへ目を向ける。


マドカは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。


「マドカも、今までありがとう」


「まあ。わたくしには何も言ってくださらないのかと思いました」


「そんなわけないだろ。マドカには一番世話になった。怪我を治してもらった回数なんて、もう数え切れない」


「二百と四十七回ですねぇ」


「マドカも数えてたのか……」


「そのうち九十六回は、タクミ様が無茶をなさったことが原因です」


穏やかな口調のまま、マドカが微笑む。


「……怒ってる?」


「いいえ。少し反省していただきたいだけですよぉ」


笑顔が妙に怖かった。


レンが吹き出し、ユリも肩を震わせる。


三人の笑い声を聞きながら、タクミはその顔を順番に見渡した。


この三人と出会えてよかった。


心の底から、そう思った。


「この戦いが終わったらさ」


タクミは魔王城へ目を戻した。


「みんな、何がしたい?」


「またそれ?」


ユリが呆れた声を出す。


「こういうときだからだよ。帰る理由は多いほうがいい」


「俺は寝る」


最初に答えたのはレンだった。


「一年くらい何もしない。朝から酒を飲んで、腹が減ったら飯を食って、飽きたらまた寝る」


「五年も旅をした人間の夢がそれかよ」


「俺は忙しいのが嫌いなんだ」


「だったら、なんで勇者の旅についてきたのよ」


ユリが尋ねると、レンは一瞬だけ黙った。


「……成り行きだ」


短く答え、魔王城へ顔を向ける。


タクミは特に気に留めなかった。


「ユリは?」


「私は……学校を作りたい」


意外な答えだった。


「魔法学校?」


「そう。才能がないとか、お金がないとか、女だからとか。そんなくだらない理由で魔法を諦めなくていい学校」


ユリは照れくさそうに髪を指へ巻きつける。


「この旅で、親を亡くした子をたくさん見たから。そういう子たちも受け入れたい」


「いい夢だな」


「べ、別に褒めてほしくて言ったんじゃないから」


「そこで照れる必要あるか?」


「燃やすわよ」


杖の先に小さな炎が灯り、タクミは慌てて両手を上げた。


マドカが、くすくすと笑う。


「マドカは?」


「わたくしは、小さな診療所を開きたいですねぇ」


「やっぱり人を治す仕事か」


「はい。静かな町で皆様の怪我や病気を治して、お庭で薬草を育てながら、ゆっくり暮らしたいです」


「似合いそうだな」


「皆様も、ぜひいらしてくださいね」


「俺は行かないぞ」


レンが即答した。


「お前の治療、優しい口調のわりに容赦がないからな」


「まあ。消毒が痛いからと逃げ回っていたのは、どなたでしたか?」


「知らないな」


「あんたよ」


ユリが冷たく言い放つ。


笑い声が落ち着いたあと、ユリがタクミを見た。


「それで、あんたは?」


「俺?」


「言い出した本人が決めてないなんて言わないでしょうね」


タクミは少し考えた。


元の世界へ帰れる保証はない。


この世界には家族も領地もない。勇者という肩書を失えば、何者でもなくなる。


けれど、不思議と不安はなかった。


「俺は……また四人で旅がしたい」


三人が静かになった。


「今度は世界を救うためじゃない。行きたい場所に行って、食べたいものを食べる。危険な魔物がいたら、できるだけ避ける」


「逃げるのかよ」


「もう命懸けは十分だろ」


「それには賛成ね」


「楽しそうですねぇ」


三人の答えを聞き、タクミは笑った。


「じゃあ、決まりだな」


剣を抜く。


魔王城を覆う闇の中で、勇者の剣が白く輝いた。


「魔王を倒して、四人で帰るぞ」


レンが短剣を回す。


「さっさと終わらせよう。もう五年も待ったんだ」


ユリが杖を構える。


「誰も欠けるんじゃないわよ」


マドカが静かに祈りを捧げる。


「皆様に、女神のご加護がありますように」


四人は並んで、魔王城へ足を踏み入れた。


          ◇


城内に待ち受けていた魔物は、これまで戦ってきたどの敵よりも強大だった。


鎧をまとった巨人。


肉体を持たない死霊の群れ。


傷つけるたびに分裂する黒い獣。


その一体一体が、かつて死を覚悟した敵に匹敵する。


だが、四人は止まらなかった。


「右だ、タクミ!」


レンの声が響くより早く、タクミは剣を振っていた。


死角から迫っていた魔物の首が飛ぶ。


「伏せて!」


ユリの声に反応し、タクミとレンが同時に身を沈める。


二人の頭上を灼熱の炎が駆け抜け、魔物の群れを焼き払った。


「まったく……無茶ばかりなさいますねぇ」


柔らかな光がタクミの傷を包み、裂けた肉を塞いでいく。


言葉を交わさなくても、互いが何をするのか分かる。


五年間をともにした四人にしかできない戦いだった。


それでも魔王の間へたどり着いたときには、全員が満身創痍になっていた。


タクミの鎧は砕け、左肩から血が流れている。


レンの短剣は一本折れ、ユリは魔力をほとんど使い果たしていた。


マドカも、杖にすがらなければ立っていられない。


その先に、魔王がいた。


六本の角。


黒い翼。


燃えるような瞳。


玉座から立ち上がった魔王は、人の形をしていながら、人とは呼べない何かだった。


ただ立っているだけで、空間そのものが悲鳴を上げている。


戦いが始まった。


魔王の腕が振るわれるたび、床が砕けた。


黒い炎が壁を溶かし、衝撃だけで四人の身体が吹き飛ばされる。


タクミは何度も床へ叩きつけられた。


息を吸うたび、胸の奥が痛んだ。


それでも剣を握り、立ち上がる。


「前に出すぎよ!」


ユリの炎が、タクミへ迫っていた黒い翼を焼く。


「出ないと、お前たちまで巻き込まれるだろ!」


「だからって全部一人で受けるんじゃないわよ!」


マドカの治癒が傷を塞ぐ。


レンの短剣が、魔王の瞳を狙う。


魔王が顔をそらした、ほんの一瞬。


その隙をタクミは見逃さなかった。


剣が魔王の胸を浅く切り裂く。


だが、魔王は倒れない。


振り下ろされた爪が、タクミの胸元へ迫る。


避けられない。


そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。


上体をひねり、致命傷となる軌道だけを外す。


爪が鎧を砕き、肩口を切り裂いた。


タクミは血を流しながらも、踏みとどまった。


その動きを、レンだけが黙って見ていた。


戦いは長く続いた。


ユリの魔力が尽きる。


マドカの膝が床につく。


レンの最後の短剣が折れる。


それでも、誰一人として諦めなかった。


「タクミ様……今です!」


マドカが残されたすべての力を祈りへ変える。


白い光が、勇者の剣を包んだ。


ユリが最後の炎を放ち、魔王の視界を奪う。


レンが魔王の背後へ回り、折れた短剣を翼の根元へ突き立てた。


「行け、タクミ!」


タクミは床を蹴った。


魔王の爪が脇腹を裂く。


構わず踏み込む。


五年間のすべてを、その一振りに込めた。


白い斬撃が闇を切り裂く。


刃は魔王の胸を貫き、その巨体を真っ二つに断ち切った。


魔王の絶叫が城を揺らす。


やがてその身体は、黒い灰となって崩れ落ちた。


空を覆っていた闇が消えていく。


長い静寂の中で、タクミは自分の呼吸だけを聞いた。


「……勝った」


声が震えた。


「俺たち……勝ったぞ!」


ユリが杖を投げ出し、タクミへ抱きつく。


「遅いのよ、馬鹿! どれだけ心配させたと思ってるのよ!」


「痛い、痛いって!」


「おめでとうございます、タクミ様」


マドカは涙を流しながら微笑んでいた。


「本当に……よく、ご無事で……」


レンも少し離れた場所で笑っている。


「最後まで手間をかけさせる」


「レン!」


タクミは右手を差し出した。


「終わったな」


レンはその手を見た。


ほんの一瞬だけ、動きを止める。


「ああ」


タクミの手を取った。


「ようやく終わった」


その声は、不思議なほど静かだった。





次の瞬間。





胸の奥へ、冷たいものが入り込んだ。


「……え」


何が起きたのか分からなかった。


痛みさえ、すぐには感じなかった。


ただ、突然全身から力が抜けた。


視線を落とす。


砕けた胸当ての隙間から、銀色の刃が飛び出している。


刃を伝い、赤い血が床へ滴っていた。


背後には、レンがいる。


タクミの手を握ったまま、もう一方の手でナイフを突き立てていた。


「レン……?」


信じられなかった。


タクミの目は、自分の胸とレンの顔との間を何度も行き来した。


答えを探すように。


何かの間違いだと確かめるように。


けれど、レンは何も言わなかった。


深々と刺さったナイフを引き抜く。


タクミの身体が、その場に崩れ落ちた。


          ◇


レンの目の前で、タクミが倒れた。


その顔に浮かんでいるのは、恐怖よりも困惑だった。


魔王と向き合ったときでさえ見せなかった、無防備な表情。


何が起きたのか。


なぜ自分が刺されたのか。


まだ、理解できずにいる。


レンは血に濡れたナイフを見下ろした。


五年。


千八百日を超える時間。


そのすべてが、この一瞬のためにあった。


「すまんな」


口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


五年間演じ続けた、荒々しい盗賊の口調ではない。


誰にも聞かせるつもりのない、つぶやきのような声だった。


「ずっと隙をうかがっていた」


タクミの目が、わずかに見開かれる。


「五年間……このときのために、ずっと」


「レン……?」


ユリの杖が床に落ちた。


乾いた音が、魔王の間に響く。


しばらく、誰も動かなかった。


最初に現実へ戻ったのは、ユリだった。


「何やってんだ、あんたぁぁぁぁぁッ!」


絶叫とともに、ユリがレンへ飛びかかる。


しかし魔力を使い果たした身体では、まともに立つことさえできない。数歩進んだところで膝をついた。


「どうして! なんでタクミを刺したのよ! 答えなさいよ、レン!」


「タクミ様!」


マドカが倒れたタクミを抱き起こす。


傷口に両手を当て、残された力を振り絞る。


淡い光がタクミの胸を包んだ。


だが、傷は塞がらない。


流れ出る血も止まらなかった。


「どうして……?」


マドカの声から、いつもの穏やかさが消えていた。


「どうして、治らないのですか……?」


「無駄だ」


レンは静かに告げた。


「そのナイフは、一度しか使えない代わりに、刺した相手の治癒を妨害する。この世界で手に入れたものだ」


ユリがレンをにらみつける。


「そんなものを……いつから持ってたのよ」


「三年前だ」


「三年……?」


「手に入れるのに苦労した」


レンはナイフを投げ捨てた。


床へ落ちた瞬間、その刃は黒い砂となって崩れていく。


「こいつは、強すぎた」


レンはマドカの腕の中にいるタクミを見た。


「気配の察知。毒への耐性。圧倒的な戦闘力と、異常なまでの生存能力。寝込みを襲うことも考えたが、おそらく気づかれた」


タクミが、苦しそうに呼吸を繰り返す。


「五年も一緒にいたから分かる。正面からでは、俺にこいつは殺せない」


本来なら、信頼の証となるはずの言葉。


レンはそれを、淡々と口にした。


「だから待った。普段より身体が消耗し、すべてが終わったと思い、警戒を解く瞬間を」


魔王の灰が、レンの足元を流れていく。


「五年間背中を預けた仲間が差し出した手を、疑いもせずに取る瞬間を待っていた」


「うそ……だよね…?」


ユリの声が震える。


怒りと悲しみ。


それでもなお、何か事情があるはずだと信じようとする響きがあった。


「あんた、こんなことする奴じゃないでしょう? 何か理由があるんでしょう!? 言いなさいよ!」


マドカもタクミを抱きしめたまま、レンをにらんでいる。


五年間、一度も向けられたことのない目だった。


「レン様……お答えください」


静かな声に、明確な殺意が込められていた。


「なぜ、タクミ様を……」


レンは二人の視線を受け止めた。


「俺は、この世界の人間ではない」


二人の表情が固まる。


「この男を殺すために送られた。勇者の仲間として近づき、信頼を得て、確実に殺せる瞬間まで待つ。それが俺の仕事だ」


「そんな……」


「魔王の討伐は関係ない。あの瞬間が、最も確実だった。それだけだ」


レンの足元に、淡い光が生まれる。


複雑な紋様を描く魔法陣が広がり、身体を包み始めた。


「お前たちは、タクミへ近づくために利用した」


一つ一つ、自分の中にあるものを切り捨てるように告げる。


「友情など、最初からなかった」


ユリの顔が歪んだ。


マドカの頬を、涙が伝う。


「全部、演技だ。もう関係のないお前たちへ、これ以上話すことはない」


光が強くなる。


仕事を終えた者を、この世界から連れ去るための転送陣。


五年前から待ち続けていた帰還の光だった。


「……ようやく帰れるな」


視界の中で、五年間の記憶が次々と浮かんでは消えていく。


初めて出会った日のこと。


魔物に追われ、四人で泥まみれになって逃げた夜。


タクミが作った、炭のような料理。


ユリと喧嘩をし、マドカに二人そろって説教されたこと。


毒に倒れたレンのそばで、タクミが一晩中眠らなかったこと。


焚き火を囲み、くだらない話で朝まで笑ったこと。


――魔王を倒したら酒をおごれ。死ぬまで毎晩だ。


つい先ほど、自分で言った言葉がよみがえる。


レンは唇をかんだ。


そのとき。


背後から、消え入りそうな声が聞こえた。


「……よかった」


レンの身体が止まる。


振り返ることはできなかった。


タクミはマドカに抱かれながら、わずかに顔を上げている。


焦点の合わない目で、それでもレンの背中を見ていた。


「お前が……本当に俺たちを、仲間だと思ってなかったら……どうしようかと思った」


「……何を言っている」


「でも……そんな、苦しそうな顔ができるなら……」


タクミの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「何か……事情が、あったんだな」


レンは無意識に、自分の頬へ触れた。


「お人よしめ」


今度は、はっきりと唇をかみしめる。


血の味がした。


目を伏せる。


振り返れば、何かが壊れる。


今度こそ、本当に帰れなくなる。


「レン! 逃げるな!」


ユリの叫びが響いた。


「絶対に許さない! どこへ逃げたって、必ず見つけ出してやる! 必ず……!殺す!」


「レン様……!」


マドカの声には、怒りと悲しみが入り混じっている。


「あなたがどの世界のどこにいようとも……わたくしたちは、決して忘れません」


二人の怨嗟の声を背中に浴びながら、転送の光がレンをのみ込んだ。


最後まで、振り返ることはできなかった。


光が弾ける。


レンの姿は、魔王の間から消え去った。


あとに残ったのは、魔王の灰と、血に染まった勇者。


そして、帰るはずだった仲間を失った二人の泣き声だけだった。


          ◇


レンは、真っ白な部屋に立っていた。


壁も床も天井もない。


境界すら見えない、ただ白だけで満たされた空間。


五年ぶりに見る景色だった。


何一つ変わっていない。


自分は五年もの時間を過ごした。


笑い、戦い、傷つき、仲間を裏切った。


それなのに、この場所には五年という時間の痕跡すらない。


ようやく仕事は終わった。


そのはずなのに、苛立ちは募るばかりだった。


「おっそーい!」


甲高く、やけに明るい声が響く。


レンの表情が冷えた。


「……戻って最初に聞く声がそれか」


何もなかったはずの空間に、一人の女が立っていた。


腰まで流れる白銀の髪。


宝石を溶かし込んだような薄紫色の瞳。


人間の美を、最も理想的な形へ整えたような容姿。


彼女は人間ではない。


いくつもの世界を管理する、女神という上位存在だった。


もっとも、口を開かなければの話だが。


「五年だよ、五年! いくらなんでも時間かかりすぎじゃない?」


女神は軽い足取りでレンの周囲を回る。


「もっと早く終わらせられなかったの~?」


レンは答えず、女神をにらんだ。


その視線だけで、並の人間なら身をすくませていただろう。


だが、女神は楽しそうにレンの正面へ回り込み、その顔をのぞき込んだ。


「なあに、その目。人間ににらまれたくらいで、私が怖がると思った?」


「五年かかった理由は、報告したはずだ」


「読んだよ。でも、途中で殺せそうな場面くらいあったでしょ?」


女神は指を折りながら数え始める。


「寝てるときとか、食事中とか、お風呂とか。別に魔王を倒させる必要なんてなかったんだよ?」


「分かっている」


レンは短く答えた。


「必要だったのは、魔王の死ではない。タクミの隙だ」


「あの勇者、そんなに厄介だった?」


「厄介という言葉では足りない」


眠っているときも、酔っているときも、タクミは完全には警戒を解かなかった。


毒は効かず、遠距離からの攻撃にも反応する。


真正面から戦えば、レンでは傷一つつけられない。


「魔王との戦いなら、普段より反応が落ちる。それ以上に、勝利した直後なら精神の警戒が途切れる」


「それで五年も仲間を演じたんだ?」


「そうだ」


「でも、レン君がいなかったら、あの子は途中で死んでたんじゃない?」


「あいつは死ななかったよ」


レンは迷わず答えた。


女神が、興味深そうに首を傾げる。


「六十二回も助けたのに?」


「助けたと思わせた」


レンが先に攻撃を弾いた。


危険を告げた。


逃げ道を作った。


だが、レンが何もしなければ、タクミ自身が対処していた。


「戦いが楽だったわけではない。傷も痛みも本物だ。仲間の助けがなければ、もっと時間もかかった。だが、あいつだけは死なない」


「魔王にも?」


「ああ。最後には勝っていた」


五年間、誰よりも近くで見続けてきた。


追い詰められるほど研ぎ澄まされる判断。


急所だけは決して外させない反応。


力を使い果たしたように見えても、最後まで失われない剣速。


「あいつは化け物だ。本人が思っているより、はるかにな」


「じゃあ、なんで助ける必要があったの?」


「信用を買うためだ」


レンは静かに答えた。


「命を救われたと思えば、人間は相手を信じる。それを何度も繰り返せば、差し出された手を疑わなくなる」


六十二回。


そのすべては、最後の一度のためだった。


女神が楽しそうに笑う。


「魔王を倒すために五年かけたんじゃない。勇者に一瞬だけ隙を作らせるために、五年かけたんだね」


「そういうことだ」


「ふぅん。まあ、結果的に魔王まで消えてくれて助かったけど」


「魔王が残っていても構わなかったのか」


「もちろん」


女神は軽い調子で答えた。


「魔王が世界を滅ぼすなら、それはその世界の内側で起きた結果だからね」


「人が死んでもか」


「私たちは、人間を幸せにするために世界を管理しているんじゃないよ」


女神は笑顔のまま、人差し指を立てる。


「レン君。バタフライエフェクトって知ってる?」


「その話なら聞いた」


「小さな蝶の羽ばたきが、遠く離れた場所で嵐を起こす。ほんのわずかな変化でも、それが積み重なれば、未来を大きく変えることがある」


女神が指を鳴らす。


何もない空間に青い蝶が現れた。


蝶が羽ばたくたび、白い空間へ無数の光景が浮かび上がる。


豊かになる国。


燃え落ちる町。


歴史に存在しない技術と兵器。


生きるはずだった者の死。


死ぬはずだった者から続いていく、新たな血筋。


「異世界人は、蝶なんてかわいいものじゃない。世界へ落ちてきた隕石だよ」


転生者や召喚者は、別の世界の知識を持っている。


普通の人間には持ち得ない力を与えられている場合もある。


一人の善意が国を救い、その国が数十年後に別の国を滅ぼす。


一人の英雄が戦争を終わらせ、その結果として生まれなくなる者がいる。


「善人か悪人かは関係ない。存在しているだけで、その世界の因果を大きく乱す。それが異世界人」


「俺が殺すことも、歴史への介入だ」


「そうだよ」


女神はあっさり認めた。


「完全に元へ戻すことなんてできない。だから、これ以上影響が広がる前に原因を取り除くの」


「それを正しい歴史と呼ぶのか」


「正しいかどうかなんて知らないよ」


女神の笑顔は変わらない。


「私たちが守るのは、人間にとって都合のいい未来じゃない。その世界に属する者たちだけで続いていく因果。それだけ」


「結局、神の都合か」


「そうだね。神様の都合」


女神は悪びれもせず、両腕を広げた。


「だから、異世界人には消えてもらう。転生者でも、召喚者でも、偶然迷い込んだだけでもね」


そして、レンを指さす。


「そのために、君がいる」


レンはこれまでも、いくつもの世界を渡ってきた。


英雄を殺した。


国王を殺した。


暴君を殺した。


誰かの父親を。


誰かの恋人を。


そして今回、仲間を殺した。


「今回もお疲れさま!」


女神が明るく手をたたく。


「ちょっと時間はかかったけど、任務完了だね!」


「俺は休む」


レンは女神に背を向けた。


「しばらく呼ぶな」


「えー、もう行っちゃうの?」


「五年分、眠る」


「それは困るなぁ」


女神の声に、困っている様子はない。


レンの足元に光が走った。


新たな魔法陣が、白い床へ浮かび上がる。


レンは静かに視線を落とした。


「……次か」


「正解!」


女神が手を振ると、空中に一人の少年の姿が浮かび上がった。


見慣れない服装。


魔力も武器も持っていない、ごく普通の学生に見える。


「その子も、今のところは普通の学生」


「今のところは、か」


「うん。でも前の世界の知識を使って、これから歴史を大きく変えることになる」


レンは少年の姿を見つめる。


「資料を出せ」


「休みたいんじゃなかったの?」


「拒めないことくらい、お前が一番知っているだろう」


女神が、意味ありげに笑った。


「そうだったね」


魔法陣の光が強くなる。


レンの身体が、足元から透け始めた。


「詳しい情報は、向こうに着いてから送るね」


「説明が先だ」


「大丈夫。レン君、現地対応は得意でしょ?」


女神は満面の笑みを浮かべ、大きく手を振った。


「それじゃあ、次の世界も頑張ってね~!」


レンの姿は光に包まれ、白い部屋から消え去った。

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