距離を〇す
競技会の予選まで、あと三週間。
第三学年の学生たちは、学院西側にある演習林へ集められていた。
外壁に沿って広がる森は、訓練のために人の手で整えられている。それでも、長い年月を経た木々は校舎よりも高く育ち、入口から少し奥を覗くだけで昼間とは思えない暗さがあった。
枝葉の隙間から落ちる光の下には、湿った土と苔に覆われた石が見える。
森を囲むように建てられた石柱には防護術式が刻まれており、淡い緑色の光が一定の間隔で明滅していた。
「本日の課題は、二人一組で行う標石運搬だ」
入口前の広場で、担当教師が説明を始める。
その足元には、革製の網へ包まれた透明な球体が並べられていた。拳二つ分ほどの大きさがあり、内部には青白い光が揺れている。
「各組に標石を一つ渡す。森の東側と北側に設置された二つの標章を回収し、制限時間内にここへ戻れ」
教師が一つを持ち上げた。
「標石が大きく破損した場合は、その時点で失格。小さな傷や亀裂についても、程度に応じて時間を加算する」
森の中には訓練用の魔法人形が放たれている。
人を模したものだけではない。
獣型。
鳥型。
地中へ潜む小型のもの。
参加者を傷つけるほどの威力は持たされていないが、標石を見つければ優先して狙うよう設定されているらしい。
「攻撃魔術は中級まで。森そのものへ被害を出す術式は禁止する。また、他の組への妨害も認めない」
学生たちへ簡単な地図が配られる。
描かれているのは、森を横切る小川と、目印になる三本の石柱だけだった。
細かな道までは載っていない。
自分たちで周囲を見て、進む経路を決める必要がある。
「最後に一つ。標石は魔力へ強く反応する。所持した状態で魔術を使えば、内部の術式が乱れて破損する可能性がある」
通常であれば、一人が標石を持ち、もう一人が魔法人形へ対処する。
戦う者の魔力が減れば、その場で役割を入れ替える。
単純な戦闘力だけでなく、二人の連携を見るための課題だった。
教師が名簿を開く。
「組み合わせは、これまでの成績と魔術適性を考慮して決めてある。呼ばれた者は相手を確認しろ」
学生たちの間に、小さなざわめきが広がった。
カイルは名簿を見つめる教師へ静かに顔を向け、セドリックは森の地図を先に読み始めている。
イザークは誰と組んでも変わらない笑みを浮かべていたが、ルシアンは周囲の学生たちの緊張を和らげるように言葉をかけていた。
ディランだけは、早く始めろと言わんばかりに幅広の剣を肩へ担いでいる。
名前が順番に読み上げられた。
カイルは剣術課程の男子生徒。
セドリックは魔術理論で上位に入る令嬢。
イザークとルシアンにも、それぞれ別の相手が割り当てられる。
「第七組。エレノア・グランフェルト、レン・アーヴィング」
ざわめきが一段大きくなった。
レンは隣に立つエレノアへ目を向けた。
彼女も意外だったらしく、名簿を持つ教師を見たあと、レンの方へ視線を移す。
「よろしく」
「こちらこそ。森の中であなたと二人になれるとは、今日の授業に感謝しなければなりませんね」
「授業へ感謝する人を初めて見たよ」
エレノアの返答に、近くで聞いていた学生が小さく笑う。
その声を遮るように、重い靴音が一歩前へ出た。
「教師。組み直せ」
ディランだった。
広場の空気が静まる。
教師は名簿から顔を上げ、露骨に面倒そうな表情を浮かべた。
「理由は」
「そいつは魔力なしだろうが」
ディランがレンを顎で示す。
「標石を守りながら戦えるのは、実質エレノア一人だけになる。組ませる意味がねえ」
「意味ならある」
教師は足元の標石を軽く叩いた。
「説明を聞いていなかったのか。魔力を持たない者が標石を運び、グランフェルトが魔術を担当すれば、途中で役割を交代する必要がない」
「こいつが人形に追いつかれたら終わりだろ」
「そこまで含めて成績を考慮した」
「筆記の点数で、森を走れるのかよ」
ディランの視線がレンへ突き刺さる。
先日の模擬戦で一度勝っているからこそ、その言葉には迷いがなかった。
魔力を持たない者は、実戦では必ず誰かの負担になる。
その考えは、今も変わっていない。
「私は、この組で構わないよ」
エレノアが口を挟んだ。
ディランがすぐに彼女へ振り返る。
「お前が余計に動くことになるんだぞ」
「まだ始まってもいないでしょう」
「始まってからじゃ遅えんだよ」
「訓練は、困ったときの動きを知るためにするものじゃないの?」
エレノアの声は平坦だった。
言い争うつもりはなく、教師が決めた組を変える理由もない。
ただ、それだけらしい。
「本当に無理だと思ったら、私から先生へ言うよ」
「お前は、そうなるまで言わねえだろうが」
ディランは苛立ったように髪を掻いた。
レンが横から穏やかに声をかける。
「ご不安でしたら、私たちが戻るまで入口でお待ちになりますか?」
「あ?」
「エレノア嬢の身を案じておられるのでしょう?」
「てめえの心配なんざしてねえよ」
「ええ。存じております」
「だったら黙ってろ」
「二人とも黙って」
エレノアに止められ、ディランはレンを睨んだまま口を閉じた。
教師が名簿を丸め、自分の掌へ打ちつける。
「組み合わせの変更はない。ヴァルハルトも、自分の相手を待たせるな」
ディランの組になった男子生徒は、少し離れた場所で居心地悪そうに立っていた。
ようやくその存在を思い出したらしく、ディランは舌打ちをして列へ戻る。
すれ違いざま、レンへ低い声を落とした。
「足を引っ張ったら、今度は試合じゃ済まさねえぞ」
「ご忠告、ありがとうございます」
「礼を言ってんじゃねえ」
ディランが離れる。
エレノアはその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「随分、嫌われたね」
「関心を持っていただけるのは、ありがたいことです」
「今のを好意的に受け取れるなら、たぶん森でも大丈夫そうだね」
各組へ標石が配られた。
レンが受け取ると、革の網越しに僅かな温かさが伝わってくる。内部の光は手へ近づいても変化せず、一定の強さを保っていた。
隣で見ていたエレノアが、標石とレンを見比べる。
「本当に反応しないんだね」
「期待に添えず、申し訳ありません」
「壊れにくいなら、今回は長所でしょう」
それを慰めではなく、単なる事実として言えるのがエレノアだった。
魔力がないことを憐れみもしなければ、価値のない欠陥とも決めつけない。
今の状況で役に立つかどうかだけを見ている。
レンは標石を腰へ固定した。
「私が運びます。エレノア嬢には、人形への対処をお願いしても?」
「そのつもり。魔術を使えなくなったら、私は荷物になるから」
「その場合は、私がお運びいたします」
「標石と私を?」
「両方は難しいですね。どちらを優先するべきでしょうか」
「迷わず標石を選んで。私を担いで失格になったら、しばらく口を利かないと思う」
「それは困ります。必ず標石を守りましょう」
入口に張られていた結界が開く。
第七組の番号を呼ばれ、レンとエレノアは並んで森へ入った。
数歩進んだだけで、広場の話し声が遠くなる。
頭上を覆う枝葉が陽射しを遮り、土の上には前日の雨が残っていた。靴底が濡れた落ち葉を踏むたび、柔らかな音がする。
入口から伸びる道は、すぐに三つへ分かれていた。
エレノアが地図を開く。
「東の標章から取る?」
「その方がよいでしょう。北側へ先に向かうと、小川を二度渡ることになります」
「私も同じ意見」
地図を畳み、右の道へ入る。
幅は狭いが、土に残る足跡は少ない。
ほかの組の大半は中央の広い道を選んだらしい。
「エレノア嬢は、どのような魔術を?」
歩きながら、レンが尋ねる。
「風が一番使いやすいかな。防護術式も基礎程度なら扱えるよ」
「意外です」
「何が?」
「炎で、気に入らないものをすべて焼いてしまわれるのかと」
エレノアが足を止め、レンを見る。
「私を何だと思ってるの?」
「グランフェルトの毒薔薇と」
「本人の前で言う人、初めて見た」
怒った様子はなかった。
呆れたように目を細め、そのまま再び歩き出す。
「昔の話だよ」
「否定はなさらないのですね」
「実際に呼ばれてたから。聞いたときは、もう少し短い名前にすればいいのにと思ったけど」
「気にされなかったのですか?」
「陰で呼ばれてる名前まで気にしていたら、眠る時間が減るでしょう」
淡泊な返事だった。
過去の自分を恥じる様子も、懐かしむ様子もない。
まるで、自分とは少し離れた誰かについて話しているようにも聞こえる。
レンが次の言葉を選んだとき、前方の茂みが微かに揺れた。
風はない。
それでも、低い枝に残っていた雫が一つだけ落ちた。
レンはエレノアの前へ腕を出す。
「止まってください」
二人が足を止める。
茂みの奥から、金属が擦れる小さな音がした。
直後、四本脚の魔法人形が飛び出してくる。
灰色の金属で作られた狼型。
苔と泥を背中へ付着させ、地面すれすれの高さから標石へ向かって跳んだ。
エレノアが片手を上げる。
細い風の束が、狼型の横腹を打った。
空中で軌道を変えられた人形が、レンの脇を抜けて木の幹へ衝突する。
金属音が森へ響いた。
倒れた狼型はすぐに前脚を立て直そうとしたが、その前にレンが間合いを詰めた。
剣を抜き、首の付け根へ差し込む。
硬い感触のあと、内部で術式の切れる音がした。
狼型の目から光が消える。
エレノアが茂みへ目を向けたまま尋ねる。
「よく気づいたね」
「隠れるには、少し重かったようです」
「音?」
「枝から水が落ちました。獣であれば、もう少し低い場所を通ります」
エレノアは停止した人形を見る。
背中の金属板が、濡れた枝へ触れた跡が残っていた。
「そんなところまで見てるんだ」
「見えるものしか、私には使えませんので」
レンが剣を収める。
今の風魔術に、異常な点はなかった。
術式の完成まで僅かな間があり、威力も人形を破壊するほどではない。使われたのは、この世界で一般的に知られている術式だった。
少なくとも、危険へ直面した瞬間に隠された力が現れることはなかった。
二人は東へ進んだ。
一つ目の標章は、古い石塔の上へ設置されていた。
高さは三メートルほど。
壁面には足をかけられる窪みがあるが、周囲の地面には細い銀線が何本も張られている。
不用意に近づけば、地中の人形が起動する仕掛けらしい。
エレノアが足元の線を見下ろす。
「風で全部切る?」
「切れたことを合図に、起動する可能性があります」
「では、浮かせる?」
「魔術へ反応する線が混じっていれば、同じでしょう」
レンは地面へ屈み込んだ。
銀線は複雑に交差しているように見える。
だが、すべてが石塔へ繋がっているわけではない。途中で土へ埋まり、その先が途切れているものも多かった。
仕掛けを難しく見せるための偽物だろう。
「右側から行きます」
「分かるの?」
「恐らくは」
「恐らくなんだ」
「絶対と申し上げた方が、安心していただけますか?」
「外れたときに腹が立つから、そのままでいいよ」
レンは標石を片手で押さえ、銀線の隙間へ足を置く。
一歩。
二歩。
本物と思われる線だけを避け、石塔へ近づいた。
何も起きない。
壁面へ手をかけ、窪みを使って上へ登る。
半分ほど進んだところで、頭上から羽音が聞こえた。
木々の間を抜け、鳥型の魔法人形が二体飛んでくる。
狙いはレンの腰にある標石だった。
「そのまま登って」
エレノアの声が下から届く。
二つの風の塊が左右へ飛んだ。
一体目の翼を打ち、石塔から遠ざける。
もう一体は風を避け、上からレンへ爪を向けた。
レンは片手で壁へ掴まったまま、身体を僅かに横へ振る。
金属の爪が肩を掠めた。
制服の防護術式が淡く光る。
鳥型が旋回しようとしたところへ、二発目の風が下から突き上げた。
姿勢を崩した人形が枝へ引っかかり、そのまま動きを止める。
レンは塔の上へ辿り着き、赤い標章を外した。
下を見る。
エレノアは片手を上げたまま、周囲へ視線を巡らせていた。
「取れました」
「では、降りてきて」
「ここからの眺めも悪くありませんが」
「置いていくよ」
「すぐ戻ります」
登ったときと同じ経路で降りる。
地面へ着くと、エレノアが赤い標章を受け取り、地図の端へ留めた。
「次は北ね」
「少し休まれますか?」
「まだ二回しか魔術を使ってないよ」
「四回です」
エレノアが一瞬黙る。
狼型に一度。
鳥型へ三度。
無意識に数えていなかったらしい。
「……そうだったね」
「魔力量には余裕がありますか?」
「問題ない。途中で難しくなったら言うよ」
先ほどディランへ告げたのと同じ言葉だった。
無理をする者ほど、自分はまだ問題ないと言う。
ルシアンの声が、僅かに頭をよぎる。
だが、今のエレノアに疲労は見られなかった。
レンは追及せず、北へ続く細道へ入った。
森の中央を横切る小川へ近づくにつれ、地面の傾斜が急になる。
雨で緩んだ土は滑りやすく、木の根が何本も道を塞いでいた。
前を歩いていたレンが、斜面の途中で立ち止まる。
足元には、左右へ分かれる獣道があった。
右は小川まで真っ直ぐ下りる短い道。
左は遠回りだが、傾斜が緩やかになっている。
「右でいいと思う」
エレノアが言った。
「標石を持って、この斜面を下りますか?」
「時間を考えればね。滑ったら、風で支える」
「私を?」
「標石を」
即答だった。
レンは微笑む。
「正しい判断です」
「レンも同じことを言うんだね」
「私の場合、しばらく口を利いていただけなくなる方が致命的ですので」
「それなら落ちないで」
二人は右の道を選んだ。
レンが先に斜面へ足を下ろし、安定した場所を確かめてからエレノアへ伝える。
彼女も枝や根へ手をかけ、慎重に続いた。
半分を過ぎたところで、上方から土の崩れる音がした。
振り返る。
斜面の脇に伏せていた大型の魔法人形が、土を跳ね上げながら起き上がっていた。
猪を模した金属の身体。
肩までの高さがあり、頭部には太く短い角が取りつけられている。
青い目が、レンの腰にある標石を捉えた。
「下へ走って」
エレノアが腕を伸ばす。
風が斜面を駆け上がり、猪型の正面へぶつかった。
金属の脚が一瞬止まる。
だが、巨体を押し返すまでには至らない。
猪型は頭を下げ、そのまま斜面を駆け下りてきた。
地面が揺れる。
濡れた土と落ち葉が、四本の脚に弾かれて飛び散った。
道幅は狭い。
左右へ避ければ、斜面から落ちる。
エレノアが二度目の風を放つ。
今度は正面からではなく、猪型の左側面を狙った。巨体の向きが僅かにずれ、右前脚が木の根へ乗り上げる。
それでも止まらない。
「もう一度――」
エレノアが腕を上げた瞬間、足元の土が崩れた。
身体が傾く。
魔術を放てば姿勢を支えられない。
放たなければ、猪型が標石へ届く。
ほんの一瞬だけ、エレノアの判断が止まった。
レンは斜面を蹴った。
猪型へ向かって一歩踏み込み、腰から標石を外す。
革の網ごと胸へ抱え込み、背中を向けた。
直後、金属の頭部が脇腹へ衝突した。
防護術式が白く弾ける。
身体が浮き、斜面の端へ投げ出された。
視界が回る。
標石を抱えた腕だけは緩めない。
背中から地面へ落ち、湿った土の上を何度も転がった。
最後に細い木の幹へぶつかり、ようやく止まる。
遅れて、重い金属音が響いた。
エレノアの風に押された猪型が斜面を外れ、少し離れた場所へ横倒しになっている。
「レン!」
足音が近づく。
レンは標石を抱えたまま、身体を起こした。
脇腹に強い痛みが残っている。
制服の防護術式は働いたが、完全には衝撃を消せなかったらしい。
腕の中にある透明な球体を確認する。
表面へ、髪の毛ほどの細い亀裂が一本入っていた。
失格になるほどではない。
それを確かめてから、レンはエレノアへ顔を向けた。
いつもの笑みを作る。
「ご無事で何よりです」
エレノアは答えなかった。
レンの前へ屈み込み、まず標石を見る。
次に、彼の腕と脇腹へ視線を移した。
「今、笑うところじゃないと思う」
「ご心配をおかけしないために」
「地面に転がってる人が笑ってる方が、心配になるよ」
エレノアの声は普段と変わらない。
だが、僅かに呼吸が速くなっていた。
彼女は腰の小袋から細長い布を取り出し、レンへ差し出す。
「腕を見せて」
「これくらいなら、問題ありません」
「それを決めるのは、見てからにする」
断る余地はなさそうだった。
レンが左腕を差し出す。
制服の袖が木の枝に引っかかり、肘の近くで破れていた。その下には浅い擦り傷ができ、細く血が滲んでいる。
エレノアは水筒の水で布を濡らし、傷の汚れを拭った。
手つきに迷いはない。
「慣れていらっしゃいますね」
「診療所へ行くようになってから、簡単な手当てくらいは覚えたの」
「公爵令嬢の手を煩わせてしまいました」
「今は同じ組でしょう。身分で役割を決めたら、組んだ意味がなくなるよ」
傷へ新しい布を巻き、端を結ぶ。
強すぎず、緩すぎない。
エレノアは仕上がりを確かめてから、レンの腕を離した。
「脇腹は?」
「痛みはありますが、歩けます」
「本当に?」
レンは立ち上がった。
身体を伸ばした瞬間、脇腹へ鈍い痛みが走る。それでも、動けないほどではない。
標石を再び腰へ固定した。
エレノアは、その様子を黙って見ていた。
「先ほどまで、笑っていなかったね」
不意に言われ、レンの手が僅かに止まる。
「猪型が来たとき。あのときは、普通の顔をしてた」
「戦いながら笑うほど、器用ではありませんので」
「今は戦ってないから?もう戻ってる」
エレノアの視線が、レンの口元へ向けられている。
試験の答案を見るときとも、模擬戦の動きを分析するときとも違う。
レンの行動ではなく、表情そのものを見ていた。
「いつも笑っているのは、相手を安心させるため?」
「その方が、話しかけやすいかと思いまして」
「疲れない?」
「お気遣いいただけるとは、光栄です」
「そうやって返すところも含めて聞いてるんだけど」
エレノアは追及するような声音ではなかった。
ただ、疑問に思ったから尋ねている。
だからこそ、用意していた言葉だけでは退けにくい。
「習慣のようなものです」
レンは答えた。
「長く続ければ、意識しなくともできるようになります」
「では、やっぱり最初は意識して始めたんだね」
レンは返事をしなかった。
嘘をつく必要はない。
かといって、理由を語る必要もない。
短い沈黙が、木々の間へ落ちる。
小川の流れる音が、斜面の下から聞こえていた。
エレノアは答えを待ったが、急かしはしなかった。
やがて地図を開き、北側の標章へ続く道を確認する。
「言いたくないなら、それでいいよ」
「申し訳ありません」
「謝ることでもないでしょう」
地図を畳みかけ、もう一度レンを見る。
「ただ、私の前では無理に笑わなくてもいいから」
「エレノア嬢にだけ笑顔を向けないとなれば、周囲から誤解を受けそうですね」
「もう十分、誤解されそうな話し方をしてるよ」
「では、今さら一つ増えても変わりませんね」
「そういうことにしておく?」
レンの笑みが、今度は僅かに深くなった。
先ほどまでと同じ形のはずだった。
だが、エレノアは数秒見つめたあと、小さく首を傾げる。
「今のは、少し違うね」
「何がでしょう」
「分からない。さっきよりは自然に見えた」
それ以上は言わず、彼女は斜面を下り始めた。
レンもあとへ続く。
対象を調べるため、ここへ来た。
性格の変化。
知識の出所。
異世界由来の力。
こちらが見る側で、彼女は見られる側だった。
そのはずだった。
だが、エレノアはレン自身が意識していないほど僅かな違いを、すでに見始めている。
北側の標章へ辿り着いた頃には、制限時間の半分以上が過ぎていた。
二つ目は木製の橋の中央へ設置されている。
橋の下には浅い小川が流れ、その両岸を人型の魔法人形が一体ずつ守っていた。
エレノアが右側。
レンが左側を担当する。
標石を持ったレンは正面から戦わず、人形の攻撃を誘って橋から引き離した。
その隙にエレノアが風で右側の人形を転倒させ、標章を回収する。
戻ってきた彼女へ左側の人形が向きを変えたところで、レンが膝裏の接続部を剣で断った。
人形が地面へ崩れる。
「取れたよ」
エレノアが白い標章を見せる。
「では、戻りましょう」
「走れる?」
「あなたと並んで歩く時間を惜しむのは残念ですが、努力いたします」
「それだけ喋れるなら大丈夫そうだね」
帰路では、来たときと別の道を選んだ。
すでにほかの組が人形を起動させたらしく、森のあちこちから魔術の光と金属音が届いてくる。
二人も三度足止めされたが、役割は崩れなかった。
レンが人形の位置を見つけ、標石を守る。
エレノアが魔術で動きを止める。
仕留めきれなければ、レンが接続部へ剣を届かせる。
一人だけでは成立しない動きだった。
演習林の出口が見えたとき、制限時間までは残り僅かだった。
二人は最後の坂を駆け上がる。
広場には、すでに半数ほどの組が戻っていた。
最初に帰還したらしいディランは、汗一つかかずに石柱へ背を預けている。
エレノアの姿を見つけると、すぐに身体を起こした。
その視線が、泥に汚れた彼女の制服と、袖の破れたレンへ移る。
「遅え」
二人が結界を越えた直後、ディランが近づいてきた。
「お前、怪我してんじゃねえか」
「レンの方が怪我をしてるよ」
「そいつはどうでもいい」
「本人の前で、随分とはっきりおっしゃいますね」
レンが笑う。
ディランは無視してエレノアの両腕を確かめ、怪我がないと分かると、ようやく標石へ目を向けた。
表面の亀裂を見つけ、顔をしかめる。
「こいつが足を引っ張ったのか」
「違うよ」
エレノアは即座に否定した。
「レンが標石を持ってくれたから、私は最後まで魔術を使えた。私一人なら、もっと時間がかかってる」
ディランの眉が動く。
「だが、壊れかけてんだろうが」
「私が足を滑らせて、魔術が遅れたから」
「それで、こいつに庇われたってのか?」
声が一段低くなった。
エレノアは標石を教師へ渡しながら首を横へ振る。
「レンが庇ったのは標石だよ」
「エレノア嬢にもご無事でいていただきたかったのですが」
「話を複雑にしなくていいから」
教師が二つの標章を確認する。
標石を光へ透かし、表面の亀裂を測った。
「帰還順位は四位。標石の損傷によって五分を加算する。暫定で七位だ」
一位ではない。
突出して優秀な結果でもなかった。
それでも、十二組のうち半数近くはまだ森から戻っていない。
魔力を持たないレンと組んだことで、エレノアが一方的に負担を負った結果でもなかった。
ディランは納得していないようだった。
「俺なら、標石に傷一つつけねえ」
「ディランは人形も森も全部壊して、別の減点を受けるでしょう」
「壊してねえよ。邪魔な奴だけ潰した」
「課題は討伐じゃなくて運搬だよ」
「一番に戻っただろうが」
言いながら、ディランはレンへ鋭い視線を向けている。
エレノアに評価されたことが気に入らない。
それだけではない。
二人が森の中で、自分の知らない時間を過ごしたことそのものへ苛立っているようにも見えた。
エレノアが、不意にレンの肩へ手を伸ばした。
ディランの視線が、その指先を追う。
彼女は制服へ引っかかっていた細い枝を摘まみ、地面へ落とした。
「枝がついてた」
「記念に持ち帰ってもよろしかったのですが」
「ただの枯れ枝だよ」
「あなたが取ってくださったものですので」
「ごみを贈り物に変えないでもらえる?」
呆れたように言いながら、エレノアの口元が僅かに緩んだ。
それを見たディランの顔が、露骨に歪む。
「てめえ、にやついてんじゃねえ」
「これは生まれつきですので」
レンが答えるより先に、エレノアが口を開いた。
「直すのは難しいらしいよ」
以前、第三訓練場でセドリックへ告げた言葉だった。
エレノアが覚えていたことに、レンは僅かに目を細める。
ディランは二人を交互に見た。
「……何の話だよ」
「少し前の話です」
「俺の知らねえところで、勝手に話を増やすんじゃねえ」
「無理な注文だと思うけど」
エレノアが淡々と返す。
ディランは何か言いかけたが、教師から自分の組の報告書を提出するよう呼ばれ、舌打ちとともに離れていった。
背中からも機嫌の悪さが伝わってくる。
「本当に、随分嫌われたね」
エレノアが同じ言葉を繰り返した。
「先ほどより、少し理由が増えたかもしれません」
「何かした?」
「森へ入る前と、同じことしかしておりません」
「では、ディランの問題かな」
エレノアは深く考えることなく結論づけた。
やがて、演習終了を告げる鐘が鳴る。
まだ森にいた組も、監督する教師に誘導されて広場へ戻ってきた。
レンは並ぶ学生たちから少し離れ、自分の左腕を見る。
エレノアが巻いた布には、薄く血が滲んでいた。
森の中で彼女が使ったのは、すべて既存の魔術だった。
危険へ直面しても、特別な力は現れなかった。
判断を誤ることもあった。
魔術の回数を数え違え、足を滑らせ、標石には亀裂を入れた。
完璧ではない。
少なくとも、不可解な力によって結果だけを変えているようには見えなかった。
その一方で、これまで見えていなかったものもある。
答案でも、設備の記録でもない。
誰もいない森の中で、エレノアはレンの笑顔を見ていた。
用意された言葉の奥に、別の顔があることへ気づき始めている。
対象へ近づけば、より多くのものを調べられる。
だが、距離が縮まるほど、隠しているものまで見えやすくなる。
それは、エレノアだけの話ではなかった。




