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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜貴族学院編〜
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71/71

過去を〇す

演習林での授業から、四日が過ぎた。


競技会を控えた学院では、普段の講義と並行して、さまざまな催しの準備が進められている。


その一つが、上級生を対象とした交流茶会だった。


本来は、卒業後に社交界へ出る学生たちへ、正式な場での振る舞いを学ばせるための行事である。


今年は競技会を見学する他国の貴族も数名招かれるため、例年より規模が大きくなっていた。


会場となる大広間には、白い布をかけた円卓が十卓ほど並んでいる。


天井から吊るされた魔石灯は昼間でも明るく、磨かれた床へ淡い光を落としていた。壁際では弦楽器を持った学生たちが静かな曲を奏で、開かれた窓から入る風が薄いカーテンを揺らしている。


焼き菓子や果実の載った皿が、使用人たちの手で各卓へ運ばれていた。


一見すれば、誰もが好きな席へ座っているように見える。


だが、中央に近い卓には王族や公爵家の者が集まり、爵位が下がるにつれて席も壁際へ移っていく。


身分の差が、机の位置としてそのまま表れていた。


レンへ割り当てられたのは、入口に近い端の卓だった。


準男爵家の嫡男としては妥当な位置である。


アーヴィング家には現在、まともな領地も収入もない。ローディス伯爵の庇護を受けているとはいえ、それによって家格まで上がるわけではなかった。


レンは指定された席へ座り、周囲の学生たちと当たり障りのない会話を交わしていた。


「国外では、こういった茶会はなかったのですか?」


向かいに座った令嬢が尋ねる。


「似たものはございました。ただ、海の向こうでは席を間違えても、ここまで多くの方から見られることはありませんでしたね」


「席を間違えたことが?」


「一度だけ。随分と丁寧に、本来の場所まで案内していただきました」


「それは……怒られたのでは?」


「最後まで笑顔でしたので、今も判断がつきません」


令嬢が小さく笑う。


レンも穏やかな笑みを返しながら、広間の中央へ視線を向けた。


エレノアは、カイルとイザークの間に座っている。


向かいにはルシアン。


少し離れた席では、セドリックが他国の魔術師と話していた。その隣で、ディランが窮屈そうに礼装の襟元を引っ張っている。


五人全員が同じ卓というわけではない。


それでも、誰かがエレノアへ話しかけるたび、五人のうち一人は必ず会話へ加わっていた。


とりわけイザークの動きは自然だった。


他国の客人へ挨拶をし、会話の途切れた卓があれば話題を運び、給仕の遅れにもさりげなく指示を出す。


第二王子という身分を強調することなく、広間全体の流れを、自分の望む形へ整えていた。


レンを壁際へ座らせた委員会のときと同じだった。


イザークは、誰がどこにいるべきかをよく知っている。


そして、自分が定めた場所から外れようとする者を、笑顔のまま戻すことにも慣れていた。


「レン・アーヴィング卿」


考えていた相手が、いつの間にか卓の横へ立っていた。


レンはすぐに椅子から立ち上がる。


「イザーク殿下。ご機嫌麗しく」


「座ったままで構わないよ。今日は学院内の茶会だからね」


そう言いながら、イザーク自身は座ろうとしなかった。


周囲の学生たちが会話を控え、二人へ聞き耳を立てている。


「この席は気に入っていただけたかな?」


「ええ。入口が近く、帰り道に迷う心配がありません」


「中央から遠いことは、気にならない?」


「遠くからでなければ見えないものもございますので」


レンが答えると、イザークは広間の中央へ一度目を向けた。


「君は、自分の置かれた場所へ不満を持たないのだね」


「不満を口にすれば、席が移るのでしょうか」


「場合によっては」


「では、必要になったときまで取っておきます」


イザークの笑みが僅かに深くなった。


「君は貪欲なのか、淡泊なのか、よく分からないな」


「殿下に興味を持っていただけたのなら、どちらでも光栄です」


「その返し方は、エレノアにだけ使っているわけではないらしい」


声は変わらず穏やかだった。


だが、確認したかったのは、そこだったのかもしれない。


レンが答える前に、別の卓からイザークを呼ぶ声が上がった。


「失礼。客人を待たせるわけにはいかないのでね」


「どうぞ、お気になさらず」


イザークは離れていった。


背中へ向けられる周囲の視線まで意識しながら、歩調も姿勢も崩さない。


彼が通ったあとには、途切れていた会話が自然に戻っていく。


交流茶会は滞りなく進んだ。


学院長の短い挨拶。


他国から訪れた客人の紹介。


競技会で使用される防護設備についての説明。


一つの予定が終わるたび、学生たちは別の卓へ移り、新しい相手と言葉を交わす。


レンも何人かへ挨拶をした。


名前。


家名。


領地。


親族。


短い会話の中から互いの立場を探り、今後の関係に価値があるかを測っていく。


笑顔の下で行われていることは、訓練場の試合と大きく変わらない。


武器の代わりに家名を使い、相手の守りが薄い場所を探している。


二度目の席替えが始まった頃、広間の中央で小さな音がした。


硬いものが、床へ落ちる音だった。


近くにいた学生たちが足元を見る。


紫色の硝子を花の形に整えた、小さな胸飾りが落ちていた。


銀色の台座には古い傷が残り、花弁の一枚には細い亀裂が走っている。割れた箇所を銀の枠で繋ぎ直した跡もあった。


胸飾りを落としたのは、栗色の髪を肩で切り揃えた令嬢だった。


リディア・ベルノー。


地方に小さな領地を持つ、男爵家の娘である。


彼女が屈むより先に、近くを通っていたエレノアが胸飾りを拾った。


掌の上で裏返し、外れた留め具を確かめる。


「金具が緩んでるね。このままつけ直しても、また落ちると思う」


エレノアが顔を上げる。


その視線が、リディアの顔で止まった。


リディアは胸飾りへ手を伸ばしかけたまま、動かなくなっていた。


先ほどまで浮かべていた社交用の笑みは消えている。


血の気の引いた顔で、エレノアの掌を見つめていた。


「……お返しください」


声が僅かに震えている。


エレノアは何も言わず、胸飾りを差し出した。


リディアは奪うように受け取り、両手で胸元へ抱える。


「落ちたから拾っただけだよ」


「覚えていないのですか?」


エレノアの手が止まる。


周囲の会話が、少しずつ小さくなっていった。


何が起きたのか分からない者も、リディアの表情から、穏やかな話ではないと察している。


「覚えてる」


エレノアは静かに答えた。


その一言で、リディアの目元が強張る。


「でしたら、そんなふうに触らないでください」


「リディア嬢」


離れた場所にいたイザークが、すぐに二人の間へ入った。


笑みは崩れていない。


声にも、相手を責める響きはなかった。


「留め具が壊れているようだね。控えの間に職人がいる。直してもらうといい」


「結構です」


「遠慮する必要はないよ」


「遠慮ではありません」


リディアは胸飾りを握り締めた。


その手が細かく震えている。


「少し、外の空気を吸ってまいります」


誰の返事も待たず、彼女は広間を出ていった。


残された学生たちの視線が、エレノアへ集まる。


今の彼女しか知らない者には、リディアが一方的に礼を欠いたようにも見えただろう。


エレノアは閉じた扉を見つめていた。


普段と変わらない顔だったが、すぐに会話へ戻る様子はない。


「気にする必要はないよ」


イザークが周囲へ聞こえない声で言う。


「昔の出来事を、今の君へ持ち出しただけだ」


「昔の私がしたことなら、今の私にも関係はあるでしょう」


「この場で話すことではない」


「だから、外へ行ったんだと思う」


エレノアは短く答え、リディアのあとを追った。


イザークが呼び止めるより早く、広間の扉が閉じる。


その動きを見ていたのは、レンだけではない。


ディランが立ち上がりかけ、カイルが目で制した。ルシアンはリディアの去った方角を見つめ、セドリックも会話を中断している。


五人全員が、エレノアを追う理由を探していた。


最初に動いたのはイザークだった。


「少し失礼するよ」


近くの客人へそう告げ、広間を出る。


レンは卓へ残った茶を一口飲んだ。


依頼書に記されていた、過去の出来事を思い出す。


下級貴族の令嬢が身につけていた装飾品を安物と呼び、床へ落とす。


リディアが持っていた胸飾りには、割れた跡があった。


偶然とは考えにくい。


レンは空になった杯を置き、誰にも声をかけず席を立った。


広間を出ると、左右へ長い回廊が伸びている。


窓の外に見える中庭には人影がない。


正面の扉が僅かに揺れた。


その先には、来客用の小さな庭園がある。


レンは足音を抑えて扉へ近づいた。


庭園には背の低い生垣と、白い花を咲かせた樹木が並んでいる。中央の噴水から落ちる水音が、広間の音楽を遠ざけていた。


リディアは庭園の端に立っていた。


その数歩後ろに、エレノアがいる。


レンは扉の陰へ身を置いた。


二人の姿は生垣に隠れているが、声は聞こえる。


「待って」


エレノアが呼び止める。


「何でしょうか」


リディアは振り返らなかった。


「さっきの飾りについて、話したい」


「私は話したくありません」


「分かった。では、私が謝るだけにする」


リディアの肩が僅かに動いた。


エレノアは距離を詰めなかった。


「以前、私はその胸飾りを安物だと言って、あなたの手から床へ落とした」


庭園には、水の音だけが続いている。


「あなたが拾おうとしたとき、靴で遠くへやった。壊れたのも、そのときだと思う」


「……よく覚えていらっしゃいますね」


「覚えてる」


「では、なぜ今まで何も言わなかったのですか?」


リディアが振り返る。


目元は赤くなっていたが、涙は流していない。


「学院へ入ってから、何度も顔を合わせました。あなたは使用人を助け、身分の低い学生へ金を貸す仕組みまで作った。それなのに、私には何も言わなかった」


「謝ることで、あなたに許すよう求めていると思われたくなかった」


「今日なら、そう思われないと?」


「思われるかもしれない。でも、何も言わない方がよかったとも思えなくなった」


エレノアは言葉を飾らなかった。


「私が悪かった。ごめんなさい」


リディアは胸飾りへ視線を落とした。


銀色の枠へ包まれた硝子が、木漏れ日を受けて淡く光っている。


「今さら、優しくしないでください」


絞り出すような声だった。


「以前のあなたは、恐ろしかった。でも、避けていればよかった。機嫌を損ねないようにして、目につかない場所にいれば、それで済みました」


胸飾りを握る指へ、さらに力が入る。


「今のあなたは、もっと分かりません」


エレノアは黙って聞いている。


「皇太子殿下がいて、ヴァルハルト様がいて、魔術塔と神殿と、隣国の王子までいる。あなた自身が何も言わなくても、皆があなたのために動くでしょう」


「私は頼んでいないよ」


「分かっています」


リディアはすぐに答えた。


「頼まなくても動くから、怖いのです」


その言葉が、庭園の空気へ重く落ちた。


「私が今日のことを誰かへ話せば、エレノア様が傷つけられたと言う人が現れる。ベルノー家が公爵家を侮辱したと、父へ伝える人もいるかもしれない」


リディアの視線が、広間へ続く扉へ向いた。


「私は、あなたが何者になったのか分かりません。昔のあなたと、今のあなたのどちらが本当なのかも」


「どちらも私だよ」


エレノアの返事に、迷いはなかった。


「昔の私がしたことは、今の私が変わったからといって消えない。あなたが許せないなら、そのままでいい」


「そんなことを言えるのは、許されなくても困らない方だけです」


リディアは頭を下げた。


礼としては正しい。


しかし、これ以上の会話を拒むための仕草でもあった。


「失礼いたします」


彼女が歩き出そうとしたところで、別の声が庭園へ届いた。


「ベルノー嬢」


イザークが回廊から姿を現す。


足音を隠していたわけではない。


それでも、二人の会話が終わる時機を待っていたように見えた。


「今の話は、この場だけに留めた方がいい」


リディアの顔が強張る。


「脅していらっしゃるのですか?」


「忠告だよ」


イザークは穏やかな笑みを崩さなかった。


「公爵令嬢との不和が広まれば、周囲は理由を探り始める。君だけでなく、ベルノー男爵にも不要な憶測が向くだろう。それは誰にとっても望ましくない」


「イザーク」


エレノアの声が僅かに低くなる。


「今は黙っていて」


「君を守ろうとしているんだ」


「それが、リディア嬢が怖がっているものだよ」


イザークの笑みが消えた。


怒ったのではない。


初めて、自分の行動を別の方向から見せられたような顔だった。


リディアは二人へ、もう一度頭を下げる。


「何も話すつもりはございません。初めから、そのつもりでした」


返事を待たず、庭園を出ていった。


すれ違う際、イザークは道を譲った。


彼女の背中を追おうとはしなかった。


「余計なことをしないで」


エレノアが言う。


「彼女は、私が昔したことを話しただけでしょう」


「だからといって、君が一方的に責められる必要はない」


「一方的ではないよ。私が先に傷つけたんだから」


「今の君は、もう同じことをしない」


「それで、昔のことまでなかったことにはならないでしょう」


二人の間に、短い沈黙が生まれる。


イザークはすぐに言い返さなかった。


正しさでエレノアを説得できないと分かっているらしい。


代わりに、庭園の入口へ顔を向けた。


「いつまで隠れているつもりかな、アーヴィング卿」


レンは扉の陰から姿を見せた。


エレノアが目を瞬かせる。


驚いたのは、それだけだった。


イザークは最初から気づいていたらしい。レンが歩み寄る間も、視線を外さなかった。


「盗み聞きとは、国外では一般的な作法なのかな?」


「いいえ。見つからないことまで含めて作法だと教わりました」


「では、落第だね」


「お恥ずかしい限りです」


レンが一礼する。


イザークは笑わなかった。


「どこから聞いていた?」


「エレノア嬢が、胸飾りについて謝られたあたりから」


「ほとんど最初からではないか」


「返す言葉もございません」


イザークはゆっくりと息を吐いた。


広間にいたときより、声音から柔らかさが失われている。


「君が軽率な噂を流せば、困るのは君だけではない。身元を保証しているローディス伯爵の信用にも傷がつく」


「重々承知しております」


「承知したうえで、追ってきたのか」


「ええ」


レンは否定しなかった。


イザークの目が細くなる。


「随分と正直だね」


「ここで嘘をつけば、余計に信用を失いそうでしたので」


「盗み聞きをした時点で、信用が残っていると思うのかな」


「少しくらいは残していただけると、嬉しいのですが」


二人の間へ、エレノアが入る。


庇うように立ったわけではない。


それでも、イザークの視線を自分へ向けさせるには十分だった。


「レンは誰にも話さないよ」


「君が決めることではない」


「では、本人に聞けばいいでしょう」


イザークは再びレンを見る。


「今聞いたことを、他言しないと約束できるかい?」


「もちろんです」


「随分と軽い約束だ」


「重々しく申し上げても、内容は変わりませんので」


「君は――」


「それで十分だよ」


エレノアが遮る。


イザークの眉が僅かに寄った。


「彼と知り合って、まだひと月あまりだろう」


「短いね」


「信用するには、という意味だよ」


「疑うだけなら、一日でもできるでしょう」


「君は人を疑わなさすぎる」


「イザークは疑いすぎだと思う」


互いの声は穏やかだった。


だが、どちらも譲るつもりはないらしい。


しばらくエレノアを見つめたあと、イザークは先に視線を外した。


「客人を残してきている。私は戻るよ」


踵を返しかけ、レンの横で足を止める。


「君がどこへ座るかは、君だけの問題ではない。それを忘れないことだ」


委員会で壁際の席へ座らせたときと同じだった。


家格。


後ろ盾。


周囲からの信用。


イザークがレンを排除したいと思えば、剣も魔術も必要ない。


社交界の中で立つ場所を、一つずつ消していけばいい。


「肝に銘じます」


レンが答える。


イザークは今度こそ庭園を出ていった。


白い扉が閉じると、噴水から落ちる水音だけが戻ってくる。


エレノアは扉を見つめたまま、僅かに肩を落とした。


「ご迷惑をおかけしました」


レンが言う。


「本当にそう思ってる?」


「半分ほどは」


「残り半分は?」


「あなたのことを、以前より知ることができてよかったと思っております」


エレノアが振り返る。


「そういう言い方をすると、イザークが戻ってくるよ」


「では、もう少し小さな声で申し上げましょうか」


「声量の問題ではないと思う」


エレノアは近くの長椅子へ腰を下ろした。


すぐに広間へ戻る気分ではないらしい。


レンも少し離れた場所へ立つ。


腰を下ろせば、今より近くなる。


今は、その距離を勝手に縮めるべきではなかった。


「先ほどのことを、尋ねても?」


「もう十分聞いたでしょう」


「昔の出来事ではなく、あなた自身のことです」


エレノアはレンの顔を見た。


「以前のご自分について、どこまで覚えていらっしゃるのですか?」


問いの意味を探るように、エレノアが僅かに目を細める。


それから、膝の上で指を組んだ。


「リディア嬢の胸飾りを落としたことも、彼女が泣きそうな顔をしていたことも覚えてる。周りにいた人が笑っていたことも」


「なぜ、そのようなことを?」


「気に入らなかったから」


エレノアは淡々と答えた。


「安い硝子の飾りを、綺麗だと言っていたことが。その程度のもので満足している人を笑えば、自分の持っているものの価値が上がると思ってた」


言葉に淀みはない。


当時の自分が何を考え、なぜ相手を傷つけたのかも理解している。


「今は?」


「何も上がらないね。ほかの人が持っているものを貶しても、私の持ち物が綺麗になるわけではないから」


「それに気づいたと」


エレノアが僅かに目を伏せる。


「そうなるのかな」


「曖昧なのですね」


「記憶はあるんだよ」


組んだ指へ、僅かに力が入る。


「昔の私が何を考えていたかも分かる。腹を立てた理由も、人を困らせて楽しいと思っていたことも覚えてる」


そこで言葉を切った。


庭園を吹き抜けた風が、淡い金髪を揺らす。


「でも、その気持ちだけが分からない」


「分からない?」


「自分の記憶なのに、本で読んだ誰かの話みたいに感じることがあるの」


レンは表情を変えなかった。


女神の依頼書に記されていたのは、外側から観測できる変化だけだった。


過去のエレノアが何を覚え、現在の彼女がそれをどう感じているのかまでは分からない。


「そう感じるようになった時期に、心当たりはございますか?」


エレノアはすぐに答えなかった。


噴水へ目を向け、記憶を辿るように水面を見つめる。


「学院へ入る少し前かな」


やがて、静かに口を開いた。


「九日くらい、高い熱が続いたことがあるの。ほとんど寝台から起きられなかった」


依頼書にあった数字を、エレノア自身の声がなぞった。


レンは一拍だけ置いた。


知っていたことを、初めて聞いた者として受け取るための間だった。


「九日も?」


「十日目の朝に、ようやく下がった」


「随分と長く患っていらしたのですね」


「家の者は大騒ぎだったよ。医師も神官も何人来たか分からない」


エレノアは小さく息を吐いた。


「公爵家の娘が長く寝込んだと知られれば、余計な噂を呼ぶからって、外には体調を崩して予定を断ったとしか伝えなかったみたい」


「では、詳しい事情をご存じなのは?」


「家族と使用人。それから、診察した医師や神官くらいだと思う。近しい人たちは、病気だったことまでは知ってるかもしれないけど」


学院や社交界で広く知られている話ではない。


少なくとも、レン・アーヴィングが偶然耳にできる情報ではなかった。


「その頃から、過去のご自分を遠く感じるようになったのですか?」


「たぶん」


エレノアは首を傾けた。


「熱が下がって、すぐにそんなことを考えたわけではないよ。でも、人と会うようになってから、前なら腹を立てていたことへ何も感じなくなっていることに気づいた」


「熱が下がった朝のことは、覚えていらっしゃいますか?」


「喉が渇いてた」


あまりに日常的な答えだった。


「それ以外は?」


「ん~あまり覚えてないか


全てを話すつもりは無いようだ


「教えてくれてありがとうございます。」


「さっき約束したでしょう。誰にも話さないって」


「口約束です」


「それを破る人なら、どんな誓約書を書かせても抜け道を探すと思う」


エレノアは真っ直ぐレンを見た。


「それに、レンは人の秘密を面白がって話すようには見えないから」


その評価は、レン・アーヴィングへ向けられたものだった。


女神によって与えられた身分。


穏やかな言葉。


絶やさない笑顔。


学院へ来てから積み重ねてきたものを見て、エレノアはそう判断している。


彼女の前にいる男が、秘密を持ち帰るために近づいたとは知らない。


「買い被りかもしれません」


「そうだったら、私の見る目がなかっただけだね」


エレノアは、それ以上疑わなかった。


レンの方が先に視線を外す。


噴水の水面へ、揺れた二人の姿が映っている。


「過去の自分が、遠く感じられることはありますか?」


今度は、エレノアが尋ねた。


「私だけがおかしいのか、少し気になって」


レンはすぐに答えなかった。


別の世界。


別の名前。


別の身分。


誰かと過ごし、信頼を得て、役目を終えればすべてを置いていく。


振り返れば、自分がしたことだと理解できる。


それでも、そのとき何を感じていたのかまで、同じ形で思い出せるとは限らない。


「あります」


やがて答えた。


「戻れないほど、遠く感じることも」


エレノアが顔を上げる。


レンの口元には、笑みがなかった。


「では、私だけではないんだね」


安堵したようには見えない。


ただ、一つの可能性を確認したように頷く。


「今、笑ってないよ」


「失礼いたしました」


レンが笑みを戻そうとする。


「戻さなくていい」


エレノアが先に言った。


「その方が、今の話には合ってるから」


レンは止めた。


笑っていない顔のまま、彼女を見る。


エレノアも、それを珍しがるようには見なかった。


広間から、次の曲が始まる音が聞こえる。


茶会へ戻る時間だった。


「そろそろ行かないと、今度はカイルが探しに来るね」


エレノアが立ち上がる。


「ディラン様かもしれません」


「ディランなら、扉を開ける前から声が聞こえると思う」


「セドリック様は?」


「茶会より、さっき話していた魔術師を選ぶよ」


「ルシアン様なら、静かに待っていそうですね」


「イザークはもう来た」


「では、全員分揃いましたね」


エレノアは僅かに笑った。


「帰ろうか」


「ええ」


二人は庭園を出た。


広間へ続く扉の前で、エレノアが足を止める。


「レン」


「何でしょう」


「さっきのリディア嬢のことも、今の話も、本当に誰にも言わないでね」


「もちろんです」


先ほどと同じ言葉だった。


だが、今度はレンも笑わなかった。


エレノアが僅かに目を細める。


「今度は少し、重く聞こえた」


「ご満足いただけましたか?」


「うん。今のところは」


エレノアが先に扉を開ける。


広間へ戻った瞬間、いくつもの視線が二人へ向いた。


中央の卓にいる四人。


少し離れた場所で客人と話すイザーク。


全員が、二人で戻ってきたことへ気づいている。


エレノアは何事もなかったように自分の席へ戻った。


レンも壁際の卓へ向かう。


置かれた場所は、先ほどと変わらない。


それでも、中央から向けられる視線の数だけは増えていた。


九日間の高熱。


十日目の朝。


女神の依頼書に記されていた内容と、エレノアが語ったものは一致している。


だが、それは学院で知られた経歴ではなかった。


詳しく知るのは公爵家の者と、看病や治療に関わった者だけ。


外へ伝えられたのは、体調を崩して予定を断ったという事実だけだった。


鏡に映った自分の顔を、久しぶりに見たと感じたこと。


過去の記憶と、それに伴う感情が切り離されていること。


それらは今まで、誰にも話していなかった。


異世界人である証拠にはならない。


長く寝込んだ影響。


死にかけた経験による価値観の変化。


年齢を重ね、過去の自分を恥じるようになっただけとも考えられる。


それでも、外側から観測された変化より一歩だけ深い場所に、確かな断絶があった。


十六歳までのエレノアは、消えてはいない。


記憶の中へ、すべて残っている。


ただ、その記憶と今の彼女を繋いでいた感情だけが、九日間の熱を境に切れていた。


偶然で済ませるには、あまりにも綺麗に。

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