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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜貴族学院編〜
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69/72

昼食を〇す


競技会の予選まで、あと四週間。


午前最後の鐘が鳴ると、講義棟から吐き出された学生たちが、一斉に食堂へ流れ込んだ。


高い天井の下には食器の触れ合う音と、幾重にも重なった話し声が満ちている。厨房から運ばれてくる焼きたてのパンと香草の匂いに、午前中の講義で鈍っていた空腹を思い出した者も多いらしい。


レンは黒パンと魚のスープを受け取り、空いている席を探した。


しかし、長机はどこも埋まっている。


顔見知りの学生が手を上げかけたが、その向かいにもすぐ別の生徒が座った。


レンは気にした様子もなく食堂を抜け、中庭へ出た。


石造りの回廊に囲まれた中庭には、学院が建つ以前から残されているという大樹がある。太い枝が左右へ伸び、淡い木漏れ日を芝生の上へ落としていた。


その木陰にも、いくつか昼食用のテーブルが置かれている。


中央にある一卓を見たところで、レンは足を緩めた。


エレノアがいた。


それだけなら珍しくない。


だが、今日は一人ではなかった。


エレノアの右隣にはカイルが座り、警備計画書へ目を通している。正面にはディランが長い脚を窮屈そうに投げ出し、山盛りの肉料理を食べていた。


左側ではセドリックが昼食へほとんど手をつけず、机の半分を使って術式図を広げている。その隣ではイザークが、細工の施された木箱から色鮮やかな菓子を取り出していた。


そして、もう一人。


淡い灰色の髪と柔らかな金色の瞳を持つ青年が、湯気の立つ茶をエレノアの前へ置いている。


中央神殿の次期大神官候補。


ルシアン・ラティス。


依頼書の肖像でしか見たことのなかった、最後の一人だった。


王家。


軍。


魔術塔。


隣国。


中央神殿。


いずれ国の一部を背負う立場にある五人が、昼休みの小さな卓を囲んでいる。


その誰もが、向かいにいる者ではなくエレノアへ身体を向けていた。


「競技会の警備計画についてだが――」


カイルが書類を開く。


「その前に、修正した防護術式を確認してほしい」


セドリックが、上から自分の紙を重ねようとする。


「エレノア、こちらの菓子を見てくれ。セルディアでも王都でしか手に入らないものだ」


イザークが木箱を寄せる。


「お茶が冷めてしまいますよ」


ルシアンは静かに杯を勧めた。


「お前、またスープだけかよ。肉も食え」


最後に、ディランが自分の皿へ手を伸ばす。


エレノアはまだ一口も食べていなかった。


次々と差し出される紙と皿を眺め、僅かに息を吐く。


「一人ずつ話してもらえる?」


大声ではなかった。


それでも、五人は揃って口を閉じた。


「まず、私は昼食を食べたいの」


「だから肉を食えっつってんだろ」


最初に沈黙を破ったのはディランだった。


大きく切られた肉の包み焼きを、エレノアの皿へ移そうとする。


彼女はフォークの柄で、その皿を押し返した。


「その量は昼から食べるものじゃないよ」


「細いからすぐ疲れるんだろうが」


「食事中に倒れたことはないけど」


「倒れてからじゃ遅え」


ディランが再び皿を押す。


その端が術式図へ触れかけ、セドリックが素早く紙を持ち上げた。


「油が飛ぶ。こちらへ置くな」


「だったら飯の机に紙を広げんじゃねえ」


「食事中でも話を聞くと言ったのはエレノアだ」


「話を聞くとは言ったけど、机を埋めていいとは言ってないね」


エレノアが指摘すると、セドリックは無言で術式図を二つ折りにした。


不満はあるらしいが、紙はきっちり机の端へ寄せられる。


空いた場所を待っていたように、イザークが菓子箱を滑り込ませた。


「では、こちらを先に。果実と蜂蜜を練り込んである。疲れているときには甘いものがいい」


「今、肉を断ったところなんだけど」


「菓子は別だろう?」


「胃は同じだよ」


エレノアの返答に、イザークは楽しそうに笑うだけだった。


その横から、ルシアンが静かに茶器を近づける。


「お茶だけでもどうぞ。香りも強くありませんし、食前に飲めば胃を温めてくれます」


「ありがとう。では、お茶からいただくね」


ようやくエレノアが杯へ手を伸ばした。


細い指が白い陶器へ触れる。


その様子を確認してから、ルシアンは満足したように手を引いた。


カイルが五人を見回し、小さく息を吐く。


「君たちは、エレノアに昼食を取らせたいのか、邪魔をしたいのか、どちらなんだ」


「殿下も資料を持ってきてるけど」


エレノアが警備計画書へ視線を落とす。


カイルは何か言い返しかけたが、自分の手元を見て口を閉じた。


「……食べ終わってからにしよう」


「そうしてもらえると助かる」


それぞれが、ここへ来る理由を持っている。


警備の相談。


術式の確認。


隣国からの土産。


診療所の書類。


食事についての世話。


だが、本当に用件を済ませるだけなら、昼休みを選ぶ必要はない。使いの者へ預けても、放課後に呼び出してもいい。


それでも五人は同じ時間に集まり、誰一人として席を譲ろうとはしなかった。


エレノアも迷惑そうにはしているが、追い払おうとはしない。


五人の言葉を聞き分け、必要なものだけを受け取っている。


依頼書に並んでいた肩書が、ようやく人間同士の距離として見えた。


レンは視線を外した。


わざわざ、あの卓へ加わる必要はない。


大樹の反対側に空いた席を見つけ、そちらへ向かおうとする。


「レン」


背中へ、エレノアの声が届いた。


足を止めて振り返る。


先ほどまで勝手に話していた五人が、揃ってこちらを見ていた。


カイルは書類から目を上げただけだったが、ディランは露骨に眉を寄せている。セドリックの視線は値踏みするように静かで、イザークは微笑んだまま目を細めた。


ルシアンだけは柔らかな表情を崩していない。


それでも、レンを見る目には穏やかさとは別のものがあった。


五人とも、エレノアが呼んだ相手を確かめている。


レンはいつもの笑みを浮かべ、卓へ近づいた。


「ご機嫌よう、エレノア嬢」


そのまま、ほかの五人へ順に頭を下げる。


「皆様も、お揃いでしたか」


「見りゃ分かるだろ」


ディランが吐き捨てた。


「ええ。あまりに見事な顔ぶれでしたので、つい」


「何が見事だ」


「エレノア嬢が、昼食を召し上がる暇もないほど大切にされていることが」


ディランの口が僅かに曲がった。


皮肉なのか本気なのか、判断できなかったらしい。


レンは最後に、灰色の髪の青年へ向き直る。


「初めてご挨拶いたします。レン・アーヴィングと申します」


「ルシアン・ラティスです」


ルシアンが胸元へ手を添えた。


神官らしい穏やかな礼だった。


「あなたのお話は、エレノアさんから伺っております」


その一言で、卓を囲む空気が僅かに変わった。


四人の視線が、今度はエレノアへ向く。


とりわけディランの反応は分かりやすかった。


「こいつの話を?」


「試験の答案と、固定具の件を話しただけだよ」


エレノアは彼らの反応に気づいていないのか、気にしていないのか、平然と茶を飲んでいる。


「二度も話題へ上がれば、十分でしょう」


ルシアンが静かに続けた。


「変わった答えを出し、壊れた設備の原因を見つけた方だと伺いました」


「余計なところばかり見てやがる奴だ」


ディランが鼻を鳴らす。


セドリックは畳んだ術式図から顔を上げた。


「固定具の件は必要な指摘だった。そこまで否定するな」


「お前、こいつを気に入らねえんじゃなかったのか」


「評価していない部分と、正しかった部分は別だ。事実と感情を混ぜないでくれ」


「いちいち面倒くせえな」


「君にだけは言われたくない」


二人の視線がぶつかる。


普段から似たようなやり取りをしているのだろう。カイルも止める様子はなく、イザークは菓子を選びながら聞き流していた。


エレノアも構わず、一枚の紙をレンへ差し出す。


競技会の参加申込書だった。


「これを確認していたんだけど」


「何か不備がございましたか?」


「使用装備の欄が空白になってる」


レンは紙を受け取った。


自分の筆跡で記した名前や所属の下に、確かに空欄が残っている。


「まだ決めておりませんので」


「本当に、剣だけで出るつもり?」


エレノアがレンの腰へ視線を移す。


今日も下げているのは、学院から貸与された細身の訓練剣だけだった。


ディランが鼻で笑った。


「好きにさせろ。火だるまになりてえんだろ」


「試合で火だるまになるなら、防護術式の異常だと思うけど」


「ものの例えだ」


「分かってるよ」


エレノアは申込書へ目を戻した。


「予選から攻撃魔術が許可されてる。距離を取られたら、剣だけでは届かないでしょう?」


「難しいでしょうね」


「随分と他人事だね」


「まだ四週間ありますので、何を使うか試しているところです」


レンが答えると、セドリックが指先で机を一度叩いた。


「魔力を持たないなら、魔道具を使うしかない。術式を蓄積したものなら、本人の魔力は必要ない」


「使用できる回数に限りがあります」


「一度も使えないよりはいいだろう」


「上級の魔道具は、学院の貸し出し対象外だ」


カイルが警備計画書を閉じる。


「借りられるのは、低級の防御具と、威力を抑えた攻撃具だけになる。競技会で使うなら、事前の検査も必要だ」


「購入するにしても、安くはないだろうね」


イザークが穏やかに口を挟んだ。


視線はレンではなく、胸元の徽章へ落ちている。


「現在のアーヴィング家に、競技のためだけに上等な魔道具を揃える余裕があるのかな」


柔らかな声だった。


事情を案じているようにも聞こえる。


だが、アーヴィング家が名ばかりに近い準男爵家であることを、卓にいる全員へ改めて知らせる言葉でもあった。


「残念ながら、倉庫へ余らせているほどではありません」


レンは笑みを崩さずに答えた。


「素直だね」


「イザーク殿下へ見栄を張っても、財布の中身は増えませんので」


イザークの笑みが、僅かに深くなる。


「では、どうするつもりだい?」


「今あるものの中から選びます」


具体的な内容までは口にしなかった。


隠すためではない。


まだ、答えが出ていない。


学院から借りられる防御具は、一度か二度の攻撃で機能を失う。攻撃用の魔道具は遠くへ届くが、まともな魔術師なら防ぐことができる。


数を増やせば、その分だけ重くなる。


ディランへ再び届く以前に、まず予選を抜けなければならない。


必要なのは強い道具ではなく、限られた道具を使う場所だった。


レンが考えている間に、イザークは話を切り上げるように菓子箱へ手を伸ばした。


「一つ、いかがかな」


小さく切られた焼き菓子の上に、赤い果実の蜜煮が飾られている。


エレノアは差し出された一つを受け取った。


「ありがとう」


口へ運び、ゆっくりと味を確かめる。


五人が何気ない顔をしながら、彼女の反応を待っていた。


「甘いね」


「気に入らなかった?」


「美味しいけど、一つで十分かな」


エレノアは箱の中に残った菓子を見てから、レンへ顔を向けた。


「レンも食べる?」


イザークの指が、箱の縁で止まった。


ほんの一瞬だった。


顔には変わらず笑みがあり、声も乱れない。


「それは、君のために持ってきたものだよ」


「だから、私が誰へ渡すか決めてもいいでしょう?」


エレノアは、ごく自然に尋ねた。


贈り物の一つを分けることに、それ以上の意味があるとは考えていないらしい。


イザークは一拍だけ置いてから、微笑みを深くした。


「もちろん。君への贈り物だからね」


「では、一つどうぞ」


エレノアが菓子を摘まみ、レンへ差し出す。


受け取ろうとしたところで、横からディランの声が飛んだ。


「図々しく食うんじゃねえ」


椅子の背へ預けていた身体を起こし、レンの手元を睨んでいる。


「エレノア嬢からのご厚意を断る方が、失礼かと思いまして」


「だったら俺が食う」


「ディランは肉を持ってるでしょう」


「菓子は別だろうが」


「さっき、同じようなことを聞いたね」


エレノアはディランへ渡さず、そのままレンの掌へ菓子を置いた。


指先が触れるほど近くはない。


ただ菓子一つが、片方の手からもう片方へ移っただけだった。


それでもイザークの笑みからは先ほどまでの温度が消え、ディランは隠そうともせず顔をしかめている。


セドリックも術式図を読むふりをしながら、紙の同じ箇所へ長く目を留めていた。


「ありがとうございます」


「感想は正直に言っていいよ」


「あなたからいただいた時点で、私には十分甘く感じられます」


エレノアが目を瞬かせる。


その横で、ディランの顔がさらに険しくなった。


「やっぱり、その喋り方は殴りたくなるな」


「先日は実際に殴られましたが」


「あれは剣だ」


「では、次は拳でしょうか」


「望むならな」


「ディラン」


カイルが低い声で名を呼んだ。


強く咎めたわけではないが、王家の紋章を帯びた者に見据えられ、ディランは舌打ちを飲み込む。


「昼食中だ」


「分かってますよ」


ディランは乱暴に椅子へ座り直した。


レンは菓子を口へ運ぶ。


柔らかな生地へ染み込んだ蜂蜜は強く、あとから果実の酸味が追ってきた。茶がなければ、確かに一つで十分な甘さだった。


「いかがですか?」


イザークが尋ねる。


「大変、美味しくいただきました」


「それはよかった」


声音は穏やかだった。


しかし、菓子を勧めたときに見せていた親しげな雰囲気は、薄い膜を一枚隔てたように遠のいている。


エレノアから贈り物の一部を渡された。


起きたのは、それだけだ。


それだけのことで、二人の男が明確に反応した。


ルシアンが言葉を挟まずにその様子を見ていることも、レンは視界の端で捉えていた。


「それで、装備の話だけど」


周囲の小さな変化には頓着せず、エレノアが申込書を持ち上げる。


「決まったら期限までに出してね。当日の変更は認められないから」


「承知しました」


「魔術への対処を練習するなら、第二練習棟に射出器がある」


カイルが教えた。


「使用許可を取れば、三台まで同時に動かせるはずだ」


「ありがとうございます。すでに申請しております」


「準備だけは早いんだな」


ディランが言う。


「あなたと、もう一度向き合うためですので」


レンは真っ直ぐディランを見た。


「予選で負けなければいいがな」


「ご期待に添えられるよう努めます」


「期待してねえ」


エレノアが、ようやく自分のスープへ匙を入れた。


表面には薄い膜が張り、先ほどまで上がっていた湯気は消えている。


一口飲んだ彼女の眉が、ほんの僅かに寄った。


「……冷めた」


五人が同時に反応した。


「温め直そう」


「俺が新しいのを取ってくる」


「温度調整の術式なら――」


「別の料理を用意させようか」


「胃には、少し冷めた方が負担は――」


「大丈夫」


エレノアが先に止める。


匙を持ったまま五人を見回し、念を押すように続けた。


「このまま食べるから、座っていて」


五人は不承不承ながら口を閉じた。


レンは自分のパンをスープへ浸し、その光景を眺める。


彼女が困れば、五人はそれぞれ自分の得意な方法で手を出す。


一人が何かを渡せば、ほかの者も別のものを差し出す。


そして、エレノアがその中から誰か一人を選べば、残された者は僅かに表情を変える。


誰もが強い立場と能力を持っている。


だが、この卓にいる間だけは、全員が一人の少女から返事を待つ側だった。


昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。


中庭の学生たちが一斉に立ち上がり、食器を返すため食堂へ戻っていく。


「エレノア。放課後、会議室へ来てくれ」


カイルが警備計画書を畳む。


「分かった」


「その前に、この修正箇所だけ確認してほしい」


セドリックが、畳んでいた術式図を差し出した。


「次の講義が終わったら見るよ」


「明日の昼食については、使いを送ろう」


イザークが菓子箱の蓋を閉じる。


「明日は食堂で食べたいんだけど」


「では、僕も食堂へ行くよ」


「余計に目立つと思う」


「今さらだろう?」


ディランも立ち上がり、肩へ幅広の剣を担ぐ。


「夕方、訓練場に来い。今度は俺の相手をしろ」


「昨日もしたでしょう」


「あれじゃ足りねえ」


「私は競技会に出ないよ」


「知ってる。少しは身体を動かせって言ってんだ」


最後に、ルシアンが空になった茶器を盆へ載せた。


「診療所へ提出する書類も、今週中にお願いします」


「机へ置いておいて。今夜見るから」


エレノアは面倒そうにしながらも、一つとして断らなかった。


五人は別々の方角へ歩き出す。


それでも全員が、次にエレノアと会う時間を確保してから離れていった。


彼女を中心とした輪は、偶然できたものではない。


長い時間をかけて、それぞれが自分の居場所を作った結果なのだろう。


そこへ外から入ろうとすれば、目立たないはずがなかった。


その日の放課後。


レンは第二練習棟にいた。


西へ傾いた陽光が高い窓から差し込み、石造りの室内へ長い光の帯を作っている。磨かれた床には古い焦げ跡が残り、空気にも魔石を使ったあと特有の乾いた匂いが染みついていた。


正面の壁際には、魔術弾を放つ射出器が三台並んでいる。


どれも人の胸ほどの高さがあり、丸い射出口の奥で小さな魔石が白く光っていた。


訓練用に威力は抑えられている。


防護術式の施された制服を着ていれば、大きな怪我を負うこともない。


ただし、痛みまで消してくれるわけではなかった。


レンは三台のうち中央だけを起動し、最低の段階へ設定した。


壁際の取っ手を引く。


低い作動音が響き、射出口に光が集まった。


一秒後。


白い魔術弾が、胸の高さへ飛んでくる。


レンは半歩だけ横へ動いた。


光が制服の脇を抜け、背後の壁へ吸い込まれる。


二発目。


三発目。


発射前には魔石が強く光り、内部から僅かな音も聞こえる。一台だけなら、かわすことは難しくない。


レンは設定を一段上げた。


三台すべてに光が灯る。


右。


中央。


左。


同じ間隔ではない。


最初の二発をかわし、三発目に合わせて身体を沈める。


その直後、中央の射出器が予想より早く光った。


白い弾が脇腹へ当たる。


制服の防護術式が明滅し、鈍い衝撃が身体の芯まで届いた。


姿勢を戻すより先に、次の一発が肩を打つ。


足が床から離れ、レンは横向きに転がった。


三台の光が消える。


静かになった室内へ、自分の呼吸だけが残った。


レンは脇腹を押さえて起き上がった。


骨に異常はない。


息もできる。


もう一度、取っ手を引く。


二度目は先ほどより長くかわした。


それでも七発目が右脚へ当たり、片膝をつく。


三度目は五発目で胸を打たれた。


射出器の順番が変わっている。


出鱈目に撃っているのではない。直前にレンが避けた方向を記録し、次の弾を置いている。


右へ避ける回数が増えれば、右側へ逃げた先を狙う。


姿勢を低くすれば、次は床へ着地する瞬間へ合わせてくる。


単純な魔術を放つ装置だが、相手の癖を拾う程度の術式は組み込まれているらしい。


レンは設定を戻さなかった。


癖を読まれるなら、読まれたあとにどう動くかを覚える必要がある。


室内に作動音と衝撃音が重なった。


魔術弾が床や壁へ消えるたび、焦げた匂いが濃くなる。


時間が経つにつれて足の動きは鈍り、避け損ねる回数が増えていった。


一時間後。


左肩へ弾を受けたレンは、仰向けに床へ倒れた。


石床の冷たさが、熱を持った背中へ伝わる。


制服の下には、いくつもの痣ができていた。


呼吸を整えていると、入口から声がした。


「随分と熱心ですね」


装置を停止させ、顔だけを向ける。


開かれた扉の前に、ルシアンが立っていた。


中庭で見た制服の上から、神殿の白い外套を羽織っている。薄暗くなり始めた室内で、その姿だけが淡く浮かび上がって見えた。


「見学でしょうか」


「放課後は医務室の手伝いをしています」


ルシアンは室内へ入り、停止した射出器を見回した。


「同じ部屋で何度も防護術式が作動したので、様子を見に来ました。故障かと思いましたが」


床へ倒れているレンへ目を戻す。


「壊れかけているのは、装置ではなさそうですね」


「まだ立てますので、問題ありません」


レンは片手を床へつき、身体を起こした。


右脚へ体重をかけた瞬間、筋肉の奥に鈍い痛みが走る。


表情には出さなかったが、僅かに重心が左へ寄った。


ルシアンは見逃さなかった。


「問題がある人ほど、そう言います」


「神官の方には隠せませんね」


「すべてが分かるわけではありませんよ」


ルシアンはレンの前へ屈み、右手を差し出した。


「痛みを我慢していることくらいなら、分かります。治療しても?」


「よろしいのでしょうか」


レンがその手を取る。


ルシアンの指先から、淡い金色の光が広がった。


光は水へ落とした絵の具のように薄く制服へ染み込み、肩から脇腹、脚へ流れていく。


熱を持っていた箇所が冷え、身体の奥に残っていた痛みもゆっくりと薄れていった。


魔力の動きを感じることはできない。


それでも、自分の身体が修復されていくことは分かる。


「昼食のときは、落ち着いてお話しできませんでしたね」


ルシアンが治療を続けながら言った。


「賑やかな席でしたので」


「あれでも、今日は静かな方です」


「そうなのですか?」


「皆、自分こそがエレノアさんの役に立てると思っていますから」


ルシアンの横顔には、呆れも嫉妬も浮かんでいなかった。


長く見慣れてきたものを説明するような声音だった。


「殿下は立場で守ろうとする。ディランは力で。セドリックは知識で。イザーク殿下は、人との繋がりを使う」


「あなたは?」


レンが尋ねる。


ルシアンは治療の光を弱め、僅かに笑った。


「傷ついたときに治します」


「随分と控えめですね」


「無理に傷を負わせないだけ、ほかの方々より穏やかでしょう?」


冗談めいた言葉だった。


だが、レンへ向けられた金色の瞳は笑っていない。


指先の光は温かい。


それとは反対に、視線は静かに冷えていた。


「エレノアさんが、学院へ来たばかりの方を自分から呼ぶのは珍しいことです」


「仕事を頼まれただけですが」


「理由は関係ありません」


ルシアンの手が、レンの脇腹から離れる。


「彼女があなたの名を口にした。だから、今日の席にいた全員があなたを見たのです」


中庭で一斉に向けられた視線を思い出す。


「あなたも?」


「もちろん」


ルシアンは微笑んだ。


今度は目元にも穏やかな形が浮かんでいる。


「私も、彼女を大切に思っていますから」


敵意はない。


少なくとも、今すぐ排除しようとする者の目ではなかった。


だが、好意だけで近づいてきたわけでもない。


医務室の手伝いをしていたというのは事実だろう。


防護術式の作動を察知したことも。


それでも、わざわざ自分でここまで来た理由は、それだけではない。


ルシアンの治療が止まる。


「一つだけ、尋ねてもよろしいですか?」


「何でしょう」


「あなたは、なぜエレノアさんへ近づくのですか?」


静かな問いだった。


声を荒らげる必要も、答えを急かす必要もない。


返された言葉だけでなく、答えるまでの間や、表情の変化まで見るつもりなのだろう。


レンはいつもの笑みを保った。


「同じ学び舎で過ごす方へ、関心を抱いた。それでは不足でしょうか」


ルシアンは、すぐには答えなかった。


重ねた手を離し、立ち上がる。


痛みはほとんど消えている。


「嘘ではなさそうですね」


やがて、そう告げた。


「ただ、すべてでもない」


魔術で心を読まれた感覚はなかった。


レンの言葉と、言わなかったものを比べただけだ。


「誰にでも、口にしない理由はあります」


ルシアンはそれ以上追及しなかった。


「今は、それで構いません」


「寛大なお言葉に感謝いたします」


「ただし、彼女へ近づくほど、あなたを見る目は増えます」


「五人分ですか」


「五つで済めばよいのですが」


公爵家。


王家。


軍。


魔術塔。


神殿。


隣国。


五人の背後には、それぞれの家と組織がある。


彼らから関心を持たれるということは、その背後にいる者たちからも名前を知られるということだった。


「忠告でしょうか」


「予告です」


ルシアンは穏やかに答えた。


脅しているわけではない。


待ち受けている事実を、先に教えただけなのだろう。


「治療は終わりました。今日は、これ以上続けない方がよいでしょう」


「ご忠告に従います」


「素直ですね」


「治療してくださった方の言葉ですので」


「では、明日も同じ痣を作っていたら、今度はエレノアさんへ伝えます」


レンの笑みが、ほんの僅かに固まった。


「それは困ります」


「困るのですね」


初めて、ルシアンの目にも素直な笑いが浮かんだ。


「では、失礼します」


白い外套を翻し、練習棟を出ていく。


扉が閉まると、室内は再び静かになった。


レンは三台の射出器を見る。


魔石には、まだ十分な光が残っている。


取っ手へ手を伸ばしかけたが、ルシアンの言葉を思い出して止めた。


忠告を無視して身体を痛めることに、意味はない。


代わりに紙と筆を取り出し、装置ごとの発射間隔と、自分が被弾したときの動きを書き留めていく。


右へ二度続けて避けたあとの攻撃。


姿勢を低くした直後に狙われる位置。


三台の光が重なったとき、実際に弾が放たれる順番。


痛みが消えても、受けた攻撃の記憶は残っている。


昼食へ一度呼ばれただけだった。


それでも、五人全員がレンを見た。


一人は露骨に敵意を向け、一人は身分を測り、一人は理解できる範囲を区切り、一人は公平な立場から観察し、最後の一人は近づく理由を尋ねてきた。


エレノアとの距離が縮まるほど、彼らの視線も近づいてくる。


まだ、全員が敵になったわけではない。


だが、輪の外にいたときと同じようには動けない。


レンは記録を終えると、紙を四つに折って懐へ入れた。


窓から差し込んでいた陽は、すでに消えている。


暗い硝子へ映った自分の顔には、いつもと変わらない穏やかな笑みがあった。


その笑顔すら、これからは五人に見られている。



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