昼食を〇す
競技会の予選まで、あと四週間。
午前最後の鐘が鳴ると、講義棟から吐き出された学生たちが、一斉に食堂へ流れ込んだ。
高い天井の下には食器の触れ合う音と、幾重にも重なった話し声が満ちている。厨房から運ばれてくる焼きたてのパンと香草の匂いに、午前中の講義で鈍っていた空腹を思い出した者も多いらしい。
レンは黒パンと魚のスープを受け取り、空いている席を探した。
しかし、長机はどこも埋まっている。
顔見知りの学生が手を上げかけたが、その向かいにもすぐ別の生徒が座った。
レンは気にした様子もなく食堂を抜け、中庭へ出た。
石造りの回廊に囲まれた中庭には、学院が建つ以前から残されているという大樹がある。太い枝が左右へ伸び、淡い木漏れ日を芝生の上へ落としていた。
その木陰にも、いくつか昼食用のテーブルが置かれている。
中央にある一卓を見たところで、レンは足を緩めた。
エレノアがいた。
それだけなら珍しくない。
だが、今日は一人ではなかった。
エレノアの右隣にはカイルが座り、警備計画書へ目を通している。正面にはディランが長い脚を窮屈そうに投げ出し、山盛りの肉料理を食べていた。
左側ではセドリックが昼食へほとんど手をつけず、机の半分を使って術式図を広げている。その隣ではイザークが、細工の施された木箱から色鮮やかな菓子を取り出していた。
そして、もう一人。
淡い灰色の髪と柔らかな金色の瞳を持つ青年が、湯気の立つ茶をエレノアの前へ置いている。
中央神殿の次期大神官候補。
ルシアン・ラティス。
依頼書の肖像でしか見たことのなかった、最後の一人だった。
王家。
軍。
魔術塔。
隣国。
中央神殿。
いずれ国の一部を背負う立場にある五人が、昼休みの小さな卓を囲んでいる。
その誰もが、向かいにいる者ではなくエレノアへ身体を向けていた。
「競技会の警備計画についてだが――」
カイルが書類を開く。
「その前に、修正した防護術式を確認してほしい」
セドリックが、上から自分の紙を重ねようとする。
「エレノア、こちらの菓子を見てくれ。セルディアでも王都でしか手に入らないものだ」
イザークが木箱を寄せる。
「お茶が冷めてしまいますよ」
ルシアンは静かに杯を勧めた。
「お前、またスープだけかよ。肉も食え」
最後に、ディランが自分の皿へ手を伸ばす。
エレノアはまだ一口も食べていなかった。
次々と差し出される紙と皿を眺め、僅かに息を吐く。
「一人ずつ話してもらえる?」
大声ではなかった。
それでも、五人は揃って口を閉じた。
「まず、私は昼食を食べたいの」
「だから肉を食えっつってんだろ」
最初に沈黙を破ったのはディランだった。
大きく切られた肉の包み焼きを、エレノアの皿へ移そうとする。
彼女はフォークの柄で、その皿を押し返した。
「その量は昼から食べるものじゃないよ」
「細いからすぐ疲れるんだろうが」
「食事中に倒れたことはないけど」
「倒れてからじゃ遅え」
ディランが再び皿を押す。
その端が術式図へ触れかけ、セドリックが素早く紙を持ち上げた。
「油が飛ぶ。こちらへ置くな」
「だったら飯の机に紙を広げんじゃねえ」
「食事中でも話を聞くと言ったのはエレノアだ」
「話を聞くとは言ったけど、机を埋めていいとは言ってないね」
エレノアが指摘すると、セドリックは無言で術式図を二つ折りにした。
不満はあるらしいが、紙はきっちり机の端へ寄せられる。
空いた場所を待っていたように、イザークが菓子箱を滑り込ませた。
「では、こちらを先に。果実と蜂蜜を練り込んである。疲れているときには甘いものがいい」
「今、肉を断ったところなんだけど」
「菓子は別だろう?」
「胃は同じだよ」
エレノアの返答に、イザークは楽しそうに笑うだけだった。
その横から、ルシアンが静かに茶器を近づける。
「お茶だけでもどうぞ。香りも強くありませんし、食前に飲めば胃を温めてくれます」
「ありがとう。では、お茶からいただくね」
ようやくエレノアが杯へ手を伸ばした。
細い指が白い陶器へ触れる。
その様子を確認してから、ルシアンは満足したように手を引いた。
カイルが五人を見回し、小さく息を吐く。
「君たちは、エレノアに昼食を取らせたいのか、邪魔をしたいのか、どちらなんだ」
「殿下も資料を持ってきてるけど」
エレノアが警備計画書へ視線を落とす。
カイルは何か言い返しかけたが、自分の手元を見て口を閉じた。
「……食べ終わってからにしよう」
「そうしてもらえると助かる」
それぞれが、ここへ来る理由を持っている。
警備の相談。
術式の確認。
隣国からの土産。
診療所の書類。
食事についての世話。
だが、本当に用件を済ませるだけなら、昼休みを選ぶ必要はない。使いの者へ預けても、放課後に呼び出してもいい。
それでも五人は同じ時間に集まり、誰一人として席を譲ろうとはしなかった。
エレノアも迷惑そうにはしているが、追い払おうとはしない。
五人の言葉を聞き分け、必要なものだけを受け取っている。
依頼書に並んでいた肩書が、ようやく人間同士の距離として見えた。
レンは視線を外した。
わざわざ、あの卓へ加わる必要はない。
大樹の反対側に空いた席を見つけ、そちらへ向かおうとする。
「レン」
背中へ、エレノアの声が届いた。
足を止めて振り返る。
先ほどまで勝手に話していた五人が、揃ってこちらを見ていた。
カイルは書類から目を上げただけだったが、ディランは露骨に眉を寄せている。セドリックの視線は値踏みするように静かで、イザークは微笑んだまま目を細めた。
ルシアンだけは柔らかな表情を崩していない。
それでも、レンを見る目には穏やかさとは別のものがあった。
五人とも、エレノアが呼んだ相手を確かめている。
レンはいつもの笑みを浮かべ、卓へ近づいた。
「ご機嫌よう、エレノア嬢」
そのまま、ほかの五人へ順に頭を下げる。
「皆様も、お揃いでしたか」
「見りゃ分かるだろ」
ディランが吐き捨てた。
「ええ。あまりに見事な顔ぶれでしたので、つい」
「何が見事だ」
「エレノア嬢が、昼食を召し上がる暇もないほど大切にされていることが」
ディランの口が僅かに曲がった。
皮肉なのか本気なのか、判断できなかったらしい。
レンは最後に、灰色の髪の青年へ向き直る。
「初めてご挨拶いたします。レン・アーヴィングと申します」
「ルシアン・ラティスです」
ルシアンが胸元へ手を添えた。
神官らしい穏やかな礼だった。
「あなたのお話は、エレノアさんから伺っております」
その一言で、卓を囲む空気が僅かに変わった。
四人の視線が、今度はエレノアへ向く。
とりわけディランの反応は分かりやすかった。
「こいつの話を?」
「試験の答案と、固定具の件を話しただけだよ」
エレノアは彼らの反応に気づいていないのか、気にしていないのか、平然と茶を飲んでいる。
「二度も話題へ上がれば、十分でしょう」
ルシアンが静かに続けた。
「変わった答えを出し、壊れた設備の原因を見つけた方だと伺いました」
「余計なところばかり見てやがる奴だ」
ディランが鼻を鳴らす。
セドリックは畳んだ術式図から顔を上げた。
「固定具の件は必要な指摘だった。そこまで否定するな」
「お前、こいつを気に入らねえんじゃなかったのか」
「評価していない部分と、正しかった部分は別だ。事実と感情を混ぜないでくれ」
「いちいち面倒くせえな」
「君にだけは言われたくない」
二人の視線がぶつかる。
普段から似たようなやり取りをしているのだろう。カイルも止める様子はなく、イザークは菓子を選びながら聞き流していた。
エレノアも構わず、一枚の紙をレンへ差し出す。
競技会の参加申込書だった。
「これを確認していたんだけど」
「何か不備がございましたか?」
「使用装備の欄が空白になってる」
レンは紙を受け取った。
自分の筆跡で記した名前や所属の下に、確かに空欄が残っている。
「まだ決めておりませんので」
「本当に、剣だけで出るつもり?」
エレノアがレンの腰へ視線を移す。
今日も下げているのは、学院から貸与された細身の訓練剣だけだった。
ディランが鼻で笑った。
「好きにさせろ。火だるまになりてえんだろ」
「試合で火だるまになるなら、防護術式の異常だと思うけど」
「ものの例えだ」
「分かってるよ」
エレノアは申込書へ目を戻した。
「予選から攻撃魔術が許可されてる。距離を取られたら、剣だけでは届かないでしょう?」
「難しいでしょうね」
「随分と他人事だね」
「まだ四週間ありますので、何を使うか試しているところです」
レンが答えると、セドリックが指先で机を一度叩いた。
「魔力を持たないなら、魔道具を使うしかない。術式を蓄積したものなら、本人の魔力は必要ない」
「使用できる回数に限りがあります」
「一度も使えないよりはいいだろう」
「上級の魔道具は、学院の貸し出し対象外だ」
カイルが警備計画書を閉じる。
「借りられるのは、低級の防御具と、威力を抑えた攻撃具だけになる。競技会で使うなら、事前の検査も必要だ」
「購入するにしても、安くはないだろうね」
イザークが穏やかに口を挟んだ。
視線はレンではなく、胸元の徽章へ落ちている。
「現在のアーヴィング家に、競技のためだけに上等な魔道具を揃える余裕があるのかな」
柔らかな声だった。
事情を案じているようにも聞こえる。
だが、アーヴィング家が名ばかりに近い準男爵家であることを、卓にいる全員へ改めて知らせる言葉でもあった。
「残念ながら、倉庫へ余らせているほどではありません」
レンは笑みを崩さずに答えた。
「素直だね」
「イザーク殿下へ見栄を張っても、財布の中身は増えませんので」
イザークの笑みが、僅かに深くなる。
「では、どうするつもりだい?」
「今あるものの中から選びます」
具体的な内容までは口にしなかった。
隠すためではない。
まだ、答えが出ていない。
学院から借りられる防御具は、一度か二度の攻撃で機能を失う。攻撃用の魔道具は遠くへ届くが、まともな魔術師なら防ぐことができる。
数を増やせば、その分だけ重くなる。
ディランへ再び届く以前に、まず予選を抜けなければならない。
必要なのは強い道具ではなく、限られた道具を使う場所だった。
レンが考えている間に、イザークは話を切り上げるように菓子箱へ手を伸ばした。
「一つ、いかがかな」
小さく切られた焼き菓子の上に、赤い果実の蜜煮が飾られている。
エレノアは差し出された一つを受け取った。
「ありがとう」
口へ運び、ゆっくりと味を確かめる。
五人が何気ない顔をしながら、彼女の反応を待っていた。
「甘いね」
「気に入らなかった?」
「美味しいけど、一つで十分かな」
エレノアは箱の中に残った菓子を見てから、レンへ顔を向けた。
「レンも食べる?」
イザークの指が、箱の縁で止まった。
ほんの一瞬だった。
顔には変わらず笑みがあり、声も乱れない。
「それは、君のために持ってきたものだよ」
「だから、私が誰へ渡すか決めてもいいでしょう?」
エレノアは、ごく自然に尋ねた。
贈り物の一つを分けることに、それ以上の意味があるとは考えていないらしい。
イザークは一拍だけ置いてから、微笑みを深くした。
「もちろん。君への贈り物だからね」
「では、一つどうぞ」
エレノアが菓子を摘まみ、レンへ差し出す。
受け取ろうとしたところで、横からディランの声が飛んだ。
「図々しく食うんじゃねえ」
椅子の背へ預けていた身体を起こし、レンの手元を睨んでいる。
「エレノア嬢からのご厚意を断る方が、失礼かと思いまして」
「だったら俺が食う」
「ディランは肉を持ってるでしょう」
「菓子は別だろうが」
「さっき、同じようなことを聞いたね」
エレノアはディランへ渡さず、そのままレンの掌へ菓子を置いた。
指先が触れるほど近くはない。
ただ菓子一つが、片方の手からもう片方へ移っただけだった。
それでもイザークの笑みからは先ほどまでの温度が消え、ディランは隠そうともせず顔をしかめている。
セドリックも術式図を読むふりをしながら、紙の同じ箇所へ長く目を留めていた。
「ありがとうございます」
「感想は正直に言っていいよ」
「あなたからいただいた時点で、私には十分甘く感じられます」
エレノアが目を瞬かせる。
その横で、ディランの顔がさらに険しくなった。
「やっぱり、その喋り方は殴りたくなるな」
「先日は実際に殴られましたが」
「あれは剣だ」
「では、次は拳でしょうか」
「望むならな」
「ディラン」
カイルが低い声で名を呼んだ。
強く咎めたわけではないが、王家の紋章を帯びた者に見据えられ、ディランは舌打ちを飲み込む。
「昼食中だ」
「分かってますよ」
ディランは乱暴に椅子へ座り直した。
レンは菓子を口へ運ぶ。
柔らかな生地へ染み込んだ蜂蜜は強く、あとから果実の酸味が追ってきた。茶がなければ、確かに一つで十分な甘さだった。
「いかがですか?」
イザークが尋ねる。
「大変、美味しくいただきました」
「それはよかった」
声音は穏やかだった。
しかし、菓子を勧めたときに見せていた親しげな雰囲気は、薄い膜を一枚隔てたように遠のいている。
エレノアから贈り物の一部を渡された。
起きたのは、それだけだ。
それだけのことで、二人の男が明確に反応した。
ルシアンが言葉を挟まずにその様子を見ていることも、レンは視界の端で捉えていた。
「それで、装備の話だけど」
周囲の小さな変化には頓着せず、エレノアが申込書を持ち上げる。
「決まったら期限までに出してね。当日の変更は認められないから」
「承知しました」
「魔術への対処を練習するなら、第二練習棟に射出器がある」
カイルが教えた。
「使用許可を取れば、三台まで同時に動かせるはずだ」
「ありがとうございます。すでに申請しております」
「準備だけは早いんだな」
ディランが言う。
「あなたと、もう一度向き合うためですので」
レンは真っ直ぐディランを見た。
「予選で負けなければいいがな」
「ご期待に添えられるよう努めます」
「期待してねえ」
エレノアが、ようやく自分のスープへ匙を入れた。
表面には薄い膜が張り、先ほどまで上がっていた湯気は消えている。
一口飲んだ彼女の眉が、ほんの僅かに寄った。
「……冷めた」
五人が同時に反応した。
「温め直そう」
「俺が新しいのを取ってくる」
「温度調整の術式なら――」
「別の料理を用意させようか」
「胃には、少し冷めた方が負担は――」
「大丈夫」
エレノアが先に止める。
匙を持ったまま五人を見回し、念を押すように続けた。
「このまま食べるから、座っていて」
五人は不承不承ながら口を閉じた。
レンは自分のパンをスープへ浸し、その光景を眺める。
彼女が困れば、五人はそれぞれ自分の得意な方法で手を出す。
一人が何かを渡せば、ほかの者も別のものを差し出す。
そして、エレノアがその中から誰か一人を選べば、残された者は僅かに表情を変える。
誰もが強い立場と能力を持っている。
だが、この卓にいる間だけは、全員が一人の少女から返事を待つ側だった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
中庭の学生たちが一斉に立ち上がり、食器を返すため食堂へ戻っていく。
「エレノア。放課後、会議室へ来てくれ」
カイルが警備計画書を畳む。
「分かった」
「その前に、この修正箇所だけ確認してほしい」
セドリックが、畳んでいた術式図を差し出した。
「次の講義が終わったら見るよ」
「明日の昼食については、使いを送ろう」
イザークが菓子箱の蓋を閉じる。
「明日は食堂で食べたいんだけど」
「では、僕も食堂へ行くよ」
「余計に目立つと思う」
「今さらだろう?」
ディランも立ち上がり、肩へ幅広の剣を担ぐ。
「夕方、訓練場に来い。今度は俺の相手をしろ」
「昨日もしたでしょう」
「あれじゃ足りねえ」
「私は競技会に出ないよ」
「知ってる。少しは身体を動かせって言ってんだ」
最後に、ルシアンが空になった茶器を盆へ載せた。
「診療所へ提出する書類も、今週中にお願いします」
「机へ置いておいて。今夜見るから」
エレノアは面倒そうにしながらも、一つとして断らなかった。
五人は別々の方角へ歩き出す。
それでも全員が、次にエレノアと会う時間を確保してから離れていった。
彼女を中心とした輪は、偶然できたものではない。
長い時間をかけて、それぞれが自分の居場所を作った結果なのだろう。
そこへ外から入ろうとすれば、目立たないはずがなかった。
その日の放課後。
レンは第二練習棟にいた。
西へ傾いた陽光が高い窓から差し込み、石造りの室内へ長い光の帯を作っている。磨かれた床には古い焦げ跡が残り、空気にも魔石を使ったあと特有の乾いた匂いが染みついていた。
正面の壁際には、魔術弾を放つ射出器が三台並んでいる。
どれも人の胸ほどの高さがあり、丸い射出口の奥で小さな魔石が白く光っていた。
訓練用に威力は抑えられている。
防護術式の施された制服を着ていれば、大きな怪我を負うこともない。
ただし、痛みまで消してくれるわけではなかった。
レンは三台のうち中央だけを起動し、最低の段階へ設定した。
壁際の取っ手を引く。
低い作動音が響き、射出口に光が集まった。
一秒後。
白い魔術弾が、胸の高さへ飛んでくる。
レンは半歩だけ横へ動いた。
光が制服の脇を抜け、背後の壁へ吸い込まれる。
二発目。
三発目。
発射前には魔石が強く光り、内部から僅かな音も聞こえる。一台だけなら、かわすことは難しくない。
レンは設定を一段上げた。
三台すべてに光が灯る。
右。
中央。
左。
同じ間隔ではない。
最初の二発をかわし、三発目に合わせて身体を沈める。
その直後、中央の射出器が予想より早く光った。
白い弾が脇腹へ当たる。
制服の防護術式が明滅し、鈍い衝撃が身体の芯まで届いた。
姿勢を戻すより先に、次の一発が肩を打つ。
足が床から離れ、レンは横向きに転がった。
三台の光が消える。
静かになった室内へ、自分の呼吸だけが残った。
レンは脇腹を押さえて起き上がった。
骨に異常はない。
息もできる。
もう一度、取っ手を引く。
二度目は先ほどより長くかわした。
それでも七発目が右脚へ当たり、片膝をつく。
三度目は五発目で胸を打たれた。
射出器の順番が変わっている。
出鱈目に撃っているのではない。直前にレンが避けた方向を記録し、次の弾を置いている。
右へ避ける回数が増えれば、右側へ逃げた先を狙う。
姿勢を低くすれば、次は床へ着地する瞬間へ合わせてくる。
単純な魔術を放つ装置だが、相手の癖を拾う程度の術式は組み込まれているらしい。
レンは設定を戻さなかった。
癖を読まれるなら、読まれたあとにどう動くかを覚える必要がある。
室内に作動音と衝撃音が重なった。
魔術弾が床や壁へ消えるたび、焦げた匂いが濃くなる。
時間が経つにつれて足の動きは鈍り、避け損ねる回数が増えていった。
一時間後。
左肩へ弾を受けたレンは、仰向けに床へ倒れた。
石床の冷たさが、熱を持った背中へ伝わる。
制服の下には、いくつもの痣ができていた。
呼吸を整えていると、入口から声がした。
「随分と熱心ですね」
装置を停止させ、顔だけを向ける。
開かれた扉の前に、ルシアンが立っていた。
中庭で見た制服の上から、神殿の白い外套を羽織っている。薄暗くなり始めた室内で、その姿だけが淡く浮かび上がって見えた。
「見学でしょうか」
「放課後は医務室の手伝いをしています」
ルシアンは室内へ入り、停止した射出器を見回した。
「同じ部屋で何度も防護術式が作動したので、様子を見に来ました。故障かと思いましたが」
床へ倒れているレンへ目を戻す。
「壊れかけているのは、装置ではなさそうですね」
「まだ立てますので、問題ありません」
レンは片手を床へつき、身体を起こした。
右脚へ体重をかけた瞬間、筋肉の奥に鈍い痛みが走る。
表情には出さなかったが、僅かに重心が左へ寄った。
ルシアンは見逃さなかった。
「問題がある人ほど、そう言います」
「神官の方には隠せませんね」
「すべてが分かるわけではありませんよ」
ルシアンはレンの前へ屈み、右手を差し出した。
「痛みを我慢していることくらいなら、分かります。治療しても?」
「よろしいのでしょうか」
レンがその手を取る。
ルシアンの指先から、淡い金色の光が広がった。
光は水へ落とした絵の具のように薄く制服へ染み込み、肩から脇腹、脚へ流れていく。
熱を持っていた箇所が冷え、身体の奥に残っていた痛みもゆっくりと薄れていった。
魔力の動きを感じることはできない。
それでも、自分の身体が修復されていくことは分かる。
「昼食のときは、落ち着いてお話しできませんでしたね」
ルシアンが治療を続けながら言った。
「賑やかな席でしたので」
「あれでも、今日は静かな方です」
「そうなのですか?」
「皆、自分こそがエレノアさんの役に立てると思っていますから」
ルシアンの横顔には、呆れも嫉妬も浮かんでいなかった。
長く見慣れてきたものを説明するような声音だった。
「殿下は立場で守ろうとする。ディランは力で。セドリックは知識で。イザーク殿下は、人との繋がりを使う」
「あなたは?」
レンが尋ねる。
ルシアンは治療の光を弱め、僅かに笑った。
「傷ついたときに治します」
「随分と控えめですね」
「無理に傷を負わせないだけ、ほかの方々より穏やかでしょう?」
冗談めいた言葉だった。
だが、レンへ向けられた金色の瞳は笑っていない。
指先の光は温かい。
それとは反対に、視線は静かに冷えていた。
「エレノアさんが、学院へ来たばかりの方を自分から呼ぶのは珍しいことです」
「仕事を頼まれただけですが」
「理由は関係ありません」
ルシアンの手が、レンの脇腹から離れる。
「彼女があなたの名を口にした。だから、今日の席にいた全員があなたを見たのです」
中庭で一斉に向けられた視線を思い出す。
「あなたも?」
「もちろん」
ルシアンは微笑んだ。
今度は目元にも穏やかな形が浮かんでいる。
「私も、彼女を大切に思っていますから」
敵意はない。
少なくとも、今すぐ排除しようとする者の目ではなかった。
だが、好意だけで近づいてきたわけでもない。
医務室の手伝いをしていたというのは事実だろう。
防護術式の作動を察知したことも。
それでも、わざわざ自分でここまで来た理由は、それだけではない。
ルシアンの治療が止まる。
「一つだけ、尋ねてもよろしいですか?」
「何でしょう」
「あなたは、なぜエレノアさんへ近づくのですか?」
静かな問いだった。
声を荒らげる必要も、答えを急かす必要もない。
返された言葉だけでなく、答えるまでの間や、表情の変化まで見るつもりなのだろう。
レンはいつもの笑みを保った。
「同じ学び舎で過ごす方へ、関心を抱いた。それでは不足でしょうか」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
重ねた手を離し、立ち上がる。
痛みはほとんど消えている。
「嘘ではなさそうですね」
やがて、そう告げた。
「ただ、すべてでもない」
魔術で心を読まれた感覚はなかった。
レンの言葉と、言わなかったものを比べただけだ。
「誰にでも、口にしない理由はあります」
ルシアンはそれ以上追及しなかった。
「今は、それで構いません」
「寛大なお言葉に感謝いたします」
「ただし、彼女へ近づくほど、あなたを見る目は増えます」
「五人分ですか」
「五つで済めばよいのですが」
公爵家。
王家。
軍。
魔術塔。
神殿。
隣国。
五人の背後には、それぞれの家と組織がある。
彼らから関心を持たれるということは、その背後にいる者たちからも名前を知られるということだった。
「忠告でしょうか」
「予告です」
ルシアンは穏やかに答えた。
脅しているわけではない。
待ち受けている事実を、先に教えただけなのだろう。
「治療は終わりました。今日は、これ以上続けない方がよいでしょう」
「ご忠告に従います」
「素直ですね」
「治療してくださった方の言葉ですので」
「では、明日も同じ痣を作っていたら、今度はエレノアさんへ伝えます」
レンの笑みが、ほんの僅かに固まった。
「それは困ります」
「困るのですね」
初めて、ルシアンの目にも素直な笑いが浮かんだ。
「では、失礼します」
白い外套を翻し、練習棟を出ていく。
扉が閉まると、室内は再び静かになった。
レンは三台の射出器を見る。
魔石には、まだ十分な光が残っている。
取っ手へ手を伸ばしかけたが、ルシアンの言葉を思い出して止めた。
忠告を無視して身体を痛めることに、意味はない。
代わりに紙と筆を取り出し、装置ごとの発射間隔と、自分が被弾したときの動きを書き留めていく。
右へ二度続けて避けたあとの攻撃。
姿勢を低くした直後に狙われる位置。
三台の光が重なったとき、実際に弾が放たれる順番。
痛みが消えても、受けた攻撃の記憶は残っている。
昼食へ一度呼ばれただけだった。
それでも、五人全員がレンを見た。
一人は露骨に敵意を向け、一人は身分を測り、一人は理解できる範囲を区切り、一人は公平な立場から観察し、最後の一人は近づく理由を尋ねてきた。
エレノアとの距離が縮まるほど、彼らの視線も近づいてくる。
まだ、全員が敵になったわけではない。
だが、輪の外にいたときと同じようには動けない。
レンは記録を終えると、紙を四つに折って懐へ入れた。
窓から差し込んでいた陽は、すでに消えている。
暗い硝子へ映った自分の顔には、いつもと変わらない穏やかな笑みがあった。
その笑顔すら、これからは五人に見られている。




