採点を〇す
学院へ編入して、ひと月が過ぎた。
レン・アーヴィングの名は、第三学年の中で少しずつ知られ始めていた。
魔力を持たない編入生。
その一方で、座学では教師の問いに淀みなく答え、武術訓練では魔術を使う生徒とも互角に渡り合う。
それでも、自分から前へ出ることはなかった。
尋ねられれば答える。
助けを求められれば手を貸す。
廊下ですれ違えば、身分に関係なく笑顔で挨拶をする。
初めは遠巻きに見ていた学生たちも、今では自然に声をかけてくるようになっていた。
「レン、午後の魔術理論、課題をやったか?」
「ええ。途中までは」
「見せてくれないか?」
「そのまま写すのでなければ、喜んで」
「写さない。参考にするだけだ」
「皆様、そうおっしゃいます」
レンが微笑むと、男子生徒は気まずそうに視線を逸らした。
「……少しくらいは、自分で考える」
「それがよろしいかと」
レンは自分の答案を差し出した。
こうした小さなやり取りを重ねながら、学院での立場を作っていく。
急ぐ必要はない。
エレノアへも、まだ近づいてはいなかった。
講義中。
食堂。
図書棟。
姿を見かける機会は多い。
彼女の周囲には、常に五人全員がいるわけではなかった。ただし、皇太子をはじめとした誰か一人は近くにいることが多い。
エレノア自身は、彼らへ媚びる様子もなければ、強く拒む様子もない。
話を聞き、必要なら意見を返す。
誘いを断るときも、簡潔に予定を伝えるだけだった。
声を荒らげるところは、一度も見ていない。
興味のない話を聞いているときだけ、ほんの僅かに瞼が重くなる。
その程度だった。
レンも、離れた場所から観察するだけに留めていた。
転機となったのは、編入後初めて行われた学力試験だった。
王国史、法学、数学、魔術理論。
四科目の総合点が、講義棟の掲示板へ張り出される。
一位。
エレノア・グランフェルト、三百九十七点。
二位。
レン・アーヴィング、三百九十一点。
三位以下とは、十点以上の差が開いていた。
掲示板の前に集まった学生たちが、レンの名前を見て囁き合う。
「編入したばかりだろ」
「国外育ちなのに、王国史も満点近いぞ」
「魔術理論まで?」
「魔力はないって聞いたけど」
視線が集まる。
レンは困ったように笑いながら、その場を離れた。
成績を残すことが目的とはいえ、ここで自分から誇る必要はない。
午後の魔術理論では、答案の返却と解説が行われた。
教師が教壇に立ち、黒板へ一つの術式を描く。
「今回、最も正答率が低かったのは第十二問だ」
北部の三都市へ、限られた魔石を使って物資を輸送する。
季節、気温、距離。
各都市に設置された転送術式の形式。
提示された条件から、最も効率のよい輸送順を求める問題だった。
「模範解答は、第二都市を中継点として転送術式を二度使用する方法だ。これにより、使用する魔石を最小限に抑えられる」
教師が黒板へ経路を書き加える。
生徒たちは、返却された答案と見比べながら説明を聞いていた。
レンの答案には、減点を示す赤い線が引かれている。
彼が記した輸送方法は、模範解答とは違っていた。
教師が次の問題へ移ろうとしたとき、一人の手が上がった。
エレノアだった。
「先生。一つ、確認してもいいですか」
「グランフェルト、どうした」
「設問では、輸送日を冬至の翌日としています」
「ああ」
「その時期の第二都市は、地脈の魔力が最も弱くなります。そこを中継点にすると、二度目の転送に必要な出力が足りません」
教室が静かになる。
教師は黒板へ向き直り、術式の数値を確認した。
「予備の魔石を一つ加えれば補える」
「提示されている魔石は五つです。最初の転送で三つ使うので、残りは二つ。術式を起動するには足りないと思います」
エレノアの声は穏やかだった。
間違いを責める調子ではない。
ただ、合わない計算を確かめているだけだった。
教師が問題用紙を取り出す。
条件を一つずつ追い、やがて手を止めた。
「……確かに、足りんな」
小さなどよめきが広がった。
「設問を作成した際、地脈の季節変動を含めていなかったようだ。第十二問については、再度採点を行う」
教師が答案の束を確認する。
「この点を指摘して、陸路と水路を併用した解答をしていた者が一人いる」
その視線が、レンへ向けられた。
「アーヴィング。お前だ」
教室中の目が集まる。
レンは席を立った。
「はい」
「なぜ、採点について申し出なかった」
「模範解答とは異なっておりましたので。私が、この国特有の事情を見落としている可能性もあると考えました」
「自分の答えが正しいとは思わなかったのか」
「採点される側が断言することではないかと」
教師は暫くレンを見たあと、赤い線の引かれた答案を手に取った。
「第十二問の減点を取り消す。四点追加だ」
「ありがとうございます」
レンの総合点は、三百九十五点となった。
順位は変わらない。
それでも、三位との差はさらに広がった。
講義が終わると、学生たちがレンの席へ集まってきた。
「どうして気づいたんだ?」
「地脈の変動まで試験範囲だったか?」
「水路を使う発想は、どこから出てきた?」
一つずつ質問へ答えていると、集まっていた学生たちが道を空けた。
エレノアが立っていた。
腕には、自分の答案を抱えている。
「少し、見せてもらってもいい?」
彼女の視線は、レンの手元にある答案へ向けられていた。
「もちろんです」
レンが差し出すと、エレノアは隣の机へ紙を広げた。
陸路を使う区間。
川の流れ。
運搬する荷の量。
レンが書き込んだ計算を、上から順に確認していく。
周囲の学生たちは、二人の邪魔をしないよう少し離れた。
「ここ」
エレノアが一つの数値を指す。
「水路を選んだ理由は、魔石を節約するため?」
「それもありますが、馬車だけでは雪で遅れる可能性があります。川は凍結する前でしたので、途中までは船を使えます」
「帰りの船は?」
「荷を降ろしたあと、木材を積んで南へ戻します。空荷で返すより、費用を抑えられます」
「なるほど」
エレノアは僅かに頷いた。
驚きを大きく表すことはない。
だが、先ほどよりも答案を見る目が真剣になっている。
「魔術の問題なのに、最初から魔術だけで解こうとしていないんだね」
「使えるものは、使い分けた方がよいでしょう」
「その方が止まったときにも困らない」
「ええ」
短い返事を交わし、エレノアはもう一度答案へ目を落とした。
レンは黙って待った。
しばらくして、彼女が顔を上げる。
「あ。まだ、きちんと名乗っていなかったね」
「お名前は存じております」
「そうだと思うけど、一応」
エレノアは答案を返し、レンへ向き直った。
「エレノア・グランフェルト。あなたは、レン・アーヴィングで合ってる?」
「はい。覚えていただけたとは光栄です」
「掲示板に書いてあったから」
「それでも、忘れられるより嬉しいものです」
エレノアはレンの笑顔を見つめた。
不快そうではない。
かといって、喜んでいるようにも見えなかった。
「ずっと、そういう話し方なの?」
「お気に召しませんでしたか?」
「ううん。まだ慣れていないだけ」
それだけ答えると、彼女は再び答案へ視線を移した。
「魔力がなくても、術式の弱点は分かるんだね」
「使えないからこそ、使われたときのことは知っておきたいのです」
「使える人ほど、動かなくなったときのことを考えないから。その考え方は分かりやすい」
率直な評価だった。
褒めることをためらっている様子もない。
エレノアは、思ったことを必要な分だけ口にしている。
そこへ、教室の入口から声がかかった。
「エレノア。まだ残っていたのか」
学生たちが一斉に姿勢を正す。
明るい銀髪と、青い瞳。
制服の胸元には、王家の紋章が留められている。
レーヴェン王国皇太子、カイル・レーヴェン。
対象の周囲にいる五人のうちの一人だった。
「もう昼食の時間?」
エレノアが尋ねる。
「とっくに過ぎている。君が来ないから、様子を見に来た」
「答案を見てた。すぐに行く」
カイルの視線が、レンへ移る。
レンは右手を胸へ添え、頭を下げた。
「お初にお目にかかります、殿下」
「学院では、そこまで畏まらなくていい」
「お心遣い、感謝いたします」
「結局、畏まるんだな」
カイルは苦笑した。
エレノアが答案を抱え直す。
「殿下は全員に同じことを言ってるけど、やめた人を見たことがない」
「君くらいだ。最初から大して畏まらないのは」
「幼い頃から知ってるので、今さら変える方が不自然でしょう」
「それもそうか」
二人の会話に緊張はない。
長く顔を合わせてきた者同士の距離だった。
カイルはレンへ向き直る。
「編入審査の実技について、教師から聞いている。今日の答案も含め、随分と目のよい人物らしいな」
「過分な評価です」
「答案を見る限り、そうでもないと思う」
エレノアが静かに言った。
レンを見る目に、先ほどまでなかった僅かな関心が残っている。
カイルも、それに気づいたようだった。
「エレノアが答案を見せてもらうために話しかけるとは珍しい」
「答え方が気になったから」
「そうか」
カイルはそれ以上追及しなかった。
「そろそろ行こう。午後の講義に遅れる」
「分かった」
エレノアは歩き出しかけて、一度足を止めた。
「答案、見せてくれてありがとう」
「こちらこそ。おかげで点が戻りました」
「設問の確認をしただけ。次も変な問題があったら、先に気づいた方が言うことにしよう」
「喜んで」
レンが微笑む。
「ご期待に添えられるよう努めます」
「期待というより、予測かな。あなたなら、たぶん気づくと思う」
エレノアはそう言い残し、カイルとともに教室を出ていった。
残っていた学生たちが、二人の背中を見送る。
やがて、先ほど課題を借りに来た男子生徒がレンの肩を叩いた。
「編入してひと月で、エレノア嬢と殿下の両方に名前を覚えられたのか」
「試験の話をしただけですよ」
「それが珍しいんだ」
「そうなのですか?」
「その笑顔、本当に知らないのか、隠してるのか分からないな」
レンは答えず、返された答案を畳んだ。
こちらから近づく必要はなかった。
エレノアの興味を引いたのは、家柄でも笑顔でもない。
一つの、正解とされなかった答えだった。




