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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜貴族学院編〜
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63/73

悪役令嬢を〇す


白い部屋には、魚を煮た匂いさえ残っていなかった。


つい先ほどまで置かれていた調理台も、鍋も、包丁も、今は跡形もなく消えている。


白い机の向こうで、女神が一枚の紙を顔の前へ持ち上げた。


「えーっと――『調理場を借用し、保管されていた燻製魚二本を調理。完成品は保存容器へ封入し、指定した二地点への配送を女神へ依頼した』」


読み終えると、紙の上からレンを見る。


「軽くない?」


「何がだ」


「借用って。何もないところへ調理場を出したのは、私なんだけど」


紙の末尾には、レン・クロードの名が記されている。


任務を終えたあと、レン自身が書いた補足報告書だった。


「鍋も包丁も食材も用意して、料理が傷まないように封印までかけてあげたんだよ? そのうえ、王都と北の村へ一つずつ配送。普通の神様なら、追加料金を取っているところだからね?」


「払うものがない」


「感謝くらい払えるでしょ」


レンは、もう何もない床へ目を向けた。


同じ大きさに切った野菜。


燻製魚から染み出した塩気と、香草の匂い。


壺へ移す直前まで、味が濃すぎないかを二度確かめた。


一つはルルカへ。


もう一つは、まだ顔も知らないミルカへ。


「……助かった」


女神が目を丸くする。


「素直」


「言えと言ったのはお前だ」


「言わせた感謝って、こんなに味が薄いんだねぇ」


女神は唇を尖らせながら、報告書を机へ置いた。


「本当にこれっきりにしてよ? 特別なんだからね」


「二度は頼まない」


「どうだか。料理人になってから、仕事と関係ない頼み事が増えてない?」


レンは答えなかった。


腰の後ろへ手を回しかけ、途中で止める。


そこに尾はない。


分かっているはずなのに、身体だけがまだ以前の感覚を引きずっていた。


女神はその動きを見ていたが、何も言わなかった。


代わりに指先で机を二度叩く。


補足報告書が白い光へ溶け、その下から黒い革表紙の書類が現れた。


中央には、銀色の文字で《依頼書》と記されている。


「それじゃあ、次のお仕事です」


レンは椅子へ座ったまま、依頼書を引き寄せた。


表紙を開く。


最初の頁には、一人の少女の肖像があった。


淡いオレンジの髪を肩の後ろへ流し、濃紺の制服を身につけている。顔立ちは整っているが、微笑んではいない。


正面を向く瞳には、年齢に似合わない落ち着きがあった。


その下へ、見慣れた九つの項目が並んでいる。


【対象名】エレノア・グランフェルト

【通称】グランフェルトの毒薔薇

【異世界種別】転生者――推定

【転生後種族】人間

【危険度】C

【世界影響度】 B

【推定固有能力】不明

【処分範囲】対象本人および異世界由来の影響――要調査


レンは一通り目を通し、次の頁を開いた。


「危険度C」


その項目だけを拾う。


「本人に大して戦闘能力はないからか」


「本人だけならあまりないね。けど厄介なとりまきがいる。」


「護衛か」


「それについては、後ろの方に書いてあるよ」


頁をめくる。


そこには、十歳から十五歳までのエレノアに関する記録が並んでいた。


身分の低い者を人前で笑う。


気に入らない使用人を、些細な失敗で辞めさせる。


下級貴族の令嬢が身につけていた装飾品を安物と呼び、床へ落とす。


教師から注意を受ければ、公爵家の名を出して黙らせる。


自分が誰よりも優先されて当然だと考え、それを隠そうともしない。


容姿と家柄以外に褒めるところがない。


そう陰で囁かれながら、本人は気にも留めていなかった。


整った容姿。


それに、人を傷つけることをためらわない言葉。


いつしか社交界では、彼女を《グランフェルトの毒薔薇》と呼ぶ者が現れた。


もちろん、本人の前で口にする者はいなかった。


「通称どおりだな」


「見た目は綺麗だけど、近づけば刺される。名付けた人は、なかなか上手いことを言うよね」


「十六歳までは、か」


レンが次の頁をめくる。


十六歳。


王立高等学院への入学を目前に、エレノアは高熱を出した。


九日間、ほとんど寝台から起き上がれなかった。


十日目の朝には熱が下がり、それまでと変わらない姿で家族の前へ現れた。


それ以降、彼女の様子は大きく変わった。


使用人を罵らなくなった。


身分の低い学生を見ても笑わなくなった。


必要以上に着飾ることをやめ、茶会や夜会も面倒だと言って断るようになった。


変化は、それだけではない。


公爵領の穀物備蓄量を調べ、冬を迎える前に不足する地域を言い当てた。


鉱山で相次いでいた魔術事故について、作業者の技量ではなく、術式の記録方法と安全基準に問題があると指摘した。


平民向けの診療所へ公爵家から資金を出し、学院では一定以上の成績を収めた者へ、身分を問わず学費を貸与する仕組みを提案した。


「弱者へ優しくなった、と」


「本人は、そう言われるのを嫌がってるみたいだけどね」


女神が指を振る。


空中に、観測記録の一部が文字となって浮かび上がった。


診療所への援助を褒められたエレノアは、書類から顔も上げずに答えていた。


『善意ではありません。病人が増えれば働ける人間が減るでしょう。あとから対処する方が面倒です』


文字が消える。


「性格の悪さが消えたわけではなさそうだな」


「向きが変わった、くらいかもね。今は静かで淡泊。面倒なものは面倒だって顔に出るし、興味のない相手との会話はすぐに切り上げる。ただ、困っている人間を見つけると、文句を言いながら手を貸す」


「知識の出所は」


「不明。どれも、この世界の人間には思いつけないとまでは言えないよ。書物を読み、領地の記録を調べ、自分で考えた可能性もある」


「なら、熱と性格の変化だけか」


「一つずつならね」


女神の指先から、肖像の周囲へ五つの光が飛んだ。


それぞれが、人の形へ変わっていく。


「現在、彼女へ公然と好意を示している男性が五人いる」


「多いな」


「しかも、顔がいいだけの学生じゃないよ」


一つ目の光が、王冠へ変わる。


「レーヴェン王国の皇太子」


二つ目は剣。


「王国軍を束ねる将軍家の嫡男」


三つ目は杖。


「王立魔術塔の後継者」


四つ目は聖印。


「中央神殿の次期大神官候補」


最後の一つは、翼を広げた獅子の紋章となった。


「それから、隣国の第二王子」


「揃えたものだな」


「全員、家柄だけじゃない。それぞれの分野で一級の魔術師でもある。以前のエレノアには近づこうともしなかったけど、今は彼女のためなら、自分の立場まで動かしかねない」


レンは五つの光を順に見る。


「固有能力は確認されていないんだな」


「今のところは。精神干渉、魅了、契約、呪具。分かりやすいものは何も見つかってない。それぞれが彼女を評価する理由も、一応は成立しているよ」


「偶然、五人とも惚れた可能性もある」


「もちろん。恋愛って、外から見ると大体おかしいからね」


女神は軽く肩をすくめた。


「だから、最初はそれほど注目してなかった。目立った異世界能力もない。政策だって、この世界にある材料と人間だけで動いてる」


「それが、なぜ依頼に変わった」


「五人の進路が、少しずつ彼女を中心に曲がり始めたから」


女神の声は軽いままだった。


「皇太子は、将来の政務へ彼女を加えようとしている。魔術塔の後継者は、研究資金の配分について意見を求めている。軍も神殿も隣国も同じ。彼女が命令しているわけじゃない。でも、十八歳の少女一人を中心に、いずれ国を動かす人間たちが集まりつつある」


エレノアが善人になったからでも、施策によって誰かが救われたからでもない。


一人の存在が、政治、軍事、魔術、宗教、外交へ同時に影響を及ぼし始めた。


その事実が、彼女を監視対象へ押し上げた。


「本人が死んだあとも残るものは」


「今のところ、異世界由来の力で動き続けるものは見つかってない。穀物の管理も、診療所も、学費の貸与制度も、現地の人間が運用してる」


「記録は」


「彼女が書いた提案書が残ってる。ただ、書類自体に特別な力はないよ。内容も、この世界の知識だけで再現できる範囲」


「なら、現時点では本人だけか」


「異世界人だと確認できればね。その過程で別の異物が見つかったら、それも調べて」


レンは肖像へ目を戻した。


依頼の内容は明確だった。


問題は、対象へ近づくまでの道にある。


「潜入先は学院か」


「うん。王立アークレイン高等学院。エレノアと五人全員が、同じ場所へ揃う唯一の期間だからね」


「使用人として入る」


「公爵家の使用人を入れ替えるのは難しいよ。学院でも、彼女の身の回りは昔から仕えている者で固められてる」


「教師」


「年齢が合わない。それに、教師が一人の女子生徒へ何度も近づいたら、別の意味で問題になるでしょ」


「用務員」


「皇太子たちが使う談話室には入れない」


女神は楽しそうに指を鳴らした。


机の上へ、別の書類と古びた銀色の徽章が現れる。


徽章には、翼を広げた鳥と一本の剣が刻まれていた。


「というわけで、今回は貴族の男子生徒です」


レンは徽章を手に取った。


裏面には、アーヴィングの名が刻まれている。


「実在する家か」


「北辺のアーヴィング準男爵家。八年前の戦で屋敷が焼けて、当主夫妻を含む家人の大半が死亡。領地の記録も一部失われてる」


「俺は生き残った息子か」


「幼い頃から母方の親族と国外にいて、戦火を免れた。成人を迎えたから帰国して、遠縁のローディス伯爵を頼る。そういう経歴になってる」


別の書類には、現地で使う身分が記されていた。


【現地身分】


氏名――レン・アーヴィング。

年齢――十八歳。

身分――アーヴィング準男爵家嫡男。

身元保証人――ローディス伯爵。

所属――王立アークレイン高等学院、第三学年への編入を予定。


「伯爵は俺を知っているのか」


「遠縁の子が国外で生きていて、何度か書簡を交わしたことになってる。伯爵夫妻と家令、爵籍を管理する役人、学院側の関係者には、必要な記憶を入れてあるよ。記録も合わせておいた」


「随分と広いな」


「貴族一人を作るのは面倒なんだよ。家系図だけじゃ済まないからね。領地、爵位、印章、相続、社交関係。どこか一つでも食い違えば、すぐ疑われる」


女神が徽章を指先で弾く。


「だから、最初から存在しない家を作るんじゃなくて、実在した家の空白へ入ってもらう。国外育ちなら、あなたと直接会った記憶を持つ人間がいなくても不自然じゃない」


「伯爵家は、俺を迎える準備をしていると」


「客室も用意されてるよ。明日の夕食会では、親戚として紹介される予定」


そこまで用意されているなら、身分を得ること自体は難しくない。


だが、記憶を整えられるのは、あくまで潜入に必要な範囲だけだ。


「学院への編入は七週間後」


女神が続ける。


「編入後は、学力試験と模擬戦で成績を残して。急に一位を奪う必要はないけど、埋もれない程度にはね」


「五人に認めさせるためか」


「それもある。素性の怪しい没落貴族ではなく、実力と品格を備えた人物として受け入れられる必要があるから」


「そのあとで、対象へ近づく」


「焦らずにね。エレノアの卒業まで、あと十一カ月ある。性格の変化も、知識の出所も、時間をかけて確かめて」


女神はもう一枚の紙を差し出した。


そこには、潜入中に求められる人物像が並んでいる。


温厚。


礼儀正しい。


身分の低い者にも分け隔てなく接する。


常に穏やかな笑顔を絶やさない。


女性への気遣いを忘れず、ときには少々気障な言葉も使う。


レンは最後の一文を指で叩いた。


「これは要らない」


「要るよ」


「なぜだ」


「無口で愛想のない男が、ある日から公爵令嬢の周囲をうろつき始めるんだよ。いくら成績が良くても怪しいでしょ」


「礼儀だけで十分だ」


「それだと、エレノアの方が会話を切り上げるよ。あの子、興味のない相手には本当に容赦がないから」


「気障な男なら興味を持つと?」


「少なくとも、記憶には残るんじゃない?」


レンは紙を机へ戻した。


「長く続ける役には向いていない」


「役が?」


「俺がだ」


「そこは努力して」


女神が指を鳴らす。


レンの服が白い光に包まれた。


濃紺の上着。


白いシャツ。


胸元を飾る銀糸。


袖口には、徽章と同じ鳥の刺繍が入っている。


変わったのは衣服だけだった。


姿見に映る顔も、背丈も、レン自身のものだ。


女神が鏡越しに覗き込む。


「今回の役、見せてよ」


「今ここでか」


「方向が合ってるかくらいは確認しておきたいから」


レンは鏡の中の自分を見た。


肩から力を抜く。


顎を僅かに引き、目元の警戒を和らげる。


口元へ穏やかな笑みを作った。


それだけで、鏡の中にいた男の印象が変わる。


近づく者を拒む鋭さは消え、代わりに、相手の言葉を待つ柔らかさが生まれていた。


「お初にお目にかかります。レン・アーヴィングと申します」


普段よりも穏やかな声だった。


丁寧だが、堅苦しくはない。


レンは右手を胸へ添え、女神へ僅かに頭を下げる。


「このように美しい方とお話しできるとは。遠い故郷を離れた甲斐がありました」


女神が首を傾げた。


「プっ笑…もうちょいお願い…笑」


レンの笑顔が僅かに深くなる。


「では――あなたと過ごせる今夜だけは、朝が訪れないことを願ってもよろしいでしょうか」


「あっははははーかっこいい~!!!笑」


「…殺すぞ」


「うん。顔は笑ってるのに、声の奥から殺意があふれてる」


レンは表情を元へ戻した。


「できることと、やりたいことは別だ」


「終わった後にも同じことを言えてるといいね」


女神が銀色の徽章を差し出す。


「最初に向かうのはローディス伯爵家。伯爵たちは、今日あなたが帰国すると記憶してる。馬車も迎えに出ているよ」


「至れり尽くせりだな」


「入口まではね。その先でどう見られるかは、あなたの仕事」


レンは徽章を受け取り、胸元へ留めた。


足元から白い光が立ち上がる。


「それじゃあ、いってらっしゃい。レン【様】」


女神がニヤニヤしながら言う。


光の中で、レンはもう一度だけ姿勢を整えた。


「行ってまいります」


声は柔らかく、表情は穏やかだった。


次に誰かの目へ映るとき、そこにいるのはレン・クロードではない。


微笑みを絶やさない、若き貴族。


レン・アーヴィングだった。

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