エピローグ 約束
白い光が薄れていく。
最初に戻ったのは、指の感覚だった。
黒い毛はない。
爪も、人間のものへ戻っている。
左肩の傷も消えていた。
頭へ手を伸ばす。
鮮やかな音を拾っていた二つの耳は、もうない。
最後に腰の後ろへ触れる。
そこにあるはずの尾を探し、手が何もない空間を通り過ぎた。
「おかえり〜、レンく〜ん」
聞き慣れた声がする。
顔を上げると、白い机の向こうで女神が笑っていた。
「……何だ」
「いや、ちゃんと戻ってるなって思って」
「見れば分かる」
「でも今、耳と尻尾を探したよね?」
「確認しただけだ」
「ないものを?」
レンは答えず、椅子へ腰を下ろそうとした。
その直前。
右手が、無意識に腰の後ろへ回る。
座る前に、尾を椅子で挟まないよう退けるときの動きだった。
何もないことに気づき、そのまま手を下ろす。
女神の肩が小さく震えた。
「今、尻尾をどけた」
「どけていない」
「ないもんね、尻尾」
「黙れ」
「二カ月で、随分と猫人の身体へ馴染んだんだねえ」
レンは椅子へ座った。
「黒竜王グラウゼンの死亡を確認。《原石》も完全に機能を停止した」
「そうか」
「任務完了」
「分かった」
あまりにも短い返事に、女神が頬杖をつく。
「ねえ、レンくん」
「何だ」
「あの石を壊したこと、正しかったと思う?」
「知らない」
答えに迷いはなかった。
「残せば、身体を戻す方法が見つかったかもしれない。だが、また別の誰かが使ったかもしれない」
「そうだね」
「どちらも可能性だ、そもそもそこは重要じゃないのだろ」
「うん、神様にとっては正直どっちでもいい、元凶がなくなりさえすればね」
レンの脳裏へ、緑色の瞳が浮かぶ。
喉の前で止まった爪。
黒い床へ落ちた涙。
最後に手首へ触れた、縞模様の尾。
女神はレンを見つめたあと、口を開く
「ルルカちゃんは無事だよ」
レンの視線が動いた。
「聞いていない」
「聞きたそうな顔をしてたから」
「気絶させただけだ。当然だ」
「ふうん」
女神は、それ以上からかわなかった。
「首に痕は残ったけど、身体に問題はない。あなたが消えたあと、すぐに目を覚ました」
「そうか」
「壊れた《原石》の前で、しばらく動かなかったよ」
レンは何も答えない。
「それから、あなたが置いていった上着を持って帰った」
「捨てればいい」
「それ、本人に言える?」
「会うことはない」
白い部屋へ、短い沈黙が落ちる。
レンは、何もない腰の後ろへ触れそうになった手を止める。
「頼みがある」
話を聞いた女神は口を開く
「あんまり大きいものは駄目だからね」
◇
それから、一カ月が過ぎた。
黒竜王を失っても、ノアは崩れなかった。
王城の黒い椅子は、空いたまま。
それまでグラウゼンへ各種族の意見を伝えていた連合会議が、暫定的に国政を引き継いでいた。
グラウゼンは、自分一人がいなければ何も決められない国を作ってはいなかった。
道を管理する者。
食料を集める者。
薬を運ぶ者。
街の争いを仲裁する者。
王が死んでも、それぞれの仕事は残っている。
だから国も残った。
何事もなく、とはいかなかった。
グラウゼンを殺した人間側へ報復すべきだと主張する者。
人間へ戻るため、《原石》の破片を調べるべきだと訴える者。
議場では、毎日のように怒号が飛び交った。
それでも、すぐに次の戦争を始めるという結論にはならなかった。
ノアは、一度に生まれた何万人もの新生者を抱えている。
食料も。
衣服も。
住む場所も足りない。
人間軍だった者たちを放置し、新たな戦場へ兵を送る余裕はなかった。
人間側の国々も同じだった。
主力軍は死んでいない。
だが、武器を失い、それまで魔物と呼んでいた姿へ変えられた。
指揮官の命令を受け入れられなくなった兵士。
変わった自分の手を見て、剣を握れなくなった者。
逆に、人間だった頃より強くなった身体を使い、ノアへ復讐しようとする者もいた。
人間側の国々は、変えられた兵士を自国民として受け入れるかどうかでも割れた。
国境を閉じた国。
兵士たちの存在そのものを否定した国。
ノアの術で作られた魔物だとして、討伐を命じた国もある。
それでも、家族を迎えに来た者はいた。
最初にノアへ来たのは、一人の人間の女だった。
関所の向こうに、全身を銀色の鱗に覆われた男が立っている。
人間だった頃より頭一つ大きい。
顔の形も、声も変わっていた。
女は、その姿を見て足を止めた。
男は何も言わず、首から下げていた革紐を持ち上げる。
そこには、人間用の結婚指輪が通されていた。
女は長い間、男を見つめた。
やがて境界線を越え、その身体へ腕を回した。
銀色の鱗へ触れた手は震えていた。
それでも、離れなかった。
その日のうちに、三人が家族のもとへ帰った。
翌日には、別の家族が国境を越えた。
三週間後。
人間側から、正式な使節が来た。
戦争を再開するためではない。
変えられた兵士たちを、誰が、どのように受け入れるのか。
それを話し合うためだった。
ノアからも、荷車が国境へ向かう。
武器ではない。
薬。
食料。
身体に合う衣服。
家族から届いた何通もの手紙。
グラウゼンが作った道を、かつて人間だった者たちのための荷車が進んでいく。
すべてが解決したわけではない。
人間へ戻りたいと泣く者はいる。
ノアを憎む者もいる。
グラウゼンを救世主と呼ぶ者と、暴君と呼ぶ者が、同じ街で言い争っている。
それでも、次の戦争は始まっていなかった。
◇
ルルカは、新生院の案内役を続けていた。
王都へ集まった新生者の数は、以前とは比べものにならない。
廊下にも。
食堂にも。
中庭にも。
人間だった者たちがいる。
自分の角を隠そうとする者。
翼を切り落とそうとする者。
家族へ送る手紙を、何度も書き直す者。
今の姿を気に入り、鏡の前で尾を動かす練習をしている者もいた。
感じ方は、一人ずつ違う。
だからルルカは、最初に名前を聞く。
人間だった頃の名。
これから呼ばれたい名。
帰りたい場所。
会いたい相手。
《原石》の中にあった記録は消えた。
それでも、その者が何者だったのかまで消させるつもりはなかった。
「名前を覚えてるなら、お前はまだここにいるニャ」
以前と同じ言葉を、何度も繰り返す。
それが本当に正しいのかは、今も分からない。
ある日の夕方。
仕事を終えたルルカは、共同厨房で一人、野菜を切っていた。
大きなもの。
小さなもの。
斜めになったもの。
形は一つも揃っていない。
「陛下を恨めばいいのかニャ……」
包丁を動かしながら呟く。
村を救ったのは、グラウゼンだった。
人間の身体を奪ったのも、グラウゼンだった。
「レンを恨めばいいのかニャン……」
グラウゼンを殺した。
《原石》も壊した。
自分を利用し、約束を破り、何も言わずに消えた。
それでも。
自分が差し出した短剣を持って、兵士たちから逃げた。
最後まで爪を振り抜けなかった自分へ、殺せなくていいと言った。
「陛下が残した国を守ればいいのか、陛下が間違えたことを忘れない方がいいのか……」
野菜を切る手が止まる。
「変えられた人を守りたいのか、元へ戻せなくなったことを悔やめばいいのか……」
縞模様の尾が、苛立つように膨らんだ。
「《原石》を壊したことへ怒ればいいのか、もう誰にも使えないことへ安心すればいいのか……」
考えるほど、何も分からなくなる。
誰を恨みたいのか。
何を守りたいのか。
何が正しくて、何を間違えたのか。
全部が絡まり、解けない。
「……分かんないニャ」
包丁を置き、卓へ額をつける。
自分のことは、何一つ分からない。
扉の外を通りかかった新生者が、恐る恐る顔を覗かせた。
「……案内役さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないニャ」
「そうですか……」
「あ。でも、お前は大丈夫ニャン」
ルルカが顔を上げる。
「明日の帰郷手続き、ちゃんと終わってるニャ。朝になったら南門へ行けばいいニャン」
新生者は、安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「忘れ物するなニャ」
「はい」
扉が閉じる。
ルルカは、再び卓へ突っ伏した。
自分のことは分からない。
それでも、目の前に困っている者がいれば放っておけない。
きっと、それも中途半端なのだろう。
「そのままでいいって、どういう意味ニャ……」
返事をする者はいない。
直後。
宿舎の玄関から、ルルカを呼ぶ声が聞こえた。
「荷物が届いてるぞ!」
「今行くニャ……」
力なく返事をして、厨房を出る。
玄関には、見覚えのない小さな箱が置かれていた。
宛先は、王都新生院案内役、ルルカ。
送り主の名前はない。
箱を持ち上げる。
妙に軽い。
それでも、中から微かな液体の音がした。
共同厨房へ戻り、卓の上で箱を開ける。
中に入っていたのは、白い封印が施された小さな壺だった。
蓋の隙間から、僅かに香草と燻製の匂いがする。
それだけで、ルルカの耳が立った。
壺の下には、一枚の紙が敷かれている。
無駄なく真っ直ぐな文字が、短く並んでいた。
――戸棚の魚を使った。
――火を入れすぎるな。
――野菜は同じ大きさに切れ。
――ミルカの分も作った。
名前はない。
それでも、誰が書いたのかは分かった。
「……何ニャ、これ」
ルルカは戸棚を開ける。
奥に残していた二本の燻製は、なくなっていた。
何度探しても見つからない。
壺へ戻る。
白い封印へ触れると、淡い光が一度だけ走り、そのまま消えた。
蓋を開ける。
飴色の魚。
同じ大きさに切り揃えられた野菜。
澄んだ油の中に、見たことのない香草が浮かんでいる。
木の煙と、魚の匂い。
その奥に、以前とは違う香りがあった。
ルルカは少しだけ器へ移した。
火へかける。
温めすぎない。
紙に書かれているとおり、油が揺れ始めたところで火を止める。
一口食べた。
燻製の強い塩味は、丸くなっていた。
香草の匂い。
魚の旨み。
柔らかく煮えた根菜。
最後に、村の冬を思い出す煙の香りが残る。
初めて食べる料理だった。
それでも、誰が作ったのかは分かった。
「……美味しいニャ」
口にしてから、ルルカの顔が歪む。
「違うニャ!」
誰もいない厨房で叫んだ。
「約束は、こんな壺を送ることじゃないニャン!」
壺へ向かって指を突きつける。
「一緒に帰って、お前が私の故郷で作るって話だったニャ! 勝手にいなくなって、魚だけ送って終わりにするなニャン!」
返事はない。
「謝ることも、説明することも、いっぱい残ってるニャ!」
縞模様の尾が、激しく左右へ揺れる。
「陛下を返せって言いたいニャン! 《原石》も返せって言いたいニャ! でも、また誰かが使うのは嫌ニャン!」
尾の先が、壺へ近づく。
「お前なんか大嫌いって言いたいのに、料理が美味しいのも腹が立つニャ!」
「嬉しくなんかないニャン!」
尾が壺へ巻きついた。
「許してないニャ!」
尾は離れない。
ルルカは頭を抱える。
「だから、尻尾は勝手に動くなニャー!」
それまで抑えていたものが、全部一緒に溢れ出した。
「うにゃああああああ! ほんっとに、何なんだニャー!」
大声が、共同厨房から新生院の外まで響いていった。
◇
数日後。
北の村から、ルルカへ手紙が届いた。
――お姉ちゃんへ。
――黒い猫の人から、魚料理が届きました。
――私が捕った魚なのに、食べたことのない味がしました。
――村長さんは、使ってある油だけで山羊が何頭も買えると言っていました。
――たぶん、大げさです。
――すごく美味しかったです。
――黒い猫の人にも、美味しかったと伝えてください。
ルルカは、最後の一文を何度も読み返した。
「伝えられないニャ……」
返事を送る相手が、どこにいるのかも分からない。
それでも手紙を捨てることはできなかった。
レンが残した紙と一緒に畳み、戸棚の奥へしまう。
窓の向こう。
王都の大通りを、国境へ向かう荷車が進んでいた。
薬。
食料。
身体に合う衣服。
人間だった者と、その家族をつなぐための手紙。
グラウゼンが作った道の上を、彼の決めなかった未来へ向かって進んでいく。
何を恨むべきなのか。
何を守るべきなのか。
答えは、まだ出ない。
それでもルルカは、壺を捨てなかった。
卓の下で、縞模様の尾だけが、いつまでも壺から離れようとしなかった。




