希望と絶望を〇す
グラウゼンが死んでから、二日後。
王城の地下。
ドクン。
弱い鼓動が、地下空洞へ響く。
次の鼓動までの間隔は、以前の倍以上に延びていた。
今なら壊せる。
レンは《原石》の前に立った。
左肩には、グラウゼンの爪で抉られた傷が残っている。
脇腹にも厚く布が巻かれていた。
折れた肋骨は治療術で固定されたが、深く息を吸うだけで痛みが走る。
戦場では、青い布をつけた負傷者の一人として治療を受けた。
誰も、レンがグラウゼンと戦ったとは知らない。
救護班の四人が覚えていたのは、甘い煙と、顔を布で隠した猫人だけだった。
ルルカは、レンの名を話さなかった。
グラウゼンは、人間軍の大型弩によって致命傷を負った。
公式には、そう報告されている。
間違いではない。
人間の矢が鱗を砕かなければ、レンの刃は届かなかった。
すべてでもない。
戦場から王都へ戻るまで、ルルカは一度もレンと口を利かなかった。
王都へ着いてからも同じだった。
同じ宿舎へ戻ることもなかった。
レンは夜を待ち、一人で西の返し水路へ向かった。
作戦当日に起きた遅延を調べるため、水路の格子は外されていた。
感知術式も、技師が内側を調べている間だけ一部停止している。
水路を守っていた兵士は二人。
殺す必要はなかった。
一人は背後から首を絞めて眠らせた。
もう一人は、声を上げる前に顎を打った。
動くたびに脇腹が軋んだが、どちらの呼吸も残っている。
見学したときに覚えた地下通路を進む。
《原石》の部屋へ到達するまで、予想より時間はかからなかった。
袖の中には、グラウゼンの心臓へ届いた薄刃。
腰には鋼線と数本の針。
足元には、技師たちが亀裂の調査へ使っていた鉄杭と大槌が置かれている。
レンは鉄杭を拾った。
《原石》の表面へ近づく。
赤い筋が、反応するように僅かに明るくなった。
この中には、何千人もの記録が残っている。
人間だった頃の身体。
《昇華》したあとの身体。
年齢。
魔力。
変化の過程。
人間へ戻す方法につながるかもしれない手掛かり。
すべてが、ここにある。
鉄杭の先を、赤い筋が集まっている場所へ当てる。
右手だけで大槌を持ち上げた。
「そこから離れろ」
声が、背後から届いた。
レンは大槌を下ろした。
振り返る。
閉じたはずの扉の前に、ルルカが立っていた。
支援隊の服。
鮮やかなピンク色の髪。
縞模様の尾。
緑色の瞳は、真っ直ぐレンへ向けられている。
「よく分かったな」
「宿舎を出るところから、つけてたニャ」
「気づかなかった」
「猫人の身体の使い方を教えたのは、あたしニャン」
ルルカが部屋へ入る。
足音はほとんどしなかった。
「お前が西の水路を見てたことは、前から知ってたニャ。陛下を殺したあと、原石も壊すって言った。だから、ここへ来ると思ったニャン」
「兵士は呼ばなかったのか」
「呼んでないニャ」
「なぜだ」
「呼んだら、お前は殺される」
ルルカの声から、感情が消える。
「その前に、あたしが止める」
「戦場で見逃したのに?」
「見逃してないニャ」
ルルカの尾が、強く床を打った。
「次は止めるって言ったニャン。その約束を守りに来た」
レンは《原石》へ視線を戻す。
「なら、話すことはない」
「あるニャ」
ルルカが一歩進む。
「どうして壊す」
「残せないからだ」
「陛下はもう死んだニャン」
「原石は残っている」
「制御環は止まってるニャ。戦場の導石も接続を切った。連合会議だって、二度と使わせないって決めるはずニャン」
「今後使うかもしれない」
「使わせない!」
声が地下空洞へ響く。
《原石》が、弱く脈打った。
「あたしたちが守るニャ。誰にも使わせない。研究だけを続けるニャン」
「いつまでだ」
「何がニャ」
「誰にも使わせないと言えるのは、いつまでだ」
ルルカが言葉を失う。
「今の連合会議が使わなくても、次は分からない。十年後。百年後。人間へ戻すためだと言いながら、別の用途へ使う者も出る」
「あたしが守るニャ」
「お前が死んだあとは?」
「次の奴が守るニャン」
「その次は?」
ルルカの拳が握られる。
「そんなことを言ったら、何も残せないニャ」
「ああ」
「道だって、薬だって、武器に使おうと思えば使える。陛下が残した知識も、全部壊すのか?」
「原石とは違う」
「何が違うニャン」
「これは、一度に何万人もの身体を奪える」
「戻せるかもしれない!」
ルルカが《原石》を指差した。
「戦場で変えられた人たちが、何人いると思ってるニャ。人間側に置かれた転生石へ触れた人もいる。みんな、自分で望んで今の身体になったわけじゃないニャン」
首から結婚指輪を下げ、妻のもとへ帰ろうとしていた鱗人。
翼を切り落とそうとした兵士。
角を隠し、家族へ送る手紙を何度も書き直していた者。
元の身体へ戻る手掛かりを必要としている者は、以前とは比べものにならないほど増えている。
「可能性が残ってるニャ」
ルルカの声が震える。
「今は無理でも、いつか誰かが方法を見つけるかもしれないニャン」
「見つからないかもしれない」
「だからって、消していいことにはならないニャ!」
「ああ」
「それを決めるのは、お前じゃない!」
「ああ」
あまりにも早い返答に、ルルカの耳が動く。
「俺に決める権利はない」
「だったら――」
「お前にも一つ聞く」
レンが言葉を遮った。
「お前は、グラウゼンの計画に反対した」
「したニャ」
「それでも支援隊へ残った」
ルルカの尾が止まる。
「人間を変えると知りながら、衣服と水を運んだ。拘束具を用意した。戦場へ出て、計画が終わったあとの準備をした」
「あたしは、変える手伝いをしたんじゃないニャ。変えられた人を助けるために――」
「それも事実だ」
ルルカの耳が動く。
「お前たちがいなければ、混乱の中でもっと多くの人間が死んだ」
「なら――」
「だが、お前たちの支援があったから、グラウゼンは何万人を一度に変えても救助できると考えた」
ルルカの言葉が止まった。
「支援隊は、人間を助けた。同時に、あの計画を実行できる形へ整えた」
「だったら、どうすればよかったニャ」
ルルカの声が震える。
「身体を変えられて、何も分からず泣いてる人たちを放っておけばよかったのか!」
「どちらを選んでも、起きたことの外には出られない」
「そんなの……」
「お前はグラウゼンへ逆らいきれなかった。変えられる人間も見捨てられなかった。今度は、その人間を戻す可能性も捨てられない」
ルルカは何も言わない。
「中途半端だな」
「……分かってるニャ」
縞模様の尾が、力なく下がる。
「陛下を止められなかった。変えられる人を助けることで、自分も正しいことをしてるつもりになってたニャン」
握った拳へ爪が食い込む。
「人間へ戻せれば、あたしが手伝ったことも少しは償えるって……そう思ってるのかもしれないニャ」
「戻しても、起きたことは消えない」
「ああ」
「自分のために残すのか」
「それだけじゃない!」
ルルカが顔を上げた。
「戻りたいって泣いてた人を見たニャ。家族に会えないって言ってた人もいた。《原石》を残せば、いつか帰れるかもしれないニャン」
「残せば、また誰かの身体を奪うかもしれない」
「分かってるニャ!」
「どちらかだけは選べない」
「だから考えるんだニャン!」
ルルカは《原石》を背にして立った。
「明日で答えが出なくても、みんなで考え続けるニャ。一人で答えを決めて、全部消すよりはましニャン」
「そうかもな」
「だったら壊すな」
「それでも壊す」
「陛下と同じニャ」
「ああ」
「人の身体を勝手に変えた陛下と、お前が何が違うニャン」
「違わない」
否定も、言い訳もなかった。
ルルカは唇を噛む。
「……ずるいニャ」
「何がだ」
「自分が間違ってるかもしれないって分かってる顔をして、それでも全部、自分で決める」
「そうだ」
「そう言えば、何をしても許されると思ってるのか?」
「許されるとは思っていない」
「だったら、やめろニャ!」
「できない」
レンは鉄杭から手を離した。
代わりに、腰の短剣を抜く。
ルルカの視線が刃へ落ちる。
「退け」
「嫌ニャ」
ルルカが両手を開いた。
指先から鋭い爪が伸びる。
「ここから先へは行かせないニャン」
「戦うのか」
「あたしが、お前を止める」
ルルカの姿が消えた。
◇
右。
レンが身体を捻る。
一瞬前まで体があった場所を、鋭い爪が通り過ぎた。
避けた先へ、ルルカの左脚が飛んでくる。
腕で受ける。
重い衝撃。
レンの身体が横へ流された。
踏み止まろうとした瞬間、脇腹へ痛みが走る。
足から力が抜けた。
ルルカは床へ手をつき、尾を反対へ振った。
崩れた姿勢を一瞬で戻し、そのまま低い位置から足を払う。
レンは後ろへ跳んだ。
着地する前に、ルルカが壁を蹴る。
横から爪が迫った。
薄刃で受ける。
刃と爪が触れ、甲高い音が響いた。
ルルカは空中で身体を丸める。
レンの頭上を越え、背後へ着地した。
振り返るより早く、背中へ蹴りが入る。
レンは前へ倒れかけた。
片手を床へつく。
腕を伝った衝撃が、左肩の傷へ届いた。
視界が揺れる。
そこへ、ルルカの爪が伸びる。
レンは身体を回しながら薄刃を振った。
ルルカが仰け反る。
刃先が支援隊の服を僅かに裂いた。
皮膚へは届かない。
ルルカは床を蹴り、距離を取った。
レンも立ち上がる。
左肩へ巻かれた布が、赤く染まり始めていた。
「その身体で、あたしに勝てると思ってるのか?」
「思っていない」
「なら退けニャ」
「それもできない」
「本当に、腹が立つニャン」
レンは腰から鋼線を引き出した。
二本の制御柱の間へ投げる。
暗い地下では見えにくい細さ。
ルルカの足を取るための罠だった。
だが、ルルカの耳が小さく動く。
鋼線が風を切る音を拾っていた。
跳ぶ。
身体を横へ倒し、狭い隙間をすり抜ける。
空中で爪を振り、鋼線を断ち切った。
着地と同時に間合いを詰める。
薄刃を持つ手首が掴まれた。
爪が食い込む。
力が抜け、薄刃が床へ落ちる。
ルルカの額が、レンの鼻へぶつかった。
視界が白く弾ける。
続いて胸を蹴られた。
レンの身体が、《原石》を囲む金属の環へ叩きつけられる。
停止した環が、低い音を立てた。
「最初から、あたしを利用してたのか?」
ルルカが距離を詰める。
「そうだ」
「水路へ入れたのも、あたしの署名があったからニャ」
「ああ」
「戦場へ行けたのも?」
「ああ」
「倉庫で働いたのも?」
「原石へ近づくためだ」
「支援隊を手伝ったのも?」
「戦場へ行くためだ」
「料理したのも?」
レンは一瞬だけ黙った。
「信用を得るためだ」
「……それだけ?」
「お前を利用しやすくするために作った」
「嘘ニャ」
ルルカは即座に言った。
レンの黒い尾が、本人の言葉とは反対に、ルルカへ向かって伸びていた。
その先端が、行き場を失ったように床を掻いている。
「尻尾が、そんなこと思ってないって言ってるニャン」
レンが自分の尾を見る。
「役に立たない尻尾だな」
「二カ月も一緒にいたニャ。今さら、あたしを騙せると思うな」
「信用を得る必要があったのは事実だ」
「全部じゃないニャン」
レンは答えない。
その沈黙を見て、ルルカの顔がさらに歪んだ。
「だったら、どうしてニャ」
爪が振るわれる。
レンは身体を沈めて避けた。
「どうして陛下を殺した!」
「異世界人だったからだ」
「この国を見ただろ!」
「ああ」
「救われた人を見ただろ!」
「ああ」
「魚を食べて、笑って、帰る約束までした!」
「ああ」
「それでも殺したのか!」
「殺した」
「どっちかにしろニャ!」
ルルカが叫ぶ。
「仲良くしたいなら、あたしたちを裏切るな! 殺すなら、優しくするな! 魚なんて作るな! そんな尻尾をするな!」
「そうだな」
「その返事が一番嫌い!」
低く身を沈める。
尾が真っ直ぐ後ろへ伸びた。
次の瞬間。
床を這うような低さで、一気に間合いを詰めてくる。
右の爪を振りかざす
爪がレンへ向かう。
レンは避けなかった。
それどころか。
大きく一歩、前へ踏み出した。
ルルカとの距離が、一気になくなる。
振り抜こうとしていた爪の前へ、自分から喉を差し出す。
今さら軌道は変えられない。
そのまま振れば、頸動脈が裂ける。
レンは死ぬ。
「――っ!」
ルルカが全身へ力を入れた。
爪が止まる。
一本だけが喉の皮膚へ触れ、小さな血の粒を作った。
止めることだけに意識を奪われた。
踏み込んだ勢いは残っている。
ルルカの重心が、前へ崩れた。
右手で、止まった腕を掴む。
身体をさらに半歩入れる。
肩を胸元へ当て、ルルカの右脚の後ろへ足をかけた。
そのまま腰を回す。
ルルカの身体が床から浮いた。
背中から黒い石の床へ叩きつけられる。
息を吐き出したところへ、レンの拳が鳩尾へ入った。
「かはっ……!」
身体が折れる。
レンは腕を捻り、うつ伏せに返した。
肩を膝で押さえる。
反対の腕を首へ回す。
一瞬で、立場が逆転していた。
ルルカは身を起こそうとした。
鳩尾を打たれ、呼吸が戻らない。
右腕も動かせない。
「どうして……」
絞り出すような声だった。
「どうして避けなかったニャ」
「避ければ負けていた」
「止めなかったら、死んでたニャン」
「ああ」
「分かってて、やったのか?」
「お前は止めると思った」
「卑怯者……」
「ああ」
ルルカの爪が、ゆっくりと引っ込む。
「無理だったニャ……」
「何がだ」
「お前を殺すこと」
レンは腕の力を僅かに緩めた。
「陛下を殺したお前なら、憎めると思った」
ルルカの声が震えている。
「お前の意思を確認したあと…あたしを利用してたって分かれば、爪を振り抜けると思ったニャン」
涙が黒い床へ落ちる。
「でも、お前が目の前まで来たら……全部、出てきたニャ」
初めて会った日の焼き魚。
新しい尻尾に振り回されるレン。
屋根の上を追いかけたこと。
並んで乗った馬車。
何度も囲んだ食卓。
濡れた黒い耳を拭いた夜。
戸棚に残した二本の魚。
「夕方になれば、お前がいると思ってたニャ。魚を見つければ、持っていったら何を作るか考えてた。戦いが終わったら、一緒に村へ帰るつもりだったニャン」
ルルカが唇を噛む。
「自分で思ってたより、ずっと……お前がいなくなるのが嫌だった」
レンは何も言わない。
「爪を止めなかったら、本当にいなくなるって分かったニャ」
声が小さくなる。
「そんなの、できなかった」
「それでいい」
「何がいいニャ」
「人を殺すのは、簡単じゃない」
「お前は簡単に殺すだろ」
「方法の話じゃない」
レンは、ルルカの引っ込んだ爪を見る。
「喉を裂く。心臓へ刃を刺す。眠っている間に毒を入れる。方法だけなら難しくない」
「だったら、何の話ニャ」
「人の人生を奪う覚悟の話だ」
レンの声は変わらない。
「殺す相手にも、その先がある。帰る場所がある。待っている者がいる。果たすはずだった約束も、食べるはずだった物もある」
共同厨房の戸棚。
二本の燻製。
北の村で待っている、会ったことのない妹。
「殺せば、それを全部奪う」
レンは続ける。
「殺された本人からは、何も言われない。だが、残された者には恨まれる。憎まれる。許されない。自分が正しかったか分からなくても、その選択を背負うことになる」
「お前は……背負ってるのか?」
「背負わなければならない」
「つらくないのか」
「慣れる」
答えは早かった。
「最初は顔が残る。声も、殺したときの感触も残る。次は少し薄くなる。その次は、もっと早く忘れる」
ルルカが、レンを見る。
「慣れれば、癖のように殺せるようになる」
「お前も?」
「ああ」
「それで平気なのか?」
「平気かどうかを考えなくなる」
レンは僅かに目を細めた。
「殺す理由より先に、殺す方法を考える。相手の人生より、どこへ刃を入れるかを見るようになる」
黒竜を初めて見たときも、そうだった。
角でも、翼の美しさでもない。
目。
喉。
翼の付け根。
前脚の関節。
刃を通せる場所だけを探した。
「一度そうなれば、戻るのは難しい」
「なら、お前も戻れニャ」
「もう遅い」
「遅くない!」
「俺は戻ろうとしていない」
「嘘だニャン」
ルルカはレンの尻尾を眺める。
レンは確認しなかった。
ルルカの目から、また涙が落ちる。
「陛下にも逆らえなかった。人間を変える手伝いをして、今度は戻したいって言って、お前も殺せない」
自嘲するように、ルルカが笑う。
「あたしは、何も最後までできないニャ。全部、中途半端ニャン」
「そうかもな」
「そこは否定しろニャ……」
「だが、お前は誰も見捨てなかった」
ルルカの耳が動く。
「グラウゼンを止められなくても、変えられた人間の隣へ行った。俺を憎んでも、殺せなかった」
「それで何が変わるニャ」
「何も変わらない」
「じゃあ――」
「それでも、お前は俺のようになるな」
レンは首へ回した腕へ、ゆっくり力を込めた。
「殺せないなら、殺せないままでいい」
ルルカの手が、レンの腕を掴む。
「放せ……ニャ……」
「お前は、そのままでいい」
「原石を……壊すな……」
声が弱くなる。
「レン……」
指から力が抜けた。
身体が傾く。
レンは腕を緩め、その身体を受け止めた。
呼吸を確かめる。
問題ない。
制御台から離れた壁際へ運び、自分の上着を丸めて頭の下へ置く。
縞模様の尾が、力なく床へ落ちた。
その先が一度だけ動き、レンの手首へ触れる。
意識はない。
レンは尾を傷つけないよう、身体の横へ戻した。
◇
《原石》は、弱い鼓動を続けていた。
ドクン。
次の鼓動は、さらに遠い。
レンは鉄杭を拾い直す。
四つの制御環が停止していることを、もう一度確認した。
東。
北。
西。
南。
すべて止まっている。
石に蓄えられていた力も、戦場でほとんど使い切られた。
技師長が話していた条件は揃っている。
鉄杭を、赤い筋が集中する箇所へ当てる。
大槌を持ち上げた。
振り下ろす。
鈍い音が響いた。
石の表面へ、細い亀裂が入る。
赤い光が、その亀裂へ集まった。
壁際で眠るルルカは動かない。
二度目。
亀裂が上下へ伸びる。
石の中に残されていた赤い筋が、激しく明滅した。
何千人分もの記録。
奪われた身体。
戻れるかもしれない未来。
同時に。
再び誰かの意思を無視して、身体を作り替える力。
どちらかだけを残す方法はない。
三度目。
大槌を振り下ろす。
大きな亀裂が、《原石》の中央まで達した。
鼓動が止まる。
赤い光が、一斉に消えた。
遅れて、三メートルを超える黒い石が崩れ始める。
大きな塊が割れ、床へ落ちる。
破片は、もう脈打たない。
光も戻らない。
《原石》に蓄えられていた記録も、力も失われていた。
レンは自分の手を見る。
猫人のまま。
黒い毛。
鋭い爪。
腰から伸びる尾。
原石を壊しても、一度変わった身体は戻らない。
ルルカの言葉が正しかったのか。
自分の判断が正しかったのか。
答えは出ない。
それでも、任務は終わった。
足元から、白い光が昇る。
輪郭が薄くなる。
転移が始まっていた。
レンは壁際を見る。
ルルカは眠っている。
目を覚ませば、壊れた《原石》を見ることになる。
グラウゼンを殺した者も。
二カ月をともに過ごした相手も。
そのときには、もうこの世界にいない。
共同厨房の戸棚に残された、二本の魚を思い出す。
世界が、白く塗り潰された。




