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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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60/73

人間を〇す


翌朝。


ノアと人間側の国境に広がる平原は、低い霧に覆われていた。


東西を二つの丘に挟まれた、浅い盆地。


その四方には、《原石》から力を受け取るための導石が立っている。


人の背丈を何倍も超える黒い柱。


表面へ刻まれた赤い文字は、まだ光っていない。


東側の丘には、古い国境砦が残されていた。


かつて人間軍が築き、ノアとの戦いで放棄した石造りの砦。


今はノア軍の指揮所と、新生支援隊の拠点として使われている。


「衣服は種族札ごとに分けるニャ!」


今度はルルカが、支援物資の前へ立った。


「角が生えた人は黄色! 羽が生えた人は白! 身体が大きくなった人は赤い荷車ニャン!」


衣服。


水。


傷薬。


変わった身体を傷つけないよう、内側へ布を巻いた拘束具。


その横には、小さな青い瓶が並んでいる。


「この鎮静香は、暴れて自分を傷つけそうな人にだけ使うニャ。瓶を割って布へ染み込ませ、鼻と口へ当てるニャン」


ルルカが一本を持ち上げる。


「密閉された場所で瓶ごと割ったら、周りにいる奴まで眠るから絶対にやるなニャ」


続いて、黄色い膏薬の入った小箱を示す。


「使う側は、先にこれを布へ塗るニャン。そうしないと自分まで倒れるニャ」


説明を聞きながら、レンは青い瓶を数えた。


十二本。


一つの箱へ六本ずつ。


ルルカが別の荷車へ移ったあと、レンは一本を袖の内側へ入れた。


黄色い膏薬も少量。


誰も見ていなかった。


「レン」


名を呼ばれる。


振り返ると、ルルカが立っていた。


レンの胸元にある青い布を掴み、曲がっていた結び目を直す。


「勝手に前へ出たら駄目ニャ」


「分かっている」


「変えられた人が襲ってきても、殺すなニャン」


「ああ」


「怪我をしたら、すぐ戻ってくるニャ」


「お前もな」


ルルカの耳が僅かに立った。


「魚が待ってるニャン」


「そうだったな」


「忘れたら怒るニャ」


「もう怒っているだろ」


「これは確認ニャン」


言い返そうとしたところで、西側から角笛が鳴った。


人間軍の先頭が、最初の導石を越える。


ルルカの表情から、いつもの明るさが消えた。


「始まるニャ」


          ◇


人間軍は、何も知らずに平原へ進んだ。


先頭には、大盾を構えた重装兵。


その後ろを、長槍を持つ歩兵が埋めている。


両翼には騎兵。


中央には複数の国の旗が集まり、魔術師の部隊が続く。


最後方には、竜を殺すための大型弩が並んでいた。


巻き上げに時間がかかるため、射界をずらした三つの群に分けられている。


すべて装填済み。


第一群が撃ったあと、第二群。


さらに第三群。


順番に放つことで、再装填の遅さを補う布陣だった。


巨大な矢には、黒竜を地面へ縫い止めるための太い鎖がつながれている。


最後尾の大型弩まで、四本の導石が囲む範囲へ収まっていく。


何人かの兵士が、黒い柱を不審そうに見上げた。


攻撃はしない。


ただの石柱にしか見えないのだろう。


人間軍の半分が平原へ入る。


続いて、中央。


最後尾が四本目の導石を越えた。


ノア軍は動かない。


人間側も、待ち構える軍を警戒しながら隊列を整える。


やがて、人間軍の中央で旗が振られた。


前進を命じる角笛。


何万人もの足音が、平原を揺らす。


その瞬間。


空から巨大な影が落ちた。


黒竜王グラウゼン。


広げていた翼を畳み、人間軍とノア軍の間へ降り立つ。


地面が沈んだ。


巻き起こった土煙が、人間軍の先頭を覆う。


怒号が上がった。


弓兵が矢をつがえる。


魔術師たちが杖を掲げる。


最後方では、大型弩の第一群が射角を合わせていた。


グラウゼンは人間軍を見渡した。


何かを説くことはなかった。


降伏も求めない。


赤金色の瞳を閉じ、両方の前脚を地面へ沈める。


「始める」


低い声が平原を震わせた。


四本の導石へ、赤い光が灯る。


          ◇


最初に変化したのは、人間軍の先頭だった。


重装兵の一人が、突然盾を落とした。


兜の内側から角が伸びる。


鎧の隙間から灰色の毛が広がり、身体が一回り大きくなった。


隣にいた兵士の背からは羽が生えた。


鎧を押し上げ、留め具を弾き飛ばす。


別の兵士は身体が縮み、身につけていた鎧の中へ沈み込んだ。


叫び声。


金属が地面へ落ちる音。


驚いた馬が暴れ、騎手を振り落とす。


赤い光が、波のように人間軍の中を進んでいった。


変化した者は、短い時間意識を失う。


その後ろにいた兵士が、倒れた仲間へ躓いた。


隊列が崩れる。


命令が聞こえなくなる。


人間軍の先頭は、瞬く間に軍としての形を失った。


「前列、変化確認!」


ノア軍から合図の旗が上がる。


「支援隊、前へ!」


ルルカが走り出した。


レンたちも、衣服と水を積んだ荷車を押して丘を下りる。


平原へ近づくほど、音が大きくなった。


泣き声。


助けを求める声。


変わった身体を見て、意味も分からず叫ぶ声。


兜の中で角が引っかかり、外せなくなっている男がいた。


ルルカが駆け寄り、留め具を切る。


「動くなニャ! 今外すニャン!」


「何だ……俺の頭に、何が……」


「角ニャ。痛くないなら、そのまま息をするニャン」


「魔物……?」


「違うニャ」


ルルカが兜を外し、男の顔を正面から見た。


「お前はお前ニャン。まず、名前を言えるか?」


男は震える唇を動かした。


自分の名前を答える。


「なら大丈夫ニャ。覚えてるなら、まだお前はここにいるニャン」


近くでは、小柄な種族へ変わった兵士が、ぶかぶかになった鎧の中でもがいている。


別の案内役が革紐を切り、身体を引き出した。


その横では、暴れた馬に踏まれた兵士が運ばれていく。


《昇華》そのもので死ななくても、混乱まで無傷では済まない。


支援隊は、訓練どおりの役目を果たしていた。


レンも荷箱を開け、必要な衣服を渡していく。


だが、目は平原の中央へ向けられていた。


グラウゼンを中心に、赤い光が広がっている。


東。


北。


南。


三方向の光は、同じ速さで進んでいた。


西だけが僅かに遅い。


二十七。


レンは心の中で数える。


西の導石が、一度だけ暗くなった。


三十一。


光が再び強くなる。


だが、ほかの三本には追いつかない。


三十八。


西へ進む赤い波が、人間軍の後方を前にして止まった。


その先には、大型弩の三群が残っている。


王都の水路に仕掛けた網が開いた。


          ◇


人間軍の最後方から、轟音が響いた。


第一群の一斉射撃。


十本を超える巨大な矢が、太い鎖を引きずりながら黒竜へ向かう。


グラウゼンは目を開いた。


片方の翼を広げる。


黒い鱗へ、巨大な矢がぶつかった。


二本が弾かれる。


一本は翼の縁を掠め、薄い膜を裂いた。


残りは、ノア軍の魔術師が作った障壁へ突き刺さる。


砕けた光が、平原へ降り注いだ。


それは想定されていた攻撃だった。


第一群の矢を受ける。


第二群が狙いを定める前に、人間軍の最後方まで《昇華》させる。


グラウゼン自身が話していたとおりだった。


だが、西側の赤い波は進まない。


大型弩の兵士たちは、人間の姿を保っている。


「第二群、前へ!」


人間側の指揮官が叫んだ。


射界をずらして待機していた大型弩から、覆いが外される。


すでに弦は引かれている。


矢も載っている。


兵士たちが固定具を外し、黒竜へ狙いを合わせた。


「西導石、出力低下!」


ノア軍の伝令が叫ぶ。


「陛下! 一度、接続を切ってください!」


グラウゼンは動かなかった。


四本の導石とつながったまま、さらに魔力を流し込む。


黒い鱗の隙間から、赤い光が漏れ始めた。


「陛下!」


「続ける」


短い返答だった。


第二群の弩が放たれる。


一本目が、グラウゼンの左肩へ当たった。


鱗を砕くことはできない。


それでも衝撃で巨体が揺れる。


二本目は、最初の攻撃で裂けていた翼を貫いた。


黒い膜を破り、太い鎖が絡みつく。


三本目。


グラウゼンが首を振り、顎で噛み砕いた。


四本目は、右の前脚へ突き刺さる。


矢尻が鱗の間へ食い込み、鎖が地面へ落ちた。


人間側の兵士が、鎖の先についた杭を地面へ打ち込む。


グラウゼンが翼を動かした。


張りつめた鎖が土を抉る。


飛び上がることはできる。


導石との接続を切れば。


それでもグラウゼンは、平原の中央から動かなかった。


「どうして止めないニャ……」


ルルカが呟く。


手は、変化した兵士の鎧を外している。


視線だけが黒竜へ向けられていた。


「陛下なら、まだ飛べるニャン」


レンは答えない。


「危険なら中断するって言ってたニャ」


大型弩の第三群から、最後の覆いが落とされた。


その前では、人間側の魔術師たちが杖を掲げている。


何十人もの杖先へ、白い光が集まっていく。


「陛下!」


伝令の声が再び平原へ響いた。


「西側の接続を破棄してください! ほかの三方は、すでに変化を終えています!」


グラウゼンが西を見る。


まだ人間の姿をした兵士たち。


第三群の大型弩へ取りつく者。


魔法を撃とうとしている者。


恐怖に耐えきれず、平原の外へ逃げ始めた者。


「まだ、人間が残っている」


静かな声だった。


それでも、竜の声は遠くまで届いた。


ルルカの手が止まる。


「陛下……?」


その言葉は、誰も死なせないためのものではなかった。


戦争を終わらせるためだけのものですらない。


人間を残さない。


そのために、グラウゼンは自分を信じる兵士たちまで危険へ晒している。


「第三群、放て!」


人間側の指揮官が剣を振り下ろした。


          ◇


魔術師たちの白い光が、グラウゼンの胸へ集中した。


一つでは傷をつけられない。


だが、同じ場所へ何度も重ねれば、竜の鱗でも耐えきれない。


黒い鱗へ、細い亀裂が走る。


そこへ第三群の矢が到達した。


最初の一本が、胸へ命中する。


甲高い音。


亀裂の入っていた鱗が、一枚砕け飛んだ。


グラウゼンが初めて声を上げる。


咆哮が平原を揺らし、近くにいた兵士たちが耳を押さえて倒れた。


口から黒い炎が吐き出される。


西へ飛び、大型弩を二台まとめて焼き払った。


それでも、すでに放たれた矢は止まらない。


翼人の部隊が西側へ飛び立つ。


人間側の弓兵が矢を放ち、空中で迎え撃った。


赤い波は、まだ届かない。


八十三。


西側の導石が、急に強く光った。


遅れていた赤い波が、再び進み始める。


水路へ仕掛けた二本目の糸が切れた。


網と金属枠が下流へ流され、滞っていた水が一気に動き出したのだろう。


大型弩へ取りついていた兵士の腕に、毛が生える。


別の兵士の背が膨らみ、服を破って翼が伸びた。


人間側の最後方にも、《昇華》が届き始める。


だが、第三群の矢はすでに空を飛んでいた。


最後の一本が、グラウゼンの胸へ向かう。


先ほど砕かれた鱗。


その下へ露出した黒い皮膚。


巨大な矢が突き刺さった。


矢尻が肉へ沈む。


鎖が伸びきり、グラウゼンの身体を強く引いた。


黒竜の胸が地面へ落ちる。


土が跳ね上がり、平原を茶色く覆った。


四本の導石へつながっていた赤い光が揺らぐ。


それでも、グラウゼンは前脚を地面へ立てた。


立ち上がろうとする。


翼に絡んだ鎖。


前脚を縫い止める矢。


胸へ突き刺さった杭。


そのすべてを引きずりながら、なお魔力を送り続ける。


九十一。


九十二。


赤い波が、西側の弩兵を飲み込んでいく。


九十七。


人間側の指揮官が、額から角を伸ばしながら倒れた。


百。


最後の大型弩の前で、兵士が意識を失う。


平原から、人間の軍が消えた。


同時に、四本の導石から光が消える。


グラウゼンの前脚が折れた。


黒い巨体が、地響きとともに倒れる。


巨大な翼が土を巻き上げた。


張りつめていた鎖が地面を裂き、杭が何本も抜け飛ぶ。


それでも、グラウゼンの瞳は閉じていなかった。


平原を見ている。


人間だった者たち。


角人。


狼人。


鱗人。


翼人。


苦しげに呼吸しながら、赤金色の瞳が最後の一人を探す。


人間の姿を残した者は、もういない。


そこで初めて、グラウゼンは目を閉じた。


          ◇


「陛下を救出しろ!」


ノア軍から命令が飛ぶ。


治療師と兵士が平原の中央へ向かった。


だが、倒れた新生者が地面を埋めている。


巨大な鎖。


壊れた荷車。


黒い炎。


真っ直ぐ進むことはできない。


レンも支援隊の青い布をつけたまま、倒れている者たちの間を走った。


飛んできた矢を避ける。


鎖を跳び越える。


猫人の脚が、ほかの種族より早く身体を運ぶ。


グラウゼンのもとへ辿り着いたとき、すでに数人の兵士が矢へ取りついていた。


「鎖を切れ!」


「翼の矢は抜くな! 出血が増える!」


「胸を圧迫するな!」


治療師たちの声が飛び交う。


黒竜の片目が開いた。


「退け」


低い声。


矢を押さえていた者たちの動きが止まる。


グラウゼンは右の前脚を動かした。


鱗の間へ刺さっていた矢を、爪で掴む。


「陛下、動かないでください!」


聞かなかった。


矢を引き抜く。


黒い血が噴き出した。


続けて、翼を貫いていた矢を噛み砕く。


鎖が地面へ落ちた。


胸へ刺さった最後の矢にも爪をかける。


「それは抜いてはいけません!」


治療師が叫ぶ。


グラウゼンは、一息で引き抜いた。


傷口から血が溢れる。


直後、黒い炎が胸を覆った。


焼けた肉の匂いが広がる。


自分の炎で、傷口を焼いている。


グラウゼンの喉から、押し殺した唸り声が漏れた。


それでも炎は止めなかった。


出血が僅かに弱まる。


「この身体では運べんな」


グラウゼンが呟いた。


黒い光が、巨大な身体を覆う。


翼が内側へ畳まれる。


四本の脚が細くなり、長い首と尾が縮んでいく。


血に濡れた地面へ、人型となったグラウゼンが膝をついた。


頭には二本の黒い角。


首筋と胸には鱗が残っている。


左肩。


右脚。


胸元。


竜体で受けた傷も、そのまま小さな身体へ刻まれていた。


身体が小さくなったことで、胸の傷はさらに深く見える。


それでも、すぐに死ぬ傷ではない。


治療を受ければ助かる。


少なくとも、レンにはそう見えた。


黒い担架車が運ばれてくる。


二人の治療師。


二人の護衛。


「そこの青布!」


護衛がレンを呼ぶ。


「手を貸せ!」


レンは顔の下半分へ布を巻いた。


土煙を防ぐためのものに見える。


「分かった」


担架車の後ろへ回る。


人型となったグラウゼンが乗せられた。


レンが取っ手を握る。


遠くから、ルルカの声が聞こえた。


名前を呼ばれた気がした。


振り返らない。


「東丘の治療室へ運ぶ!」


五人だけの搬送班が、平原を離れた。


          ◇


古い国境砦の地下へ、緩やかな下り坂が続いていた。


石壁には、一定の間隔で魔石灯が埋め込まれている。


地上の叫び声は、分厚い岩へ遮られ、少しずつ遠くなっていった。


担架車の車輪が、石床の継ぎ目を踏む。


小さな振動が起きるたび、グラウゼンの胸から血が滲んだ。


「意識は?」


護衛が尋ねる。


「ありません」


治療師が答える。


「呼吸は続いています。急いでください」


「陛下は助かるのか」


「治療室で傷を開かなければ分かりません」


狭い通路を進む。


一つ目の鉄扉。


二つ目の曲がり角。


その先に、竜族用の治療室がある。


周囲に、ほかの兵士はいない。


砦にいた者の大半が、平原へ出払っていた。


レンは片手で担架車を押しながら、もう一方の手を顔へ伸ばす。


口元の布。


その内側には、黄色い膏薬が塗ってある。


苦い匂いが鼻を刺した。


「止めろ」


レンが言った。


「何だ?」


護衛が振り返る。


青い瓶が石床へ落ちた。


割れる。


甘い匂いを含んだ白い煙が、一気に通路へ広がった。


「鎮静香……?」


治療師の顔色が変わる。


「お前、何を――」


護衛が剣へ手を伸ばした。


抜く前に、膝が崩れる。


もう一人の護衛がレンへ掴みかかった。


その腕を避ける。


首の後ろへ手刀を入れた。


力が抜ける。


壁へ頭を打たないよう、身体を支えて床へ寝かせた。


治療師の一人が助けを呼ぼうとした。


声になる前に、その場へ倒れる。


最後の一人も、担架車へ寄りかかったまま動かなくなった。


レンは息を止めて通路を進む。


内側の鉄扉を開く。


担架車を治療室へ押し込んだ。


扉を閉じる。


壁際にある換気口を開けてから、ようやく口元の布を外した。


四人の呼吸は残っている。


鎮静香の量も、死ぬほどではない。


しばらくは目を覚まさない。


石造りの治療室。


天井は高い。


床の中央には血を流すための溝が刻まれ、壁には太い拘束鎖と鉄輪が並んでいる。


竜が暴れても耐えられるよう、扉は分厚い鉄で作られていた。


外から声は届かない。


中の音も、ほとんど漏れない。


レンは担架車へ向き直った。


「全員、生きているか」


声がした。


グラウゼンの赤金色の瞳が開いている。


「生きている」


「そうか」


グラウゼンが、ゆっくりと上半身を起こした。


胸へ巻かれた布が赤く染まる。


「いつから起きていた」


「お前が瓶へ手を伸ばしたときからだ」


「なぜ止めなかった」


「ここなら、国の者を巻き込まずに済む」


グラウゼンは担架車から足を下ろした。


床へ立つ。


右脚が僅かに沈む。


それでも倒れなかった。


「この程度の薬で、竜まで眠らせられると思ったか?」


「思っていない」


レンは腰の短剣を抜いた。


「眠らせたかったのは、お前以外だ」


グラウゼンの口元が僅かに上がった。


「正直だな」


「隠す必要がなくなった」


「西環を遅らせたのも、お前か」


「ああ」


「水路へ入ったと聞いていた」


グラウゼンが息を吐く。


「見せすぎたな」


「壊そうとする者へ見せたのは、お前だ」


「そうだった」


グラウゼンの右手を、黒い鱗が覆っていく。


指先から、長い爪が伸びた。


胸には大きな傷。


左肩は上がらない。


右脚にも深い裂傷。


魔力の大半は、《昇華》へ使い切っている。


竜の姿も取っていない。


それでも。


レンの身体が、目の前にいる者を危険だと判断した。


耳が伏せられる。


尾が膨らむ。


爪を持つ右手が消えた。


速い。


レンは短剣を上げた。


直後、重い衝撃が刃へぶつかる。


短剣ごと腕を弾かれた。


グラウゼンの左肩は動かない。


右脚にも力が入っていない。


右腕だけ。


たった一本の腕で、レンの身体を壁まで吹き飛ばした。


背中が石へぶつかる。


肺から空気が抜けた。


グラウゼンは追ってくる。


負傷した右脚を引きずりながら、それでもレンより速い。


黒い爪が喉へ迫った。


レンは床へ身体を落とした。


頭上を爪が通り過ぎる。


石壁が四本の爪痕とともに砕けた。


短剣を横へ振る。


グラウゼンの脇腹へ刃が触れた。


黒い鱗が浮き上がる。


刃先が弾かれた。


人型になっても、竜の鱗は失われていない。


「狙いは胸か」


グラウゼンが言った。


レンは答えない。


胸元。


大型弩が鱗を砕いた場所。


そこだけが、刃を通せる。


グラウゼンの口が開く。


黒い炎が生まれた。


レンは担架車を蹴り上げる。


金属で補強された台が、二人の間へ立った。


炎がぶつかる。


布が一瞬で燃え上がった。


金属が赤く変わる。


レンは燃える担架車の陰から、三本の針を投げた。


目。


喉。


胸。


グラウゼンが右腕を振る。


二本が爪で弾かれた。


残る一本が、左目へ向かう。


瞼を閉じる。


黒い鱗が目を覆った。


針が地面へ落ちる。


次の瞬間には、グラウゼンが炎の向こう側にいた。


右拳がレンの腹へ入った。


身体が浮く。


石床へ背中から落とされた。


視界が白く染まる。


起き上がるより早く、右足で胸を踏まれた。


傷ついているはずの脚。


それでも、肋骨が軋むほど重い。


「何者だ」


グラウゼンが尋ねる。


「兵士ではない」


レンは足首を掴んだ。


「暗殺者か」


「似たようなものだ」


腰を捻る。


グラウゼンの傷口へ、爪を立てる。


右脚から血が溢れた。


力が僅かに緩む。


レンは身体を横へ転がした。


立ち上がりながら、壁の拘束鎖を掴む。


鉄輪から外し、グラウゼンの右腕へ投げた。


鎖が巻きつく。


端を引く。


グラウゼンの身体が僅かに傾いた。


レンは胸元へ踏み込む。


短剣を突き出した。


黒い爪が、鎖ごと腕を振る。


引かれた鎖が鞭のように動き、レンの身体へぶつかった。


肩から床へ叩きつけられる。


グラウゼンが右腕へ力を込めた。


鎖を固定していた鉄輪が、石壁ごと引き抜かれた。


「これで俺を拘束するつもりだったか」


「一瞬止まればいい」


レンは立ち上がる。


左肩へ熱い痛みが走った。


先ほど鎖を受けた場所から、血が流れている。


グラウゼンは、引き抜いた鉄輪を投げた。


レンが顔を逸らす。


耳の横を鉄の塊が通過した。


背後の石壁へめり込む。


避けるだけで精一杯だった。


満身創痍。


竜の姿も取っていない。


それでも、正面から戦えば勝ち目はない。


「俺を殺す理由は何だ」


グラウゼンが尋ねる。


「異世界人だからだ」


「それだけか」


「ああ」


「この国を見ただろう」


「ああ」


「人間に追われ、行く場所を失った者たちを見たはずだ」


「ああ」


「俺が作った道も。運ばせた薬も。救った村も」


「見た」


「それでも殺すのか」


「殺す」


グラウゼンの爪が動く。


レンは短剣で受けた。


刃と爪がぶつかる。


一度。


二度。


三度。


受けるたび、レンの腕が痺れた。


四度目。


短剣の刃へ亀裂が入る。


グラウゼンが身体を回した。


尾はない。


それでも、竜体で戦うときと同じ動きだった。


右脚がレンの脇腹へ入る。


傷ついた脚とは思えない威力。


肋骨が一本折れた。


レンの身体が床を転がる。


短剣が手から離れた。


「俺が善人でもか」


グラウゼンが近づく。


「殺す」


「悪人でも?」


「同じだ」


「公平だな」


「違う」


レンは床へ手をついた。


「区別していないだけだ」


「それを公平と呼ぶ者もいる」


グラウゼンの右手に、黒い炎が集まる。


レンは落とした短剣へ手を伸ばした。


届かない。


炎が放たれる。


横へ転がる。


火が脇腹を掠めた。


服が燃える。


床へ身体を押しつけ、火を消す。


焼けた皮膚の匂い。


グラウゼンの足音が近づく。


「お前も異世界人か」


レンの動きが僅かに止まった。


「その戦い方は、この世界の兵士のものではない」


「答える必要はない」


「俺を殺せば、お前はどこへ帰る」


「次の世界だ」


グラウゼンが目を細めた。


「俺をここへ落とした者と、同じものに仕えているのか」


「知らない」


「疑わないのか」


「必要ない」


「自分が何をしているのかも?」


「分かっている」


「なら、俺と変わらんな」


グラウゼンの爪が振り下ろされた。


レンは落ちていた拘束鎖を掴んだ。


爪へ絡める。


引く。


軌道が僅かに逸れた。


床の石が砕ける。


その隙に、レンはグラウゼンの横を抜けた。


短剣を拾う。


振り返る。


グラウゼンも、こちらを見ていた。


互いの呼吸だけが、石室へ響いている。


グラウゼンの胸から流れる血は止まっていない。


焼いた傷が、戦うたびに開いている。


それでも、赤金色の瞳から力は失われていなかった。


「俺は一度、人間を信じて死んだ」


グラウゼンが言った。


レンは短剣を構えたまま動かない。


「地球にいた頃、人の命に関わる記録が書き換えられていることを見つけた」


冷たい蛍光灯。


白い壁。


長い机。


人間だった頃のグラウゼンは、一束の書類を抱えて立っていた。


見つけたのは、一人ではなかった。


同僚たちも知っていた。


一緒に証言すると約束した者もいた。


だが、会議室で顔を上げた者は誰もいなかった。


そんな話は知らない。


見た覚えもない。


指示を出したのは彼だ。


最後には、グラウゼン一人の名前だけが残った。


守ろうとした者たちから責任を押しつけられた。


信じていた者たちから切り捨てられた。


「この世界でも同じだった」


グラウゼンが続ける。


「共存を誓った王が、こちらの村を焼いた」


右手の爪が、さらに長く伸びる。


「停戦を望んだ使節が、帰り道で俺の民を売った」


首筋から頬へ、黒い鱗が広がっていく。


「同じ街で暮らしていた人間が、自分だけ助かるため隣人を差し出した」


人間とは、そういう生き物だ。


追い詰められれば、約束を破る。


自分を守るためなら、昨日まで隣にいた者を差し出す。


だから、人間以外の国を作った。


人間がいなくなれば、同じことは繰り返されないと信じた。


「俺が人間を信じ続ければ、死ぬのは俺ではない」


グラウゼンの声が石室を震わせる。


「俺を信じた者たちだ」


「今日も死ぬところだった」


レンが言った。


グラウゼンの瞳が動く。


「何?」


「戦争を終わらせるだけなら、途中で接続を切れた」


「人間軍を残せば、次の戦争が起きる」


「お前は飛べた」


「俺が退けば、兵士が戦う」


「だから、兵士ごと矢の前へ残したのか」


短い沈黙。


「違う」


「西以外は終わっていた。接続を切れば、ノア軍は下がれた」


「人間を残せば――」


「お前は、戦争を終わらせたかったんじゃない」


レンはグラウゼンを見る。


「最後の一人まで、人間でなくしたかった」


黒い爪が僅かに震えた。


「そのために、お前を信じた者たちを危険へ差し出した」


白い会議室。


顔を上げなかった同僚。


自分を守るため、隣にいた者を差し出した人間たち。


今日。


グラウゼン自身が選んだものも、同じだった。


自分の望みのために。


自分を信じた者たちを、矢の届く場所へ残した。


「黙れ」


グラウゼンの姿が消えた。


先ほどまでとは違う。


負傷した身体へ残る、すべての力を使った速さ。


レンは短剣を上げる。


間に合わない。


黒い爪が左肩を裂いた。


肉が深く抉られる。


血が飛ぶ。


続く拳が胸へ入った。


折れた肋骨が、さらに内側へ沈む。


レンの身体が壁へ叩きつけられた。


手から短剣が落ちる。


グラウゼンは止まらない。


レンの喉を掴み、片腕だけで身体を持ち上げた。


足が床から離れる。


指へ力が入る。


息ができない。


「俺の何が分かる」


グラウゼンの口元から血が流れる。


「何も分からない」


レンは答えた。


掠れた声だった。


「分かる必要もない」


「なら、何を見て俺を殺す」


「殺せる場所だ」


レンの目は、グラウゼンの胸を見ていた。


人間軍が砕いた鱗。


開いた傷。


そこへ刃を通すための角度。


グラウゼンが息を吐いた。


笑ったのかもしれない。


「最後まで、それか」


右腕がさらに締まる。


視界が暗くなる。


レンの右足が、床に落ちていた拘束鎖へ触れた。


足先で鎖を引く。


輪になった部分を持ち上げる。


グラウゼンの傷ついた右脚へ絡めた。


体重をかける。


鎖が張る。


グラウゼンの身体が、僅かに傾いた。


それだけだった。


倒れない。


喉を掴む手も離れない。


だが、レンには十分だった。


尾を大きく振る。


浮いた身体の向きを変える。


右脚でグラウゼンの胸を蹴った。


傷口へ踵が入る。


グラウゼンの呼吸が止まった。


喉を掴んでいた指が緩む。


レンの身体が床へ落ちた。


短剣は離れた場所にある。


拾う時間はない。


袖の中から薄刃を落とす。


右手で握った。


グラウゼンの爪が迫る。


避ければ、胸から離れる。


離れれば、次の機会はない。


レンは半歩だけ前へ出た。


爪が脇腹へ入る。


皮膚を裂く。


肉へ沈む。


痛みで視界が白くなった。


それでも止まらない。


グラウゼンの懐へ入る。


人間軍が砕いた鱗。


巨大な矢が開いた傷。


その奥へ、薄刃を押し込んだ。


肉を裂く。


骨の間を抜ける。


刃先が心臓へ届いた。


グラウゼンの身体が止まる。


脇腹へ入っていた爪が、さらに深く沈んだ。


レンの身体を殺すだけの力が、まだ残っている。


だが、振り抜かれることはなかった。


黒い爪から、ゆっくりと力が抜けていく。


「……なるほど」


グラウゼンの口から、血とともに声が漏れた。


「自分の刃で、鱗を破る必要はなかったか」


「人間が破った」


「ああ」


グラウゼンが膝をつく。


レンも、その場へ片膝をついた。


薄刃は胸へ刺さったまま。


グラウゼンは、自分の傷を見下ろした。


「人間の矢で道を作り、お前が殺す」


「そうだ」


「ずいぶん遠回りをしたな」


「正面からでは殺せない」


「正しい判断だ」


グラウゼンが壁へ背を預ける。


呼吸のたび、胸から血が流れた。


「俺は、戦争を終わらせたかった」


「そうか」


「嘘ではない」


「分かっている」


「だが……それだけでもなかった」


グラウゼンの視線が、どこにもいない人間へ向けられる。


「俺は、人間を残したくなかった」


自分を裏切った人間。


約束を破った人間。


この世界で、異種族を焼いた人間。


そのすべてを消せば、同じことは起きないと思った。


だが最後に。


自分を信じた者たちを危険へ差し出したのは、グラウゼン自身だった。


「何のことはない……」


力のない笑いが漏れる。


「平原から人間を消したつもりでいた」


血に濡れた手が、床へ触れる。


「最後に残っていた【人間】は…俺だったか」


レンは否定しなかった。


肯定もしない。


グラウゼンが目を閉じかける。


だが、まだ終わっていない。


「この国も壊すのか」


「国は対象じゃない」


瞼が僅かに開く。


「そうか」


「《原石》は壊す」


グラウゼンの表情が変わった。


驚きではない。


予想していた答えを確認しただけだった。


「記録も消えるぞ」


「ああ」


「元の身体へ戻る手掛かりも」


「ああ」


「恨まれる」


「分かっている」


「それでもか」


「それが、俺の仕事だ」


石室の外から、何かがぶつかる音がした。


続いて、鉄扉が開く。


「陛下!」


ルルカが飛び込んできた。


通路で倒れている救護班を見つけ、ここまで追ってきたのだろう。


鮮やかなピンク色の髪は乱れている。


頬にも血がついていた。


石室の中を見る。


燃えた担架車。


砕けた壁。


血に濡れたレン。


胸へ薄刃を刺されたグラウゼン。


緑色の瞳が、大きく開いた。


「レン……何を、してる?」


猫の語尾はなかった。


グラウゼンが僅かに顔を動かす。


「ルルカ」


「陛下……」


ルルカが駆け寄った。


床へ膝をつき、グラウゼンの身体を支える。


「治療師を起こします。薬もあります。だから――」


「もう間に合わない」


「やってみないと分からないニャン!」


「分かる」


グラウゼンは、自分の胸へ刺さった刃を見た。


「心臓まで届いている」


ルルカの顔が歪んだ。


「嫌です」


「ルルカ」


「嫌ニャ……」


「俺を正しかったことにするな」


ルルカの言葉が止まる。


「俺が死んだからといって、間違いまで正しくなるわけではない」


「でも、陛下は……」


「道は残る」


グラウゼンの声が弱くなる。


「国も残る」


赤金色の瞳が、ルルカを見る。


「新しく生まれた者の隣にいてやれ」


「そんなの、陛下がやってください」


「もう、できない」


「できますニャ」


「お前がやれ」


グラウゼンの手が、ルルカの腕から落ちた。


胸が一度だけ上下する。


それきり、動かなかった。


赤金色の瞳から、ゆっくりと光が失われていく。


黒い角も。


首筋の鱗も。


そのまま残っていた。


「陛下?」


ルルカが呼ぶ。


返事はない。


「陛下……」


何度呼んでも、その目が開くことはなかった。


レンはグラウゼンの胸から薄刃を引き抜いた。


大型弩が抉った傷から、最後の血が流れる。


細い刃が通った跡は、裂けた肉の中へ紛れた。


ルルカが顔を上げる。


涙に濡れた目で、レンを見る。


「陛下を殺したのか」


「ああ」


「最初から、そのためにこの国へ来たのか」


「ああ」


「水路に何かしたのも?」


「ああ」


ルルカの尾から、力が抜けていく。


通路の向こうで、眠っている治療師が小さく呻いた。


鎮静香が切れ始めている。


レンは薄刃を袖へ戻した。


「《原石》も壊すのか」


「ああ」


ルルカが立ち上がる。


爪が伸びる。


それでも、今は振るわなかった。


「壊させないニャ」


「そうか」


「お前も逃がさない」


「なら、ここで呼べ」


兵士を呼べばいい。


護衛を起こせばいい。


レンは負傷している。


左肩。


脇腹。


今なら、簡単に捕らえられる。


ルルカは口を開いた。


声は出なかった。


代わりに、鉄扉の横へ立つ。


通路を空ける。


「今は行け」


「なぜだ」


「分からないニャ」


唇を噛み、レンを睨む。


「でも、このままお前が殺されたら、何も聞けない。何も決められないまま、全部終わるニャン」


「逃がすのか」


「違う」


ルルカの声が震える。


「次は、あたしが止める」


レンは何も答えなかった。


ルルカの横を通り、石室を出る。


通路に倒れている四人の呼吸は続いている。


目を覚ましても、甘い煙と、顔を布で隠した猫人の姿しか覚えていないだろう。


背後から、グラウゼンを呼ぶ声が聞こえた。


一度。


二度。


何度も。


レンは振り返らない。


王都の戸棚には、二本の魚が残されている。


戦場から帰り、それを料理する。


北の村へ行き、ルルカの妹にも食べさせる。


約束は、まだ消えていない。


だが、その約束を交わした相手は、もうレンの隣にはいなかった。

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