人間を〇す
翌朝。
ノアと人間側の国境に広がる平原は、低い霧に覆われていた。
東西を二つの丘に挟まれた、浅い盆地。
その四方には、《原石》から力を受け取るための導石が立っている。
人の背丈を何倍も超える黒い柱。
表面へ刻まれた赤い文字は、まだ光っていない。
東側の丘には、古い国境砦が残されていた。
かつて人間軍が築き、ノアとの戦いで放棄した石造りの砦。
今はノア軍の指揮所と、新生支援隊の拠点として使われている。
「衣服は種族札ごとに分けるニャ!」
今度はルルカが、支援物資の前へ立った。
「角が生えた人は黄色! 羽が生えた人は白! 身体が大きくなった人は赤い荷車ニャン!」
衣服。
水。
傷薬。
変わった身体を傷つけないよう、内側へ布を巻いた拘束具。
その横には、小さな青い瓶が並んでいる。
「この鎮静香は、暴れて自分を傷つけそうな人にだけ使うニャ。瓶を割って布へ染み込ませ、鼻と口へ当てるニャン」
ルルカが一本を持ち上げる。
「密閉された場所で瓶ごと割ったら、周りにいる奴まで眠るから絶対にやるなニャ」
続いて、黄色い膏薬の入った小箱を示す。
「使う側は、先にこれを布へ塗るニャン。そうしないと自分まで倒れるニャ」
説明を聞きながら、レンは青い瓶を数えた。
十二本。
一つの箱へ六本ずつ。
ルルカが別の荷車へ移ったあと、レンは一本を袖の内側へ入れた。
黄色い膏薬も少量。
誰も見ていなかった。
「レン」
名を呼ばれる。
振り返ると、ルルカが立っていた。
レンの胸元にある青い布を掴み、曲がっていた結び目を直す。
「勝手に前へ出たら駄目ニャ」
「分かっている」
「変えられた人が襲ってきても、殺すなニャン」
「ああ」
「怪我をしたら、すぐ戻ってくるニャ」
「お前もな」
ルルカの耳が僅かに立った。
「魚が待ってるニャン」
「そうだったな」
「忘れたら怒るニャ」
「もう怒っているだろ」
「これは確認ニャン」
言い返そうとしたところで、西側から角笛が鳴った。
人間軍の先頭が、最初の導石を越える。
ルルカの表情から、いつもの明るさが消えた。
「始まるニャ」
◇
人間軍は、何も知らずに平原へ進んだ。
先頭には、大盾を構えた重装兵。
その後ろを、長槍を持つ歩兵が埋めている。
両翼には騎兵。
中央には複数の国の旗が集まり、魔術師の部隊が続く。
最後方には、竜を殺すための大型弩が並んでいた。
巻き上げに時間がかかるため、射界をずらした三つの群に分けられている。
すべて装填済み。
第一群が撃ったあと、第二群。
さらに第三群。
順番に放つことで、再装填の遅さを補う布陣だった。
巨大な矢には、黒竜を地面へ縫い止めるための太い鎖がつながれている。
最後尾の大型弩まで、四本の導石が囲む範囲へ収まっていく。
何人かの兵士が、黒い柱を不審そうに見上げた。
攻撃はしない。
ただの石柱にしか見えないのだろう。
人間軍の半分が平原へ入る。
続いて、中央。
最後尾が四本目の導石を越えた。
ノア軍は動かない。
人間側も、待ち構える軍を警戒しながら隊列を整える。
やがて、人間軍の中央で旗が振られた。
前進を命じる角笛。
何万人もの足音が、平原を揺らす。
その瞬間。
空から巨大な影が落ちた。
黒竜王グラウゼン。
広げていた翼を畳み、人間軍とノア軍の間へ降り立つ。
地面が沈んだ。
巻き起こった土煙が、人間軍の先頭を覆う。
怒号が上がった。
弓兵が矢をつがえる。
魔術師たちが杖を掲げる。
最後方では、大型弩の第一群が射角を合わせていた。
グラウゼンは人間軍を見渡した。
何かを説くことはなかった。
降伏も求めない。
赤金色の瞳を閉じ、両方の前脚を地面へ沈める。
「始める」
低い声が平原を震わせた。
四本の導石へ、赤い光が灯る。
◇
最初に変化したのは、人間軍の先頭だった。
重装兵の一人が、突然盾を落とした。
兜の内側から角が伸びる。
鎧の隙間から灰色の毛が広がり、身体が一回り大きくなった。
隣にいた兵士の背からは羽が生えた。
鎧を押し上げ、留め具を弾き飛ばす。
別の兵士は身体が縮み、身につけていた鎧の中へ沈み込んだ。
叫び声。
金属が地面へ落ちる音。
驚いた馬が暴れ、騎手を振り落とす。
赤い光が、波のように人間軍の中を進んでいった。
変化した者は、短い時間意識を失う。
その後ろにいた兵士が、倒れた仲間へ躓いた。
隊列が崩れる。
命令が聞こえなくなる。
人間軍の先頭は、瞬く間に軍としての形を失った。
「前列、変化確認!」
ノア軍から合図の旗が上がる。
「支援隊、前へ!」
ルルカが走り出した。
レンたちも、衣服と水を積んだ荷車を押して丘を下りる。
平原へ近づくほど、音が大きくなった。
泣き声。
助けを求める声。
変わった身体を見て、意味も分からず叫ぶ声。
兜の中で角が引っかかり、外せなくなっている男がいた。
ルルカが駆け寄り、留め具を切る。
「動くなニャ! 今外すニャン!」
「何だ……俺の頭に、何が……」
「角ニャ。痛くないなら、そのまま息をするニャン」
「魔物……?」
「違うニャ」
ルルカが兜を外し、男の顔を正面から見た。
「お前はお前ニャン。まず、名前を言えるか?」
男は震える唇を動かした。
自分の名前を答える。
「なら大丈夫ニャ。覚えてるなら、まだお前はここにいるニャン」
近くでは、小柄な種族へ変わった兵士が、ぶかぶかになった鎧の中でもがいている。
別の案内役が革紐を切り、身体を引き出した。
その横では、暴れた馬に踏まれた兵士が運ばれていく。
《昇華》そのもので死ななくても、混乱まで無傷では済まない。
支援隊は、訓練どおりの役目を果たしていた。
レンも荷箱を開け、必要な衣服を渡していく。
だが、目は平原の中央へ向けられていた。
グラウゼンを中心に、赤い光が広がっている。
東。
北。
南。
三方向の光は、同じ速さで進んでいた。
西だけが僅かに遅い。
二十七。
レンは心の中で数える。
西の導石が、一度だけ暗くなった。
三十一。
光が再び強くなる。
だが、ほかの三本には追いつかない。
三十八。
西へ進む赤い波が、人間軍の後方を前にして止まった。
その先には、大型弩の三群が残っている。
王都の水路に仕掛けた網が開いた。
◇
人間軍の最後方から、轟音が響いた。
第一群の一斉射撃。
十本を超える巨大な矢が、太い鎖を引きずりながら黒竜へ向かう。
グラウゼンは目を開いた。
片方の翼を広げる。
黒い鱗へ、巨大な矢がぶつかった。
二本が弾かれる。
一本は翼の縁を掠め、薄い膜を裂いた。
残りは、ノア軍の魔術師が作った障壁へ突き刺さる。
砕けた光が、平原へ降り注いだ。
それは想定されていた攻撃だった。
第一群の矢を受ける。
第二群が狙いを定める前に、人間軍の最後方まで《昇華》させる。
グラウゼン自身が話していたとおりだった。
だが、西側の赤い波は進まない。
大型弩の兵士たちは、人間の姿を保っている。
「第二群、前へ!」
人間側の指揮官が叫んだ。
射界をずらして待機していた大型弩から、覆いが外される。
すでに弦は引かれている。
矢も載っている。
兵士たちが固定具を外し、黒竜へ狙いを合わせた。
「西導石、出力低下!」
ノア軍の伝令が叫ぶ。
「陛下! 一度、接続を切ってください!」
グラウゼンは動かなかった。
四本の導石とつながったまま、さらに魔力を流し込む。
黒い鱗の隙間から、赤い光が漏れ始めた。
「陛下!」
「続ける」
短い返答だった。
第二群の弩が放たれる。
一本目が、グラウゼンの左肩へ当たった。
鱗を砕くことはできない。
それでも衝撃で巨体が揺れる。
二本目は、最初の攻撃で裂けていた翼を貫いた。
黒い膜を破り、太い鎖が絡みつく。
三本目。
グラウゼンが首を振り、顎で噛み砕いた。
四本目は、右の前脚へ突き刺さる。
矢尻が鱗の間へ食い込み、鎖が地面へ落ちた。
人間側の兵士が、鎖の先についた杭を地面へ打ち込む。
グラウゼンが翼を動かした。
張りつめた鎖が土を抉る。
飛び上がることはできる。
導石との接続を切れば。
それでもグラウゼンは、平原の中央から動かなかった。
「どうして止めないニャ……」
ルルカが呟く。
手は、変化した兵士の鎧を外している。
視線だけが黒竜へ向けられていた。
「陛下なら、まだ飛べるニャン」
レンは答えない。
「危険なら中断するって言ってたニャ」
大型弩の第三群から、最後の覆いが落とされた。
その前では、人間側の魔術師たちが杖を掲げている。
何十人もの杖先へ、白い光が集まっていく。
「陛下!」
伝令の声が再び平原へ響いた。
「西側の接続を破棄してください! ほかの三方は、すでに変化を終えています!」
グラウゼンが西を見る。
まだ人間の姿をした兵士たち。
第三群の大型弩へ取りつく者。
魔法を撃とうとしている者。
恐怖に耐えきれず、平原の外へ逃げ始めた者。
「まだ、人間が残っている」
静かな声だった。
それでも、竜の声は遠くまで届いた。
ルルカの手が止まる。
「陛下……?」
その言葉は、誰も死なせないためのものではなかった。
戦争を終わらせるためだけのものですらない。
人間を残さない。
そのために、グラウゼンは自分を信じる兵士たちまで危険へ晒している。
「第三群、放て!」
人間側の指揮官が剣を振り下ろした。
◇
魔術師たちの白い光が、グラウゼンの胸へ集中した。
一つでは傷をつけられない。
だが、同じ場所へ何度も重ねれば、竜の鱗でも耐えきれない。
黒い鱗へ、細い亀裂が走る。
そこへ第三群の矢が到達した。
最初の一本が、胸へ命中する。
甲高い音。
亀裂の入っていた鱗が、一枚砕け飛んだ。
グラウゼンが初めて声を上げる。
咆哮が平原を揺らし、近くにいた兵士たちが耳を押さえて倒れた。
口から黒い炎が吐き出される。
西へ飛び、大型弩を二台まとめて焼き払った。
それでも、すでに放たれた矢は止まらない。
翼人の部隊が西側へ飛び立つ。
人間側の弓兵が矢を放ち、空中で迎え撃った。
赤い波は、まだ届かない。
八十三。
西側の導石が、急に強く光った。
遅れていた赤い波が、再び進み始める。
水路へ仕掛けた二本目の糸が切れた。
網と金属枠が下流へ流され、滞っていた水が一気に動き出したのだろう。
大型弩へ取りついていた兵士の腕に、毛が生える。
別の兵士の背が膨らみ、服を破って翼が伸びた。
人間側の最後方にも、《昇華》が届き始める。
だが、第三群の矢はすでに空を飛んでいた。
最後の一本が、グラウゼンの胸へ向かう。
先ほど砕かれた鱗。
その下へ露出した黒い皮膚。
巨大な矢が突き刺さった。
矢尻が肉へ沈む。
鎖が伸びきり、グラウゼンの身体を強く引いた。
黒竜の胸が地面へ落ちる。
土が跳ね上がり、平原を茶色く覆った。
四本の導石へつながっていた赤い光が揺らぐ。
それでも、グラウゼンは前脚を地面へ立てた。
立ち上がろうとする。
翼に絡んだ鎖。
前脚を縫い止める矢。
胸へ突き刺さった杭。
そのすべてを引きずりながら、なお魔力を送り続ける。
九十一。
九十二。
赤い波が、西側の弩兵を飲み込んでいく。
九十七。
人間側の指揮官が、額から角を伸ばしながら倒れた。
百。
最後の大型弩の前で、兵士が意識を失う。
平原から、人間の軍が消えた。
同時に、四本の導石から光が消える。
グラウゼンの前脚が折れた。
黒い巨体が、地響きとともに倒れる。
巨大な翼が土を巻き上げた。
張りつめていた鎖が地面を裂き、杭が何本も抜け飛ぶ。
それでも、グラウゼンの瞳は閉じていなかった。
平原を見ている。
人間だった者たち。
角人。
狼人。
鱗人。
翼人。
苦しげに呼吸しながら、赤金色の瞳が最後の一人を探す。
人間の姿を残した者は、もういない。
そこで初めて、グラウゼンは目を閉じた。
◇
「陛下を救出しろ!」
ノア軍から命令が飛ぶ。
治療師と兵士が平原の中央へ向かった。
だが、倒れた新生者が地面を埋めている。
巨大な鎖。
壊れた荷車。
黒い炎。
真っ直ぐ進むことはできない。
レンも支援隊の青い布をつけたまま、倒れている者たちの間を走った。
飛んできた矢を避ける。
鎖を跳び越える。
猫人の脚が、ほかの種族より早く身体を運ぶ。
グラウゼンのもとへ辿り着いたとき、すでに数人の兵士が矢へ取りついていた。
「鎖を切れ!」
「翼の矢は抜くな! 出血が増える!」
「胸を圧迫するな!」
治療師たちの声が飛び交う。
黒竜の片目が開いた。
「退け」
低い声。
矢を押さえていた者たちの動きが止まる。
グラウゼンは右の前脚を動かした。
鱗の間へ刺さっていた矢を、爪で掴む。
「陛下、動かないでください!」
聞かなかった。
矢を引き抜く。
黒い血が噴き出した。
続けて、翼を貫いていた矢を噛み砕く。
鎖が地面へ落ちた。
胸へ刺さった最後の矢にも爪をかける。
「それは抜いてはいけません!」
治療師が叫ぶ。
グラウゼンは、一息で引き抜いた。
傷口から血が溢れる。
直後、黒い炎が胸を覆った。
焼けた肉の匂いが広がる。
自分の炎で、傷口を焼いている。
グラウゼンの喉から、押し殺した唸り声が漏れた。
それでも炎は止めなかった。
出血が僅かに弱まる。
「この身体では運べんな」
グラウゼンが呟いた。
黒い光が、巨大な身体を覆う。
翼が内側へ畳まれる。
四本の脚が細くなり、長い首と尾が縮んでいく。
血に濡れた地面へ、人型となったグラウゼンが膝をついた。
頭には二本の黒い角。
首筋と胸には鱗が残っている。
左肩。
右脚。
胸元。
竜体で受けた傷も、そのまま小さな身体へ刻まれていた。
身体が小さくなったことで、胸の傷はさらに深く見える。
それでも、すぐに死ぬ傷ではない。
治療を受ければ助かる。
少なくとも、レンにはそう見えた。
黒い担架車が運ばれてくる。
二人の治療師。
二人の護衛。
「そこの青布!」
護衛がレンを呼ぶ。
「手を貸せ!」
レンは顔の下半分へ布を巻いた。
土煙を防ぐためのものに見える。
「分かった」
担架車の後ろへ回る。
人型となったグラウゼンが乗せられた。
レンが取っ手を握る。
遠くから、ルルカの声が聞こえた。
名前を呼ばれた気がした。
振り返らない。
「東丘の治療室へ運ぶ!」
五人だけの搬送班が、平原を離れた。
◇
古い国境砦の地下へ、緩やかな下り坂が続いていた。
石壁には、一定の間隔で魔石灯が埋め込まれている。
地上の叫び声は、分厚い岩へ遮られ、少しずつ遠くなっていった。
担架車の車輪が、石床の継ぎ目を踏む。
小さな振動が起きるたび、グラウゼンの胸から血が滲んだ。
「意識は?」
護衛が尋ねる。
「ありません」
治療師が答える。
「呼吸は続いています。急いでください」
「陛下は助かるのか」
「治療室で傷を開かなければ分かりません」
狭い通路を進む。
一つ目の鉄扉。
二つ目の曲がり角。
その先に、竜族用の治療室がある。
周囲に、ほかの兵士はいない。
砦にいた者の大半が、平原へ出払っていた。
レンは片手で担架車を押しながら、もう一方の手を顔へ伸ばす。
口元の布。
その内側には、黄色い膏薬が塗ってある。
苦い匂いが鼻を刺した。
「止めろ」
レンが言った。
「何だ?」
護衛が振り返る。
青い瓶が石床へ落ちた。
割れる。
甘い匂いを含んだ白い煙が、一気に通路へ広がった。
「鎮静香……?」
治療師の顔色が変わる。
「お前、何を――」
護衛が剣へ手を伸ばした。
抜く前に、膝が崩れる。
もう一人の護衛がレンへ掴みかかった。
その腕を避ける。
首の後ろへ手刀を入れた。
力が抜ける。
壁へ頭を打たないよう、身体を支えて床へ寝かせた。
治療師の一人が助けを呼ぼうとした。
声になる前に、その場へ倒れる。
最後の一人も、担架車へ寄りかかったまま動かなくなった。
レンは息を止めて通路を進む。
内側の鉄扉を開く。
担架車を治療室へ押し込んだ。
扉を閉じる。
壁際にある換気口を開けてから、ようやく口元の布を外した。
四人の呼吸は残っている。
鎮静香の量も、死ぬほどではない。
しばらくは目を覚まさない。
石造りの治療室。
天井は高い。
床の中央には血を流すための溝が刻まれ、壁には太い拘束鎖と鉄輪が並んでいる。
竜が暴れても耐えられるよう、扉は分厚い鉄で作られていた。
外から声は届かない。
中の音も、ほとんど漏れない。
レンは担架車へ向き直った。
「全員、生きているか」
声がした。
グラウゼンの赤金色の瞳が開いている。
「生きている」
「そうか」
グラウゼンが、ゆっくりと上半身を起こした。
胸へ巻かれた布が赤く染まる。
「いつから起きていた」
「お前が瓶へ手を伸ばしたときからだ」
「なぜ止めなかった」
「ここなら、国の者を巻き込まずに済む」
グラウゼンは担架車から足を下ろした。
床へ立つ。
右脚が僅かに沈む。
それでも倒れなかった。
「この程度の薬で、竜まで眠らせられると思ったか?」
「思っていない」
レンは腰の短剣を抜いた。
「眠らせたかったのは、お前以外だ」
グラウゼンの口元が僅かに上がった。
「正直だな」
「隠す必要がなくなった」
「西環を遅らせたのも、お前か」
「ああ」
「水路へ入ったと聞いていた」
グラウゼンが息を吐く。
「見せすぎたな」
「壊そうとする者へ見せたのは、お前だ」
「そうだった」
グラウゼンの右手を、黒い鱗が覆っていく。
指先から、長い爪が伸びた。
胸には大きな傷。
左肩は上がらない。
右脚にも深い裂傷。
魔力の大半は、《昇華》へ使い切っている。
竜の姿も取っていない。
それでも。
レンの身体が、目の前にいる者を危険だと判断した。
耳が伏せられる。
尾が膨らむ。
爪を持つ右手が消えた。
速い。
レンは短剣を上げた。
直後、重い衝撃が刃へぶつかる。
短剣ごと腕を弾かれた。
グラウゼンの左肩は動かない。
右脚にも力が入っていない。
右腕だけ。
たった一本の腕で、レンの身体を壁まで吹き飛ばした。
背中が石へぶつかる。
肺から空気が抜けた。
グラウゼンは追ってくる。
負傷した右脚を引きずりながら、それでもレンより速い。
黒い爪が喉へ迫った。
レンは床へ身体を落とした。
頭上を爪が通り過ぎる。
石壁が四本の爪痕とともに砕けた。
短剣を横へ振る。
グラウゼンの脇腹へ刃が触れた。
黒い鱗が浮き上がる。
刃先が弾かれた。
人型になっても、竜の鱗は失われていない。
「狙いは胸か」
グラウゼンが言った。
レンは答えない。
胸元。
大型弩が鱗を砕いた場所。
そこだけが、刃を通せる。
グラウゼンの口が開く。
黒い炎が生まれた。
レンは担架車を蹴り上げる。
金属で補強された台が、二人の間へ立った。
炎がぶつかる。
布が一瞬で燃え上がった。
金属が赤く変わる。
レンは燃える担架車の陰から、三本の針を投げた。
目。
喉。
胸。
グラウゼンが右腕を振る。
二本が爪で弾かれた。
残る一本が、左目へ向かう。
瞼を閉じる。
黒い鱗が目を覆った。
針が地面へ落ちる。
次の瞬間には、グラウゼンが炎の向こう側にいた。
右拳がレンの腹へ入った。
身体が浮く。
石床へ背中から落とされた。
視界が白く染まる。
起き上がるより早く、右足で胸を踏まれた。
傷ついているはずの脚。
それでも、肋骨が軋むほど重い。
「何者だ」
グラウゼンが尋ねる。
「兵士ではない」
レンは足首を掴んだ。
「暗殺者か」
「似たようなものだ」
腰を捻る。
グラウゼンの傷口へ、爪を立てる。
右脚から血が溢れた。
力が僅かに緩む。
レンは身体を横へ転がした。
立ち上がりながら、壁の拘束鎖を掴む。
鉄輪から外し、グラウゼンの右腕へ投げた。
鎖が巻きつく。
端を引く。
グラウゼンの身体が僅かに傾いた。
レンは胸元へ踏み込む。
短剣を突き出した。
黒い爪が、鎖ごと腕を振る。
引かれた鎖が鞭のように動き、レンの身体へぶつかった。
肩から床へ叩きつけられる。
グラウゼンが右腕へ力を込めた。
鎖を固定していた鉄輪が、石壁ごと引き抜かれた。
「これで俺を拘束するつもりだったか」
「一瞬止まればいい」
レンは立ち上がる。
左肩へ熱い痛みが走った。
先ほど鎖を受けた場所から、血が流れている。
グラウゼンは、引き抜いた鉄輪を投げた。
レンが顔を逸らす。
耳の横を鉄の塊が通過した。
背後の石壁へめり込む。
避けるだけで精一杯だった。
満身創痍。
竜の姿も取っていない。
それでも、正面から戦えば勝ち目はない。
「俺を殺す理由は何だ」
グラウゼンが尋ねる。
「異世界人だからだ」
「それだけか」
「ああ」
「この国を見ただろう」
「ああ」
「人間に追われ、行く場所を失った者たちを見たはずだ」
「ああ」
「俺が作った道も。運ばせた薬も。救った村も」
「見た」
「それでも殺すのか」
「殺す」
グラウゼンの爪が動く。
レンは短剣で受けた。
刃と爪がぶつかる。
一度。
二度。
三度。
受けるたび、レンの腕が痺れた。
四度目。
短剣の刃へ亀裂が入る。
グラウゼンが身体を回した。
尾はない。
それでも、竜体で戦うときと同じ動きだった。
右脚がレンの脇腹へ入る。
傷ついた脚とは思えない威力。
肋骨が一本折れた。
レンの身体が床を転がる。
短剣が手から離れた。
「俺が善人でもか」
グラウゼンが近づく。
「殺す」
「悪人でも?」
「同じだ」
「公平だな」
「違う」
レンは床へ手をついた。
「区別していないだけだ」
「それを公平と呼ぶ者もいる」
グラウゼンの右手に、黒い炎が集まる。
レンは落とした短剣へ手を伸ばした。
届かない。
炎が放たれる。
横へ転がる。
火が脇腹を掠めた。
服が燃える。
床へ身体を押しつけ、火を消す。
焼けた皮膚の匂い。
グラウゼンの足音が近づく。
「お前も異世界人か」
レンの動きが僅かに止まった。
「その戦い方は、この世界の兵士のものではない」
「答える必要はない」
「俺を殺せば、お前はどこへ帰る」
「次の世界だ」
グラウゼンが目を細めた。
「俺をここへ落とした者と、同じものに仕えているのか」
「知らない」
「疑わないのか」
「必要ない」
「自分が何をしているのかも?」
「分かっている」
「なら、俺と変わらんな」
グラウゼンの爪が振り下ろされた。
レンは落ちていた拘束鎖を掴んだ。
爪へ絡める。
引く。
軌道が僅かに逸れた。
床の石が砕ける。
その隙に、レンはグラウゼンの横を抜けた。
短剣を拾う。
振り返る。
グラウゼンも、こちらを見ていた。
互いの呼吸だけが、石室へ響いている。
グラウゼンの胸から流れる血は止まっていない。
焼いた傷が、戦うたびに開いている。
それでも、赤金色の瞳から力は失われていなかった。
「俺は一度、人間を信じて死んだ」
グラウゼンが言った。
レンは短剣を構えたまま動かない。
「地球にいた頃、人の命に関わる記録が書き換えられていることを見つけた」
冷たい蛍光灯。
白い壁。
長い机。
人間だった頃のグラウゼンは、一束の書類を抱えて立っていた。
見つけたのは、一人ではなかった。
同僚たちも知っていた。
一緒に証言すると約束した者もいた。
だが、会議室で顔を上げた者は誰もいなかった。
そんな話は知らない。
見た覚えもない。
指示を出したのは彼だ。
最後には、グラウゼン一人の名前だけが残った。
守ろうとした者たちから責任を押しつけられた。
信じていた者たちから切り捨てられた。
「この世界でも同じだった」
グラウゼンが続ける。
「共存を誓った王が、こちらの村を焼いた」
右手の爪が、さらに長く伸びる。
「停戦を望んだ使節が、帰り道で俺の民を売った」
首筋から頬へ、黒い鱗が広がっていく。
「同じ街で暮らしていた人間が、自分だけ助かるため隣人を差し出した」
人間とは、そういう生き物だ。
追い詰められれば、約束を破る。
自分を守るためなら、昨日まで隣にいた者を差し出す。
だから、人間以外の国を作った。
人間がいなくなれば、同じことは繰り返されないと信じた。
「俺が人間を信じ続ければ、死ぬのは俺ではない」
グラウゼンの声が石室を震わせる。
「俺を信じた者たちだ」
「今日も死ぬところだった」
レンが言った。
グラウゼンの瞳が動く。
「何?」
「戦争を終わらせるだけなら、途中で接続を切れた」
「人間軍を残せば、次の戦争が起きる」
「お前は飛べた」
「俺が退けば、兵士が戦う」
「だから、兵士ごと矢の前へ残したのか」
短い沈黙。
「違う」
「西以外は終わっていた。接続を切れば、ノア軍は下がれた」
「人間を残せば――」
「お前は、戦争を終わらせたかったんじゃない」
レンはグラウゼンを見る。
「最後の一人まで、人間でなくしたかった」
黒い爪が僅かに震えた。
「そのために、お前を信じた者たちを危険へ差し出した」
白い会議室。
顔を上げなかった同僚。
自分を守るため、隣にいた者を差し出した人間たち。
今日。
グラウゼン自身が選んだものも、同じだった。
自分の望みのために。
自分を信じた者たちを、矢の届く場所へ残した。
「黙れ」
グラウゼンの姿が消えた。
先ほどまでとは違う。
負傷した身体へ残る、すべての力を使った速さ。
レンは短剣を上げる。
間に合わない。
黒い爪が左肩を裂いた。
肉が深く抉られる。
血が飛ぶ。
続く拳が胸へ入った。
折れた肋骨が、さらに内側へ沈む。
レンの身体が壁へ叩きつけられた。
手から短剣が落ちる。
グラウゼンは止まらない。
レンの喉を掴み、片腕だけで身体を持ち上げた。
足が床から離れる。
指へ力が入る。
息ができない。
「俺の何が分かる」
グラウゼンの口元から血が流れる。
「何も分からない」
レンは答えた。
掠れた声だった。
「分かる必要もない」
「なら、何を見て俺を殺す」
「殺せる場所だ」
レンの目は、グラウゼンの胸を見ていた。
人間軍が砕いた鱗。
開いた傷。
そこへ刃を通すための角度。
グラウゼンが息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「最後まで、それか」
右腕がさらに締まる。
視界が暗くなる。
レンの右足が、床に落ちていた拘束鎖へ触れた。
足先で鎖を引く。
輪になった部分を持ち上げる。
グラウゼンの傷ついた右脚へ絡めた。
体重をかける。
鎖が張る。
グラウゼンの身体が、僅かに傾いた。
それだけだった。
倒れない。
喉を掴む手も離れない。
だが、レンには十分だった。
尾を大きく振る。
浮いた身体の向きを変える。
右脚でグラウゼンの胸を蹴った。
傷口へ踵が入る。
グラウゼンの呼吸が止まった。
喉を掴んでいた指が緩む。
レンの身体が床へ落ちた。
短剣は離れた場所にある。
拾う時間はない。
袖の中から薄刃を落とす。
右手で握った。
グラウゼンの爪が迫る。
避ければ、胸から離れる。
離れれば、次の機会はない。
レンは半歩だけ前へ出た。
爪が脇腹へ入る。
皮膚を裂く。
肉へ沈む。
痛みで視界が白くなった。
それでも止まらない。
グラウゼンの懐へ入る。
人間軍が砕いた鱗。
巨大な矢が開いた傷。
その奥へ、薄刃を押し込んだ。
肉を裂く。
骨の間を抜ける。
刃先が心臓へ届いた。
グラウゼンの身体が止まる。
脇腹へ入っていた爪が、さらに深く沈んだ。
レンの身体を殺すだけの力が、まだ残っている。
だが、振り抜かれることはなかった。
黒い爪から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……なるほど」
グラウゼンの口から、血とともに声が漏れた。
「自分の刃で、鱗を破る必要はなかったか」
「人間が破った」
「ああ」
グラウゼンが膝をつく。
レンも、その場へ片膝をついた。
薄刃は胸へ刺さったまま。
グラウゼンは、自分の傷を見下ろした。
「人間の矢で道を作り、お前が殺す」
「そうだ」
「ずいぶん遠回りをしたな」
「正面からでは殺せない」
「正しい判断だ」
グラウゼンが壁へ背を預ける。
呼吸のたび、胸から血が流れた。
「俺は、戦争を終わらせたかった」
「そうか」
「嘘ではない」
「分かっている」
「だが……それだけでもなかった」
グラウゼンの視線が、どこにもいない人間へ向けられる。
「俺は、人間を残したくなかった」
自分を裏切った人間。
約束を破った人間。
この世界で、異種族を焼いた人間。
そのすべてを消せば、同じことは起きないと思った。
だが最後に。
自分を信じた者たちを危険へ差し出したのは、グラウゼン自身だった。
「何のことはない……」
力のない笑いが漏れる。
「平原から人間を消したつもりでいた」
血に濡れた手が、床へ触れる。
「最後に残っていた【人間】は…俺だったか」
レンは否定しなかった。
肯定もしない。
グラウゼンが目を閉じかける。
だが、まだ終わっていない。
「この国も壊すのか」
「国は対象じゃない」
瞼が僅かに開く。
「そうか」
「《原石》は壊す」
グラウゼンの表情が変わった。
驚きではない。
予想していた答えを確認しただけだった。
「記録も消えるぞ」
「ああ」
「元の身体へ戻る手掛かりも」
「ああ」
「恨まれる」
「分かっている」
「それでもか」
「それが、俺の仕事だ」
石室の外から、何かがぶつかる音がした。
続いて、鉄扉が開く。
「陛下!」
ルルカが飛び込んできた。
通路で倒れている救護班を見つけ、ここまで追ってきたのだろう。
鮮やかなピンク色の髪は乱れている。
頬にも血がついていた。
石室の中を見る。
燃えた担架車。
砕けた壁。
血に濡れたレン。
胸へ薄刃を刺されたグラウゼン。
緑色の瞳が、大きく開いた。
「レン……何を、してる?」
猫の語尾はなかった。
グラウゼンが僅かに顔を動かす。
「ルルカ」
「陛下……」
ルルカが駆け寄った。
床へ膝をつき、グラウゼンの身体を支える。
「治療師を起こします。薬もあります。だから――」
「もう間に合わない」
「やってみないと分からないニャン!」
「分かる」
グラウゼンは、自分の胸へ刺さった刃を見た。
「心臓まで届いている」
ルルカの顔が歪んだ。
「嫌です」
「ルルカ」
「嫌ニャ……」
「俺を正しかったことにするな」
ルルカの言葉が止まる。
「俺が死んだからといって、間違いまで正しくなるわけではない」
「でも、陛下は……」
「道は残る」
グラウゼンの声が弱くなる。
「国も残る」
赤金色の瞳が、ルルカを見る。
「新しく生まれた者の隣にいてやれ」
「そんなの、陛下がやってください」
「もう、できない」
「できますニャ」
「お前がやれ」
グラウゼンの手が、ルルカの腕から落ちた。
胸が一度だけ上下する。
それきり、動かなかった。
赤金色の瞳から、ゆっくりと光が失われていく。
黒い角も。
首筋の鱗も。
そのまま残っていた。
「陛下?」
ルルカが呼ぶ。
返事はない。
「陛下……」
何度呼んでも、その目が開くことはなかった。
レンはグラウゼンの胸から薄刃を引き抜いた。
大型弩が抉った傷から、最後の血が流れる。
細い刃が通った跡は、裂けた肉の中へ紛れた。
ルルカが顔を上げる。
涙に濡れた目で、レンを見る。
「陛下を殺したのか」
「ああ」
「最初から、そのためにこの国へ来たのか」
「ああ」
「水路に何かしたのも?」
「ああ」
ルルカの尾から、力が抜けていく。
通路の向こうで、眠っている治療師が小さく呻いた。
鎮静香が切れ始めている。
レンは薄刃を袖へ戻した。
「《原石》も壊すのか」
「ああ」
ルルカが立ち上がる。
爪が伸びる。
それでも、今は振るわなかった。
「壊させないニャ」
「そうか」
「お前も逃がさない」
「なら、ここで呼べ」
兵士を呼べばいい。
護衛を起こせばいい。
レンは負傷している。
左肩。
脇腹。
今なら、簡単に捕らえられる。
ルルカは口を開いた。
声は出なかった。
代わりに、鉄扉の横へ立つ。
通路を空ける。
「今は行け」
「なぜだ」
「分からないニャ」
唇を噛み、レンを睨む。
「でも、このままお前が殺されたら、何も聞けない。何も決められないまま、全部終わるニャン」
「逃がすのか」
「違う」
ルルカの声が震える。
「次は、あたしが止める」
レンは何も答えなかった。
ルルカの横を通り、石室を出る。
通路に倒れている四人の呼吸は続いている。
目を覚ましても、甘い煙と、顔を布で隠した猫人の姿しか覚えていないだろう。
背後から、グラウゼンを呼ぶ声が聞こえた。
一度。
二度。
何度も。
レンは振り返らない。
王都の戸棚には、二本の魚が残されている。
戦場から帰り、それを料理する。
北の村へ行き、ルルカの妹にも食べさせる。
約束は、まだ消えていない。
だが、その約束を交わした相手は、もうレンの隣にはいなかった。




