約束を○す
翌日の昼。
王城西側を流れる水路が、低い唸りを上げた。
普段は底の石が見えるほど穏やかな流れが、一気に膨れ上がる。
白く泡立った水が石壁へぶつかり、王都西部の集積所まで細かな振動が伝わってきた。
荷を運んでいた者たちが手を止める。
水路に面した監視台では、技師が四つ並んだ計器へ目を向けていた。
「全環接続、開始!」
遠く離れた王城から、鐘が四度鳴る。
《原石》と戦場へ置かれた四つの導石をつなぐ、最後の接続試験だった。
力を送る経路だけを開き、四本の導石へ同時に届くかを確認する。
王城へ取り込まれた水は、《原石》を囲む四つの制御環を通り、それぞれ別の水路から外へ戻される。
流れが滞れば、対応する環の接続も遅れる。
水面の高さが、一段上がる。
続いて二段。
レンは荷箱を抱えたまま、水路脇の柱へ刻まれている目盛りを見た。
最初の鐘から十二を数えたところで、最大水量。
西側の水門が完全に開いている。
二十八。
水面が僅かに揺れる。
監視台に並んだ四本の針のうち、西を示す一本が遅れて動いた。
三十三。
ほかの針と同じ位置で止まる。
流れが安定した。
百を数えたところで、王城から再び鐘が鳴った。
四本の針が同時に下がり、水の勢いが弱まり始める。
レンは何事もなかったように、荷箱を指定された場所へ置いた。
「接続確認、異常なし!」
監視台にいた技師が声を張る。
「次に水門を全開にするのは作戦当日! それまでは通常水量を維持する! 流れの低下や逆流があれば、すぐ管理所へ報告しろ!」
周囲から返事が上がった。
次の全開は、実戦。
もう、仕掛けを試されることはない。
◇
日が沈む前。
レンは西部集積所の水路管理所へ向かった。
扉の前には、作業を求める者たちが列を作っている。
昼の接続試験で、水路へ流れ込んだ枝や泥を取り除くためだった。
「次」
水路管理官が顔を上げる。
額へ短い角を生やした、小柄な男だった。
レンの通行証と作業札を順番に確認する。
その視線が、通行証の下に書かれた保証人の名前で止まった。
――新生院案内役、ルルカ。
「猫人か」
「ああ」
「狭い場所は平気か?」
「入れる」
「なら、下の返し水路を見てくれ。奥の排水格子に何か詰まっているらしい。小柄な奴でないと通れん」
管理官が長い鉄の鉤と、魔石灯を渡してくる。
「格子の手前までだ。その先は王城の管理区画になる。術式の境を越えるなよ」
「分かった」
嘘ではない。
レンが仕掛ける場所も、その手前だった。
石段を下りる。
大きな水路の脇へ、人一人がようやく通れる横穴が開いていた。
昼の水量が嘘のように、今は細い水が足首を撫でるだけだった。
奥へ進む。
一つ目の曲がり角。
壁に埋め込まれた魔石灯。
二つ目の曲がり角。
天井から垂れた木の根。
三つ目を過ぎると、レンの腕の毛が僅かに逆立った。
王城を覆う感知術式の境界。
さらに一歩進む。
反応が強くなる。
レンはそこで止まり、半歩だけ戻った。
仕掛ける場所は、術式の外側。
王城から流れ出した水が、最初に狭まる箇所だった。
この返し水路が詰まれば、西側の環を巡る水そのものが鈍る。
腰へ巻いた布の下から、折り畳んだ金属枠を取り出す。
細い鋼線で作った枠。
古い網。
油を染み込ませた麻糸。
すべて集積所で廃棄されるはずだった物だ。
広げれば、水路の半分ほどを塞ぐ。
だが、今は細く折り畳まれ、壁の割れ目へ収まる大きさになっている。
レンは枠を石の陰へ固定した。
通常の流れでは動かない。
水門が全開になり、一定以上の力がかかったときだけ、最初の麻糸が切れる。
枠が開き、網が水路へ張り出す。
そこへ流木や藻が引っかかれば、西側の返し水だけが滞る。
完全には止めない。
水を塞ぎ切れば、異常がすぐに計器へ表れる。
技師が接続を切り、原因を調べる時間も生まれる。
必要なのは、故障ではない。
四つの環のうち、西側だけを僅かに遅らせることだった。
人間軍が用意した対竜用の大型弩は、再装填に時間がかかる。
そのため射界をずらした三群に分けられ、戦闘前に一本ずつ装填されるという。
第一群が放ったあと。
第二群。
さらに第三群。
本来の計画では、第一群の矢を受けている間に《昇華》が後方まで届く。
二群目以降が命令を受け、狙いを定める前に、人間の軍は崩れる。
三十。
できれば五十。
それだけ遅らせれば、第二群が撃てる。
第三群まで届く可能性もある。
固定に使ったもう一本の糸は、最初の糸より細くしてある。
水圧を受け続ければ、遅れて切れる。
役目を終えた網は枠ごと下流へ流され、詰まりも解消される。
西側の流れは元へ戻る。
残るのは、僅かな時間のずれだけだった。
グラウゼンを殺せるほどの傷を与えられるかは分からない。
それでも、人間の矢が鱗を砕けば、レンの刃が届く。
必要なのは、その一度だけだった。
レンは上流側へ手を伸ばし、石の間に挟まっていた枯れ枝を何本か抜いた。
本当に詰まっていた物だ。
鉄の鉤へ絡める。
枠の位置。
二本の麻糸。
感知術式との距離。
すべてをもう一度確認し、横穴を戻った。
「随分かかったな」
管理官が尋ねる。
「根が絡んでいた」
レンは鉤にかかった枝を見せた。
「格子は?」
「壊れていない」
「水漏れは?」
「ない」
管理官は作業札へ印を押した。
「ご苦労だった。戻っていいぞ」
水路の保守に入り、詰まりを取り除いた。
報告した内容に、嘘は一つもなかった。
◇
新生者用の宿舎へ戻ると、共同厨房に明かりがついていた。
扉を開ける。
椅子に座っていたルルカが、勢いよく顔を上げた。
卓の上には、魚の入った籠がある。
「遅いニャ!」
「仕事だ」
「今日は夕方までって言ってたニャン」
「延びた」
「それは見れば分かるニャ」
ルルカの鼻が小さく動く。
緑色の目が細められた。
「水臭いニャン」
「水路へ入った」
「落ちたのかニャ?」
「落ちていない」
「じゃあ、どうして頭から尻尾まで濡れてるニャン」
「狭かった」
「答えになってないニャー!」
ルルカは椅子から立ち上がり、レンの通行証を奪った。
裏側に押された水路管理所の印を見る。
疑うように二度確かめたあと、ようやく肩の力を抜いた。
「本当に仕事だったニャ……」
「ああ」
「最初からそう言えニャン」
「言った」
「詳しく言えってことニャ!」
ルルカが布棚から乾いた手拭いを取り出し、レンの頭へ被せた。
「自分で拭ける」
「できる奴は、耳の先から水を垂らしたまま歩かないニャ」
「じきに乾く」
「風邪を引いたら困るニャン」
「猫人も風邪を引くのか」
「引くニャ。馬鹿は引かないって話もあるから、お前は平気かもしれないけどニャン」
「なら、お前も拭く必要はないな」
「誰が馬鹿だニャ!」
ルルカは手拭い越しに、レンの頭を乱暴に擦った。
耳を折られないよう手で押さえる。
「動くなニャン」
「雑だ」
「文句を言うなら、自分でちゃんと拭くニャ」
そう言いながら、ルルカは耳の付け根に残った水まで丁寧に拭き取った。
黒い尾が、無意識に椅子の脚へ巻きつく。
ルルカはそれを見たが、何も言わなかった。
以前なら、尻尾は正直だと笑ったはずだった。
代わりに手拭いをレンへ押しつけ、卓の籠を指差す。
「今日は魚だけじゃないニャン」
籠の底から、布に包まれた細長い物を取り出す。
開くと、小ぶりな川魚の燻製が四本並んでいた。
表面は飴色になり、木の煙と強い塩の匂いがする。
「村から届いたニャ。ミルカが送ってきたニャン」
「妹か」
「そうニャ」
ルルカが胸を張る。
「あたしが手紙に、お前の作った魚料理のことを書いたら、北の川の魚の方が絶対に美味しいって言い出したニャ」
包みの中には、小さく折られた紙も入っていた。
共通文字で、短い文章が書かれている。
――黒い猫の人へ。
――姉が迷惑をかけていたら、ごめんなさい。
――魚は私が捕りました。
「迷惑はかけられている」
「そこは否定するところニャ!」
「事実だ」
「ミルカに変なことを教えるなニャン!」
ルルカが紙を奪い返す。
耳は怒ったように立っているが、尾は楽しそうに揺れていた。
レンは燻製を一本手に取った。
腹を指で押す。
よく水分が抜けている。
保存のため、塩は強めだった。
「そのまま食べるのかニャ?」
「塩を抜く」
「今から?」
「ああ」
「もうお腹空いたニャン」
「待て」
「どのくらい?」
「腹が減らなくなるまでだ」
「一生食べられない言い方をするなニャー!」
レンは燻製を二本だけ薄く切り、水へ浸した。
残っていた魚を炙り、骨と皮を分ける。
骨は湯へ入れ、香味野菜と一緒に煮た。
第四世界で、サエキに教わった魚の臭みを取る方法。
フィーネから何度も注意された、火を入れすぎないための順番。
すべて同じ材料が揃っているわけではない。
それでも、覚えたことは使える。
骨から味が出たところで湯を濾し、塩を抜いた魚と刻んだ根菜を加える。
最後に、炙った身を鍋へ戻す。
「できたぞ」
ルルカが椅子から跳ねるように立ち上がった。
器へ顔を近づけ、湯気を吸い込む。
「いい匂いニャ……」
「熱い」
「分かってるニャン」
言った直後にスープへ口をつけ、耳を後ろへ倒した。
「熱いニャ!」
「分かっていなかったな」
「思ったより熱かっただけニャン!」
息を吹きかけてから、もう一口。
今度はゆっくり味わう。
縞模様の尾が、大きく左右へ揺れ始めた。
「美味しいニャ」
「塩が強い」
「そこがいいニャン。村の冬の味がするニャ」
ルルカは器を両手で包んだ。
「ミルカにも作ってやってほしいニャン」
「同じ魚があるならな」
「村へ行けば、いくらでも捕れるニャ」
「冬は?」
「今の季節なら、まだ平気ニャン」
当然のように、戦いが終わったあとの話をする。
卓の上には、まだ二本の燻製が残っていた。
「これは取っておくニャ」
ルルカが包み直す。
「傷むぞ」
「二カ月は持つニャン」
「村へ持って帰るのか」
「違うニャ」
ルルカは包みを厨房の戸棚へ入れた。
「お前とあたしが戦場から戻ったら、また作るニャン」
「同じ物を?」
「別の料理ニャ。今日より美味しい奴がいいニャン」
「注文が多いな」
「料理人への正当な要求ニャ」
「料理人になった覚えはない」
「尻尾は嫌じゃないって言ってるニャン」
椅子の脚へ巻きついたままの黒い尾が、僅かに動く。
レンは何も答えなかった。
ルルカも、それ以上は追及しなかった。
◇
それから十日が過ぎた。
西部集積所には、毎日新しい荷物が届いた。
衣服。
毛布。
水。
傷薬。
種族ごとに分けられた食料。
変わった身体を傷つけないための、布で覆われた拘束具。
レンは届いた荷を分け、数え、行き先ごとに積み直した。
ルルカは新生支援隊と王都の間を行き来した。
夕方になれば、どちらかが魚を持って共同厨房へ来る。
最初は約束していた。
何度か繰り返すうち、約束する必要もなくなった。
ルルカは、レンの尾を見て考えていることを当てようとしなくなった。
レンは廊下から聞こえる足音だけで、二人分の鍋を火へかけるようになった。
ルルカは魚の骨を外すのが上手くなった。
野菜を同じ大きさに切ることだけは、最後まで覚えなかった。
「食べれば同じニャ」
「火の通りが変わる」
「細かいニャン」
「大きい方だけ生だ」
「それはお前が何とかするニャ」
「切り直せ」
「料理人が厳しいニャー!」
騒がしい夕食だった。
戦場へ運ばれる荷物は、日に日に増えている。
出発の時刻も近づいていた。
それでも戸棚の奥には、二本の燻製が手をつけられないまま残されていた。
帰ってから食べる魚だった。
◇
作戦予定日の四日前。
夜明け前の王都へ、警鐘が鳴った。
一度。
二度。
間を置き、三度。
敵軍の予定外の進軍を知らせる鐘だった。
レンが宿舎の玄関へ下りたときには、大通りを何台もの伝令馬車が走っていた。
兵舎の扉が一斉に開く。
眠っていた街へ灯りが広がっていく。
ほどなく、ルルカが駆け込んできた。
支援隊の服を着ている。
背中には大きな荷物。
鮮やかなピンク色の髪は、後ろでまとめられていた。
「人間軍が夜通し進んだニャ」
息を整える間もなく告げる。
「昨日の夜、北西の峠を越えたニャン。明日の昼には平原へ入る」
「予定より三日早いな」
「作戦も早まったニャ。第二支援隊は、今から出るニャン」
ルルカが一枚の紙を差し出す。
レンの名前が書かれた、変更後の通行証だった。
当初は《昇華》が始まったあとで、第二支援隊に合流することになっていた。
今は、最初から戦場まで同行する許可へ変わっている。
「なぜ変わった」
「人間軍が封鎖線の内側へ入ったからニャ。もう外へ情報を持ち出せない。それに、現地の荷分けが遅れてるニャン」
ルルカが紙の一番下を指す。
そこにも、保証人として自分の名が書かれていた。
「でも、嫌なら残っていいニャ」
「人手が必要なんだろ」
「必要ニャン。でも、危険になる」
ルルカは通行証を握ったまま、レンを見た。
「後ろの支援陣地でも、安全とは限らないニャ。人間軍の矢が届くかもしれない。変えられた兵士が暴れたら、あたしたちも襲われるかもしれない」
「分かっている」
「お前に頼んだのは、荷物を分けるところまでニャ。死ぬところまで保証した覚えはないニャン」
「お前は行くのか」
「行くニャ」
「なら、行く」
ルルカの耳が横へ倒れる。
「そう言うと思ったニャン」
通行証から手を離す。
レンは紙を受け取り、上着の内側へ入れた。
「荷物を取ってくる」
部屋へ戻ろうとしたところで、ルルカが腕を掴んだ。
「待つニャ」
「出発するんだろ」
「その前に、約束するニャン」
「何をだ」
ルルカが共同厨房の方を見る。
戸棚の中には、ミルカが送ってきた燻製が残っている。
「帰ってくるニャ」
「必要な仕事が終わればな」
「そういう言い方は駄目ニャン」
縞模様の尾が、レンの足へ触れた。
「何があっても、帰ってくるって言えニャ」
「何があるかは分からない」
「分からないから約束するニャン!」
声が玄関へ響く。
出発の準備をしていた新生者たちが、こちらを見る。
ルルカは気にしなかった。
「帰って、あの魚を料理するニャ。それから北の村へ行って、ミルカにも作るニャン」
「二つになったな」
「どっちも約束ニャ」
レンはルルカを見る。
緑色の瞳は、逸らされない。
自分の名を書き、前線へ連れていこうとしている。
レンが何者であるかも。
何のためにこの国へ来たのかも知らないまま。
それでも、帰る場所を用意している。
「分かった」
レンが答える。
「帰って、あの魚を料理する」
ルルカの耳が立った。
「ミルカにもニャ」
「ああ」
「約束ニャ?」
「ああ」
短い返事だった。
それでもルルカは、ようやく腕から手を離した。
「破ったら許さないニャン」
「覚えておく」
◇
夜が明ける前に、第二支援隊は王都を出た。
荷馬車は二十台。
新生者用の衣服と毛布を載せた車。
食料と水。
医療道具。
簡易の天幕。
先頭には護衛の騎兵。
最後尾にも、武装した兵士が並んでいる。
レンとルルカは、中央の馬車へ乗っていた。
街の西門を抜ける。
横を流れる水路は、まだ穏やかだった。
石の底を擦る音。
水車が回る音。
王城へ向かう水と、王城から戻ってくる水。
その下流。
暗い横穴の中で、細い金属枠が折り畳まれたまま待っている。
明日、《原石》が動けば水門が開く。
最初の糸が切れる。
西側の環だけが遅れる。
第一群の矢が放たれる。
続いて第二群。
間に合えば、第三群も。
それだけでは、グラウゼンは死なない。
人間が放った矢が、黒い鱗を砕く。
そのあとで、レンの刃が届く。
不意に、空気が震えた。
馬たちが足を止めかける。
山の上から、巨大な黒い影が現れた。
黒竜王グラウゼン。
広げた翼が、夜明け前の空を覆っている。
黒い鱗へ、東の空から差した最初の光が当たった。
以前と同じように、レンの獣の身体が反応する。
耳が後ろへ倒れ、爪が僅かに伸びた。
それでも、尾は膨らまなかった。
恐怖の扱い方は、すでに覚えている。
隣のルルカが、空を見上げる。
以前のように手を振ることはなかった。
ただ、祈るように両手を胸元で重ねている。
「陛下も行くニャ」
「ああ」
「絶対に、誰も死なせないつもりなんだと思うニャン」
レンは答えなかった。
グラウゼンは支援隊の上を通り過ぎ、戦場のある西へ飛んでいく。
その姿が山の向こうへ消えても、ルルカはしばらく空を見ていた。
レンの胸元には、ルルカが保証人として署名した通行証がある。
王都の戸棚には、二人で食べるはずの魚が残っている。
北の村へ行く約束もした。
そのすべてを受け取ったまま、レンはルルカの王を殺しに向かっていた。
発動まで、あと一日。




