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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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59/71

約束を○す


翌日の昼。


王城西側を流れる水路が、低い唸りを上げた。


普段は底の石が見えるほど穏やかな流れが、一気に膨れ上がる。


白く泡立った水が石壁へぶつかり、王都西部の集積所まで細かな振動が伝わってきた。


荷を運んでいた者たちが手を止める。


水路に面した監視台では、技師が四つ並んだ計器へ目を向けていた。


「全環接続、開始!」


遠く離れた王城から、鐘が四度鳴る。


《原石》と戦場へ置かれた四つの導石をつなぐ、最後の接続試験だった。


力を送る経路だけを開き、四本の導石へ同時に届くかを確認する。


王城へ取り込まれた水は、《原石》を囲む四つの制御環を通り、それぞれ別の水路から外へ戻される。


流れが滞れば、対応する環の接続も遅れる。


水面の高さが、一段上がる。


続いて二段。


レンは荷箱を抱えたまま、水路脇の柱へ刻まれている目盛りを見た。


最初の鐘から十二を数えたところで、最大水量。


西側の水門が完全に開いている。


二十八。


水面が僅かに揺れる。


監視台に並んだ四本の針のうち、西を示す一本が遅れて動いた。


三十三。


ほかの針と同じ位置で止まる。


流れが安定した。


百を数えたところで、王城から再び鐘が鳴った。


四本の針が同時に下がり、水の勢いが弱まり始める。


レンは何事もなかったように、荷箱を指定された場所へ置いた。


「接続確認、異常なし!」


監視台にいた技師が声を張る。


「次に水門を全開にするのは作戦当日! それまでは通常水量を維持する! 流れの低下や逆流があれば、すぐ管理所へ報告しろ!」


周囲から返事が上がった。


次の全開は、実戦。


もう、仕掛けを試されることはない。


          ◇


日が沈む前。


レンは西部集積所の水路管理所へ向かった。


扉の前には、作業を求める者たちが列を作っている。


昼の接続試験で、水路へ流れ込んだ枝や泥を取り除くためだった。


「次」


水路管理官が顔を上げる。


額へ短い角を生やした、小柄な男だった。


レンの通行証と作業札を順番に確認する。


その視線が、通行証の下に書かれた保証人の名前で止まった。


――新生院案内役、ルルカ。


「猫人か」


「ああ」


「狭い場所は平気か?」


「入れる」


「なら、下の返し水路を見てくれ。奥の排水格子に何か詰まっているらしい。小柄な奴でないと通れん」


管理官が長い鉄の鉤と、魔石灯を渡してくる。


「格子の手前までだ。その先は王城の管理区画になる。術式の境を越えるなよ」


「分かった」


嘘ではない。


レンが仕掛ける場所も、その手前だった。


石段を下りる。


大きな水路の脇へ、人一人がようやく通れる横穴が開いていた。


昼の水量が嘘のように、今は細い水が足首を撫でるだけだった。


奥へ進む。


一つ目の曲がり角。


壁に埋め込まれた魔石灯。


二つ目の曲がり角。


天井から垂れた木の根。


三つ目を過ぎると、レンの腕の毛が僅かに逆立った。


王城を覆う感知術式の境界。


さらに一歩進む。


反応が強くなる。


レンはそこで止まり、半歩だけ戻った。


仕掛ける場所は、術式の外側。


王城から流れ出した水が、最初に狭まる箇所だった。


この返し水路が詰まれば、西側の環を巡る水そのものが鈍る。


腰へ巻いた布の下から、折り畳んだ金属枠を取り出す。


細い鋼線で作った枠。


古い網。


油を染み込ませた麻糸。


すべて集積所で廃棄されるはずだった物だ。


広げれば、水路の半分ほどを塞ぐ。


だが、今は細く折り畳まれ、壁の割れ目へ収まる大きさになっている。


レンは枠を石の陰へ固定した。


通常の流れでは動かない。


水門が全開になり、一定以上の力がかかったときだけ、最初の麻糸が切れる。


枠が開き、網が水路へ張り出す。


そこへ流木や藻が引っかかれば、西側の返し水だけが滞る。


完全には止めない。


水を塞ぎ切れば、異常がすぐに計器へ表れる。


技師が接続を切り、原因を調べる時間も生まれる。


必要なのは、故障ではない。


四つの環のうち、西側だけを僅かに遅らせることだった。


人間軍が用意した対竜用の大型弩は、再装填に時間がかかる。


そのため射界をずらした三群に分けられ、戦闘前に一本ずつ装填されるという。


第一群が放ったあと。


第二群。


さらに第三群。


本来の計画では、第一群の矢を受けている間に《昇華》が後方まで届く。


二群目以降が命令を受け、狙いを定める前に、人間の軍は崩れる。


三十。


できれば五十。


それだけ遅らせれば、第二群が撃てる。


第三群まで届く可能性もある。


固定に使ったもう一本の糸は、最初の糸より細くしてある。


水圧を受け続ければ、遅れて切れる。


役目を終えた網は枠ごと下流へ流され、詰まりも解消される。


西側の流れは元へ戻る。


残るのは、僅かな時間のずれだけだった。


グラウゼンを殺せるほどの傷を与えられるかは分からない。


それでも、人間の矢が鱗を砕けば、レンの刃が届く。


必要なのは、その一度だけだった。


レンは上流側へ手を伸ばし、石の間に挟まっていた枯れ枝を何本か抜いた。


本当に詰まっていた物だ。


鉄の鉤へ絡める。


枠の位置。


二本の麻糸。


感知術式との距離。


すべてをもう一度確認し、横穴を戻った。


「随分かかったな」


管理官が尋ねる。


「根が絡んでいた」


レンは鉤にかかった枝を見せた。


「格子は?」


「壊れていない」


「水漏れは?」


「ない」


管理官は作業札へ印を押した。


「ご苦労だった。戻っていいぞ」


水路の保守に入り、詰まりを取り除いた。


報告した内容に、嘘は一つもなかった。


          ◇


新生者用の宿舎へ戻ると、共同厨房に明かりがついていた。


扉を開ける。


椅子に座っていたルルカが、勢いよく顔を上げた。


卓の上には、魚の入った籠がある。


「遅いニャ!」


「仕事だ」


「今日は夕方までって言ってたニャン」


「延びた」


「それは見れば分かるニャ」


ルルカの鼻が小さく動く。


緑色の目が細められた。


「水臭いニャン」


「水路へ入った」


「落ちたのかニャ?」


「落ちていない」


「じゃあ、どうして頭から尻尾まで濡れてるニャン」


「狭かった」


「答えになってないニャー!」


ルルカは椅子から立ち上がり、レンの通行証を奪った。


裏側に押された水路管理所の印を見る。


疑うように二度確かめたあと、ようやく肩の力を抜いた。


「本当に仕事だったニャ……」


「ああ」


「最初からそう言えニャン」


「言った」


「詳しく言えってことニャ!」


ルルカが布棚から乾いた手拭いを取り出し、レンの頭へ被せた。


「自分で拭ける」


「できる奴は、耳の先から水を垂らしたまま歩かないニャ」


「じきに乾く」


「風邪を引いたら困るニャン」


「猫人も風邪を引くのか」


「引くニャ。馬鹿は引かないって話もあるから、お前は平気かもしれないけどニャン」


「なら、お前も拭く必要はないな」


「誰が馬鹿だニャ!」


ルルカは手拭い越しに、レンの頭を乱暴に擦った。


耳を折られないよう手で押さえる。


「動くなニャン」


「雑だ」


「文句を言うなら、自分でちゃんと拭くニャ」


そう言いながら、ルルカは耳の付け根に残った水まで丁寧に拭き取った。


黒い尾が、無意識に椅子の脚へ巻きつく。


ルルカはそれを見たが、何も言わなかった。


以前なら、尻尾は正直だと笑ったはずだった。


代わりに手拭いをレンへ押しつけ、卓の籠を指差す。


「今日は魚だけじゃないニャン」


籠の底から、布に包まれた細長い物を取り出す。


開くと、小ぶりな川魚の燻製が四本並んでいた。


表面は飴色になり、木の煙と強い塩の匂いがする。


「村から届いたニャ。ミルカが送ってきたニャン」


「妹か」


「そうニャ」


ルルカが胸を張る。


「あたしが手紙に、お前の作った魚料理のことを書いたら、北の川の魚の方が絶対に美味しいって言い出したニャ」


包みの中には、小さく折られた紙も入っていた。


共通文字で、短い文章が書かれている。


――黒い猫の人へ。


――姉が迷惑をかけていたら、ごめんなさい。


――魚は私が捕りました。


「迷惑はかけられている」


「そこは否定するところニャ!」


「事実だ」


「ミルカに変なことを教えるなニャン!」


ルルカが紙を奪い返す。


耳は怒ったように立っているが、尾は楽しそうに揺れていた。


レンは燻製を一本手に取った。


腹を指で押す。


よく水分が抜けている。


保存のため、塩は強めだった。


「そのまま食べるのかニャ?」


「塩を抜く」


「今から?」


「ああ」


「もうお腹空いたニャン」


「待て」


「どのくらい?」


「腹が減らなくなるまでだ」


「一生食べられない言い方をするなニャー!」


レンは燻製を二本だけ薄く切り、水へ浸した。


残っていた魚を炙り、骨と皮を分ける。


骨は湯へ入れ、香味野菜と一緒に煮た。


第四世界で、サエキに教わった魚の臭みを取る方法。


フィーネから何度も注意された、火を入れすぎないための順番。


すべて同じ材料が揃っているわけではない。


それでも、覚えたことは使える。


骨から味が出たところで湯を濾し、塩を抜いた魚と刻んだ根菜を加える。


最後に、炙った身を鍋へ戻す。


「できたぞ」


ルルカが椅子から跳ねるように立ち上がった。


器へ顔を近づけ、湯気を吸い込む。


「いい匂いニャ……」


「熱い」


「分かってるニャン」


言った直後にスープへ口をつけ、耳を後ろへ倒した。


「熱いニャ!」


「分かっていなかったな」


「思ったより熱かっただけニャン!」


息を吹きかけてから、もう一口。


今度はゆっくり味わう。


縞模様の尾が、大きく左右へ揺れ始めた。


「美味しいニャ」


「塩が強い」


「そこがいいニャン。村の冬の味がするニャ」


ルルカは器を両手で包んだ。


「ミルカにも作ってやってほしいニャン」


「同じ魚があるならな」


「村へ行けば、いくらでも捕れるニャ」


「冬は?」


「今の季節なら、まだ平気ニャン」


当然のように、戦いが終わったあとの話をする。


卓の上には、まだ二本の燻製が残っていた。


「これは取っておくニャ」


ルルカが包み直す。


「傷むぞ」


「二カ月は持つニャン」


「村へ持って帰るのか」


「違うニャ」


ルルカは包みを厨房の戸棚へ入れた。


「お前とあたしが戦場から戻ったら、また作るニャン」


「同じ物を?」


「別の料理ニャ。今日より美味しい奴がいいニャン」


「注文が多いな」


「料理人への正当な要求ニャ」


「料理人になった覚えはない」


「尻尾は嫌じゃないって言ってるニャン」


椅子の脚へ巻きついたままの黒い尾が、僅かに動く。


レンは何も答えなかった。


ルルカも、それ以上は追及しなかった。


          ◇


それから十日が過ぎた。


西部集積所には、毎日新しい荷物が届いた。


衣服。


毛布。


水。


傷薬。


種族ごとに分けられた食料。


変わった身体を傷つけないための、布で覆われた拘束具。


レンは届いた荷を分け、数え、行き先ごとに積み直した。


ルルカは新生支援隊と王都の間を行き来した。


夕方になれば、どちらかが魚を持って共同厨房へ来る。


最初は約束していた。


何度か繰り返すうち、約束する必要もなくなった。


ルルカは、レンの尾を見て考えていることを当てようとしなくなった。


レンは廊下から聞こえる足音だけで、二人分の鍋を火へかけるようになった。


ルルカは魚の骨を外すのが上手くなった。


野菜を同じ大きさに切ることだけは、最後まで覚えなかった。


「食べれば同じニャ」


「火の通りが変わる」


「細かいニャン」


「大きい方だけ生だ」


「それはお前が何とかするニャ」


「切り直せ」


「料理人が厳しいニャー!」


騒がしい夕食だった。


戦場へ運ばれる荷物は、日に日に増えている。


出発の時刻も近づいていた。


それでも戸棚の奥には、二本の燻製が手をつけられないまま残されていた。


帰ってから食べる魚だった。


          ◇


作戦予定日の四日前。


夜明け前の王都へ、警鐘が鳴った。


一度。


二度。


間を置き、三度。


敵軍の予定外の進軍を知らせる鐘だった。


レンが宿舎の玄関へ下りたときには、大通りを何台もの伝令馬車が走っていた。


兵舎の扉が一斉に開く。


眠っていた街へ灯りが広がっていく。


ほどなく、ルルカが駆け込んできた。


支援隊の服を着ている。


背中には大きな荷物。


鮮やかなピンク色の髪は、後ろでまとめられていた。


「人間軍が夜通し進んだニャ」


息を整える間もなく告げる。


「昨日の夜、北西の峠を越えたニャン。明日の昼には平原へ入る」


「予定より三日早いな」


「作戦も早まったニャ。第二支援隊は、今から出るニャン」


ルルカが一枚の紙を差し出す。


レンの名前が書かれた、変更後の通行証だった。


当初は《昇華》が始まったあとで、第二支援隊に合流することになっていた。


今は、最初から戦場まで同行する許可へ変わっている。


「なぜ変わった」


「人間軍が封鎖線の内側へ入ったからニャ。もう外へ情報を持ち出せない。それに、現地の荷分けが遅れてるニャン」


ルルカが紙の一番下を指す。


そこにも、保証人として自分の名が書かれていた。


「でも、嫌なら残っていいニャ」


「人手が必要なんだろ」


「必要ニャン。でも、危険になる」


ルルカは通行証を握ったまま、レンを見た。


「後ろの支援陣地でも、安全とは限らないニャ。人間軍の矢が届くかもしれない。変えられた兵士が暴れたら、あたしたちも襲われるかもしれない」


「分かっている」


「お前に頼んだのは、荷物を分けるところまでニャ。死ぬところまで保証した覚えはないニャン」


「お前は行くのか」


「行くニャ」


「なら、行く」


ルルカの耳が横へ倒れる。


「そう言うと思ったニャン」


通行証から手を離す。


レンは紙を受け取り、上着の内側へ入れた。


「荷物を取ってくる」


部屋へ戻ろうとしたところで、ルルカが腕を掴んだ。


「待つニャ」


「出発するんだろ」


「その前に、約束するニャン」


「何をだ」


ルルカが共同厨房の方を見る。


戸棚の中には、ミルカが送ってきた燻製が残っている。


「帰ってくるニャ」


「必要な仕事が終わればな」


「そういう言い方は駄目ニャン」


縞模様の尾が、レンの足へ触れた。


「何があっても、帰ってくるって言えニャ」


「何があるかは分からない」


「分からないから約束するニャン!」


声が玄関へ響く。


出発の準備をしていた新生者たちが、こちらを見る。


ルルカは気にしなかった。


「帰って、あの魚を料理するニャ。それから北の村へ行って、ミルカにも作るニャン」


「二つになったな」


「どっちも約束ニャ」


レンはルルカを見る。


緑色の瞳は、逸らされない。


自分の名を書き、前線へ連れていこうとしている。


レンが何者であるかも。


何のためにこの国へ来たのかも知らないまま。


それでも、帰る場所を用意している。


「分かった」


レンが答える。


「帰って、あの魚を料理する」


ルルカの耳が立った。


「ミルカにもニャ」


「ああ」


「約束ニャ?」


「ああ」


短い返事だった。


それでもルルカは、ようやく腕から手を離した。


「破ったら許さないニャン」


「覚えておく」


          ◇


夜が明ける前に、第二支援隊は王都を出た。


荷馬車は二十台。


新生者用の衣服と毛布を載せた車。


食料と水。


医療道具。


簡易の天幕。


先頭には護衛の騎兵。


最後尾にも、武装した兵士が並んでいる。


レンとルルカは、中央の馬車へ乗っていた。


街の西門を抜ける。


横を流れる水路は、まだ穏やかだった。


石の底を擦る音。


水車が回る音。


王城へ向かう水と、王城から戻ってくる水。


その下流。


暗い横穴の中で、細い金属枠が折り畳まれたまま待っている。


明日、《原石》が動けば水門が開く。


最初の糸が切れる。


西側の環だけが遅れる。


第一群の矢が放たれる。


続いて第二群。


間に合えば、第三群も。


それだけでは、グラウゼンは死なない。


人間が放った矢が、黒い鱗を砕く。


そのあとで、レンの刃が届く。


不意に、空気が震えた。


馬たちが足を止めかける。


山の上から、巨大な黒い影が現れた。


黒竜王グラウゼン。


広げた翼が、夜明け前の空を覆っている。


黒い鱗へ、東の空から差した最初の光が当たった。


以前と同じように、レンの獣の身体が反応する。


耳が後ろへ倒れ、爪が僅かに伸びた。


それでも、尾は膨らまなかった。


恐怖の扱い方は、すでに覚えている。


隣のルルカが、空を見上げる。


以前のように手を振ることはなかった。


ただ、祈るように両手を胸元で重ねている。


「陛下も行くニャ」


「ああ」


「絶対に、誰も死なせないつもりなんだと思うニャン」


レンは答えなかった。


グラウゼンは支援隊の上を通り過ぎ、戦場のある西へ飛んでいく。


その姿が山の向こうへ消えても、ルルカはしばらく空を見ていた。


レンの胸元には、ルルカが保証人として署名した通行証がある。


王都の戸棚には、二人で食べるはずの魚が残っている。


北の村へ行く約束もした。


そのすべてを受け取ったまま、レンはルルカの王を殺しに向かっていた。


発動まで、あと一日。

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