仕掛けを○す
仮住民証を受け取ってから、十一日が過ぎた。
案内役としての仕事が終わっても、ルルカはレンの部屋へ来た。
毎日ではない。
前線へ出る日もあれば、新しい案内役へ身体の支え方や声のかけ方を教える日もある。
それでも三日に一度は、何かしらの魚を抱えて現れた。
「今日は大物ニャ!」
扉を開けると、ルルカが両腕で一匹の魚を掲げていた。
尾まで含めれば、彼女の上半身ほどもある。
「鮮度は?」
「目は澄んでるニャ。鰓は赤。腹も硬いニャン」
「値段は?」
「……聞く必要あるかニャ?」
「高かったのか」
「必要な犠牲だったニャン」
ルルカは魚を調理台へ置き、空になった財布を見つめた。
「今月は、しばらく小魚で我慢するニャ……」
「最初から小魚にしろ」
「今日は特別ニャン」
「何かあるのか」
「食べてから話すニャ」
分かりやすかった。
レンは魚へ包丁を入れる。
前回までとは違い、ルルカも隣へ立った。
鱗を落とす。
腹を開く。
内臓を傷つけないよう取り出し、流水で血を洗う。
初めて魚を捌いたときは厨房中へ鱗を飛ばしていたが、今は手元へ布をかぶせている。
「上手くなったな」
「本当かニャ?」
「ああ」
ピンク色の耳が立つ。
「料理人まで、あとどれくらいニャン?」
「遠い」
耳が伏せられた。
「もうちょっと褒めてもいいだろニャ」
「最初よりはいい」
「基準が低すぎるニャン!」
魚の半身には香草と塩をすり込み、葉で包んで蒸し焼きにした。
残りは骨の周囲から身を削ぎ、黄色根と合わせる。
ルルカは魚を混ぜながら、何度もレンへ視線を向けていた。
「話があるんだろ」
「食べてからニャ」
「気になる」
「珍しいニャン」
「魚が高かった理由がな」
「そっちかニャ!」
ルルカの尾が不満そうに調理台を叩く。
料理が出来上がるまで、話すつもりはないらしい。
二人分の皿を机へ運ぶ。
レンが座る前に、ルルカは蒸し焼きへ箸を伸ばした。
「待て」
「まだ何かあるのかニャ?」
「作った側が座っていない」
「もう案内役じゃないから、命令は聞かないニャン」
「次から作らない」
ルルカの箸が止まる。
大人しく待った。
レンが向かいへ座る。
「食べろ」
「いただきますニャ!」
葉を開くと、閉じ込められていた湯気が上がった。
魚の脂と香草の匂いが部屋へ広がる。
ルルカが身を一口食べる。
満足そうに目を細めたあと、ようやく本題を口にした。
「レン。支援隊を手伝ってほしいニャ」
「断る」
「まだ何も説明してないニャン!」
「食事の前に言わなかったのは、断りにくくするためだろ」
「違うニャ。魚を食べたら機嫌がよくなると思っただけニャン」
「同じだ」
「まだ一口しか食べてないニャ。もう少し食べたら考えが変わるかもしれないニャン」
「変わらない」
「三口くらい試すニャ?」
「話せ」
ルルカは蒸し焼きを口へ入れ、飲み込んだ。
「前線の受け入れ場所で、物資が上手く分けられてないニャン」
予想される新生者は、数万人。
どの人間が、どの種族へ変わるかは事前に分からない。
衣服だけでも、十種類以上ある。
身体の大きさ。
腕の数。
翼や尾の有無。
足の形。
それらを区別し、一度に運べるよう分けなければならない。
「服だけじゃないニャ。食べられる物も、必要な薬も種族ごとに違うニャン」
「今さら気づいたのか」
「準備はしてたニャ。でも、実際に並べたら、どこに何があるか分からなくなったニャン」
これまでは新生者一人につき、案内役が一人か二人ついた。
必要な物も、その都度新生院から持ってくればよかった。
何万人ともなれば、同じ方法は使えない。
「倉庫で働いてる奴が必要ニャ」
「ほかにもいるだろ」
「いるニャン。でも、元人間で、新しい身体に慣れたばかりで、案内役の仕事も分かってる奴はお前だけニャ」
「分かっていない」
「毎日のように、あたしの話を聞いてるニャン」
「魚を食べながらな」
「ちゃんと覚えてるだろ?」
レンは答えなかった。
ルルカの話は記憶している。
目を覚ました直後に、何を先に説明するか。
身体を見せる鏡は、本人が求めるまで近づけない。
家族の話を否定しない。
元の名前を捨てるよう迫らない。
新しい種族名より先に、本人の名前を呼ぶ。
レンが原石や王城の情報を集める間、ルルカも案内役として必要なものを集めていた。
「戦いが始まるまでは、王都西側の集積所で準備を手伝ってほしいニャ」
「始まったあとは?」
「支援隊と一緒に前線へ行くニャン」
「俺は王都から出られない」
「戦いが始まれば、計画を隠す必要もなくなるニャ。支援隊に入るなら、特別な許可を出してもらえるニャン」
レンは魚の骨を外す。
王都西側の集積所。
城の地下から伸びる水路に最も近い倉庫群だった。
「どうして黙ってるニャ?」
「考えている」
「前向きに?」
「条件がある」
ルルカが身を乗り出す。
「何ニャ?」
「今の倉庫の仕事も続ける」
「休みがなくなるニャン」
「問題ない」
「給料は支援隊からも出るニャ」
「なら、なおさら問題ない」
「意外と金に細かいニャン……」
ルルカは少し考え、頷いた。
「分かったニャ。明日、支援隊長に会ってほしいニャン」
「話は、それだけか」
「ああ」
「なら、魚を食べろ。冷める」
「引き受けるのかニャ?」
「話を聞くだけだ」
「それ、引き受ける奴の言い方ニャン」
ルルカの尾が、嬉しそうに持ち上がった。
◇
翌日。
王都西側の空き地には、白い天幕が何百と並べられていた。
実際の戦場ではない。
新生者を受け入れる手順を確認するための訓練場だった。
広場の中央を四本の太い道が十字に区切っている。
東。
西。
南。
北。
それぞれの先に、色の違う旗が立っていた。
変えられた人間は、倒れている場所に応じて四つの区画へ運ばれる。
意識を確認する場所。
怪我を治療する場所。
身体を隠す衣服を渡す場所。
案内役が最初の説明をする場所。
順番に天幕を移動させ、最後に一人ずつ仮の名前と身体の特徴を記録する。
予定だけを見れば、整理されている。
実際に訓練が始まると、すぐに崩れた。
「翼人用の服、どこニャー!」
「南の三番です!」
「三番にあるのは腕が四本ある服ニャン!」
「箱には翼の印があります!」
「これ、鳥の印じゃなくて南を表す矢印ニャ!」
似た記号。
同じ色の布。
積み重なった荷箱。
必要な物を探すたび、誰かが倉庫の奥へ走る。
大柄な種族用の服が入口を塞ぎ、その裏に小柄な種族の靴が積まれていた。
薬箱は症状ごとに分けられているが、種族によって使えない薬が混ざっている。
「酷いな」
レンが言う。
「分かってるニャ!」
ルルカは紙を両手に持ち、走り回っている。
「だから呼んだんだニャン!」
「誰が並べた」
「あたしたちニャ」
「やり直せ」
「簡単に言うなニャン!」
「簡単だ」
レンは一つの荷箱を開ける。
中にあるのは、背中が大きく開いた上着。
箱には、翼を広げた鳥の絵が描かれていた。
「種族名で分けるな」
「翼人用だニャ」
「翼があるのは翼人だけじゃない」
羽毛を持つ者。
皮膜の翼を持つ者。
昆虫に似た透明な翅を持つ者。
同じ翼でも、背中から生える位置が違う。
一つの種族名でまとめれば、使えない服が混ざる。
「身体の特徴で分けろ」
レンは空いている板へ、四つの記号を描いた。
身体の大きさ。
腕の数。
翼の位置。
尾の太さ。
最初に大きさで分ける。
その中で、通常の服を着られない特徴を持つ者だけ別にする。
細かな種族まで判断するのは、案内役へ引き渡したあとでいい。
「薬も同じだ。最初は種族別ではなく、誰にでも使える物だけを置け」
「使えない薬は?」
「診察する天幕へ移せ。目を覚ました直後に使うな」
ルルカが、手元の紙へ書き込んでいく。
「聞いたかニャ!」
周囲にいた案内役たちが頷く。
荷箱が運び直される。
入口に近い場所へ、最も使う物を置く。
数の少ない特殊な衣服は奥。
空になった箱は、負傷者を運ぶ邪魔にならないよう外へ出す。
一時間後。
同じ訓練を、最初からやり直した。
「翼あり!」
「大きさは?」
「小型。腕は二本。尾なし!」
「北の二番!」
衣服がすぐに出てくる。
薬を探して走る者もいない。
先ほどの半分以下の時間で、一人分の受け入れが終わった。
「できたニャ……」
ルルカが呆然と呟く。
「最初が酷すぎただけだ」
「もう少し褒めろニャン!」
「一度教えれば動けた」
案内役たちの耳や尾が立つ。
「お前じゃなくて、みんなを褒めたニャ……」
ルルカだけが不満そうに頬を膨らませた。
◇
三度目の訓練を始めようとしたとき。
広場の外から、馬車が一台入ってきた。
車体には、新生院の青い旗。
前後を四人の兵士が固めている。
訓練に使う人員ではない。
馬車の中から、何かが壁へぶつかる音が聞こえた。
「何があったニャ?」
ルルカが駆け寄る。
御者台にいた犬人が、慌てて答えた。
「今朝、北の監視所から送られてきた新生者だ。途中で目を覚ましてから、誰の話も聞かない」
「新生院へ運ぶんじゃないのか?」
「王都へ入る直前に暴れ始めた。近くに受け入れ設備があると聞いて、ここへ来た」
馬車がもう一度揺れる。
内側から扉が蹴られていた。
「種族は?」
「猪人だ。元は人間の兵士らしい」
ルルカの顔から、先ほどまでの明るさが消える。
「武器は?」
「ない。だが、力が強い」
兵士が扉の錠を確認する。
「拘束具を持ってきます」
「待つニャ」
ルルカが止めた。
「閉じ込めたまま縄を見せたら、もっと怖がるニャン」
「では、どうする」
「話すニャ」
「危険です」
「そのための案内役ニャン」
ルルカは馬車の前へ立った。
扉を軽く叩く。
「聞こえるかニャ?」
蹴る音が止まる。
返事はない。
「あたしはルルカ。新しい身体の使い方を教える案内役ニャン」
「開けろ!」
男の声が返ってきた。
「先に約束するニャ。開けても、あたしたちを殴らない」
「元に戻せ!」
「それはできないニャ」
扉の向こうから、荒い呼吸が聞こえる。
「なら、殺すぞ」
「困るニャン」
ルルカは扉へ背を向け、兵士へ合図した。
「開けて」
「しかし――」
「閉じ込めてても、何も変わらないニャ」
兵士が迷いながら錠を外す。
扉が開いた。
最初に、大きな腕が飛び出した。
ルルカの肩を掴もうとする。
彼女は半歩下がり、腕を避けた。
馬車から現れたのは、二メートルを超える猪人だった。
太い首。
口元から伸びる二本の牙。
人間用の服は裂け、上半身のほとんどが露出している。
自分の手を見る。
周囲の異種族を見る。
男の目に恐怖が広がっていく。
「近づくな!」
馬車の脇に積まれていた工具へ手を伸ばす。
木槌。
男の指が柄へ触れる前に、レンが踏み込んだ。
手首を押さえる。
肘の内側へ肩を当て、身体を回す。
猪人の腕は太い。
力だけなら、レンよりはるかに強い。
だが、男自身がその重さに慣れていない。
踏み出した足が、想像していた場所より前へ出る。
変化した重心へ対応できず、身体が傾いた。
レンは逆らわず、その勢いを地面へ流した。
猪人の巨体が、片膝をつく。
首筋へ手を添える。
爪を伸ばせば動脈へ届く位置。
「動くな」
「殺す気か」
「動かなければ殺さない」
「レン!」
ルルカの声が飛ぶ。
「傷つけるな!」
「傷はつけていない」
男の腕を押さえたまま答える。
実際、骨も関節も壊していない。
ルルカがゆっくりと近づく。
男と同じ高さまで腰を下ろした。
「名前は?」
「……何?」
「お前の名前ニャ」
男は息を荒らげている。
「種族じゃない。人間だった頃から使ってた名前を聞いてるニャン」
「バルドだ」
「分かったニャ。バルド、今からレンが手を離すニャン」
「俺は人間だ」
「うん」
「こんな化け物じゃない」
「うん」
ルルカは否定しなかった。
「お前が自分を人間だと思ってるなら、今はそれでいいニャ」
男が顔を上げる。
「身体の呼び方は、あとで決めればいいニャン。名前まで変える必要はない」
しばらくして、男の手から力が抜けた。
レンが拘束を解く。
バルドは逃げなかった。
地面へ座り込んだまま、自分の腕を見つめている。
ルルカは近くの案内役へ衣服を頼んだ。
「大型。腕二本。翼なし。尾は細いニャ」
先ほど決めた分類。
迷うことなく、一着の上着が運ばれてきた。
ルルカが、それをバルドの肩へかける。
「最初に、水を飲むニャ。そのあと、何が起きたか全部説明するニャン」
「元へ戻れないってことも?」
ルルカの手が止まる。
「それも話す」
猫の語尾はなかった。
バルドは俯く。
それでも、差し出された水は受け取った。
◇
「報告より物騒だな」
訓練場の端にある天幕。
支援隊長を務める銀色の狼人が、レンの仮住民証を見ていた。
顔の左半分には、古い火傷の痕がある。
「刃を六本も持ち歩いていた新生者とは聞いていた」
「今は五本だ」
「減ったのか?」
「一本は研ぎ直している」
「安心できる答えではないな」
支援隊長は仮住民証を机へ置く。
隣には、ルルカと共同倉庫の倉庫長が立っていた。
「物資の扱いについては問題ない」
倉庫長が言う。
「指示を違えたことは一度もない。荷の不足にも、こちらより先に気づく」
「元人間だ」
支援隊長の目が細くなる。
「戦場へ連れていけば、敵へ情報を流す可能性がある」
「連合軍と接触させなければいいニャ」
ルルカが答える。
「レンを乗せるのは、陛下の《昇華》が始まったあとでいいニャン。その時点なら、計画を隠す意味はないニャ」
「お前が監視するのか?」
「あたしは案内役の指揮に入るニャン。ずっと隣にはいられないニャ」
「なら、保証できないだろう」
ルルカは一瞬、口を閉じた。
それからレンを見る。
「保証する」
猫の語尾が消えていた。
「こいつは、言わないことが多い。聞いても、全部は答えない」
「褒めているのか」
「黙ってろニャ」
ルルカはレンを睨んだあと、支援隊長へ向き直る。
「でも、任されたことは途中で投げない。誰かを傷つけなくていいときに、わざわざ傷つけたりもしない」
先ほどのバルドを指している。
レンが首を折るつもりなら、止められる者はいなかった。
それをしなかった。
ただ、それだけだった。
「一か月以上、王都の決まりも破ってないニャ。あたしの案内が終わったあとも、新生院へ来て、ほかの新生者の訓練を手伝ってくれたニャン」
「魚を作っていただけだ」
「今は黙ってろって言ったニャ!」
支援隊長が腕を組む。
「レン・クロード」
「ああ」
「自分を人間だと思うか?」
「記憶は人間のものだ」
「人間軍が負けることを、どう思う」
「俺には関係ない」
倉庫長の眉が動く。
支援隊長は表情を変えなかった。
「ノアが負けることもか?」
「ああ」
「では、なぜ支援隊へ加わる」
レンはルルカを見る。
緑色の瞳が、答えを待っている。
「仕事を頼まれた」
「それだけか」
「ほかに必要か?」
支援隊長が、僅かに笑った。
「英雄になりたいと言われるよりは信用できる」
机から一枚の紙を取り出す。
前線支援隊への臨時参加許可。
戦いが始まるまでは、王都西側の集積所で物資整理に従事する。
《昇華》の開始が確認されたあと、第二支援隊とともに前線へ移動する。
人間軍との接触は禁止。
命令に反した場合は、その場で拘束される。
「保証人の署名が必要だ」
支援隊長が言う。
ルルカは迷わず筆を取った。
紙の下へ、自分の名前を書く。
その横へ、新生院の案内役として使う印を押した。
「これでいいニャ?」
「ああ」
支援隊長は紙をレンへ差し出す。
「明日から西の集積所へ入れ。お前の行動に問題があれば、責任は保証人にも及ぶ」
「分かった」
レンが許可証を受け取る。
ルルカは、ようやく息を吐いた。
「逃げたら、どこまでも追いかけるからニャ」
「捕まえられるのか」
「お前より屋根を走るのは速いニャン」
「今はどうだろうな」
「試すかニャ?」
「ここで走るな」
支援隊長が低い声で止めた。
◇
王都西側の集積所は、水路沿いに造られていた。
前線へ運ぶ大量の水を確保するため、王城から流れてくる水路へ新しい汲み上げ場が増設されている。
大きな水車。
何十個もの樽。
水量を調節するための鉄製の堰。
そのさらに下。
人目につきにくい石壁の奥に、古い保守用の通路があった。
王城の地下へ直接入れる道ではない。
水の詰まりや石壁の亀裂を調べるため、水路に沿って城壁近くまで続いている。
レンは水樽の数を確認しながら、流れる音を聞いた。
一定ではない。
昼の鐘が鳴ったあと、一度だけ流れが強くなる。
僅かに遅れて、王城の方角から低い振動が届いた。
《原石》を囲む四つの環。
西側の環。
流れる水の量を増やしたとき、回転の遅れが修正されていた。
「今日は多いな」
汲み上げを担当する蜥蜴人が、水路を覗き込む。
「何がだ」
「城へ入る水だ。最近、決まった時間に一気に持っていかれる」
「前からか?」
「一か月くらいだな。城の地下で何をしてるかは知らんが、おかげでこっちの水車が止まりそうになる」
蜥蜴人は不満そうに堰を調整した。
原石の充填は、すでに終わっている。
それでも、実際に使うときと同じ状態で環を動かし、調律を繰り返しているらしい。
試験の時刻。
水量。
西側の水路へかかる負荷。
調べるための時間は、まだある。
「レン!」
背後からルルカの声が飛んでくる。
振り返ると、両腕に衣服の箱を抱えていた。
「水を見てないで手伝うニャ!」
「水樽の数を確認していた」
「そっちは終わっただろニャン」
「今終わった」
ルルカから箱を一つ受け取る。
「重くないか?」
「平気ニャ」
「歩き方が傾いている」
「気のせいニャン」
レンは、もう一つの箱も取り上げた。
「一人で持てるニャ」
「遅い」
「心配してるって言えば可愛いのにニャン」
「していない」
「尻尾は?」
レンの黒い尾は、持ち上げた荷箱の底を支えていた。
「荷物を支えている」
「本当に便利に使えるようになったニャ……」
並んで倉庫へ戻る。
道の途中。
ルルカが、レンの手にある許可証へ目を向けた。
「これで、一緒に前線へ行けるニャ」
「ああ」
「怖くないのか?」
「何がだ」
「戦争ニャ」
「何度も見た」
「戦ったことも?」
「ああ」
「人を殺したことは?」
レンは答えなかった。
ルルカの耳が伏せられる。
「あるんだニャ」
「ああ」
「……そっか」
足音だけが続く。
ルルカは理由を聞かなかった。
どちらの側で戦ったのかも。
何人殺したのかも。
しばらくして、前を向いたまま口を開く。
「あたしは、人間を殺したことないニャ」
「そうか」
「戦場へ行くのも、今回が初めてニャン」
「支援隊は後方にいる」
「それでも、何が起きるか分からないニャ」
抱えていた箱へ、ルルカの指が食い込む。
「陛下なら大丈夫だと思ってた。空を飛んでる姿を見れば、負けるところなんて想像できなかったニャン」
地下で聞いた言葉。
グラウゼンは《昇華》を使う間、平原の中央から動けない。
人間軍から最初の攻撃を受ける。
ルルカは、それを知っている。
「でも、今は少し怖いニャ」
「行かなければいい」
「行くニャン」
迷いのない返事だった。
「変えられる人たちの隣にいるって決めたからニャ」
それはグラウゼンへの忠誠とは違う。
彼の計画を正しいと思ったからでもない。
身体を奪われる者がいる。
その者たちを、一人にしたくない。
ルルカ自身が選んだ仕事だった。
「お前も来るニャ」
「ああ」
「ちゃんと帰るぞ」
「どこへ」
「王都ニャ」
ルルカが当然のように答える。
「そのあと、あたしの村へ行くニャン。ミルカに魚料理を作る予約も残ってるニャ」
「まだ覚えていたのか」
「必要なことは覚えてるニャン」
ルルカが笑う。
レンは前を向いた。
「仕事が終わったらな」
「約束ニャ?」
「順番の話だ」
「それを約束っていうニャン」
否定はしなかった。
◇
その夜。
レンは自室の机へ、三つの物を並べた。
細い鋼線。
目の粗い古い網。
水へ濡れてもすぐには切れない、油を染み込ませた麻糸。
どれも倉庫で廃棄される予定だった物だ。
鋼線で、小さな枠を作る。
その内側へ折り畳んだ網を収め、麻糸で固定した。
そのまま水へ入れても、何も起きない。
弱い流れなら、細い枠へ沿って水が抜ける。
一定以上の水圧がかかったときだけ麻糸が切れ、畳まれていた網が開く。
開いた網は、水路を流れる葉や木片を捕らえる。
完全には塞がない。
少しだけ、流れを遅らせる。
西側の環が停止すれば、すぐに異常だと気づかれる。
僅かに遅れるだけなら、地下で見たときと同じ調律のずれに見える。
レンは桶へ水を張った。
作った枠を、細い水路の模型へ固定する。
最初は、弱く水を流す。
網は開かない。
次に、桶を傾ける。
一度に水が流れ込む。
麻糸が切れた。
畳まれていた網が広がり、流れが鈍くなる。
想定より塞ぎすぎている。
人間軍の一部を残すだけでいい。
原石そのものを暴走させれば、王都まで巻き込まれる。
鋼線を一本減らす。
網の端を切る。
もう一度、作り直す。
窓の外から、夜の鐘が聞こえた。
人間の連合軍は、すでに国境近くへ集まり始めている。
予測より行軍が速い。
戦いまでは、あと二週間ほど。
王城西側の水路へ近づく許可は手に入れた。
前線へ出る理由もできた。
その両方を与えた書類には、ルルカの名前がある。
レンは署名へ一度だけ目を向けた。
すぐに許可証を伏せ、網の調整へ戻る。
明日の夕方には、ルルカが魚を持ってくる。
それまでに終わらせる必要があった。




