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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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58/73

仕掛けを○す


仮住民証を受け取ってから、十一日が過ぎた。


案内役としての仕事が終わっても、ルルカはレンの部屋へ来た。


毎日ではない。


前線へ出る日もあれば、新しい案内役へ身体の支え方や声のかけ方を教える日もある。


それでも三日に一度は、何かしらの魚を抱えて現れた。


「今日は大物ニャ!」


扉を開けると、ルルカが両腕で一匹の魚を掲げていた。


尾まで含めれば、彼女の上半身ほどもある。


「鮮度は?」


「目は澄んでるニャ。鰓は赤。腹も硬いニャン」


「値段は?」


「……聞く必要あるかニャ?」


「高かったのか」


「必要な犠牲だったニャン」


ルルカは魚を調理台へ置き、空になった財布を見つめた。


「今月は、しばらく小魚で我慢するニャ……」


「最初から小魚にしろ」


「今日は特別ニャン」


「何かあるのか」


「食べてから話すニャ」


分かりやすかった。


レンは魚へ包丁を入れる。


前回までとは違い、ルルカも隣へ立った。


鱗を落とす。


腹を開く。


内臓を傷つけないよう取り出し、流水で血を洗う。


初めて魚を捌いたときは厨房中へ鱗を飛ばしていたが、今は手元へ布をかぶせている。


「上手くなったな」


「本当かニャ?」


「ああ」


ピンク色の耳が立つ。


「料理人まで、あとどれくらいニャン?」


「遠い」


耳が伏せられた。


「もうちょっと褒めてもいいだろニャ」


「最初よりはいい」


「基準が低すぎるニャン!」


魚の半身には香草と塩をすり込み、葉で包んで蒸し焼きにした。


残りは骨の周囲から身を削ぎ、黄色根と合わせる。


ルルカは魚を混ぜながら、何度もレンへ視線を向けていた。


「話があるんだろ」


「食べてからニャ」


「気になる」


「珍しいニャン」


「魚が高かった理由がな」


「そっちかニャ!」


ルルカの尾が不満そうに調理台を叩く。


料理が出来上がるまで、話すつもりはないらしい。


二人分の皿を机へ運ぶ。


レンが座る前に、ルルカは蒸し焼きへ箸を伸ばした。


「待て」


「まだ何かあるのかニャ?」


「作った側が座っていない」


「もう案内役じゃないから、命令は聞かないニャン」


「次から作らない」


ルルカの箸が止まる。


大人しく待った。


レンが向かいへ座る。


「食べろ」


「いただきますニャ!」


葉を開くと、閉じ込められていた湯気が上がった。


魚の脂と香草の匂いが部屋へ広がる。


ルルカが身を一口食べる。


満足そうに目を細めたあと、ようやく本題を口にした。


「レン。支援隊を手伝ってほしいニャ」


「断る」


「まだ何も説明してないニャン!」


「食事の前に言わなかったのは、断りにくくするためだろ」


「違うニャ。魚を食べたら機嫌がよくなると思っただけニャン」


「同じだ」


「まだ一口しか食べてないニャ。もう少し食べたら考えが変わるかもしれないニャン」


「変わらない」


「三口くらい試すニャ?」


「話せ」


ルルカは蒸し焼きを口へ入れ、飲み込んだ。


「前線の受け入れ場所で、物資が上手く分けられてないニャン」


予想される新生者は、数万人。


どの人間が、どの種族へ変わるかは事前に分からない。


衣服だけでも、十種類以上ある。


身体の大きさ。


腕の数。


翼や尾の有無。


足の形。


それらを区別し、一度に運べるよう分けなければならない。


「服だけじゃないニャ。食べられる物も、必要な薬も種族ごとに違うニャン」


「今さら気づいたのか」


「準備はしてたニャ。でも、実際に並べたら、どこに何があるか分からなくなったニャン」


これまでは新生者一人につき、案内役が一人か二人ついた。


必要な物も、その都度新生院から持ってくればよかった。


何万人ともなれば、同じ方法は使えない。


「倉庫で働いてる奴が必要ニャ」


「ほかにもいるだろ」


「いるニャン。でも、元人間で、新しい身体に慣れたばかりで、案内役の仕事も分かってる奴はお前だけニャ」


「分かっていない」


「毎日のように、あたしの話を聞いてるニャン」


「魚を食べながらな」


「ちゃんと覚えてるだろ?」


レンは答えなかった。


ルルカの話は記憶している。


目を覚ました直後に、何を先に説明するか。


身体を見せる鏡は、本人が求めるまで近づけない。


家族の話を否定しない。


元の名前を捨てるよう迫らない。


新しい種族名より先に、本人の名前を呼ぶ。


レンが原石や王城の情報を集める間、ルルカも案内役として必要なものを集めていた。


「戦いが始まるまでは、王都西側の集積所で準備を手伝ってほしいニャ」


「始まったあとは?」


「支援隊と一緒に前線へ行くニャン」


「俺は王都から出られない」


「戦いが始まれば、計画を隠す必要もなくなるニャ。支援隊に入るなら、特別な許可を出してもらえるニャン」


レンは魚の骨を外す。


王都西側の集積所。


城の地下から伸びる水路に最も近い倉庫群だった。


「どうして黙ってるニャ?」


「考えている」


「前向きに?」


「条件がある」


ルルカが身を乗り出す。


「何ニャ?」


「今の倉庫の仕事も続ける」


「休みがなくなるニャン」


「問題ない」


「給料は支援隊からも出るニャ」


「なら、なおさら問題ない」


「意外と金に細かいニャン……」


ルルカは少し考え、頷いた。


「分かったニャ。明日、支援隊長に会ってほしいニャン」


「話は、それだけか」


「ああ」


「なら、魚を食べろ。冷める」


「引き受けるのかニャ?」


「話を聞くだけだ」


「それ、引き受ける奴の言い方ニャン」


ルルカの尾が、嬉しそうに持ち上がった。


          ◇


翌日。


王都西側の空き地には、白い天幕が何百と並べられていた。


実際の戦場ではない。


新生者を受け入れる手順を確認するための訓練場だった。


広場の中央を四本の太い道が十字に区切っている。


東。


西。


南。


北。


それぞれの先に、色の違う旗が立っていた。


変えられた人間は、倒れている場所に応じて四つの区画へ運ばれる。


意識を確認する場所。


怪我を治療する場所。


身体を隠す衣服を渡す場所。


案内役が最初の説明をする場所。


順番に天幕を移動させ、最後に一人ずつ仮の名前と身体の特徴を記録する。


予定だけを見れば、整理されている。


実際に訓練が始まると、すぐに崩れた。


「翼人用の服、どこニャー!」


「南の三番です!」


「三番にあるのは腕が四本ある服ニャン!」


「箱には翼の印があります!」


「これ、鳥の印じゃなくて南を表す矢印ニャ!」


似た記号。


同じ色の布。


積み重なった荷箱。


必要な物を探すたび、誰かが倉庫の奥へ走る。


大柄な種族用の服が入口を塞ぎ、その裏に小柄な種族の靴が積まれていた。


薬箱は症状ごとに分けられているが、種族によって使えない薬が混ざっている。


「酷いな」


レンが言う。


「分かってるニャ!」


ルルカは紙を両手に持ち、走り回っている。


「だから呼んだんだニャン!」


「誰が並べた」


「あたしたちニャ」


「やり直せ」


「簡単に言うなニャン!」


「簡単だ」


レンは一つの荷箱を開ける。


中にあるのは、背中が大きく開いた上着。


箱には、翼を広げた鳥の絵が描かれていた。


「種族名で分けるな」


「翼人用だニャ」


「翼があるのは翼人だけじゃない」


羽毛を持つ者。


皮膜の翼を持つ者。


昆虫に似た透明な翅を持つ者。


同じ翼でも、背中から生える位置が違う。


一つの種族名でまとめれば、使えない服が混ざる。


「身体の特徴で分けろ」


レンは空いている板へ、四つの記号を描いた。


身体の大きさ。


腕の数。


翼の位置。


尾の太さ。


最初に大きさで分ける。


その中で、通常の服を着られない特徴を持つ者だけ別にする。


細かな種族まで判断するのは、案内役へ引き渡したあとでいい。


「薬も同じだ。最初は種族別ではなく、誰にでも使える物だけを置け」


「使えない薬は?」


「診察する天幕へ移せ。目を覚ました直後に使うな」


ルルカが、手元の紙へ書き込んでいく。


「聞いたかニャ!」


周囲にいた案内役たちが頷く。


荷箱が運び直される。


入口に近い場所へ、最も使う物を置く。


数の少ない特殊な衣服は奥。


空になった箱は、負傷者を運ぶ邪魔にならないよう外へ出す。


一時間後。


同じ訓練を、最初からやり直した。


「翼あり!」


「大きさは?」


「小型。腕は二本。尾なし!」


「北の二番!」


衣服がすぐに出てくる。


薬を探して走る者もいない。


先ほどの半分以下の時間で、一人分の受け入れが終わった。


「できたニャ……」


ルルカが呆然と呟く。


「最初が酷すぎただけだ」


「もう少し褒めろニャン!」


「一度教えれば動けた」


案内役たちの耳や尾が立つ。


「お前じゃなくて、みんなを褒めたニャ……」


ルルカだけが不満そうに頬を膨らませた。


          ◇


三度目の訓練を始めようとしたとき。


広場の外から、馬車が一台入ってきた。


車体には、新生院の青い旗。


前後を四人の兵士が固めている。


訓練に使う人員ではない。


馬車の中から、何かが壁へぶつかる音が聞こえた。


「何があったニャ?」


ルルカが駆け寄る。


御者台にいた犬人が、慌てて答えた。


「今朝、北の監視所から送られてきた新生者だ。途中で目を覚ましてから、誰の話も聞かない」


「新生院へ運ぶんじゃないのか?」


「王都へ入る直前に暴れ始めた。近くに受け入れ設備があると聞いて、ここへ来た」


馬車がもう一度揺れる。


内側から扉が蹴られていた。


「種族は?」


「猪人だ。元は人間の兵士らしい」


ルルカの顔から、先ほどまでの明るさが消える。


「武器は?」


「ない。だが、力が強い」


兵士が扉の錠を確認する。


「拘束具を持ってきます」


「待つニャ」


ルルカが止めた。


「閉じ込めたまま縄を見せたら、もっと怖がるニャン」


「では、どうする」


「話すニャ」


「危険です」


「そのための案内役ニャン」


ルルカは馬車の前へ立った。


扉を軽く叩く。


「聞こえるかニャ?」


蹴る音が止まる。


返事はない。


「あたしはルルカ。新しい身体の使い方を教える案内役ニャン」


「開けろ!」


男の声が返ってきた。


「先に約束するニャ。開けても、あたしたちを殴らない」


「元に戻せ!」


「それはできないニャ」


扉の向こうから、荒い呼吸が聞こえる。


「なら、殺すぞ」


「困るニャン」


ルルカは扉へ背を向け、兵士へ合図した。


「開けて」


「しかし――」


「閉じ込めてても、何も変わらないニャ」


兵士が迷いながら錠を外す。


扉が開いた。


最初に、大きな腕が飛び出した。


ルルカの肩を掴もうとする。


彼女は半歩下がり、腕を避けた。


馬車から現れたのは、二メートルを超える猪人だった。


太い首。


口元から伸びる二本の牙。


人間用の服は裂け、上半身のほとんどが露出している。


自分の手を見る。


周囲の異種族を見る。


男の目に恐怖が広がっていく。


「近づくな!」


馬車の脇に積まれていた工具へ手を伸ばす。


木槌。


男の指が柄へ触れる前に、レンが踏み込んだ。


手首を押さえる。


肘の内側へ肩を当て、身体を回す。


猪人の腕は太い。


力だけなら、レンよりはるかに強い。


だが、男自身がその重さに慣れていない。


踏み出した足が、想像していた場所より前へ出る。


変化した重心へ対応できず、身体が傾いた。


レンは逆らわず、その勢いを地面へ流した。


猪人の巨体が、片膝をつく。


首筋へ手を添える。


爪を伸ばせば動脈へ届く位置。


「動くな」


「殺す気か」


「動かなければ殺さない」


「レン!」


ルルカの声が飛ぶ。


「傷つけるな!」


「傷はつけていない」


男の腕を押さえたまま答える。


実際、骨も関節も壊していない。


ルルカがゆっくりと近づく。


男と同じ高さまで腰を下ろした。


「名前は?」


「……何?」


「お前の名前ニャ」


男は息を荒らげている。


「種族じゃない。人間だった頃から使ってた名前を聞いてるニャン」


「バルドだ」


「分かったニャ。バルド、今からレンが手を離すニャン」


「俺は人間だ」


「うん」


「こんな化け物じゃない」


「うん」


ルルカは否定しなかった。


「お前が自分を人間だと思ってるなら、今はそれでいいニャ」


男が顔を上げる。


「身体の呼び方は、あとで決めればいいニャン。名前まで変える必要はない」


しばらくして、男の手から力が抜けた。


レンが拘束を解く。


バルドは逃げなかった。


地面へ座り込んだまま、自分の腕を見つめている。


ルルカは近くの案内役へ衣服を頼んだ。


「大型。腕二本。翼なし。尾は細いニャ」


先ほど決めた分類。


迷うことなく、一着の上着が運ばれてきた。


ルルカが、それをバルドの肩へかける。


「最初に、水を飲むニャ。そのあと、何が起きたか全部説明するニャン」


「元へ戻れないってことも?」


ルルカの手が止まる。


「それも話す」


猫の語尾はなかった。


バルドは俯く。


それでも、差し出された水は受け取った。


          ◇


「報告より物騒だな」


訓練場の端にある天幕。


支援隊長を務める銀色の狼人が、レンの仮住民証を見ていた。


顔の左半分には、古い火傷の痕がある。


「刃を六本も持ち歩いていた新生者とは聞いていた」


「今は五本だ」


「減ったのか?」


「一本は研ぎ直している」


「安心できる答えではないな」


支援隊長は仮住民証を机へ置く。


隣には、ルルカと共同倉庫の倉庫長が立っていた。


「物資の扱いについては問題ない」


倉庫長が言う。


「指示を違えたことは一度もない。荷の不足にも、こちらより先に気づく」


「元人間だ」


支援隊長の目が細くなる。


「戦場へ連れていけば、敵へ情報を流す可能性がある」


「連合軍と接触させなければいいニャ」


ルルカが答える。


「レンを乗せるのは、陛下の《昇華》が始まったあとでいいニャン。その時点なら、計画を隠す意味はないニャ」


「お前が監視するのか?」


「あたしは案内役の指揮に入るニャン。ずっと隣にはいられないニャ」


「なら、保証できないだろう」


ルルカは一瞬、口を閉じた。


それからレンを見る。


「保証する」


猫の語尾が消えていた。


「こいつは、言わないことが多い。聞いても、全部は答えない」


「褒めているのか」


「黙ってろニャ」


ルルカはレンを睨んだあと、支援隊長へ向き直る。


「でも、任されたことは途中で投げない。誰かを傷つけなくていいときに、わざわざ傷つけたりもしない」


先ほどのバルドを指している。


レンが首を折るつもりなら、止められる者はいなかった。


それをしなかった。


ただ、それだけだった。


「一か月以上、王都の決まりも破ってないニャ。あたしの案内が終わったあとも、新生院へ来て、ほかの新生者の訓練を手伝ってくれたニャン」


「魚を作っていただけだ」


「今は黙ってろって言ったニャ!」


支援隊長が腕を組む。


「レン・クロード」


「ああ」


「自分を人間だと思うか?」


「記憶は人間のものだ」


「人間軍が負けることを、どう思う」


「俺には関係ない」


倉庫長の眉が動く。


支援隊長は表情を変えなかった。


「ノアが負けることもか?」


「ああ」


「では、なぜ支援隊へ加わる」


レンはルルカを見る。


緑色の瞳が、答えを待っている。


「仕事を頼まれた」


「それだけか」


「ほかに必要か?」


支援隊長が、僅かに笑った。


「英雄になりたいと言われるよりは信用できる」


机から一枚の紙を取り出す。


前線支援隊への臨時参加許可。


戦いが始まるまでは、王都西側の集積所で物資整理に従事する。


《昇華》の開始が確認されたあと、第二支援隊とともに前線へ移動する。


人間軍との接触は禁止。


命令に反した場合は、その場で拘束される。


「保証人の署名が必要だ」


支援隊長が言う。


ルルカは迷わず筆を取った。


紙の下へ、自分の名前を書く。


その横へ、新生院の案内役として使う印を押した。


「これでいいニャ?」


「ああ」


支援隊長は紙をレンへ差し出す。


「明日から西の集積所へ入れ。お前の行動に問題があれば、責任は保証人にも及ぶ」


「分かった」


レンが許可証を受け取る。


ルルカは、ようやく息を吐いた。


「逃げたら、どこまでも追いかけるからニャ」


「捕まえられるのか」


「お前より屋根を走るのは速いニャン」


「今はどうだろうな」


「試すかニャ?」


「ここで走るな」


支援隊長が低い声で止めた。


          ◇


王都西側の集積所は、水路沿いに造られていた。


前線へ運ぶ大量の水を確保するため、王城から流れてくる水路へ新しい汲み上げ場が増設されている。


大きな水車。


何十個もの樽。


水量を調節するための鉄製の堰。


そのさらに下。


人目につきにくい石壁の奥に、古い保守用の通路があった。


王城の地下へ直接入れる道ではない。


水の詰まりや石壁の亀裂を調べるため、水路に沿って城壁近くまで続いている。


レンは水樽の数を確認しながら、流れる音を聞いた。


一定ではない。


昼の鐘が鳴ったあと、一度だけ流れが強くなる。


僅かに遅れて、王城の方角から低い振動が届いた。


《原石》を囲む四つの環。


西側の環。


流れる水の量を増やしたとき、回転の遅れが修正されていた。


「今日は多いな」


汲み上げを担当する蜥蜴人が、水路を覗き込む。


「何がだ」


「城へ入る水だ。最近、決まった時間に一気に持っていかれる」


「前からか?」


「一か月くらいだな。城の地下で何をしてるかは知らんが、おかげでこっちの水車が止まりそうになる」


蜥蜴人は不満そうに堰を調整した。


原石の充填は、すでに終わっている。


それでも、実際に使うときと同じ状態で環を動かし、調律を繰り返しているらしい。


試験の時刻。


水量。


西側の水路へかかる負荷。


調べるための時間は、まだある。


「レン!」


背後からルルカの声が飛んでくる。


振り返ると、両腕に衣服の箱を抱えていた。


「水を見てないで手伝うニャ!」


「水樽の数を確認していた」


「そっちは終わっただろニャン」


「今終わった」


ルルカから箱を一つ受け取る。


「重くないか?」


「平気ニャ」


「歩き方が傾いている」


「気のせいニャン」


レンは、もう一つの箱も取り上げた。


「一人で持てるニャ」


「遅い」


「心配してるって言えば可愛いのにニャン」


「していない」


「尻尾は?」


レンの黒い尾は、持ち上げた荷箱の底を支えていた。


「荷物を支えている」


「本当に便利に使えるようになったニャ……」


並んで倉庫へ戻る。


道の途中。


ルルカが、レンの手にある許可証へ目を向けた。


「これで、一緒に前線へ行けるニャ」


「ああ」


「怖くないのか?」


「何がだ」


「戦争ニャ」


「何度も見た」


「戦ったことも?」


「ああ」


「人を殺したことは?」


レンは答えなかった。


ルルカの耳が伏せられる。


「あるんだニャ」


「ああ」


「……そっか」


足音だけが続く。


ルルカは理由を聞かなかった。


どちらの側で戦ったのかも。


何人殺したのかも。


しばらくして、前を向いたまま口を開く。


「あたしは、人間を殺したことないニャ」


「そうか」


「戦場へ行くのも、今回が初めてニャン」


「支援隊は後方にいる」


「それでも、何が起きるか分からないニャ」


抱えていた箱へ、ルルカの指が食い込む。


「陛下なら大丈夫だと思ってた。空を飛んでる姿を見れば、負けるところなんて想像できなかったニャン」


地下で聞いた言葉。


グラウゼンは《昇華》を使う間、平原の中央から動けない。


人間軍から最初の攻撃を受ける。


ルルカは、それを知っている。


「でも、今は少し怖いニャ」


「行かなければいい」


「行くニャン」


迷いのない返事だった。


「変えられる人たちの隣にいるって決めたからニャ」


それはグラウゼンへの忠誠とは違う。


彼の計画を正しいと思ったからでもない。


身体を奪われる者がいる。


その者たちを、一人にしたくない。


ルルカ自身が選んだ仕事だった。


「お前も来るニャ」


「ああ」


「ちゃんと帰るぞ」


「どこへ」


「王都ニャ」


ルルカが当然のように答える。


「そのあと、あたしの村へ行くニャン。ミルカに魚料理を作る予約も残ってるニャ」


「まだ覚えていたのか」


「必要なことは覚えてるニャン」


ルルカが笑う。


レンは前を向いた。


「仕事が終わったらな」


「約束ニャ?」


「順番の話だ」


「それを約束っていうニャン」


否定はしなかった。


          ◇


その夜。


レンは自室の机へ、三つの物を並べた。


細い鋼線。


目の粗い古い網。


水へ濡れてもすぐには切れない、油を染み込ませた麻糸。


どれも倉庫で廃棄される予定だった物だ。


鋼線で、小さな枠を作る。


その内側へ折り畳んだ網を収め、麻糸で固定した。


そのまま水へ入れても、何も起きない。


弱い流れなら、細い枠へ沿って水が抜ける。


一定以上の水圧がかかったときだけ麻糸が切れ、畳まれていた網が開く。


開いた網は、水路を流れる葉や木片を捕らえる。


完全には塞がない。


少しだけ、流れを遅らせる。


西側の環が停止すれば、すぐに異常だと気づかれる。


僅かに遅れるだけなら、地下で見たときと同じ調律のずれに見える。


レンは桶へ水を張った。


作った枠を、細い水路の模型へ固定する。


最初は、弱く水を流す。


網は開かない。


次に、桶を傾ける。


一度に水が流れ込む。


麻糸が切れた。


畳まれていた網が広がり、流れが鈍くなる。


想定より塞ぎすぎている。


人間軍の一部を残すだけでいい。


原石そのものを暴走させれば、王都まで巻き込まれる。


鋼線を一本減らす。


網の端を切る。


もう一度、作り直す。


窓の外から、夜の鐘が聞こえた。


人間の連合軍は、すでに国境近くへ集まり始めている。


予測より行軍が速い。


戦いまでは、あと二週間ほど。


王城西側の水路へ近づく許可は手に入れた。


前線へ出る理由もできた。


その両方を与えた書類には、ルルカの名前がある。


レンは署名へ一度だけ目を向けた。


すぐに許可証を伏せ、網の調整へ戻る。


明日の夕方には、ルルカが魚を持ってくる。


それまでに終わらせる必要があった。

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