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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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57/73

借りを○す


《原石》を見た翌日の朝。


王都の新生院では、普段より早く鐘が鳴った。


中庭へ出ると、何台もの荷車が並んでいる。


毛布。


水樽。


折り畳まれた天幕。


種族ごとに形の違う衣服。


積まれているのは武器ではなく、大勢の者を一時的に暮らさせるための物資だった。


ルルカは、その荷車の前に立っていた。


腰には短剣。


背中には、自分の身体より大きな荷物を背負っている。


「二か月、ずっと戦場にいるのか」


レンが尋ねる。


「まさかニャ。今行っても、人間の軍なんて影も形もないニャン」


支援隊の第一陣は、前線近くへ受け入れ場所を作るために派遣される。


井戸を掘る者。


天幕を張る者。


大量の食事を用意する者。


新しい身体の扱いを教える案内役。


必要な人数と物資を調べ、六日後には一度王都へ戻る予定だという。


「本番までに、何度か往復するニャ」


「随分と早い」


「何万人も来るかもしれないニャン。二か月あっても足りないくらいニャ」


ルルカはそう答えたあと、表情を曇らせた。


来る、という言い方が正しいのか。


自分でも迷っているらしい。


人間の兵士たちは、自分の意思で新生者になるわけではない。


「それより、これを持つニャ」


一枚の紙を差し出される。


レンの名前。


滞在場所。


移動を許可された街区。


何枚もの印が押された、王都内の仮通行証だった。


「王都からは出られないけど、街の中まで閉じ込めるつもりはないニャ。朝と夜に新生院で確認を受ければ、許可された場所は自由に歩けるニャン」


「お前がいなくても?」


「あたし一人で新生者全員を見張れるわけないだろニャ」


ルルカが胸を張る。


「あたしは案内役であって、看守じゃないニャン」


「俺以外にも担当がいたのか」


「七人いるニャ」


「初めて聞いた」


「お前が手のかかる八人分だからニャン!」


ルルカが指を突きつける。


「留守の間は、別の案内役が朝晩の確認をするニャ。仕事を始めた場合は、働いたことを雇い主に記録してもらうニャン。確認に来なかったり、許可された場所から外れたりしたら、兵士が探しに行くニャ」


監視の仕組みとしては単純だった。


だが、王都の門と街区の出入口には記録係がいる。


姿を消せば、すぐに気づかれる。


「二か月も暇にしていたら、余計なことを考えそうだからニャ」


「もう考えている」


「それを正直に言うなニャン!」


ルルカは近くの机から、仕事の一覧を取ってきた。


新生者が王都で就ける、短期の仕事。


道路の補修。


新生院の清掃。


共同炊事場の手伝い。


工房での部品整理。


共同倉庫での荷物の仕分け。


レンは一番下に書かれていた仕事を指差した。


「これにする」


「倉庫?」


「ああ」


「料理じゃなくて?」


「なぜ料理が出てくる」


「猫人なら魚を扱う仕事を選ぶと思ったニャ」


「偏見だな」


「昨日、原石より先に魚へ反応してた尻尾が言っても説得力ないニャン」


ルルカは不満そうだったが、申請用紙へ印を押した。


「共同倉庫なら、働いてる間の確認は倉庫長がするニャ。怠けたら、すぐあたしに報告が来るからな?」


「分かった」


「勝手に荷箱へ入って、城へ運ばれようとするのも禁止ニャ」


「そんなことはしない」


「一瞬考えただろニャン」


「時間がかかりすぎる」


「方法の問題じゃないニャー!」


出発を知らせる笛が鳴った。


支援隊の者たちが、次々と荷車へ乗り込んでいく。


ルルカも背中の荷物を積み、御者台へ上がった。


「六日後には戻るニャ」


「ああ」


「それまで問題を起こすなよ?」


「努力する」


「約束しろニャン!」


「できない約束はしない」


ルルカの耳が横へ倒れる。


「帰ってきたとき、王都が残ってますようにニャ……」


荷車が動き始める。


ルルカは何度もこちらを振り返っていた。


レンは一度だけ手を上げ、それを見送った。


          ◇


王都共同倉庫は、一つの建物ではなかった。


大通りの東西に、十二棟の倉庫が並んでいる。


穀物。


衣服。


薬。


金属。


木材。


中身によって保管場所が分けられ、すべての荷箱へ記号と数字が刻まれていた。


どこから来たか。


どの倉庫へ置くか。


いつまでに、どこへ送るのか。


記された指示に従って運べば、文字をすべて読めなくても作業できる。


レンの仕事は、届いた荷箱を所定の場所へ移すことだった。


「新生者か」


倉庫長を務める牛人が、レンの胸元にある青い布を見る。


片方の角は、途中から折れていた。


「身体は動かせるのか?」


「問題ない」


「重い物を持てとは言わん。最初は印を見て、荷物を分けろ。赤は東棟。青は西棟。黄色は外の荷車だ」


「分かった」


「分からなくなったら聞け。勝手な判断で運ぶな」


倉庫長はそれだけ告げると、次の荷車へ向かった。


新生者だからと、特別に優しくする様子はない。


露骨に嫌う様子もなかった。


レンは言われたとおり、荷箱を分けた。


最初の一日は。


二日目からは、空いた荷車の回収を手伝った。


三日目には、別の倉庫へ荷物を届ける役を引き受けた。


仕事で移動する者には、行き先を追加した通行札が渡される。


倉庫長の印があれば、新生院の案内役を伴う必要もない。


王都の監視を抜けるために、姿を隠す必要はなかった。


決められた時刻に新生院へ戻る。


許可された道を通る。


頼まれた荷物を、指定された場所へ届ける。


その間に、必要なものを見る。


倉庫を調べるなら、そこで働けばいい。


道を知りたいなら、荷物を運べばいい。


許可証に記録されるレンの行動は、すべて事実だった。


目的だけが書かれていない。


四日目。


毛布を積んだ荷車が、北の倉庫から運び出された。


五日目。


形の異なる衣服が、十種類以上に分けられて届いた。


背中に翼を通す穴がある服。


腰から尾を出す服。


四本腕の者が着られる上着。


小柄な種族用の靴。


どれも王都で売るための品ではない。


送り先は、前線に近い四つの集積所。


荷箱には目的が書かれていなかった。


倉庫で働く者たちが知っているのは、二か月以内に大量の衣服が必要になるということだけだった。


衣服を縫う者は、必要な形と数を知っている。


天幕を作る者は、収容する人数を知っている。


食料を集める者は、何日分を用意するか知っている。


だが、それらが何のために使われるのかまで知る者は少ない。


全員へ計画を話す必要はない。


期限と数量。


自分の仕事。


それだけでも、国は準備を進められる。


一つの荷箱だけを見ても、何も分からない。


何百もの荷箱を見れば、そこに集められる者の姿が見えてくる。


武器より多い毛布。


兵士の数を超える食器。


鎧を脱がせたあとに着せる、様々な形の衣服。


暴れる者を傷つけずに拘束するための、幅の広い革帯。


ノアは戦いの準備をしている。


同時に、その戦いで生まれる何万人もの新生者を受け入れる準備もしていた。


レンは数を記憶した。


送り先を覚えた。


荷車が使う門と、戻ってくるまでの時間を測った。


質問はしなかった。


          ◇


六日目の夕方。


前線へ向かった支援隊が、王都へ戻ってきた。


どの門から入るかは、昼のうちに倉庫へ届いた予定表で分かっていた。


レンは仕事を終えると、市場へ向かった。


日が沈む直前。


ルルカが新生院へ戻ってくる。


鮮やかなピンク色の髪には土埃がつき、縞模様の尾は地面へ触れそうなほど垂れていた。


「ただいまニャー……」


「遅かったな」


玄関脇に立っていたレンを見て、ルルカの耳が僅かに上がる。


「待ってたのかニャ?」


「帰る時刻を確認していただけだ」


「どうやって知ったニャン」


「倉庫へ予定が来ていた」


「本当に働いてるニャ……」


「働くと言った」


「問題は?」


「起こしていない」


「本当かニャ?」


ルルカが鼻を動かす。


レンの服についた、木箱と縄と油の匂いを確かめているらしい。


続いて、別の匂いへ気づいた。


ピンク色の耳が、勢いよく立つ。


「魚ニャ」


「ああ」


「どこニャン」


「厨房だ」


ルルカは荷物を放り出しかけ、慌てて抱え直した。


「食堂の夕飯かニャ?」


「違う」


「お前が買ったのか?」


「ああ」


「ルルカの分も?」


「ああ」


疲れで垂れていた尾が持ち上がる。


「先に身体を洗ってこい」


「待ってる間に食べないかニャ?」


「お前の分だと言った」


「冷めたらどうするニャン」


「まだ作っていない」


ルルカの動きが止まった。


「誰が作るニャ?」


「俺だ」


「……魚を?」


「ああ」


「燃やさない?」


「燃えたら別の物を食べろ」


「不安になる言い方をするなニャ!」


          ◇


新生院の共同厨房には、夕食を終えたあとの熱が残っていた。


大きな竈。


何人分もの煮込みを作れる鍋。


種族ごとに高さを変えられる調理台。


レンが借りたのは、その隅にある小さな炉だった。


調理台の上には、市場で買った川魚が並んでいる。


手のひらより少し大きい程度の、安い魚。


黄色根。


玉葱。


卵。


黒パン。


薄焼きパン。


赤実。


果実酢。


乾燥させた香草。


身体を洗って戻ってきたルルカが、食材を見回す。


濡れたピンク色の髪を布で拭きながら、首を傾げた。


「焼き魚じゃないのかニャ?」


「違う」


「煮る?」


「煮ない」


「生?」


「座っていろ」


「気になるニャン」


ルルカは調理台の反対側へ回り込んだ。


レンは魚の目を見る。


濁りは少ない。


鰓を開き、色を確かめる。


腹へ指を当てると、身にはまだ張りが残っていた。


海の魚とは匂いも脂も違う。


同じ配合では重くなる。


魚の半分を細かく叩く。


残りは、小さな角切りにした。


「全部潰さないのかニャ?」


「食感が消える」


茹でた黄色根を潰す。


刻んだ玉葱は、鍋で先に炒めた。


水分が残れば、魚と混ぜたときに形が崩れる。


卵は少量。


塩。


乾燥香草。


材料を一つの器へ入れ、指先で硬さを確かめながら混ぜていく。


「料理、できたのかニャ」


「教わった」


「誰に?」


「佐伯とフィーネだ」


この世界にはいない名前。


ルルカはそれ以上を知らない。


「二人とも料理人?」


「ああ」


「お前は?」


レンの手が僅かに止まる。


「最後には、料理人だと認められた」


「本物ニャ!?」


ルルカの目が見開かれる。


「どうして今まで黙ってたニャン!」


「聞かれなかった」


「普通、もっと早く言うニャ! 尻尾の使い方より大事ニャン!」


「尻尾の方が必要だった」


「毎日食べるのは料理ニャー!」


レンは混ぜた魚を平たく整えた。


黒パンを細かく砕き、表面へまぶす。


鍋へ浅く油を張る。


熱を確かめてから、一つずつ入れた。


油の弾ける音。


焼けていくパンの匂い。


ルルカの尾が、音に合わせて左右へ揺れる。


「まだかニャ?」


「まだだ」


「もう色がついてるニャン」


「中まで火が入っていない」


「一個くらい――」


伸びてきた手を、木匙で叩く。


「痛いニャ!」


「待て」


「案内役を叩いたニャン!」


「つまみ食いを止めただけだ」


表面の色。


油の音。


魚から出る水分。


鍋を僅かに揺らしたとき、衣が自然に離れる。


時間だけでは決めない。


魚の身の厚さも、含んでいる水分も、一尾ずつ違う。


料理人の目は秤。


佐伯から何度も言われた言葉だった。


焼き上がった魚を鍋から上げる。


別の小鍋では、潰した赤実と果実酢を煮ていた。


炒めた玉葱を加え、薄焼きパンから流れ出ない硬さまで水分を飛ばす。


以前作ったものより、酸味は弱くした。


魚の割合を増やし、角切りの身も大きく残している。


ルルカは焼き魚の焦げた皮から食べる。


酸味の強い漬物は残す。


六日間で知ったことではない。


最初に会った日から、食事のたびに見ていた。


何を先に食べるか。


何を残すか。


美味いと言ったとき、尾がどちらへ動くか。


食べる相手を見て、一皿を作る。


それもあの世界で覚えたことだった。


薄焼きパンへ赤実のソースを塗る。


揚げ焼きにした魚を置き、食べやすい形へ包んだ。


「食べろ」


皿を差し出す。


ルルカは両手で受け取った。


「名前は?」


「ない」


「料理なのに?」


「前に作ったものは、《潮魚の揚げ包み》と呼ばれていた」


「これは川魚ニャ」


「ああ」


「なら、《川魚の揚げ包み》ニャン」


「そのままだな」


「分かりやすい方がいいニャ」


ルルカが包みへ噛みつく。


焼けた黒パンの衣が、小さな音を立てた。


表面は香ばしい。


中は黄色根によって柔らかくまとまり、その中に残した魚の身が歯へ触れる。


赤実の甘み。


僅かな酸味。


香草の匂い。


ルルカの動きが止まる。


「どうした」


返事はない。


代わりに、縞模様の尾が大きく持ち上がった。


先端が何度も左右へ揺れている。


「尻尾は美味しいと言っている」


ルルカの耳が跳ねた。


「それ、あたしが最初に言ったやつニャ!」


「ああ」


「覚えてたのかニャン」


「必要なことは覚えている」


ルルカはもう一口食べた。


今度は、先ほどより大きい。


「美味しいニャ」


「ああ」


「すごく美味しいニャン」


「そうか」


「そこはもっと喜ぶところニャ!」


「失敗しなかったことは分かっている」


「作った本人の尻尾も揺れてるニャン」


レンは腰を見る。


黒い尾が、緩やかに床を叩いていた。


止めようとすると、ルルカが笑う。


「今さら隠しても遅いニャ」


レンは尾をそのままにした。


ルルカが半分ほど食べたところで、ようやく尋ねる。


「急に、どうしたニャ?」


「借りを返した」


「借り?」


「最初の魚だ」


この国へ来た日。


何も知らなかったレンへ、ルルカが買った焼き魚。


「でも、あれは国のお金ニャン」


「魚を選んだのはお前だ」


ルルカが目を瞬く。


やがて、小さく笑った。


「覚えてたんだニャ」


「さっきも言った」


「必要なことは、だろ?」


「ああ」


ルルカは残った包みを見下ろした。


「じゃあ、この料理も必要なことかニャ?」


「食事は必要だ」


「そういう意味じゃないニャン」


レンは答えなかった。


ルルカも追及しなかった。


厨房には、油が小さく弾ける音だけが残る。


二つ目の包みを作り、レンも向かいへ座った。


          ◇


「陛下のこと、まだ好きニャ」


食事を終える頃。


ルルカが、不意に言った。


猫の語尾は残っていた。


だが、声は静かだった。


「そうか」


「驚かないのか?」


「理由は聞いた」


「村を救ってくれたから?」


「ああ」


ルルカは包み紙の端を指で折る。


「妹がいるニャ。ミルカっていうニャン」


「何歳だ」


「今年で十二ニャ」


ルルカが幼い頃。


村で熱病が広がった。


薬師はおらず、山道は雪で塞がれていた。


以前なら、春になるまで外から誰も来られなかった。


だが、その年にはグラウゼンが作らせた街道があった。


雪を避けて通れるよう山の斜面を削り、谷には橋が架けられていた。


隣の街から薬が届いた。


ミルカは助かった。


「陛下が道を作ってくれなかったら、ミルカは死んでたニャ」


「そうだろうな」


「あたしだけじゃない。村には、陛下のおかげで生きてる奴がたくさんいるニャン」


「なら、恩がある」


「ああ」


ルルカが頷く。


「でも、昨日の話を正しいとは思えないニャ」


《原石》。


意思に関係なく、何万人もの身体を変える計画。


そのあとで、さらに多くの人間を変えていく。


「陛下に反対したら、村を助けてもらったことまで否定するみたいで嫌なんだニャン」


「否定する必要はない」


ルルカが顔を上げる。


「道を作ったことと、人間の身体を奪うことは別だ」


「同じ陛下が決めたことニャ」


「同じ者が正しいことと、間違ったことをするのは珍しくない」


「お前は、あれが間違ってると思うのか?」


「本人の意思を無視している」


「それだけ?」


「判断には十分だ」


ルルカはしばらく黙っていた。


「陛下を嫌いにならなくても、止めたいって思っていいのかニャ」


「お前が決めろ」


「ずるい答えニャン」


「便利だろ」


以前、伝言晶へ嘘ではない言葉を吹き込んだとき。


ルルカ自身が使った言葉だった。


それに気づき、ルルカが僅かに笑う。


謁見以来、初めて見た笑顔だった。


「お前は、帰りたいと思わないのかニャ?」


「どこへ」


「人間の国」


「戻っても、俺を知る者はいない」


「家族は?」


「いない」


「友達は?」


レンは答えるまでに、少しだけ時間を置いた。


佐伯。


フィーネ。


出会い、そこへ残してきた者たち。


ほかの世界で、生き方を交えた者たち。


「いた」


「今はいない?」


「ああ」


「会いたくないのかニャ」


レンは、皿に残った赤実のソースを見る。


「料理をすれば、思い出すことはある」


ルルカの耳が、ゆっくりとこちらへ向く。


「それ、会いたいってことじゃないかニャン?」


「違う」


「絶対そうニャ」


「違う」


「尻尾は?」


レンの黒い尾は、椅子の脚へ巻きついていた。


「これは椅子を押さえている」


「見苦しい言い訳ニャー」


いつもの声が戻っている。


「戦いが終わっても、お前がこの国にいたら、あたしの村へ来るニャ」


「なぜだ」


「ミルカにも、これを食べさせるニャン」


ルルカが空になった皿を掲げる。


「材料は村で用意するニャ。川魚なら、山ほど獲れるニャン」


「王都から出る許可が出ればな」


「二か月後には出るニャ」


「そのとき考える」


「予約したニャン」


「約束はしていない」


「ルルカが予約したから同じことニャ」


勝手な理屈だった。


レンは否定しなかった。


          ◇


それから、三週間が過ぎた。


レンは共同倉庫で働き続けた。


朝の鐘とともに荷物を分ける。


昼には別の倉庫や工房へ届ける。


夜の鐘が鳴る前に、新生院へ戻る。


遅れた日は一度もない。


運ぶ物を間違えたこともなかった。


十日目には東西の倉庫へ入る許可が出た。


十五日目には、南の工房街まで荷車を届ける仕事を任された。


二十日目には、倉庫長がレンの仮通行証へ新しい印を押した。


王都の主要な五街区。


市場。


工房。


共同倉庫。


新生院。


城外壁に沿った輸送路。


仕事中に限り、一人で移動できる範囲が広がっていく。


ルルカも王都へ戻ってからは、前線と新生院を何度も往復していた。


案内役を増やすための訓練。


異なる種族へ変わった者を運ぶ方法。


目覚めた直後に暴れた者を、傷つけずに止める方法。


失った身体を求めて泣く者へ、何を伝えるのか。


教えることは多かった。


原石の仕組みまで知る者は少ない。


それでも、自分たちが何万人もの新生者を迎える準備をしていることは、案内役全員へ伝えられていた。


必要な者には、必要な部分だけが知らされている。


国全体が、二か月という時間を使って動いていた。


ルルカは三日か四日に一度、共同厨房へ魚を持ってきた。


「今日はあたしが払ったニャ」


「小さいな」


「数は多いニャン」


「鮮度が違う」


「安かったニャ」


「目が濁っている」


「食べられれば同じニャン」


「違う」


「面倒な料理人になってるニャ!」


二度目は、ルルカも魚を捌いた。


鱗を落とす勢いが強すぎて、厨房中へ飛び散った。


三度目には、玉葱を焦がした。


四度目で、ようやく赤実のソースを任せられるようになった。


「料理人まで、あとどのくらいニャ?」


「遠い」


「具体的には?」


「まず、味見と称して半分食べるのをやめろ」


「必要な確認ニャン」


「鍋の中身が減る確認か」


ルルカが来ない日は、レンが食事を作ることもなかった。


共同食堂で済ませる。


空腹が満たせれば、それで足りる。


ルルカが来る日だけ、市場で材料を見た。


脂の多い魚。


身の柔らかい魚。


香草の強い魚。


次は何を作るか考えている自分に気づいても、理由までは考えなかった。


その間にも、荷物は増え続けていた。


前線へ送られる穀物。


薬。


衣服。


天幕。


四つの集積所へ、ほぼ同じ量が振り分けられている。


表向きには別々の部署が管理していた。


しかし、出発する日と到着する時刻を重ねれば、一つの計画に合わせて動いていることが分かる。


レンは働きながら、それらを記憶した。


見張りの人数。


荷車が通れる道。


夜間にも開いている門。


王城へ荷物を納める工房。


地下設備の補修に使われる金属部品を作る場所。


倉庫の奥へ忍び込んだことは一度もない。


書類を盗んだこともなかった。


ただ、運ぶよう命じられた荷物を運び、その途中で見えるものを見た。


監視の記録に残っているのは、真面目に働く一人の新生者だった。


嘘ではない。


すべてではないだけだった。


          ◇


謁見から、一か月が過ぎた。


その日の夕方。


レンは新生院の事務室へ呼ばれた。


机の向こうには、山羊の角を持つ職員とルルカが座っている。


「王都での生活に問題なし」


職員が紙を読み上げる。


「共同倉庫での勤務態度も良好。無断外出、禁止区画への侵入、住民との争いは一度もありません」


「随分と意外そうだな」


「最初に預かった武器の数を考えれば」


正直な職員だった。


「新しい身体の扱いにも慣れ、住居と仕事も決まりました。したがって、本日で新生院による日々の確認を終了します」


青い布の代わりに、新しい札が机へ置かれた。


ノアの仮住民証。


王都から出ることはできない。


だが、定められた時刻と街区の中であれば、仕事以外でも一人で歩ける。


朝晩の確認も不要になる。


「案内役の付き添いも、今日で終わりニャ」


ルルカが言った。


明るい声だった。


だが、尾の先だけが落ち着かずに揺れている。


「これからは、好きなところで食事できるし、好きな時間に市場へ行けるニャン。あたしが毎朝起こしに来ることもないニャ」


「そうか」


「……それだけ?」


「ほかに何がある」


「少しくらい寂しがってもいいところニャン」


「仕事が終わっただけだろ」


「そうだけどニャ」


ルルカの耳が横へ倒れる。


レンは机の上にある仮住民証を受け取った。


これがあれば、王都の大部分を一人で歩ける。


ルルカの予定を確認する必要もない。


案内役の目が届かない時間を選ぶ必要もなくなる。


必要だった自由を、ルルカ自身が認めた。


職員へ書類を返したルルカが、椅子から立ち上がる。


「じゃあ、あたしは別の新生者のところへ行くニャ」


「ああ」


「明日からは来ないニャン」


「そうか」


扉へ向かいかけたルルカが、もう一度振り返る。


何かを待っている。


レンは尋ねた。


「明日の夕方は空いているか」


ルルカの耳が立った。


「空いてるニャ」


「魚を持ってこい」


「……結局、料理を手伝わせるのかニャン」


「材料は、お前が出す番だ」


ルルカの頬が緩む。


「大きいのを持っていくニャ」


「鮮度を見ろ」


「分かってるニャン。目と鰓と腹と、身の張りだろ?」


「覚えていたか」


「必要なことは覚えてるニャ」


得意そうに答える。


それは、以前レンが言った言葉だった。


「また明日ニャ、レン」


「ああ」


ルルカが事務室を出ていく。


今後、彼女がレンを訪ねる義務はない。


明日来るのは、命令でも仕事でもなかった。


窓の外から、王都の鐘が聞こえる。


人間の連合軍が、国境へ向けて集結を始めたことを知らせる鐘だった。


予想される侵攻まで、およそ一か月。


レンの手には、王都を自由に歩くための札がある。


戻る部屋には、二人分の皿があった。


調べるための自由。


明日もそこへ戻る理由。


借りは返したはずだった。


レンは、増えた分を数えなかった。

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