原石を○す
翌朝。
王城へ向かうため新生院の玄関へ下りると、ルルカはすでに待っていた。
目の下には、薄い隈がある。
「眠れなかったのか」
「寝たニャ」
「そうか」
「……もうちょっと疑うところニャン」
「本人が寝たと言っている」
「お前、そういうところだけ素直に信じるニャ……」
声にはいつもの調子が戻っている。
だが、縞模様の尾は床へ垂れたままだった。
昨日集められた三十人の新生者のうち、《原石》を見に来たのは八人。
人間用の結婚指輪を首から下げた鱗人の男もいる。
腕に羽毛の生えた女は来なかった。
見たくない者がいても不思議ではない。
自分の身体を奪った道具を見たところで、元へ戻れるわけではない。
八人は二台の馬車へ分かれて乗り、王城へ向かった。
道中、誰も口を開かなかった。
◇
王城では、昨日と同じ検査が行われた。
レンは短剣と細い刃を二本。
針。
鋼線。
薄刃。
すべてを机へ置く。
「今日は隠してないニャ?」
「昨日も隠していない」
「最初から隠す場所に入れてるニャン」
「出せと言われたから出した」
「悪いことをしてないみたいに言うなニャ」
武器を預け、城の中へ入る。
昨日の謁見で使った廊下を途中で曲がり、王城の奥へ進んだ。
窓は少ない。
進むほど壁が厚くなり、外から聞こえていた街の音が消えていく。
三つ目の鉄扉を抜けた先に、地下へ続く階段があった。
巨人族でも通れるほど幅が広い。
天井も高く作られている。
降りるたびに気温が下がり、代わりに湿った石と鉄の匂いが強くなった。
「……今、階段の数を数えてるニャ?」
隣を歩くルルカが、小声で尋ねた。
「暇だからな」
「暇だから二百段以上も数える奴、初めて見たニャン」
「今ので二百三十一段だ」
「本当に数えてたニャ……」
階段は二百五十六段で終わった。
その先には、長い地下通路が続いている。
十五歩ごとに魔石灯。
通路の左右には一定間隔で扉があり、その前には必ず二人以上の兵士が立っていた。
鉄扉を四つ。
魔法による封印を二つ。
最後に、巨人族の背丈を超える黒い扉が現れる。
扉の中央には、円を四つ重ねた紋章が刻まれていた。
魔導技師らしい灰色の外套を着た男が、紋章の中央へ手を置く。
四つの円へ順番に赤い光が走った。
低い音を立て、扉が左右へ開いていく。
先に届いたのは音だった。
ドクン。
ドクン。
一定の間隔で響く、重い音。
巨大な生き物の心臓が、壁の向こうで動いているように聞こえた。
扉が完全に開く。
赤い光が、地下通路へ差し込んだ。
◇
王城の地下には、建物一つが収まるほどの空洞が広がっていた。
天井は見えない。
黒い岩壁には無数の魔石灯が埋め込まれ、淡い光が星のように浮かんでいる。
その中央に、《原石》があった。
高さは三メートルを超えている。
人間側で触れた転生石と同じ、光を反射しない黒い表面。
内部には、赤い筋が何百本も走っていた。
集まり。
枝分かれし。
石全体を巡ったあと、再び中央へ戻っていく。
ドクン。
赤い光が脈打つ。
僅かに遅れて、レンの胸の奥でも心臓が跳ねた。
隣にいた鱗人の男が、胸を押さえる。
ほかの新生者も同じだった。
《原石》は、四つの巨大な金属の環に囲まれている。
環は石へ触れていない。
それぞれ異なる高さで浮かび、ゆっくりと回転していた。
環の外側からは太い管が伸び、空洞の四方にある壁の中へ消えている。
石の下には円形の水路があった。
透き通った水が絶えず流れ、赤い光を映している。
水路の先は、岩壁の下に開いた四つの穴へ続いていた。
そのうち西側の穴から、外へ向かう水音が聞こえる。
地上で見た、王城西側へ集まる水路。
ここへつながっていたらしい。
「近づいても構わない」
声が響く。
《原石》の反対側に、グラウゼンが立っていた。
今日も人に近い姿をしている。
黒い服。
額から伸びる二本の角。
首筋と手の甲を覆う鱗。
その隣には、白い角を持つ技師長と、六人の近衛兵が並んでいた。
「ただし、環の内側へは入るな。今は戦いに備えて力を蓄えている」
新生者たちが、ゆっくりと《原石》へ近づく。
レンも周囲に合わせて歩いた。
石の表面へ近づくほど、耳の奥で響く鼓動が大きくなる。
《原石》の赤い筋と、グラウゼンの胸の鼓動。
二つの間隔は完全に一致していた。
「これが、俺たちを変えたのか」
鱗人の男が尋ねる。
「正確には、そこから切り出した石だ」
グラウゼンが《原石》へ手を向ける。
赤い光の一部が集まり、男の掌を追うように動いた。
「《昇華》は、もともと俺自身の力だった。それを俺以外の者でも使えるよう、身体から切り離した」
「どうやって?」
若い角人の男が尋ねる。
「最初に折れた角と、血、それに魔力核の一部を使った」
ルルカが思わず自分の額へ触れる。
「痛そうニャ……」
「二度とやりたくはないな」
グラウゼンが僅かに笑う。
「だったら、お前を殺せば、この石も止まるのか」
鱗人の男が低い声で尋ねた。
近衛兵たちの視線が一斉に集まる。
それでもグラウゼンは表情を変えなかった。
「止まらない」
《原石》の表面へ、黒い爪を立てる。
「一度切り離した時点で、これは俺とは別の魔力核になった。俺が死んでも、蓄えられた力と変化の記録は残る」
「なら、お前を殺しても元には戻らない?」
「戻らない」
男の尾が、床を強く叩いた。
「何でそんなものを作った」
「俺一人の力では、変えられる数に限界があったからだ」
グラウゼンが手を離す。
その瞬間、石の中にあった赤い光が大きく脈打った。
「《原石》は、触れた人間の身体を読み取る。元の身体と、変化したあとの身体。その両方を記録し、次の《昇華》へ使う」
壁際には、何百枚もの薄い石板が並んでいた。
一枚ごとに番号が振られている。
人間だった頃の年齢。
性別。
身体の状態。
変化後の種族。
《昇華》に必要だった魔力。
発生した異常。
そのすべてが記録されているらしい。
幼児。
老人。
病人。
腕や脚を失った者。
石は、兵士だけを変えるために作られたものではない。
あらゆる人間を別の種族へ変えるため、異なる身体の記録が集められていた。
「元の身体も記録されてるのかニャ?」
ルルカが技師長へ尋ねる。
「はい」
「だったら、その記録を使って元へ戻すことはできないのか?」
声から、猫の語尾が消えていた。
技師長はすぐに答えなかった。
並んでいる石板へ目を向ける。
「《昇華》は、身体をより魔力へ適応した形へ作り替える力です。同じ道を逆へ辿る方法は、今のところ見つかっていません」
「今のところ?」
「元の身体の記録が残っている以上、永遠に不可能だとは言い切れません」
ルルカの耳が立つ。
「なら――」
「期待させるような言い方はするな」
グラウゼンが遮った。
技師長が頭を下げる。
「少なくとも、俺には戻せない。今ここにあるのは、可能性ではなく記録だけだ」
ルルカは《原石》を見上げた。
赤い光が、その緑色の瞳へ映り込んでいる。
僅かな可能性。
今は使い道のない記録。
それでも、元の身体へ戻りたい者にとっては、捨てられないものになる。
「壊せばいい」
鱗人の男が言った。
「これ以上、俺たちと同じ目に遭う奴が出ないように」
男が環の内側へ踏み出そうとする。
近衛兵が腕を掴み、その場へ止めた。
「放せ!」
「壊すこと自体は難しくありません」
技師長が静かに言う。
「しかし、今の《原石》には数万人を《昇華》させるだけの力が蓄えられています」
男の動きが止まる。
「この状態で本体を砕けば、蓄えられた力が制御されないまま放出されます。誰が、何へ変わるかも分かりません。身体が変化へ耐えられず、命を落とす者も出るでしょう」
「どこまで届く」
「少なくとも、この王城と周辺の街区は巻き込まれます」
近衛兵が男を環から遠ざける。
グラウゼンは、その様子を黙って見ていた。
「蓄えた力を使い切ったあとなら?」
レンが尋ねる。
技師長の視線が向けられる。
「それでも危険です。《原石》自体が魔力を生み続けるため、先に四つの制御環を停止させる必要があります」
浮かんでいる四つの環。
それぞれの外側に、細長い金属の杭が十二本ずつ差し込まれている。
「一つずつ止めるのか」
「同時です」
「ずれた場合は?」
「石の中で魔力の流れが偏ります。僅かなずれなら、調整できますが――」
技師長が言い終える前に、低い金属音が響いた。
四つある環のうち、西側の一つだけが僅かに遅れる。
赤い光の一部が環の手前で滞り、細い筋となって石の内部を逆流した。
「西環、遅延!」
壁際の技師が声を上げる。
技師長がすぐに制御台へ向かった。
環の外側へ差し込まれた杭の一つを、半回転させる。
別の技師が、水路脇にあるレバーを下げた。
流れる水の量が増える。
数秒後。
遅れていた環が速度を上げ、ほかの三つと動きを揃えた。
「申し訳ありません」
技師長がグラウゼンへ頭を下げる。
「充填量が昨日より増えたため、調律がずれたようです」
「許容範囲だ」
グラウゼンが答える。
「今日中に合わせておけ」
「はい」
レンは西側の環を見る。
異常が起きても、《原石》そのものは止まらなかった。
魔力の流れが偏り、一部だけが遅れた。
調整に使われたのは、金属の杭と水量。
どちらも魔法を使わず動かせるものだった。
「この四つの環は、何のためにあるニャ?」
ルルカが尋ねる。
「《原石》の力を四方向へ分けるためです」
技師長が、空洞の端に置かれた台へ手をかざす。
台の上へ、光で描かれた地図が浮かび上がった。
ノアと人間側の国境。
その中央にある広い平原。
平原を囲むように、四本の黒い柱が描かれている。
「戦場には、原石から力を受け取るための導石が四つ設置されています」
地図の上で、王城と四本の導石が赤い線でつながる。
「黒竜王陛下が中央へ立ち、四つの導石へ同時に魔力を通すことで、その内側にいる人間を《昇華》させます」
「王城から直接できないのか」
角人の男が尋ねた。
「距離が遠すぎます。それに、《昇華》する対象を見分けるためには、陛下自身が近くにいる必要があります」
「つまり、陛下も戦場へ行くニャ?」
「ああ」
答えたのはグラウゼンだった。
「人間軍が平原へ入ったあと、俺が中央で《原石》と導石をつなぐ」
ルルカがグラウゼンを見る。
「その間に攻撃されたら?」
「すべて終わるまで、百を数えるほどだ」
「攻撃されるニャン」
「最初の波が届けば、前列から順に武器を持てなくなる」
「でも、後ろから撃たれるニャ」
グラウゼンは光の地図へ目を向けた。
人間軍の後方には、大型の弩と魔導兵器を示す印が並んでいる。
偵察によって、すでに配置まで把握しているらしい。
「二度目を撃つ前には、後方まで《昇華》が届く」
「一度目は?」
「受ける」
「危ないニャ!」
「これまでにも受けている」
「今回は人間の国が全部集まってるニャン!」
ルルカが詰め寄る。
グラウゼンは困ったように息を吐いた。
「始めたあとも、危険だと判断すれば中断できる」
「本当ニャ?」
「ああ。導石との接続を切ればいい」
ルルカは納得していない顔をしていた。
それでも、それ以上は言わなかった。
レンは地図を見た。
人間軍が持ち込んでいる大型の弩。
竜の身体を地面へ縫い止めるための、鎖つきの杭。
複数の魔術師が同時に扱う攻撃術式。
一つでは、グラウゼンの鱗を破れない。
飛んでいる竜を捉えることも難しい。
だが、《昇華》を使っている間、グラウゼンは平原の中央から動けない。
四つの導石との接続を保つため、魔力も使い続ける。
人間軍が二度目を撃つ前に全員変わる。
グラウゼンは、そう考えている。
ならば、二度目を撃てる者を残せばいい。
三度。
四度。
動けない竜へ、同じ場所から攻撃を続けさせる。
問題は、グラウゼンが途中で《昇華》を止められること。
攻撃に耐えられないと判断すれば、飛び去ればいい。
それを止める方法が必要だった。
「レン」
グラウゼンに名前を呼ばれる。
考えることを止め、顔を上げる。
「何を見ている?」
「仕組みだ」
「壊し方ではなく?」
周囲の視線が集まる。
ルルカの耳が小さく動いた。
レンは《原石》を見る。
「壊したいと思う者へ見せているんだろ」
「ああ」
「なら、そう見る者がいることも分かっているはずだ」
「その通りだ」
グラウゼンは愉快そうに笑った。
近衛兵たちだけは、笑っていない。
「壊せると思うか?」
「形があるものは壊せる」
「俺もか」
「死なない生き物はいない」
広間の空気が僅かに変わる。
近衛兵の一人が、レンへ身体を向けた。
グラウゼンが片手を上げる。
「構わない」
赤金色の瞳が、レンを見つめる。
「人間だった頃、俺も同じように考えていた」
「何をだ」
「どれほど大きなものにも、終わりはある」
一瞬だけ。
グラウゼンの表情から、王としての穏やかさが消えた。
冷たい蛍光灯。
白い壁。
机を挟んで座る、何人もの人間。
差し出した書類を、誰も受け取ろうとしない。
そんな、この世界には存在しない景色を見ているような目だった。
だが、すぐに元へ戻る。
「だから、俺が死んだあとも国が残るようにした。《原石》も、その一つだ」
今の短い沈黙が何だったのか。
誰も尋ねなかった。
◇
見学の最後に、《原石》の充填量を確認する作業が始まった。
四つの環が一度止まり、技師たちが金属の杭を順番に調整していく。
東。
北。
西。
南。
一つの環を動かすたび、別の環が僅かに速度を変える。
すべてが独立しているわけではない。
四つで一つの流れを作っている。
西側の環だけを遅らせれば、対応する導石へ力が届く時刻もずれる。
止める必要はない。
ほかの三つと動いているように見せたまま、僅かに遅らせればいい。
先ほど異常が起きたときも、警報が鳴るまで数秒かかった。
戦場までの距離を考えれば、その遅れはさらに大きくなる。
人間軍の一部が《昇華》を免れる時間を作れる。
「充填率、八割七分」
技師の声が響く。
「明日の夜には完了します」
「予定どおりだ」
グラウゼンが答える。
鱗人の男が、《原石》を睨んでいる。
「これを使ったあとも、元の身体の記録は残るのか」
「残る」
「いつか戻せるかもしれない?」
グラウゼンは男を見る。
「約束はできない」
「ゼロじゃないんだな」
「記録がある。それ以上のことは言えない」
男は首から下げた指輪を握った。
先ほどまで《原石》を壊そうとしていた手だった。
今は、壊すことを迷っている。
それだけで、この石を守る理由が一つ増える。
すべての人間を変える道具。
同時に、元の身体へ戻る唯一の手掛かり。
残すにしても、壊すにしても、誰かの望みを踏みにじる。
レンにとっては関係のないことだった。
《原石》は異世界から持ち込まれた力を、グラウゼンから独立して動かし続けている。
処分する理由は、それで十分だった。
見学を終え、新生者たちは地下通路へ戻る。
扉が閉じる直前。
レンは、もう一度《原石》を見た。
四つの制御環。
西側の調律杭。
下を流れる水路。
グラウゼンと同じ間隔で脈打つ赤い光。
必要なものは見た。
◇
王城を出ると、街の空気が昨日までとは変わっていた。
軍用の荷車が大通りを埋めている。
工房では槍ではなく、大型弩の矢が作られていた。
翼人が命令書を抱え、王城と各兵舎の間を飛び交っている。
人間軍の侵攻が、住民にも知らされたらしい。
店先では食料を買い込む者が列を作り、広場では避難場所を知らせる札が立てられていた。
それでも、混乱はない。
誰が何を運ぶのか。
どの種族が、どこへ避難するのか。
すでに決められている。
グラウゼンがいなくても動くよう、国全体へ仕組みが作られていた。
「明日の昼、新生支援隊が戦場へ出るニャ」
ルルカが言った。
「お前も行くのか」
「あたしは案内役だからニャン」
「変えられた兵士を案内する?」
「何万人も一度に目を覚ますニャ。何が起きたか説明する奴が必要になる」
ルルカは大通りを進む荷車へ目を向けた。
毛布。
水。
身体の大きさに合わせた何種類もの衣服。
新生者を拘束するための縄も積まれている。
「暴れる人もいる。泣く人もいる。自分の身体を見て、死のうとする人もいるニャン」
「それでも行くのか」
「身体を変えられる人たちが、悪いわけじゃないからニャ」
迷いのない答えだった。
グラウゼンの決断へ納得できなくても、変えられる者を見捨てるつもりはない。
「お前は王都に残るニャン」
「そうか」
「勝手についてきたら駄目ニャ」
「ああ」
「……随分と素直だニャン」
「普段から素直だ」
「それは絶対に嘘ニャ」
ルルカが疑うように顔を覗き込む。
レンの尾は、自然に揺れていた。
止める必要はない。
考えていることを、尾へ流さない方法もすでに覚えている。
人間軍は、グラウゼンを殺すための武器を持ってくる。
足りないのは、それを当てる時間だけ。
《昇華》が人間軍の後方へ届く時刻を遅らせる。
グラウゼンを平原の中央へ留める。
人間の攻撃で鱗を破らせる。
そのあとで、グラウゼンと《原石》を処分する。
レン自身の刃で、黒竜の鱗を貫く必要はない。
人間も、異種族も、互いを殺すための準備を進めている。
その間へ、僅かなずれを作ればいい。
レンは歩きながら、王城西側へ続く水路へ目を向けた。




