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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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54/73

紙を○す


翌朝。


レンは新生院の一階、その最奥にある通信室へ通された。


窓のない小さな部屋だった。


白い石で組まれた壁には、音を外へ漏らさないための術式が刻まれている。中央には机が一つ。その上へ、紙と筆、首から外した伝言晶が並べられていた。


立ち会うのは、山羊の角を持つ新生院の職員とルルカ。


武装した兵士の姿はない。


ただし、扉の外から二人分の呼吸が聞こえている。


「最初に、送る内容を紙へ書いてください」


職員が説明する。


「国の防衛に関わる情報や、虚偽の内容が含まれていないか確認します。問題がなければ、そのまま伝言晶へ記録してもらいます」


「転生したことを書くのは禁止か?」


「いいえ」


職員は迷わず答えた。


「何を書き、何を書かないかは、あなたが決められます」


ルルカも隣で頷く。


ヴァンは命令されて嘘を書いたわけではない。


本人の意思で、転移に成功したと人間側へ伝えた。


その言葉は事実らしい。


レンは筆を取り、短い文章を書いた。


---


生存。

黒竜王の国の内側へ到達した。

敵対行為は受けていない。

状況は想定と異なる。次の判断は待て。

調査を続ける。


---


職員が紙を受け取り、上から順に目を通す。


「街や軍に関する情報はありません。内容にも、明確な虚偽はないようですね」


「問題ないか」


「はい」


「問題あるニャ」


ルルカが横から紙を覗き込んでいた。


片方の耳を倒し、不満そうに頬を膨らませる。


「一番大事なことが書いてないニャン」


「何だ」


「猫人になったことニャ!」


ルルカがレンの耳を指差した。


指先を目で追うと、今度は腰の尾を指される。


「それを伝えなかったら、人間側はお前が元の姿のまま転移したと思うニャ」


「そう思うかもしれないな」


「分かってて書かないのかニャン?」


「ああ」


「どうしてニャ?」


レンは紙へ視線を落とした。


人間側が保管している黒い石。


異種族へ作り替えられると知れば、ガルバンは使用を止める。


危険性を考えれば、破壊を試みる可能性も高い。


だが、同じ石は各地へ置かれている。


全部でいくつあるのか。


どこで作られているのか。


グラウゼンが死んだあとも機能するのか。


何も分かっていない。


一つを壊したところで、仕組みが残れば別の場所へ置かれるだけだった。


「今、石の正体を知らせても、あちらにある一つを処分するだけだ」


「一つでも減るニャ」


「作る側が警戒する」


職員の視線が、わずかに鋭くなった。


レンは構わず続ける。


「ここで起きていることを隠し、石を別の方法で送り込むかもしれない。製造場所も数も分からないまま、手掛かりを失う方が面倒だ」


「だから、黙って調べるのかニャ?」


「そうだ」


「でも、その間に次の人間が石を使うかもしれないニャン」


「そのために書いた」


レンが紙の一文を指す。


――次の判断は待て。


「ガルバンなら意味を理解する」


少なくとも、何も考えずに次の人間を送り込む男ではない。


石を壊させない。


新しい人間にも使わせない。


その間に、作った者と仕組みを調べる。


どちらにも完全な情報を渡さず、時間だけを作るための文章だった。


ルルカは紙とレンを交互に見る。


「嘘ではないニャ」


「ああ」


「でも、本当のことを全部書いたわけでもないニャン」


「聞かれていないことまで答える必要はない」


「それを普通は、都合のいい言い方っていうニャー」


「便利だな」


「感心するところじゃないニャン!」


職員が小さく咳払いをした。


「文章を変えますか?」


「いや」


レンは伝言晶へ手を置いた。


職員に教えられたとおり、送り先を思い浮かべる。


ガルバン。


指を二本失った男。


こちらに起きる危険を、一つも隠さず説明した人間。


その顔を思い浮かべながら、紙に書いた文章を読み上げる。


伝言晶の中心に刻まれた赤い文字が光った。


声に合わせて光が増し、水晶の内部へ細い線となって吸い込まれていく。


最後の一文を読み終えた直後、赤い光が一度だけ脈打った。


鋭い音とともに、水晶へ亀裂が入る。


表面から色が抜け、ただの透明な欠片へ変わった。


「送信されました」


職員が水晶を回収する。


「あちらが文章を確認すれば、対になった伝言晶も砕けます」


これで、人間側から返事は来ない。


ガルバンが指示の意味を理解したかどうかも、確かめる手段はなかった。


「終わりニャ?」


「ああ」


「じゃあ、次は身体訓練だニャン!」


ルルカの声が急に明るくなった。


「必要ない」


「あるニャ」


「歩ける」


「尻尾で花瓶を倒しかけた奴が言う台詞じゃないニャン」


「倒していない」


「ルルカが受け止めたからニャ!」


反論する間もなく、背中を押される。


小柄な身体からは想像できないほど力が強い。


レンは通信室を追い出され、そのまま新生院の中庭へ連れていかれた。


          ◇


猫人の身体は、人間の身体によく似ている。


だからこそ、わずかな違いが厄介だった。


耳の位置。


視界の広さ。


足裏へかかる体重。


腰から伸びた尾による重心の変化。


以前と同じ感覚で動けば、ほんの少しだけ身体がずれる。


その小さなずれは、刃を避けるときや狭い足場へ着地するとき、致命的な差になる。


中庭には、新生者が身体の扱いを覚えるための器具が並んでいた。


高さの違う壁。


地面から細く伸びる木の柱。


太さも傾きも不揃いな平均台。


ルルカは三メートルほどの壁へ軽々と飛び乗ると、上から手招きした。


「まずはここまで来るニャ!」


レンは壁を見上げる。


「登るのか?」


「跳ぶニャン」


「三メートルあるぞ」


「猫人なら平気ニャ」


「失敗したら?」


「痛いニャン」


「それだけか」


「骨も折れるニャ! 猫人に九つ命があるって話は嘘だから試すなニャン!」


レンは膝を曲げた。


新しい脚へ力を込める。


人間だったときより筋肉が深く沈み、地面から押し返される感覚が強い。


そのまま跳んだ。


予想より身体が高く浮く。


壁の縁へ両手をかけるつもりだったが、胸まで壁の上へ出た。


反射的に足を伸ばし、着地する。


尾が大きく振れ、傾いた身体を反対側へ引き戻した。


落ちはしなかった。


だが、ルルカが得意そうに笑っている。


「尻尾に助けられたニャ」


「なくても立てた」


「さっき切ろうとしてた身体の一部に助けられた感想は?」


「余計なことをした」


「素直じゃないニャン」


次は、柱の上を渡らされた。


最初の一歩で、足裏へ伝わる情報量の多さに気づく。


木の硬さ。


表面の細かな亀裂。


風が身体のどちら側から吹いているか。


尾は意識するより先に動き、重心を中央へ戻していた。


二本目で使い方を理解する。


三本目からは走った。


「ちょっと待つニャ!」


背後からルルカの声が飛んでくる。


「待つ理由は?」


「教える側を置いていくなニャン!」


最後の柱を蹴り、中庭を囲む屋根へ飛び移った。


瓦は朝露で濡れている。


それでも足は滑らなかった。


爪先が屋根の傾きを捉え、身体が自然に進むべき方向を選ぶ。


レンは屋根の端まで走り、隣の建物との距離を測った。


届く。


そう判断し、跳ぶ。


着地した直後、後ろからルルカも飛び移ってきた。


「勝手に訓練場から出るなニャ!」


「屋根を走れるか確かめた」


「今やる必要あるニャン?」


「使う前に確かめる必要がある」


「何に使うつもりニャ……」


ルルカは額を押さえた。


その日の午後には、暗所での視力と聴覚の確認も終わった。


離れた場所へ落とされた針の位置。


壁の向こうを歩く者の人数。


目を閉じたまま投げられた小石の軌道。


最初は、拾いすぎる音が邪魔になった。


通りを走る荷車。


屋根の上で鳴く鳥。


別室で皿を落とした音。


すべてが同じ近さで耳へ入り込み、必要なものを隠してしまう。


だが、選んで聞く方法さえ覚えれば、以前より多くの状況を把握できる。


「もう一回投げるニャ」


ルルカが背後から三つの小石を放る。


レンは振り返らず、身体を半歩だけずらした。


一つが肩の横。


二つ目が脇腹の横を通る。


最後の一つだけを、指先でつかんだ。


「……お前、本当に昨日まで人間だったのかニャ?」


「ああ」


「普通は一週間くらいかかるニャン」


「一週間も石を投げられたくない」


「練習ニャ! いじめてるわけじゃないニャン!」


身体に慣れるまで、二日も必要なかった。


翌日の夕方には、新生院から武器が返された。


短剣。


細い刃。


針。


鋼線。


人間側で渡されたときと同じものが、一つずつ布の上へ並べられている。


ルルカはその数を改めて確認し、大きく息を吐いた。


「何回見ても多いニャ」


「足りないよりはいい」


「普通の冒険者は、靴底に針を入れないニャン」


「普通の冒険者ではない」


「自分で言うなニャ」


レンは武器を元の場所へ戻した。


最後に、袖の裏へ薄刃を差し込む。


ルルカの鼻が小さく動いた。


「王城に入るときは、全部預けてもらうからニャ」


「分かっている」


「隠しても分かるニャン」


「試してみるか」


「挑戦するところじゃないニャー!」


          ◇


次の日の朝。


王都へ向かう馬車が、新生院の前へ並んだ。


屋根つきの馬車が三台。


食料や水を積んだ荷車が一台。


乗り込む新生者は、レンを含めて九人だった。


元の年齢も性別も、今の種族も異なる。


腕に羽毛の生えた女は、大きな外套で身体を包んでいる。


若い角人の男は、何度も額の角へ触れ、そのたび嬉しそうに笑っていた。


鱗に覆われた手を持つ男は、指に入らなくなった人間用の結婚指輪を、細い革紐へ通して首から下げている。


新しい身体を受け入れた者。


まだ受け入れられない者。


どちらとも決められない者。


全員が同じ青い布を胸元へ留めていた。


「人数、九人! 荷物、十二個! 水樽、六つ!」


ルルカが紙を見ながら、指差しで確認していく。


「羽がある奴は窓際ニャ。尻尾が太い奴は、後ろの馬車の方が広いニャン! 酔いやすい奴は先に薬を受け取っておくニャー!」


普段と同じ騒がしさだった。


だが、誰をどこへ座らせるか。


どの種族に何が必要か。


一人ずつ状態を確かめながら、迷いなく指示を出している。


案内役という仕事を任されているだけのことはあった。


「レンは一番前ニャ」


「なぜだ」


「お前を後ろに置くと、勝手に馬車から降りそうだからニャン」


「必要なら降りる」


「だから前ニャ!」


御者台の後ろへ押し込まれる。


ルルカも隣へ座った。


朝の鐘が鳴ると、馬車はゆっくりと動き始めた。


街の門を抜ける。


外へ続く道は、平らな石で舗装されていた。


一定の距離ごとに番号を刻んだ標石が置かれ、分かれ道には、行き先と距離を示す案内板が立っている。


車輪が壊れたときに備え、交換用の部品を置いた小屋まであった。


街を離れても、グラウゼンが持ち込んだ仕組みは途切れない。


「王都まで、ずっとこの道か?」


「そうニャ。途中で一度、宿場に泊まるニャン」


「軍も使うのか」


「使うニャ」


ルルカは道の横に広がる畑へ目を向けた。


獣人と小柄な魔族が並び、同じ道具で土を耕している。


畑の向こうには、大きな穀物庫が建っていた。


「でも、軍のためだけじゃないニャン。昔は村ごとに道が途切れてたから、少し遠くで食料が余ってても、飢えてる村まで運べなかったニャ」


「お前の村も?」


「あたしは北の山にある、小さな猫人の村で生まれたニャン」


ルルカは生まれたときから猫人だった。


グラウゼンが国を作り始めたあとに生まれ、物心がついた頃には、違う種族が同じ旗の下で暮らしていたという。


「陛下が来る前は、冬を越せない子供が毎年いたらしいニャ。道ができて、穀物庫ができて、遠くから薬も届くようになったニャン」


「それでグラウゼンを慕っているのか」


「それだけじゃないニャ」


ルルカは膝の上で尾を丸めた。


「陛下は、国ができたばかりの頃に一度、あたしの村へ来たニャン。竜の姿じゃなくて、黒い服を着た大きな男の姿でニャ」


「人の姿になれるのか」


「なれるニャン。角と尻尾は残るけどニャ」


新しい情報だった。


黒竜の身体でなければ、鱗に守られていない可能性もある。


レンが考えていると、ルルカが横から顔を覗き込んだ。


「今、変なこと考えたニャ?」


「何も」


「尻尾は動いてないニャン」


「隠し方を覚えた」


「余計に怪しいニャ……」


疑うように目を細めたあと、ルルカは話を戻した。


「そのとき、陛下は村中の家を一軒ずつ見て回ったニャ。水場を直して、薬師を置いて、次の冬までに道を作るって約束したニャン」


「約束は守ったのか」


「春になる前に道ができたニャ」


鮮やかなピンク色の耳が、誇らしげに立つ。


ルルカにとって、グラウゼンは遠い王ではない。


自分の暮らしを変えた者。


家族や村を救った存在だった。


「なぜ、新生院で働いている」


「人間から来た奴は、最初に目を覚ましたとき、みんな怖そうな顔をするニャ」


ルルカが前を向いたまま答える。


「知らない場所で、知らない身体になって、最初に会った異種族まで怖い顔をしてたら、もっと不安になるニャン」


「だから笑っているのか」


「可愛い猫人が笑顔で迎えれば、ちょっとは安心するだろニャ?」


「自分で可愛いと言うのか」


「事実ニャン」


迷いのない返答だった。


レンはそれ以上聞かなかった。


          ◇


日が傾く頃、馬車は一つの村へ入った。


入口には、二つの名前が残されている。


古い石碑に刻まれていた人間の国の名は、半分ほど削り取られていた。


その隣には新しい木の看板が立ち、ノアの共通文字で村の番号と、最寄りの街までの距離が記されている。


人間側から奪った土地らしい。


焼け落ちた家は建て直されている。


井戸も畑も使われ、通りでは店が開いていた。


角人。


犬人。


鱗を持つ亜人。


そして、人間。


人間の住民も残っていた。


首輪も鎖もつけられていない。


ただし全員が、腕へ白い布を巻いている。


レンたちの青い布とは違う印だった。


「白い布は?」


「猶予民ニャ」


ルルカの声が少しだけ低くなった。


「戦いが終わったあとも、村に残ることを選んだ人間ニャン」


「ノアの市民ではないのか」


「まだ違うニャ」


「いつ市民になる?」


ルルカはすぐに答えなかった。


馬車が宿の前で止まる。


人間の老婆が出てきて、御者へ頭を下げた。


ルルカを見ると、見知った相手らしく小さく手を振る。


ルルカも笑顔で振り返した。


「人間のまま、ノアの市民にはなれないニャ」


馬車を降りてから、ようやく答えた。


「ここを出て人間側へ渡るか、転生石で別の種族になるか。村がノアへ編入されてから一年以内に、どちらかを選ぶ決まりニャン」


「従わなければ?」


「人間側へ送り返されるニャ」


「家と土地を置いて?」


「……そうニャン」


宿の前では、人間の子供がこちらを見ていた。


六歳か七歳。


レンの耳と尾を珍しそうに眺めている。


目が合うと、子供は母親の背後へ隠れた。


それでも好奇心には勝てなかったのか、すぐに半分だけ顔を出す。


「その耳、痛くないの?」


レンへ向けた質問だった。


「痛くない」


「人間だったの?」


「ああ」


「僕も、それになるの?」


母親が慌てて子供の肩を抱いた。


「すみません」


謝り、足早に宿の中へ連れていく。


白い布を巻いた母親の腕が、扉の向こうへ消えた。


「母親は残るつもりか」


「分からないニャ」


「子供は自分で選べない」


「家族で決めることになってるニャン」


「住んでいた国を奪われ、土地を捨てるか、身体を捨てるか選ばされる」


レンはルルカを見る。


「それを自由と呼ぶのか?」


ルルカの耳が横へ倒れた。


「殺されるよりはいいニャ」


答えは早かった。


だが、その言葉を口にした本人が、最も納得していない顔をしている。


「比較する相手が死なら、大抵の選択は自由に見える」


「人間をそのまま住ませたら、軍へ情報を送る奴もいるニャン。井戸に毒を入れた人もいたし、夜に倉へ火をつけた人もいたニャ」


「全員がしたのか」


「してないニャ」


「なら、忠誠ではなく種族で決めている」


ルルカは唇を閉じた。


縞模様の尾が、力なく垂れる。


宿の中から、食器の触れ合う音が聞こえていた。


人間の老婆が、ノアの兵士へ食事を運んでいる。


兵士は礼を言い、代金を払った。


そこだけを見れば、敵同士には見えない。


それでも老婆の腕には、白い布がある。


「……あたしも、正しい呼び方は分からない」


ルルカの言葉から、猫の語尾が消えていた。


「でも、人間の国はあたしたちを国だと認めない。陛下を殺して、ここにいる種族を元の場所へ追い返すまで戦うって言ってる」


「だから、人間がいなくなれば戦争は終わる?」


「そう言う人もいるニャ」


ルルカは、扉の向こうへ消えた子供を見つめた。


「陛下が何を考えてるかは、あたしには全部分からないニャン」


明るい声へ戻そうとしている。


だが、耳と尾までは戻らなかった。


レンは村を見渡した。


滅ぼされたはずの人間は、生きている。


殺されてはいない。


代わりに、人間であり続けることを許されていなかった。


グラウゼンは人間を憎み、皆殺しにしようとしているのではない。


もっと別の方法で、人間という存在を消そうとしている。


その可能性が、初めて形を持った。


          ◇


翌日。


馬車は村を離れ、王都へ続く山道を進んだ。


道は緩やかな傾斜を保つよう、山肌を大きく削って作られている。


谷には長い石橋が架かり、崩れやすい斜面は巨人族が運んだ岩で補強されていた。


途中ですれ違った荷車には、すべて行き先と内容物が記されている。


穀物。


鉄。


薬草。


軍用の矢。


北へ向かう物。


南から運ばれてくる物。


一つの国を支える血流のように、道の上を絶えず物資が行き交っていた。


夕暮れ前。


馬車が長い坂を上り切る。


視界を塞いでいた山が途切れ、その先に広大な盆地が現れた。


王都だった。


いくつもの街区が、中央の黒い山を囲むように広がっている。


低い建物が並ぶ区画。


巨人族のための巨大な家屋。


翼を持つ種族が暮らす、細長い塔。


地下種族の出入口らしい大きな穴が、街のあちこちへ開いていた。


異なる造りの街が無秩序に隣り合っているようで、道と水路はすべて中央へつながっている。


中央の山には、城が埋め込まれていた。


岩を削って建てたというより、山そのものを城へ作り替えたように見える。


黒い外壁。


何本もの高い塔。


頂上には、建物とは不釣り合いなほど広い石の台が張り出している。


人間の王が立つための場所ではない。


巨大な竜が降りるための場所だった。


「あれが王城ニャ」


ルルカが御者台の横から身を乗り出す。


ピンク色の耳が、風を受けて揺れていた。


「謁見は二日後ニャン。それまでは王都の新生院に泊まるニャ」


「城までは、どの道を使う?」


「あの大通りを真っ直ぐニャン」


「地下道は?」


「なんで最初に地下から入ろうとするニャ?」


「水路は城まで続いているのか」


「観光客が気にする場所じゃないニャン!」


ルルカが呆れた声を上げた、そのときだった。


空が暗くなる。


雲が太陽を隠したのではない。


山の向こうから、巨大な影が現れた。


最初に届いたのは、風だった。


馬車の幌が大きく膨らみ、道端の草が一斉に地面へ伏せる。


遅れて、腹の底まで震わせる羽音が響いた。


黒い竜。


広げた翼は、王都の大通りさえ覆い隠せるほど大きい。


夕日を浴びた鱗が、磨かれた黒曜石のように光っている。


頭から後方へ伸びる二本の角。


城壁を一撃で崩すという顎。


爪の一本だけでも、人間の身体より長い。


依頼書に並んでいた記録が、初めて現実の大きさを持った。


道を進んでいた者たちが足を止める。


兵士は胸へ拳を当てた。


商人たちは頭を下げる。


子供たちは恐れるどころか、歓声を上げながら空へ手を振っていた。


誰かに命じられた様子はない。


黒竜が見えることを、心から喜んでいる。


「陛下だニャー!」


ルルカが御者台の上で立ち上がった。


両腕を大きく振る。


「お帰りなさいませニャー!」


届く距離ではない。


それでも黒竜は、王都へ戻る民の姿を確かめるように、ゆっくりと首を動かした。


巨大な赤金色の瞳が、地上へ向けられる。


その視線が馬車の上を通った瞬間、レンの耳が頭へ張りついた。


背中の毛が逆立つ。


指先から爪が伸び、御者台の木へ食い込んだ。


尾は太さが倍になったように膨らんでいる。


魔力を向けられたわけではない。


殺気もない。


新しく得た獣の身体が、自分よりはるか上位の存在を前に、勝手に恐怖していた。


レンは呼吸を整える。


目だけを動かし、黒竜の身体を見る。


目。


喉。


翼の付け根。


前脚の関節。


鱗の薄い場所を探す。


だが、遠目に見える範囲には、刃が通りそうな隙間は一つもなかった。


黒竜が城の上空で翼を広げる。


巻き起こった風が王都を走り抜け、屋根の旗を一斉にはためかせた。


巨体が山頂の石台へ降りる。


重い音が盆地へ響き、黒い翼がゆっくりと畳まれた。


「すごいだろニャ!」


ルルカが満面の笑みを向けてくる。


「大きいな」


「感想、それだけニャン?」


「思っていたより速い」


「どこを見てたニャ?」


「翼と首」


「普通は顔とか、格好いい角を見るところニャン!」


ルルカは頬を膨らませたあと、レンの尾へ目を移した。


膨らんだまま戻っていない。


「怖かったニャ?」


「身体が反応しただけだ」


「それを怖いっていうニャン」


「支障はない」


「顔だけは本当に変わらないニャ……」


ルルカは呆れながらも、少し嬉しそうに笑った。


「二日後には、あの方と直接話せるニャン。陛下は新生者の話なら、どれだけ時間がかかっても聞いてくれるニャ」


「そうか」


「変なことするなよ?」


「例えば?」


「いきなり陛下へ飛びかかるとかニャ!」


「今の距離では届かない」


「距離の問題じゃないニャン!」


ルルカの声が山道へ響く。


馬車に乗っていた新生者たちが、一斉にこちらを見た。


レンは何も言わず、王城を見上げる。


黒竜王グラウゼン。


人間だった記憶と知識を持ち、異種族を一つの国へ変えた者。


人間を殺す代わりに、人間ではないものへ生まれ直させている者。


本人を処分するだけで、この国に残された影響まで消えるとは思えない。


殺せる相手なのか。


殺したあと、何を壊すべきなのか。


その答えを持つ黒竜まで、あと二日だった。

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