紙を○す
翌朝。
レンは新生院の一階、その最奥にある通信室へ通された。
窓のない小さな部屋だった。
白い石で組まれた壁には、音を外へ漏らさないための術式が刻まれている。中央には机が一つ。その上へ、紙と筆、首から外した伝言晶が並べられていた。
立ち会うのは、山羊の角を持つ新生院の職員とルルカ。
武装した兵士の姿はない。
ただし、扉の外から二人分の呼吸が聞こえている。
「最初に、送る内容を紙へ書いてください」
職員が説明する。
「国の防衛に関わる情報や、虚偽の内容が含まれていないか確認します。問題がなければ、そのまま伝言晶へ記録してもらいます」
「転生したことを書くのは禁止か?」
「いいえ」
職員は迷わず答えた。
「何を書き、何を書かないかは、あなたが決められます」
ルルカも隣で頷く。
ヴァンは命令されて嘘を書いたわけではない。
本人の意思で、転移に成功したと人間側へ伝えた。
その言葉は事実らしい。
レンは筆を取り、短い文章を書いた。
---
生存。
黒竜王の国の内側へ到達した。
敵対行為は受けていない。
状況は想定と異なる。次の判断は待て。
調査を続ける。
---
職員が紙を受け取り、上から順に目を通す。
「街や軍に関する情報はありません。内容にも、明確な虚偽はないようですね」
「問題ないか」
「はい」
「問題あるニャ」
ルルカが横から紙を覗き込んでいた。
片方の耳を倒し、不満そうに頬を膨らませる。
「一番大事なことが書いてないニャン」
「何だ」
「猫人になったことニャ!」
ルルカがレンの耳を指差した。
指先を目で追うと、今度は腰の尾を指される。
「それを伝えなかったら、人間側はお前が元の姿のまま転移したと思うニャ」
「そう思うかもしれないな」
「分かってて書かないのかニャン?」
「ああ」
「どうしてニャ?」
レンは紙へ視線を落とした。
人間側が保管している黒い石。
異種族へ作り替えられると知れば、ガルバンは使用を止める。
危険性を考えれば、破壊を試みる可能性も高い。
だが、同じ石は各地へ置かれている。
全部でいくつあるのか。
どこで作られているのか。
グラウゼンが死んだあとも機能するのか。
何も分かっていない。
一つを壊したところで、仕組みが残れば別の場所へ置かれるだけだった。
「今、石の正体を知らせても、あちらにある一つを処分するだけだ」
「一つでも減るニャ」
「作る側が警戒する」
職員の視線が、わずかに鋭くなった。
レンは構わず続ける。
「ここで起きていることを隠し、石を別の方法で送り込むかもしれない。製造場所も数も分からないまま、手掛かりを失う方が面倒だ」
「だから、黙って調べるのかニャ?」
「そうだ」
「でも、その間に次の人間が石を使うかもしれないニャン」
「そのために書いた」
レンが紙の一文を指す。
――次の判断は待て。
「ガルバンなら意味を理解する」
少なくとも、何も考えずに次の人間を送り込む男ではない。
石を壊させない。
新しい人間にも使わせない。
その間に、作った者と仕組みを調べる。
どちらにも完全な情報を渡さず、時間だけを作るための文章だった。
ルルカは紙とレンを交互に見る。
「嘘ではないニャ」
「ああ」
「でも、本当のことを全部書いたわけでもないニャン」
「聞かれていないことまで答える必要はない」
「それを普通は、都合のいい言い方っていうニャー」
「便利だな」
「感心するところじゃないニャン!」
職員が小さく咳払いをした。
「文章を変えますか?」
「いや」
レンは伝言晶へ手を置いた。
職員に教えられたとおり、送り先を思い浮かべる。
ガルバン。
指を二本失った男。
こちらに起きる危険を、一つも隠さず説明した人間。
その顔を思い浮かべながら、紙に書いた文章を読み上げる。
伝言晶の中心に刻まれた赤い文字が光った。
声に合わせて光が増し、水晶の内部へ細い線となって吸い込まれていく。
最後の一文を読み終えた直後、赤い光が一度だけ脈打った。
鋭い音とともに、水晶へ亀裂が入る。
表面から色が抜け、ただの透明な欠片へ変わった。
「送信されました」
職員が水晶を回収する。
「あちらが文章を確認すれば、対になった伝言晶も砕けます」
これで、人間側から返事は来ない。
ガルバンが指示の意味を理解したかどうかも、確かめる手段はなかった。
「終わりニャ?」
「ああ」
「じゃあ、次は身体訓練だニャン!」
ルルカの声が急に明るくなった。
「必要ない」
「あるニャ」
「歩ける」
「尻尾で花瓶を倒しかけた奴が言う台詞じゃないニャン」
「倒していない」
「ルルカが受け止めたからニャ!」
反論する間もなく、背中を押される。
小柄な身体からは想像できないほど力が強い。
レンは通信室を追い出され、そのまま新生院の中庭へ連れていかれた。
◇
猫人の身体は、人間の身体によく似ている。
だからこそ、わずかな違いが厄介だった。
耳の位置。
視界の広さ。
足裏へかかる体重。
腰から伸びた尾による重心の変化。
以前と同じ感覚で動けば、ほんの少しだけ身体がずれる。
その小さなずれは、刃を避けるときや狭い足場へ着地するとき、致命的な差になる。
中庭には、新生者が身体の扱いを覚えるための器具が並んでいた。
高さの違う壁。
地面から細く伸びる木の柱。
太さも傾きも不揃いな平均台。
ルルカは三メートルほどの壁へ軽々と飛び乗ると、上から手招きした。
「まずはここまで来るニャ!」
レンは壁を見上げる。
「登るのか?」
「跳ぶニャン」
「三メートルあるぞ」
「猫人なら平気ニャ」
「失敗したら?」
「痛いニャン」
「それだけか」
「骨も折れるニャ! 猫人に九つ命があるって話は嘘だから試すなニャン!」
レンは膝を曲げた。
新しい脚へ力を込める。
人間だったときより筋肉が深く沈み、地面から押し返される感覚が強い。
そのまま跳んだ。
予想より身体が高く浮く。
壁の縁へ両手をかけるつもりだったが、胸まで壁の上へ出た。
反射的に足を伸ばし、着地する。
尾が大きく振れ、傾いた身体を反対側へ引き戻した。
落ちはしなかった。
だが、ルルカが得意そうに笑っている。
「尻尾に助けられたニャ」
「なくても立てた」
「さっき切ろうとしてた身体の一部に助けられた感想は?」
「余計なことをした」
「素直じゃないニャン」
次は、柱の上を渡らされた。
最初の一歩で、足裏へ伝わる情報量の多さに気づく。
木の硬さ。
表面の細かな亀裂。
風が身体のどちら側から吹いているか。
尾は意識するより先に動き、重心を中央へ戻していた。
二本目で使い方を理解する。
三本目からは走った。
「ちょっと待つニャ!」
背後からルルカの声が飛んでくる。
「待つ理由は?」
「教える側を置いていくなニャン!」
最後の柱を蹴り、中庭を囲む屋根へ飛び移った。
瓦は朝露で濡れている。
それでも足は滑らなかった。
爪先が屋根の傾きを捉え、身体が自然に進むべき方向を選ぶ。
レンは屋根の端まで走り、隣の建物との距離を測った。
届く。
そう判断し、跳ぶ。
着地した直後、後ろからルルカも飛び移ってきた。
「勝手に訓練場から出るなニャ!」
「屋根を走れるか確かめた」
「今やる必要あるニャン?」
「使う前に確かめる必要がある」
「何に使うつもりニャ……」
ルルカは額を押さえた。
その日の午後には、暗所での視力と聴覚の確認も終わった。
離れた場所へ落とされた針の位置。
壁の向こうを歩く者の人数。
目を閉じたまま投げられた小石の軌道。
最初は、拾いすぎる音が邪魔になった。
通りを走る荷車。
屋根の上で鳴く鳥。
別室で皿を落とした音。
すべてが同じ近さで耳へ入り込み、必要なものを隠してしまう。
だが、選んで聞く方法さえ覚えれば、以前より多くの状況を把握できる。
「もう一回投げるニャ」
ルルカが背後から三つの小石を放る。
レンは振り返らず、身体を半歩だけずらした。
一つが肩の横。
二つ目が脇腹の横を通る。
最後の一つだけを、指先でつかんだ。
「……お前、本当に昨日まで人間だったのかニャ?」
「ああ」
「普通は一週間くらいかかるニャン」
「一週間も石を投げられたくない」
「練習ニャ! いじめてるわけじゃないニャン!」
身体に慣れるまで、二日も必要なかった。
翌日の夕方には、新生院から武器が返された。
短剣。
細い刃。
針。
鋼線。
人間側で渡されたときと同じものが、一つずつ布の上へ並べられている。
ルルカはその数を改めて確認し、大きく息を吐いた。
「何回見ても多いニャ」
「足りないよりはいい」
「普通の冒険者は、靴底に針を入れないニャン」
「普通の冒険者ではない」
「自分で言うなニャ」
レンは武器を元の場所へ戻した。
最後に、袖の裏へ薄刃を差し込む。
ルルカの鼻が小さく動いた。
「王城に入るときは、全部預けてもらうからニャ」
「分かっている」
「隠しても分かるニャン」
「試してみるか」
「挑戦するところじゃないニャー!」
◇
次の日の朝。
王都へ向かう馬車が、新生院の前へ並んだ。
屋根つきの馬車が三台。
食料や水を積んだ荷車が一台。
乗り込む新生者は、レンを含めて九人だった。
元の年齢も性別も、今の種族も異なる。
腕に羽毛の生えた女は、大きな外套で身体を包んでいる。
若い角人の男は、何度も額の角へ触れ、そのたび嬉しそうに笑っていた。
鱗に覆われた手を持つ男は、指に入らなくなった人間用の結婚指輪を、細い革紐へ通して首から下げている。
新しい身体を受け入れた者。
まだ受け入れられない者。
どちらとも決められない者。
全員が同じ青い布を胸元へ留めていた。
「人数、九人! 荷物、十二個! 水樽、六つ!」
ルルカが紙を見ながら、指差しで確認していく。
「羽がある奴は窓際ニャ。尻尾が太い奴は、後ろの馬車の方が広いニャン! 酔いやすい奴は先に薬を受け取っておくニャー!」
普段と同じ騒がしさだった。
だが、誰をどこへ座らせるか。
どの種族に何が必要か。
一人ずつ状態を確かめながら、迷いなく指示を出している。
案内役という仕事を任されているだけのことはあった。
「レンは一番前ニャ」
「なぜだ」
「お前を後ろに置くと、勝手に馬車から降りそうだからニャン」
「必要なら降りる」
「だから前ニャ!」
御者台の後ろへ押し込まれる。
ルルカも隣へ座った。
朝の鐘が鳴ると、馬車はゆっくりと動き始めた。
街の門を抜ける。
外へ続く道は、平らな石で舗装されていた。
一定の距離ごとに番号を刻んだ標石が置かれ、分かれ道には、行き先と距離を示す案内板が立っている。
車輪が壊れたときに備え、交換用の部品を置いた小屋まであった。
街を離れても、グラウゼンが持ち込んだ仕組みは途切れない。
「王都まで、ずっとこの道か?」
「そうニャ。途中で一度、宿場に泊まるニャン」
「軍も使うのか」
「使うニャ」
ルルカは道の横に広がる畑へ目を向けた。
獣人と小柄な魔族が並び、同じ道具で土を耕している。
畑の向こうには、大きな穀物庫が建っていた。
「でも、軍のためだけじゃないニャン。昔は村ごとに道が途切れてたから、少し遠くで食料が余ってても、飢えてる村まで運べなかったニャ」
「お前の村も?」
「あたしは北の山にある、小さな猫人の村で生まれたニャン」
ルルカは生まれたときから猫人だった。
グラウゼンが国を作り始めたあとに生まれ、物心がついた頃には、違う種族が同じ旗の下で暮らしていたという。
「陛下が来る前は、冬を越せない子供が毎年いたらしいニャ。道ができて、穀物庫ができて、遠くから薬も届くようになったニャン」
「それでグラウゼンを慕っているのか」
「それだけじゃないニャ」
ルルカは膝の上で尾を丸めた。
「陛下は、国ができたばかりの頃に一度、あたしの村へ来たニャン。竜の姿じゃなくて、黒い服を着た大きな男の姿でニャ」
「人の姿になれるのか」
「なれるニャン。角と尻尾は残るけどニャ」
新しい情報だった。
黒竜の身体でなければ、鱗に守られていない可能性もある。
レンが考えていると、ルルカが横から顔を覗き込んだ。
「今、変なこと考えたニャ?」
「何も」
「尻尾は動いてないニャン」
「隠し方を覚えた」
「余計に怪しいニャ……」
疑うように目を細めたあと、ルルカは話を戻した。
「そのとき、陛下は村中の家を一軒ずつ見て回ったニャ。水場を直して、薬師を置いて、次の冬までに道を作るって約束したニャン」
「約束は守ったのか」
「春になる前に道ができたニャ」
鮮やかなピンク色の耳が、誇らしげに立つ。
ルルカにとって、グラウゼンは遠い王ではない。
自分の暮らしを変えた者。
家族や村を救った存在だった。
「なぜ、新生院で働いている」
「人間から来た奴は、最初に目を覚ましたとき、みんな怖そうな顔をするニャ」
ルルカが前を向いたまま答える。
「知らない場所で、知らない身体になって、最初に会った異種族まで怖い顔をしてたら、もっと不安になるニャン」
「だから笑っているのか」
「可愛い猫人が笑顔で迎えれば、ちょっとは安心するだろニャ?」
「自分で可愛いと言うのか」
「事実ニャン」
迷いのない返答だった。
レンはそれ以上聞かなかった。
◇
日が傾く頃、馬車は一つの村へ入った。
入口には、二つの名前が残されている。
古い石碑に刻まれていた人間の国の名は、半分ほど削り取られていた。
その隣には新しい木の看板が立ち、ノアの共通文字で村の番号と、最寄りの街までの距離が記されている。
人間側から奪った土地らしい。
焼け落ちた家は建て直されている。
井戸も畑も使われ、通りでは店が開いていた。
角人。
犬人。
鱗を持つ亜人。
そして、人間。
人間の住民も残っていた。
首輪も鎖もつけられていない。
ただし全員が、腕へ白い布を巻いている。
レンたちの青い布とは違う印だった。
「白い布は?」
「猶予民ニャ」
ルルカの声が少しだけ低くなった。
「戦いが終わったあとも、村に残ることを選んだ人間ニャン」
「ノアの市民ではないのか」
「まだ違うニャ」
「いつ市民になる?」
ルルカはすぐに答えなかった。
馬車が宿の前で止まる。
人間の老婆が出てきて、御者へ頭を下げた。
ルルカを見ると、見知った相手らしく小さく手を振る。
ルルカも笑顔で振り返した。
「人間のまま、ノアの市民にはなれないニャ」
馬車を降りてから、ようやく答えた。
「ここを出て人間側へ渡るか、転生石で別の種族になるか。村がノアへ編入されてから一年以内に、どちらかを選ぶ決まりニャン」
「従わなければ?」
「人間側へ送り返されるニャ」
「家と土地を置いて?」
「……そうニャン」
宿の前では、人間の子供がこちらを見ていた。
六歳か七歳。
レンの耳と尾を珍しそうに眺めている。
目が合うと、子供は母親の背後へ隠れた。
それでも好奇心には勝てなかったのか、すぐに半分だけ顔を出す。
「その耳、痛くないの?」
レンへ向けた質問だった。
「痛くない」
「人間だったの?」
「ああ」
「僕も、それになるの?」
母親が慌てて子供の肩を抱いた。
「すみません」
謝り、足早に宿の中へ連れていく。
白い布を巻いた母親の腕が、扉の向こうへ消えた。
「母親は残るつもりか」
「分からないニャ」
「子供は自分で選べない」
「家族で決めることになってるニャン」
「住んでいた国を奪われ、土地を捨てるか、身体を捨てるか選ばされる」
レンはルルカを見る。
「それを自由と呼ぶのか?」
ルルカの耳が横へ倒れた。
「殺されるよりはいいニャ」
答えは早かった。
だが、その言葉を口にした本人が、最も納得していない顔をしている。
「比較する相手が死なら、大抵の選択は自由に見える」
「人間をそのまま住ませたら、軍へ情報を送る奴もいるニャン。井戸に毒を入れた人もいたし、夜に倉へ火をつけた人もいたニャ」
「全員がしたのか」
「してないニャ」
「なら、忠誠ではなく種族で決めている」
ルルカは唇を閉じた。
縞模様の尾が、力なく垂れる。
宿の中から、食器の触れ合う音が聞こえていた。
人間の老婆が、ノアの兵士へ食事を運んでいる。
兵士は礼を言い、代金を払った。
そこだけを見れば、敵同士には見えない。
それでも老婆の腕には、白い布がある。
「……あたしも、正しい呼び方は分からない」
ルルカの言葉から、猫の語尾が消えていた。
「でも、人間の国はあたしたちを国だと認めない。陛下を殺して、ここにいる種族を元の場所へ追い返すまで戦うって言ってる」
「だから、人間がいなくなれば戦争は終わる?」
「そう言う人もいるニャ」
ルルカは、扉の向こうへ消えた子供を見つめた。
「陛下が何を考えてるかは、あたしには全部分からないニャン」
明るい声へ戻そうとしている。
だが、耳と尾までは戻らなかった。
レンは村を見渡した。
滅ぼされたはずの人間は、生きている。
殺されてはいない。
代わりに、人間であり続けることを許されていなかった。
グラウゼンは人間を憎み、皆殺しにしようとしているのではない。
もっと別の方法で、人間という存在を消そうとしている。
その可能性が、初めて形を持った。
◇
翌日。
馬車は村を離れ、王都へ続く山道を進んだ。
道は緩やかな傾斜を保つよう、山肌を大きく削って作られている。
谷には長い石橋が架かり、崩れやすい斜面は巨人族が運んだ岩で補強されていた。
途中ですれ違った荷車には、すべて行き先と内容物が記されている。
穀物。
鉄。
薬草。
軍用の矢。
北へ向かう物。
南から運ばれてくる物。
一つの国を支える血流のように、道の上を絶えず物資が行き交っていた。
夕暮れ前。
馬車が長い坂を上り切る。
視界を塞いでいた山が途切れ、その先に広大な盆地が現れた。
王都だった。
いくつもの街区が、中央の黒い山を囲むように広がっている。
低い建物が並ぶ区画。
巨人族のための巨大な家屋。
翼を持つ種族が暮らす、細長い塔。
地下種族の出入口らしい大きな穴が、街のあちこちへ開いていた。
異なる造りの街が無秩序に隣り合っているようで、道と水路はすべて中央へつながっている。
中央の山には、城が埋め込まれていた。
岩を削って建てたというより、山そのものを城へ作り替えたように見える。
黒い外壁。
何本もの高い塔。
頂上には、建物とは不釣り合いなほど広い石の台が張り出している。
人間の王が立つための場所ではない。
巨大な竜が降りるための場所だった。
「あれが王城ニャ」
ルルカが御者台の横から身を乗り出す。
ピンク色の耳が、風を受けて揺れていた。
「謁見は二日後ニャン。それまでは王都の新生院に泊まるニャ」
「城までは、どの道を使う?」
「あの大通りを真っ直ぐニャン」
「地下道は?」
「なんで最初に地下から入ろうとするニャ?」
「水路は城まで続いているのか」
「観光客が気にする場所じゃないニャン!」
ルルカが呆れた声を上げた、そのときだった。
空が暗くなる。
雲が太陽を隠したのではない。
山の向こうから、巨大な影が現れた。
最初に届いたのは、風だった。
馬車の幌が大きく膨らみ、道端の草が一斉に地面へ伏せる。
遅れて、腹の底まで震わせる羽音が響いた。
黒い竜。
広げた翼は、王都の大通りさえ覆い隠せるほど大きい。
夕日を浴びた鱗が、磨かれた黒曜石のように光っている。
頭から後方へ伸びる二本の角。
城壁を一撃で崩すという顎。
爪の一本だけでも、人間の身体より長い。
依頼書に並んでいた記録が、初めて現実の大きさを持った。
道を進んでいた者たちが足を止める。
兵士は胸へ拳を当てた。
商人たちは頭を下げる。
子供たちは恐れるどころか、歓声を上げながら空へ手を振っていた。
誰かに命じられた様子はない。
黒竜が見えることを、心から喜んでいる。
「陛下だニャー!」
ルルカが御者台の上で立ち上がった。
両腕を大きく振る。
「お帰りなさいませニャー!」
届く距離ではない。
それでも黒竜は、王都へ戻る民の姿を確かめるように、ゆっくりと首を動かした。
巨大な赤金色の瞳が、地上へ向けられる。
その視線が馬車の上を通った瞬間、レンの耳が頭へ張りついた。
背中の毛が逆立つ。
指先から爪が伸び、御者台の木へ食い込んだ。
尾は太さが倍になったように膨らんでいる。
魔力を向けられたわけではない。
殺気もない。
新しく得た獣の身体が、自分よりはるか上位の存在を前に、勝手に恐怖していた。
レンは呼吸を整える。
目だけを動かし、黒竜の身体を見る。
目。
喉。
翼の付け根。
前脚の関節。
鱗の薄い場所を探す。
だが、遠目に見える範囲には、刃が通りそうな隙間は一つもなかった。
黒竜が城の上空で翼を広げる。
巻き起こった風が王都を走り抜け、屋根の旗を一斉にはためかせた。
巨体が山頂の石台へ降りる。
重い音が盆地へ響き、黒い翼がゆっくりと畳まれた。
「すごいだろニャ!」
ルルカが満面の笑みを向けてくる。
「大きいな」
「感想、それだけニャン?」
「思っていたより速い」
「どこを見てたニャ?」
「翼と首」
「普通は顔とか、格好いい角を見るところニャン!」
ルルカは頬を膨らませたあと、レンの尾へ目を移した。
膨らんだまま戻っていない。
「怖かったニャ?」
「身体が反応しただけだ」
「それを怖いっていうニャン」
「支障はない」
「顔だけは本当に変わらないニャ……」
ルルカは呆れながらも、少し嬉しそうに笑った。
「二日後には、あの方と直接話せるニャン。陛下は新生者の話なら、どれだけ時間がかかっても聞いてくれるニャ」
「そうか」
「変なことするなよ?」
「例えば?」
「いきなり陛下へ飛びかかるとかニャ!」
「今の距離では届かない」
「距離の問題じゃないニャン!」
ルルカの声が山道へ響く。
馬車に乗っていた新生者たちが、一斉にこちらを見た。
レンは何も言わず、王城を見上げる。
黒竜王グラウゼン。
人間だった記憶と知識を持ち、異種族を一つの国へ変えた者。
人間を殺す代わりに、人間ではないものへ生まれ直させている者。
本人を処分するだけで、この国に残された影響まで消えるとは思えない。
殺せる相手なのか。
殺したあと、何を壊すべきなのか。
その答えを持つ黒竜まで、あと二日だった。




