尻尾を○す
鉄格子の向こうから、軽い足音が近づいてきた。
硬い軍靴の音ではない。
踵の低い靴が、石床を小気味よく叩いている。
姿が見えるより先に、甘い果実と石鹸の匂いが鼻へ届いた。
嗅ごうとしたわけではない。
新しい身体が、勝手に拾った。
やがて格子の前へ、少女が顔を覗かせる。
鮮やかなピンク色の髪。
頭の上には、髪と同じ色をした猫の耳。
大きな緑色の瞳が、薄暗い部屋の中にいるレンを見つける。
少女は嬉しそうに耳を立てた。
「おっ、起きてるニャー!」
朝の挨拶にしては、声が大きい。
腰の後ろでは、縞模様の尾が楽しそうに揺れていた。
レンは立ち上がりながら、腰の短剣へ手を伸ばす。
「はい、そこで止まるニャン」
少女が笑顔のまま、人差し指を立てた。
「お前の右に二人、左に二人。扉の上にも弓が二人いるニャ。今その短剣を抜いたら、あたしに届く前に穴だらけだニャン」
壁の向こうへ意識を向ける。
六人。
呼吸と鎧の擦れる音まで聞こえた。
少女の言葉に嘘はない。
「よく聞こえるだろニャ?」
「ああ」
「猫人の耳は優秀なのニャ。せっかく生まれ直したのに、一分で死ぬのはもったいないニャン」
少女が鉄格子の下にある小さな受け渡し口を開けた。
「まずは武器を全部こっちへ渡すニャ」
「断ったら?」
「扉が開かないだけニャン。ご飯は朝昼晩、ここから入れてあげるニャー」
レンは少女を見た。
笑顔は崩れない。
脅しているつもりはないらしい。
事実を明るく伝えているだけだった。
短剣を鞘ごと外し、受け渡し口へ置く。
続けて上着の内側から細い刃を二本。
靴底の針。
袖に仕込んだ鋼線。
少女は一つずつ数え、腰に下げた革袋へしまっていく。
「これで全部?」
「ああ」
少女の鼻が小さく動いた。
右へ一度。
左へ一度。
緑色の瞳が細くなる。
「嘘は駄目だニャ」
レンは答えない。
「右袖の縫い目。もう一本あるニャン」
人間側の兵士には見つけられなかった刃だった。
レンは袖を裂き、薄い刃を抜く。
「なぜ分かった」
「油の匂いニャ。身体と服は新しくなっても、武器の手入れに使った油までは変わらないニャン」
刃を受け取り、少女は得意そうに胸を張った。
「猫人を舐めると痛い目を見るニャー」
「もう見た」
「まだ何もしてないニャン!」
腰の尾が勢いよく立つ。
表情だけでなく、感情が尾にも出るらしい。
少女は革袋の口を閉めると、レンの首元へ視線を移した。
そこには、人間側の軍から渡された伝言晶が下がっている。
「それは持ってていいニャ」
「通信具だぞ」
「知ってるニャン」
「没収しないのか」
「生まれ直した人には、向こうへ無事を伝える権利があるニャ。家族や仲間が心配してるかもしれないだろ?」
少女は当たり前のように答えた。
「ただし、使うときは職員が立ち会うニャン。変な命令や、嘘の情報を送られたら困るからニャ」
「嘘の情報?」
「あたしたちの国を攻めるための情報とかニャ」
言葉自体は正しい。
だが、この伝言晶を使わせることには、もう一つ意味がある。
人間側へ無事を知らせる。
転移に成功したと信じさせ、次の人間に石を使わせる。
イーヴァンの伝言も、同じ目的で送られた可能性が高い。
少女が鍵束から一本を選び、鉄格子へ差し込んだ。
重い錠が外れる。
扉が開いても、周囲の兵士は姿を見せなかった。
音と匂いだけを残し、壁の向こうで待機している。
「出ていいニャ」
レンは動かない。
「何?」
「お前は誰だ」
少女は目を丸くした。
「あっ」
額へ手を当て、慌てて姿勢を正す。
「初めましてニャ! あたしはルルカ。新生院で、生まれ直した人の案内役をしてるニャン!」
「新生院?」
「ここニャ」
ルルカが両腕を広げる。
「転生石を使って人間から異種族へ生まれ直した人が、最初に暮らす場所だニャン。身体の使い方と、この国の決まりを覚えるまで、あたしたちが面倒を見るニャ」
「牢ではないのか」
「最初の部屋だけは鍵をかけるニャ。目が覚めた途端、叫ぶ、暴れる、泣く、壁に頭をぶつける。そういう奴が多いからニャン」
ルルカがレンのいた部屋を覗き込む。
倒れた家具はない。
壁にも傷一つついていない。
「水を覗いて、自分の耳と尻尾を確かめて、静かに状況を考えてたのはお前が初めてニャ」
「そうか」
「……お前、変わったやつだニャン」
呆れたように言いながら、ルルカは持っていた板へ何かを書き込んだ。
「名前は?」
「レン・クロード」
「レンだニャ。前もその名前?」
「ああ」
「新しい名前をつけてもいいニャン。身体が変わったのをきっかけに、名前も変える奴は多いニャ」
「必要ない」
「黒猫なのに?」
「関係あるのか」
「クロとか、クロードとか、ちょっとだけ猫っぽいニャ」
「どこがだ」
「雰囲気ニャン」
根拠はないらしい。
ルルカがレンの周りを一周する。
耳。
目。
指先。
最後に腰の尾へ視線を向けた。
「黒猫人。外見年齢は十七か十八。目と耳に異常なし。尻尾は……」
ルルカが手を伸ばす。
レンはその手首をつかんだ。
「触るな」
「確認ニャ!」
「必要ない」
「尻尾が動くか確かめるだけだニャン!」
「動いている」
レンの腰の後ろで、黒い尾が大きく左右へ揺れていた。
自分の意思で動かしているつもりはない。
「それ、警戒してる動きニャ」
「止め方は?」
「知らないニャン?」
「今朝までなかった」
ルルカは少しだけ考え、すぐに笑った。
「それもそうニャ!」
何がおかしいのか、声を上げて笑う。
レンが手を離すと、ルルカは自分の尾を持ち上げて見せた。
「尻尾は考えて動かすんじゃなくて、腰と一緒に動かすニャ。歩くときの釣り合いを取ってくれるから、無理に止めなくていいニャン」
「感情まで出るのか」
「出るニャ」
「隠す方法は?」
「なんで最初に気にするのがそこニャ?」
ルルカが半眼になる。
「普通は高いところから落ちても平気かとか、暗い場所でどこまで見えるかとか聞くニャン」
「感情を読まれる方が問題だ」
「顔は怖いくらい動かないのに、尻尾だけ素直ニャ。面白い奴になったニャン」
レンが尾を見る。
先端だけが苛立たしげに床を叩いていた。
余計なものをつけられた。
「その話し方は、猫人全員がするのか」
「普通にも話せるニャ」
ルルカは片目を閉じ、わざとらしく首を傾げた。
「でも、こっちの方が可愛いニャン?」
「聞いていない」
「尻尾は可愛いって言ってるニャー」
黒い尾が、ルルカから離れるように反対側へ動いた。
身体の方が正直らしい。
ルルカは板への記入を終えると、廊下の先を指した。
「歩けるなら、身体の確認をするニャ。終わったら外を案内してやるニャン!」
「その前に聞きたい」
「何ニャ?」
「転生石を作ったのは誰だ」
ルルカは不思議そうに瞬きをした。
「黒竜王陛下ニャ」
隠す様子はない。
「陛下の力を石へ分けて、人間でも生まれ直せるようにしたって聞いてるニャン」
「力の名前は?」
「《昇華》ニャ」
依頼書に記されていた能力。
人外種の身体や魔力、知性へ恒久的な変化を与える力。
転生石は、それを人間へ使うための道具だった。
グラウゼンが死んだあとも石が使えるのなら、本人とは別に処分すべき影響となる。
「元へ戻す方法は?」
ルルカの耳が、わずかに横へ倒れた。
「ないニャ」
それまでと変わらない明るい声。
だが、答えるまでにほんの少し間があった。
「少なくとも、今は見つかってないニャン。一度生まれ直した身体は、それが新しいお前になるニャ」
「本人の意思を確認せずに?」
「石へ触れたのはお前だろ?」
「姿が変わるとは知らなかった」
「それは……そうかもしれないニャ」
ルルカの尾から、先ほどまでの軽い動きが消える。
彼女自身が石を作ったわけではない。
それでも、何度か同じ問いを向けられてきた顔だった。
「ここにいる間に、この国で暮らすか、外へ出るかを選べるニャン。軍に入る必要もないし、陛下へ忠誠を誓わされることもないニャ」
「人間側へ戻るのも自由か」
「止めはしないニャ」
ルルカは廊下の向こうへ目を向けた。
「でも、その耳を見た人間が、お前の話を最後まで聞いてくれるかは分からないニャン」
レンは答えなかった。
人間側の街で見た告知を思い出す。
異種族との交易だけで財産を奪われ、名前を晒される。
黒竜王の領土から現れた猫人が、自分は元人間だと名乗ったところで、先に向けられるのは質問ではなく武器だろう。
戻る自由はある。
戻れる場所が残されていないだけだった。
「ここは、グラウゼンの国か」
「人間は黒竜領とか、魔物の国とか呼んでるらしいニャ」
ルルカの耳が不満そうに動く。
「本当の名前は、多種族連合国ノアだニャン」
「ノア……」
地球に存在する古い物語。
大洪水から命を守るため、あらゆる生き物を乗せた方舟。
偶然かもしれない。
だが、異種族を一つの国へ集めたグラウゼンが、その名を選んだ意味は想像できる。
異世界由来である可能性を示す証拠が、また一つ増えた。
「それじゃあ、行くニャ」
ルルカが歩き始める。
レンも廊下へ出た。
新生院の内部は、牢獄より病院に近かった。
窓から光が入り、壁と床は綺麗に磨かれている。
いくつもの部屋が並び、扉には名前と種族を書いた札が下げられていた。
開いた扉の向こうでは、角の生えた男が椅子へ座り、自分の額を何度も触っている。
別の部屋では、腕に羽毛の生えた女が職員に支えられながら歩く練習をしていた。
どちらも、元は人間なのだろう。
泣いている者もいる。
新しい身体を面白がり、鏡の前で何度も耳を動かしている者もいた。
「今まで何人来た?」
「この新生院では二十三人ニャ。ほかの街にも同じ施設があるから、全部は知らないニャン」
人間側が把握しているのは、イーヴァンとレンだけ。
だが、グラウゼンは複数の国へ同じ石を送り込んでいる。
偶然拾わせているのではない。
人間を異種族へ変え、国内へ引き入れる仕組みとして運用していた。
「イーヴァンという男を知っているか」
ルルカの足が止まる。
「イーヴァン?」
「半年前に来た。茶色い髪で、左耳の下に矢傷があった」
「ああ!」
ルルカの耳が大きく立った。
「ヴァンの昔の名前ニャ!」
「生きているのか」
「元気だニャン。今は灰狼人になって、中央の測量隊で働いてるニャ」
斥候だった経験を、そのまま異種族の国で使っているらしい。
「本人が選んだのか」
「もちろんニャ。ここを出る前に、ちゃんと本人が決めたニャン」
「人間側へ伝言を送ったあとか?」
ルルカの笑顔が、ほんのわずかに止まった。
「そこまで知ってるニャ?」
「あいつの仲間から聞いた」
「なら、ヴァン本人に聞くといいニャン」
それ以上は答えず、再び歩き始める。
隠している。
少なくとも、伝言が送られた事情を知っている反応だった。
廊下の突き当たりに、大きな両開きの扉がある。
ルルカが鍵を回し、両手で押し開けた。
眩しい光が差し込む。
同時に、幾重もの声と匂いが押し寄せてきた。
広い通り。
石と木を組み合わせた建物。
荷車を引く角の生えた巨人。
軒先へ布を並べる猫人。
頭上では翼を持つ者が手紙の束を抱え、屋根から屋根へ飛び移っている。
小さな魔物たちが色のついた首輪をつけ、道端へ落ちたごみを集めていた。
通りの幅は揃えられ、荷車は左右に分かれて進んでいる。
建物には番号が振られ、交差点には行き先を示す案内板。
水路には透き通った水が流れ、蓋のされた排水溝から悪臭はしない。
身体の大きさも、耳も、角も、肌の色も違う。
それでも誰も互いを珍しがらず、同じ街の中で暮らしている。
レンが想像していた、魔物の巣ではない。
人間側の街より整えられた、一つの国だった。
ルルカがレンの前へ飛び出し、くるりと振り返る。
橙色の髪と縞模様の尾が、日の光を受けて揺れた。
「ようこそ、多種族連合国ノアへ!」
両手を広げ、満面の笑みを浮かべる。
「どこへ行きたいニャ? 市場でも、食堂でも、訓練場でも、あたしが案内してやるニャン!」
「王城」
ルルカの笑顔が固まった。
耳が片方だけ傾く。
「来たばかりだぞ?」
「だからだ」
「普通は最初にご飯とか、寝る場所を気にするニャ」
「必要になれば考える」
ルルカはしばらくレンを見つめ、深く息を吐いた。
「……お前、やっぱり変わったやつだニャン」
呆れた口調とは裏腹に、尾は楽しそうに揺れていた。




