猫を○す
翌朝。
東の兵舎の前には、夜明け直後だというのに長い列ができていた。
並んでいるのは兵士だけではない。
槍を持った農夫。
自前の弓を背負った猟師。
身体に合わない革鎧を着た若者。
片腕を失いながら、残った手で剣を握る男までいる。
兵士が一人ずつ名前と出身地を聞き、木札へ書き込んでいた。
入隊希望者というより、戦える人間を片端から拾い上げているように見える。
レンは列を横切り、門の前に立つ兵士へ真鍮の札を見せた。
「酒場のマルタからか」
兵士の顔つきが変わる。
札を裏返し、軍の紋章と刻印を確かめた。
「昨日の夜に、四人まとめて伸した奴だな?」
「話が早い」
「その四人の治療費まで請求されてる。随分と派手にやったらしいな」
「殺していない」
「それで褒めてもらえると思ってるのか…お前」
兵士は呆れたように言い、門の内側へ合図を送った。
すぐに別の兵士が現れ、レンを小さな部屋へ案内する。
中には机と椅子。
壁際には、取り上げた武器を置くための棚が並んでいた。
「身体を調べる。武器を全部ここへ出せ」
レンは腰の短剣を外し、机へ置いた。
続けて上着の内側から細い刃を二本。
靴底から針。
袖口から短い鋼線を取り出す。
兵士の眉間に皺が寄った。
「ほかには?」
「ある」
襟の裏に隠した薄刃と、硬貨に似せた小さな刃も机へ並べる。
「……お前は何と戦うつもりなんだ」
「必要になった相手だ」
兵士は返事を諦め、レンの服と靴を入念に調べた。
それでも見つけられなかった刃が一本残っている。
調査を終えると、武器はその場で返された。
「没収しないのか」
「向こうへ送る奴を丸腰にしてどうする。数と形を記録しただけだ」
兵士は机の上の記録へ、最後の一本まで書き込んだ。
それから兵舎の奥へ進み、厚い扉の前で立ち止まる。
「入れ」
部屋には二人いた。
一人は軍服姿の男。
五十前後。短く刈った髪には白いものが混じり、右手の指を二本失っている。
もう一人は、濃紺の外套をまとった女だった。
机の上に魔石や測定器具を広げ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
軍服の男が真鍮の札を受け取った。
「東部軍で情報を預かっている、ガルバンだ。こちらは魔導技師のセシア」
女は顔も上げず、小さく片手を振った。
「レン・クロード」
「冒険者ギルドへの登録は?」
「ない」
「所属していた国は?」
「ない」
「身元を証明できる者は?」
「この街にはいない」
答えるたび、ガルバンの表情が険しくなっていく。
「ないものばかりだな」
「だから来た」
「どういう意味だ?」
「所属と家族がある者は、帰れない場所へ行きたがらない」
ガルバンが黙る。
それを否定できる者は、この兵舎にはいないらしい。
「マルタの見立てでは、少なくともレベル七相当。対人戦に限れば、それ以上の可能性もあるそうだ」
「酒場の女主人が決めるのか」
「マルタは引退したレベル八だ。人を見る目に関しては、軍の試験官より信用している」
肉切り包丁を握った姿を思い出す。
ただの酒場の女主人ではないと思っていたが、元冒険者だったらしい。
「なぜ、異種族の国へ行きたい?」
ガルバンが尋ねる。
「黒竜王へ近づくためだ」
「会ってどうする?」
「殺せるなら殺す」
セシアの手が止まった。
初めて顔を上げ、レンをじっと見つめる。
ガルバンは表情を変えなかった。
「正気か?」
「その質問に意味はあるのか」
「正気であれば行かせる。死にたがりなら追い返す」
「死ぬつもりはない」
「黒竜王を殺せると思っている?」
「近づいてから考える」
ガルバンは長く息を吐き、椅子の背へ身体を預けた。
「こちらが求めているのは暗殺者ではない。内部の情報だ」
異種族の国の正確な領土。
主要な街と軍事拠点。
種族ごとの兵力。
物資が運ばれる道。
そして、黒竜王グラウゼンの居場所。
判明した情報を伝言具で送り、可能ならば帰還経路を探す。
それが軍から提示された任務だった。
「暗殺はするなと言うのか」
「機会があるなら止めはしない。ただし、何も送らないまま死なれては困る」
「順番の問題か」
「そうだ」
ガルバンは机の引き出しを開け、小さな革袋を取り出した。
中から出てきたのは、親指ほどの細い水晶だった。
中央には赤い文字が一つ刻まれている。
「伝言晶だ。一度だけ、こちらに短い文章を送れる。イーヴァンが使った伝言符と仕組みは同じだ」
「受け取ったあとは?」
「文字を確認した時点で水晶は砕ける。返事は送れない」
「帰還手段は」
「ない」
迷いのない返答だった。
「少なくとも、我々は知らない」
「イーヴァンを送ったときも?」
「あれは送ったのではない。事故だ」
ガルバンの失われた指が、机の上を二度叩く。
「今回は違う。起こることを知ったうえで、人間を一人向こうへ送る。だから事実を隠すつもりはない」
「死ぬ可能性は?」
「ある」
「異種族の国へ着かない可能性は?」
「ある」
「イーヴァンの伝言が罠だった可能性は?」
「高いと考えている」
そこまで答えるとは思っていなかった。
ガルバンは、レンの反応を確かめるように片目を細める。
「それでも見るか?」
「見なければ判断できない」
「なら来い」
ガルバンが立ち上がった。
兵舎の地下へ続く階段を下りていく。
石壁には一定の間隔で魔石灯が埋め込まれていた。地下へ進むほど空気が冷たくなり、兵士の数も増えていく。
最初の鉄扉に二人。
次の扉には四人。
最下層の前では、全身鎧を着た八人の兵士が通路を塞いでいた。
ガルバンが証文を見せ、セシアが封印へ手をかざす。
青白い線が壁を走り、三重の鉄扉が順番に開いていった。
その先に、黒い石があった。
部屋の中央。
腰ほどの高さの台座へ載せられ、その周囲を鉄柵と魔法陣が取り囲んでいる。
大きさは握り拳ほど。
表面に凹凸はなく、磨き上げた黒曜石にも見えた。
しかし内部では、細い赤色の光が絶えず動いている。
一定の間隔で集まり、散らばり、また集まる。
光というより、血管の中を巡る血に近い。
レンが部屋へ入ると、その動きがわずかに速くなった。
「反応した」
セシアが測定器具を確認する。
「やはり人間の魔力を見分けているようね」
「動物には使えないのか」
レンが尋ねる。
「犬、鼠、馬で試したけれど、何も起きなかった。魔石を近づけても同じ。反応するのは人間の血か、生きた人間の魔力だけ」
「魔法を使えない人間でも?」
「魔法が使えなくても、身体には微量の魔力が流れている。石はそれを勝手に吸い上げるみたい」
セシアは黒い石へ近づかず、離れた場所から器具を操作していた。
「空間魔法の反応は?」
「見つかっていない」
「転移石なのに?」
「だから私自身は、転移石という呼び名に反対してる」
セシアが不機嫌そうに答える。
「行方不明になった人間から、向こうへ着いたという伝言が届いた。それだけを根拠に、周りが勝手にそう呼び始めたのよ」
「石を念入りに調べられないのか」
「術式そのものが見当たらない。文字も刻印もない。なのに内部だけで魔力が循環している。こんな魔道具は見たことがない」
レンは鉄柵の外から石を観察した。
赤い光の動きに規則性はある。
だが、魔法陣というより、生き物の脈動に見えた。
「どこで見つけた」
「四日前、国境近くの監視塔だ」
ガルバンが答える。
その監視塔は、数日前まで異種族の部隊が占拠していた。
人間側が奪還したとき、敵はすでに撤退したあとだったという。
「瓦礫の中か?」
「違う」
ガルバンの声が低くなる。
「塔の最上階。部屋の中央に置かれた机の上だ。白い布に包まれていた」
隠されていたのではない。
見つけさせるために置かれていた。
「罠だな」
「ああ」
ガルバンは否定しなかった。
「これを使った人間が異種族の国へ行くことも、向こうは分かっている」
「そう考えるべきだ」
「なら、潜入にはならない」
「最初から気づかれている可能性は高い。ただし、罠の出口が敵国の内側にあるなら、そこは我々が見つけられなかった唯一の入口でもある」
罠だと分かっていても、その先に情報がある。
人間側は、そこまで追い詰められていた。
「思ったより正直だな」
レンが言うと、ガルバンは顔をしかめた。
「嘘をついて触らせても、向こうへ着いた瞬間に裏切られるだけだ」
酒場の女主人と、よく似た答えだった。
「最後に確認する」
ガルバンがレンの正面へ立つ。
「一度触れれば止められない。装備ごと消えることは確認されているが、同じ場所へ着く保証も、生きて着く保証もない」
「十分だ」
「考え直すなら今だ」
レンは鉄柵の向こうにある黒い石を見る。
異種族の国へ入る。
グラウゼンが転生者である証拠を探す。
《昇華》の条件と、残された異世界由来の影響を特定する。
そのための道が、今はこれしかない。
危険であることは、使わない理由にならなかった。
「開けろ」
セシアが小さく息を吐き、鉄柵の封印を解除した。
ガルバンから伝言晶と携行食、水の入った革袋を受け取る。
武器はすべて元の場所へ戻した。
「イーヴァンの特徴は?」
「茶色い髪。左耳の下に、矢傷がある。背丈はお前より頭一つ高い」
レンは台座の前へ立った。
近くで見ると、石の内部を巡る赤い光はさらに生々しい。表面のすぐ下を這い回り、触れてくる人間を待っているようにも見える。
「手を置けばいいのか」
「ええ」
セシアは測定器具を握りしめた。
「魔力を流す必要はない。石の方から吸い上げる。抵抗しないで」
「抵抗した場合は?」
「分からない」
「そうか」
レンは右手を伸ばした。
指先が黒い石へ触れる。
冷たくはなかった。
人肌に近い温度。
その感触を認識した直後、石の中にあった赤い光が、すべてレンの掌へ集まった。
皮膚の下へ入り込む。
「っ……」
赤い線が手首を通り、腕を駆け上がった。
魔法を受けた感覚ではない。
異物が血管の中へ潜り込み、身体の内側を探っている。
咄嗟に手を離そうとしたが、掌が石へ貼りついて動かない。
「始まった!」
セシアの声が響く。
床の魔法陣ではなく、レンの足元から黒い影が広がっていった。
足首。
膝。
腰。
身体が下から順番に、光の中へ沈んでいく。
これまでにも、女神の力で何度も世界を渡ってきた。
転移に痛みはない。
扉を一枚くぐるように、立っていた場所と空気が変わるだけだった。
これは違う。
骨が軋む。
関節が外れ、別の位置へ組み直されていく。
耳の奥で、何かが裂ける音がした。
視界が赤く染まり、心臓が一度、大きく跳ねる。
そして――止まった。
ガルバンが何かを叫んでいる。
声は聞こえているのに、意味だけが遠ざかっていく。
暗闇の中で、再び心臓が動き始めた。
先ほどまでとは異なる、速く強い鼓動だった。
次の瞬間、床が消えた。
◇
最初に戻ってきたのは、嗅覚だった。
湿った石。
鉄。
水。
知らない獣の匂い。
あまりにも多くの情報が一度に押し寄せ、レンは反射的に息を止めた。
次に音が届く。
壁の向こうを歩く二人分の足音。
さらに遠くから聞こえる金属音。
水滴が落ちる場所まで、目を開けずに分かった。
身体の下には、冷たい石床がある。
服も靴も残っていた。
腰の短剣。
内側の細い刃。
首から下げた伝言晶も失われていない。
それでも、何かが違う。
レンはゆっくりと目を開いた。
薄暗い石造りの部屋。
扉には鉄格子がはまり、外側から鍵がかけられている。
部屋の隅には水を張った浅い器が置かれていた。
身体を起こし、右手を見る。
形は人間のものとほとんど変わらない。
ただし指先の爪は黒く、わずかに鋭く尖っていた。
水の器へ近づく。
揺れる水面に、知らない顔が映った。
黒い髪。
金色の瞳。
顔立ちには以前の面影が残っている。
だが頭の上には、黒い三角形の耳が二つ生えていた。
片手を伸ばして触れる。
柔らかな毛の感触。
耳は指先を避けるように動き、同時に、腰の後ろで何かが床を擦った。
振り返る。
黒く長い尾が、自分の意思とは関係なく左右へ揺れていた。
酒場の女主人の言葉が蘇る。
――国は猫の手でも借りたい有様だ。
レンは水面に映った獣耳を見つめた。
「……本当に猫にする奴があるか」
人間だった身体は、どこにも残っていない。
石は、レンを人間のまま向こう側へ運んだのではなかった。
一度壊し、異種族の身体へ作り替えてから送り込んだ。
あれは《転移石》ではない。
《転生石》だった。




