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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜魔物の国編〜
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50/72

情報を〇す

転移をし、最初に目へ入ったのは街並みではなく、その上へ向けられた武器だった。


石造りの屋根に固定された大型の弩。


建物の隙間から見える城壁にも、同じものが等間隔に並んでいる。


どれも街の外ではなく、空へ向けて矢を構えていた。


長さだけなら人間の背丈を超えている。先端には黒い鉄が巻かれ、その後ろでは兵士が二人一組で雲の流れを追っていた。


竜を射るための武器だろう。


もっとも、依頼書に記されていたグラウゼンの鱗を、あれで貫けるとは思えない。


鐘の音が、もう一度響いた。


続けて二度、三度。


通りを行き交っていた者たちの足が止まる。


果物を並べていた店主も、荷車を引いていた男も、母親の手を握る子供まで、一斉に空を見上げた。


母親は子供を抱き寄せ、兵士たちは屋根の上で弩へ矢を装填する。


レンも足を止めた。


雲の合間を、小さな鳥の群れが横切っていく。


黒い翼は見えない。


やがて見張り塔の上で白い布が振られると、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。母親は子供の手を引き直し、店主は何事もなかったように果物を並べ始める。


だが、誰も笑ってはいない。


この街では、空を恐れることすら日常になっているらしい。


通りへ出て、周囲を見渡す。


左右に並ぶ建物は、どれも古い。壁には亀裂を埋めた跡があり、割れた窓を木板で塞いだ家も目立つ。修復に使われた石の色が揃っていないのは、見栄えを気にする余裕がないからだろう。


大通りの向こうから、何台もの幌馬車が近づいてきた。


積まれているのは商品ではない。


痩せた老人。


汚れた毛布に包まれた子供。


身体のどこかに包帯を巻いた男や女。


幌の側面には、見覚えのない紋章が描かれている。その上から、黒い塗料で大きく線が引かれていた。


滅びた国のものなのだろう。


馬車が門の内側へ消えるたび、兵士が人数を数え、木札へ書き込んでいく。荷物を調べる者はいない。持ち込まれる物より、増え続ける口の方が問題らしい。


広場では食料の配給が行われていた。


列は長い。


鍋から注がれる薄い粥を受け取るために、住民と避難民が同じ列へ並んでいる。少し離れた場所では、鍛冶師たちが欠けた剣や曲がった槍を次々と修理していた。新しく作る鉄が足りないのか、道具として使われていた金具まで外され、武器へ作り替えられている。


その一方で、異種族の姿は一人も見当たらない。


古びた商店の軒先に、狼の横顔と麦の穂を描いた看板が残っていた。獣人の商隊を迎える印だったらしいが、狼の部分だけが刃物で削り取られている。


その隣には、新しい告知が貼られていた。


『亜人、魔族およびその協力者との交易を禁ずる』


違反者は財産没収。


密告者には褒賞。


紙の下には、すでに何人かの名前が書き足されていた。


人間と異種族が最初から完全に断絶していたわけではない。


少なくとも、以前はこの街へ獣人の商人が出入りしていた。


だが今は、取引をしただけで敵とみなされる。


グラウゼンが変えたのは戦場だけではないようだった。


広場の反対側には、冒険者ギルドの紋章を掲げた建物がある。


入口脇の掲示板には、依頼書が幾重にも重ねられていた。


国境付近の偵察。


放棄された村からの物資回収。


避難民を乗せた荷馬車の護衛。


街道へ現れた魔物の討伐。


報酬はいずれも高い。


その代わり、紙の隅には死亡者数や行方不明者数が小さく書き加えられていた。


この世界の冒険者は、実力と実績によってレベル一から十までに分けられている。


一は駆け出し。


五を超えれば熟練者。


八以上ともなれば、国が直接仕事を持ち込むほどの存在となる。


掲示板の依頼には、もともと『レベル六以上』と記されていたらしい。


その数字へ線が引かれ、『レベル四以上』に修正されている。


さらにその横には、別の筆跡でこう書き足されていた。


『レベル不問』


条件を守って依頼を失敗するより、条件を下げてでも人を集めたい。


そんなところか。


依頼書にあった『複数国家の滅亡』は、ここでは数行の記録ではなかった。


消された紋章になり、配給を待つ列になり、鐘が鳴るたび空を見上げる癖になって残っている。


ここにあるのは、負け続けている側の景色だった。


「まずは情報収集か……」


レンは広場を離れた。


先ほどから聞こえていた怒鳴り声は、ギルドの隣に建つ大きな酒場から響いている。


入口に掲げられた看板には、木杯と交差する二本の剣。


酒場であると同時に、冒険者へ仕事を仲介する場所でもあるらしい。


レンは扉を押し開けた。


酒と汗、煮込んだ豆、濡れた革。


いくつもの匂いを含んだ生温い空気が、外の冷たい風を押し返すように流れ出てきた。


中には四十人ほどいる。


腕に包帯を巻いた男。


片脚を引きずる女。


髭も生えそろっていない少年。


白髪交じりの老人まで、革鎧を着たまま木杯を傾けている。


笑い声は大きい。


だが、楽しんでいる者は少なかった。


酔っている間だけ、壁の外で続いている戦争を忘れようとしているように見える。


壁には周辺諸国の地図が貼られていた。


その三分の一ほどが赤い塗料で潰され、残った土地との境界には黒い駒が並んでいる。


卓を囲む冒険者たちの胸元には、階位を示す札が下がっていた。


レベル二。


レベル四。


最も高い者でも六。


七以上の札は一つも見当たらない。


レンが入ってきたことに気づき、何人かが顔を上げた。


視線は顔から腰の短剣へ移り、次に胸元を探る。


階位札がないと分かると、興味を失ったように酒へ戻っていった。


正面のカウンターには、白髪交じりの女が立っている。


酒瓶の横にはギルドの印章と何枚もの依頼書。太い腕で樽を持ち上げ、木杯へ酒を注いでいた。


「食事か、酒か、仕事か」


「情報を買いたい」


女主人が木杯を客へ滑らせる。


「内容によるね」


レンは硬貨を一枚置いた。


「異種族の国へ入る方法を探している」


木杯を受け取ろうとしていた男の手が止まった。


近くの卓から、笑い声が一つ消える。


完全な静寂にはならなかったが、周囲の意識がこちらへ向いたのは分かった。


女主人は硬貨に触れず、レンの顔を見つめる。


「何のために?」


「入るためだ」


酒場の奥から、堪えきれないような笑い声が上がった。


「聞いたか?」


大柄な男が椅子から立ち上がる。


肩幅が広く、左の頬から顎にかけて古い傷が走っていた。胸元に下がっているのは、レベル六の札。


その周囲にいた三人も、面白そうにレンを眺めている。


「階位札も持ってねえガキが、黒竜王の国へ入りたいらしい」


男が近づいてくる。


「お前、レベルはいくつだ?」


「登録していない」


「なら、ゼロか」


再び笑いが起きた。


「まずはレベル一になってから出直しな。竜に食われるにしても、もう少し肉をつけた方が喜ばれるぞ」


レンは男の顔を見上げた。


「お前は入る方法を知っているのか」


「質問してるのは俺だ」


「知らないなら座っていろ」


笑い声が途切れた。


男の口元から笑みが消える。


後ろにいた三人が、椅子を引いて立ち上がった。


女主人は止めない。


客たちは慣れた様子で木杯と皿を持ち、近くの卓から離れていく。喧嘩を止めるより、料理を守る方が先らしい。


「おい、小僧」


男がレンの胸倉へ手を伸ばした。


「誰に向かって――」


手首をつかむ。


親指を内側へ押し込みながら腕をひねると、大柄な身体が引かれるまま傾いた。


肘を逆へ押せば折れる。


そこまで考えたところで、右から木杯が振り下ろされた。


頭を下げる。


木杯はレンの髪をかすめ、大男の肩へぶつかった。中身が飛び散り、酒の匂いが一気に濃くなる。


「何しやがる!」


「避けたこいつに言え!」


レンは大男の手首を離し、木杯を持った男の懐へ入った。


腹へ拳を一度。


肺から空気が抜け、男の身体が折れる。


後頭部を押さえ、そのまま顔を長机へ叩きつけた。


皿が跳ね、豆と肉が床へ散らばる。


三人目が椅子を持ち上げた。


振り下ろされる前に、軸足を蹴る。


男の身体が傾き、椅子だけが手から離れた。落ちてきた椅子の脚をつかみ、そのまま男の膝裏へ引っかける。


背中を押すと、男は自分が振り上げた椅子と一緒に床へ転がった。


最初の大男が体勢を立て直し、レンの顔へ手を伸ばしてくる。


太い人差し指をつかむ。


逆へ曲げれば、簡単に膝をつかせられる。


その瞬間、前の世界で出会った大男の顔が浮かんだ。


ドルグも、最初は似たような顔をしていた。


世界が変わるたび、大男の指を折るのも芸がない。


レンは指を離した。


代わりに、掌底を鼻へ叩き込む。


鈍い音が鳴り、大男の頭がのけ反った。


鼻を押さえてよろめいたところへ足をかけ、そのまま床へ倒す。


最後の一人が腰の剣へ手をかけた。


「抜いたら腕を落とすよ」


女主人の声が飛ぶ。


いつの間にか、その手には肉切り包丁が握られていた。


男の指が止まる。


レンは一歩で間合いを詰め、顎の下へ拳を入れた。


剣を抜かなかったことと、殴られないことは別だった。


男が仰向けに倒れる。


酒場から音が消えた。


床へ落ちた木杯が、遅れて一度だけ転がった。


レンは倒れた四人を見回し、最初の大男の前へしゃがむ。


「話す気になったか」


鼻から血を流しながら、男がレンを睨んだ。


「……そのために、四人まとめて殴ったのか」


「お前が売った喧嘩だ」


「普通は買わねえんだよ」


「知らない」


男はしばらく睨んでいたが、やがて喉の奥で笑った。


「ハーゲン」


「何だ」


「俺の名前だ。小僧じゃねえなら、お前も名乗れ」


「レン・クロード」


「そうかよ、レン」


ハーゲンは床へ座ったまま、鼻を押さえる。


女主人が布を投げると、片手で受け取った。


「先に言っておくがな」


ハーゲンは布を鼻へ当て、近くの椅子へ腰を下ろした。


「昔は、異種族の国なんてものはなかった」


レンは立ったまま続きを待つ。


「人間は、自分たち以外をまとめて異種族と呼ぶ。だが獣人と魔族は別の種族だ。獣人だって、狼の一族と猫の一族じゃ考え方が違う。亜人の集落同士で殺し合うことも珍しくなかった」


「人間とは戦っていなかったのか」


「戦ってたさ。何百年もな」


人間は肥沃な土地を奪い、捕らえた異種族を奴隷として売った。


異種族は辺境の村を襲い、食料や武器を奪った。


魔族の軍勢が街を焼けば、その報復として人間の騎士団が集落を潰す。


どちらが始めたのかを語れる者は、もう生きていない。


「ただ、ずっと殺し合ってたわけでもねえ」


ハーゲンが、入り口の方へ顎を向けた。


「あの削られた看板を見ただろ。戦争の合間には商売もした。停戦もあった。気に食わなくても、互いに越えちゃならねえ場所は分かってたんだ」


異種族は人間より身体能力に優れている。


その代わり、種族ごとに暮らしも言葉も違い、大きな軍勢を維持できなかった。


人間側には城壁があり、統率された軍があり、複数の国で物資を融通する仕組みがある。


長い争いの中で、力の差は少しずつ人間側へ傾いていた。


「それを黒竜王が変えた」


グラウゼンは、争っていた種族へ共通の言葉を与えた。


食料を蓄え、同じ規格の武器を作らせ、負傷者を後方へ運ぶ仕組みを整えた。


さらに、命令を理解しなかった魔物まで兵士として従わせた。


「黒竜王は、憎しみを生んだんじゃねえ」


ハーゲンの声から、酔いが消えていた。


「昔からそこら中に転がってた憎しみに、同じ旗と、飯と、向かう先を与えたんだ」


それまで人間の砦へ届く前に散っていた異種族の群れが、一つの軍として進むようになった。


獣人が前線を突破し、魔族が城壁を崩し、魔物が数で押し潰す。


足りなくなった物資は、別の種族が後方から運んでくる。


その上空には、あらゆる攻撃を受けつけない黒竜がいる。


三つの国が、わずか数年で地図から消えた。


「今は?」


「見てのとおりだ」


ハーゲンが壁の地図へ目を向ける。


「次にどこが落ちるか、賭けの対象になってる」


「向こうの情報はないのか」


「送り込んだ斥候は帰ってこねえ。人間が獣人のふりをして歩けるわけもない。捕虜になった奴から届く話も、どこまで本当か分からねえ」


それで、異種族の国へ入る方法が噂になった。


「半年ほど前だ」


ハーゲンは鼻へ当てていた布を下ろした。


「俺たちは、落とされた砦へ物資を回収しに行った。異種族の部隊が引き上げたあとで、残っていたのは死体と焼けた荷車くらいだった」


崩れた石壁の下で、仲間の一人が黒い石を見つけた。


握り拳ほどの大きさ。


表面は磨かれたように滑らかで、内部には赤い糸のような光が走っていた。


魔石とも違い、鑑定の魔法にも反応しなかった。


「砦にあった物か?」


「分からねえ。瓦礫の下に落ちてた」


「異種族が置いていった可能性は」


ハーゲンの目がわずかに細くなる。


「俺たちも考えた。だから最初は誰も触らなかった」


だが、周囲を調べても罠は見つからない。


回収して軍へ持ち帰ることになり、斥候役だった男が厚い布で包んだ石を持ち上げた。


その瞬間、石が布越しに男の魔力を吸い上げた。


黒い光が床を走り、男の足元へ見たことのない模様が浮かぶ。


誰かが手を伸ばしたときには、遅かった。


男の身体は装備ごと光に呑まれ、石と一緒に消えた。


「名前は」


「イーヴァン。レベル七の冒険者だ。俺たちの斥候だった」


「死体は」


「残らなかった」


「転移したと判断した根拠は?」


ハーゲンは上着の内側へ手を入れ、折り畳まれた小さな紙を取り出した。


縁が黒く焦げ、中央には薄い文字が残っている。


「六日後、こいつに伝言が届いた」


遠方で分かれて行動する場合に備え、二人は対になる伝言符を持っていた。


互いの血と魔力を登録し、一度だけ短い文章を送るための道具。


イーヴァンが持っていた片方は、装備と一緒に消えたはずだった。


六日後の夜。


ハーゲンの持つ伝言符へ、突然文字が浮かび上がった。


«石は転移具だった。

俺は生きている。

黒竜王の国の内側にいる。

戦力と出入口を調べ、もう一度連絡する。

帰ったら、あの賭けの続きをしよう。»


「最後の一文は?」


「俺とあいつしか知らねえ。出発前に、くだらねえ賭けをしてた」


「血と魔力も本人のものか」


「ああ。偽造はできねえ」


レンは伝言符へ視線を落とした。


「本人が書いたことは間違いない、か」


「だから言ってる」


「本人の意思で書いた証拠にはならない」


ハーゲンの口が止まった。


指に挟まれた布へ、鼻から落ちた血がゆっくりと広がっていく。


「脅された可能性は考えた」


「寝返った可能性もある」


ハーゲンは答えない。


考えていなかったわけではない。


考えたうえで、認めたくなかったのだろう。


「二度目の連絡は?」


「来なかった」


「伝言符は一度しか使えないと言ったな」


「あいつなら、向こうで別の手段を探す。そういう奴だった」


期待ではなく、自分へ言い聞かせる声だった。


女主人がカウンターに置かれた硬貨を指で弾く。


硬貨は木の上を回り、レンの前で倒れた。


「今の話なら、もう酒場中が知ってるよ」


レンは硬貨を拾わない。


「なら、なぜ喧嘩を止めなかった」


「腕を見るためさ」


女主人は肉切り包丁をカウンターの下へ戻した。


代わりに取り出したのは、小さな真鍮製の札だった。


片面には王国軍の紋章。


反対側には、明日の朝を示す印が刻まれている。


「四日前、同じ特徴の黒い石が見つかった」


周囲から酒気が消えたように、空気が変わった。


ハーゲンも顔を上げる。


「聞いてねえぞ」


「知らせてないからね。今は王国軍が保管してる」


「また誰かに使わせる気か」


「そのための人間を探してる」


女主人が真鍮の札を、レンの前へ滑らせた。


「本来は、レベル八以上から選ぶ予定だった」


だが、それだけの実力を持つ冒険者は少ない。


生き残っている者も、国境や王都の守備から動かせなかった。


何より、行った者が帰れる保証のない道具へ、自分から触れたがる者はいない。


資格はレベル八以上から七へ下がり、七から五へ下がった。


それでも候補は現れず、ついには階位そのものが問われなくなった。


広場の掲示板で見た書き直しは、この件だけの話ではないらしい。


「国は猫の手でも借りたい有様だ」


女主人の視線が、床へ倒れた男たちへ移る。


「ただ、竜の口へ放り込むなら、せめて爪のある猫を選びたい」


「こいつはレベル六だろ」


レンはハーゲンを見る。


「そうだよ。残りの三人も四か五。あんたはそいつらを相手に武器を抜かず、一人も殺さず、息も乱してない」


「それだけで軍が信用するのか」


「するわけないだろ」


女主人は鼻で笑った。


「その札で受けられるのは、話と試験までだ。使わせるかどうかは、軍が自分で決める」


「場所は」


「明日の朝、東の兵舎。門番に札を見せな」


レンは真鍮の札を手に取った。


軽い。


向こう側へ行く人間の命を選ぶ物にしては、妙に軽かった。


「断れば?」


「札を返して終わりさ。無理に行かせたところで、向こうへ着いた途端に寝返られちゃ困るからね」


女主人は倒れた椅子と、床へ散らばった料理を見渡す。


「それと銀貨二枚」


「何の金だ」


「椅子と皿と料理代」


「壊したのはこいつらだ」


「最後に立ってた奴が払う決まりだよ」


レンはしばらく女主人を見たあと、銀貨を二枚置いた。


ハーゲンが鼻を押さえたまま、わずかに笑う。


その笑みはすぐに消えた。


「レン」


「何だ」


「もし向こうへ行って、イーヴァンを見つけたら聞いてくれ」


伝言符を握る指へ力がこもる。


「あの言葉が、本当にあいつの意思だったのか」


「戻れる保証はない」


「分かってる」


「見つける保証もない」


「それも分かってる」


ハーゲンは視線を落とした。


「それでも、何も分からねえままよりはましだ」


レンは約束しなかった。


真鍮の札だけを懐へしまい、女主人が差し出した水を一口飲む。


黒い石。


敵に奪われた砦へ、由来も分からないまま残されていた道具。


触れた人間を一人だけ消し、六日後には、異種族の国へ到着したという伝言が届いた。


それ以来、人々は石を《転移石》と呼んでいる。


だが、石自身がそう名乗ったわけではない。


誰が作ったのか。


なぜ人間側の土地へ置かれていたのか。


イーヴァンは向こう側で、何を見たのか。


そして――石が運んだのは、本当にイーヴァンという人間だったのか。


その答えを知る者は、まだ帰ってきていなかった。

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