ドラゴンを〇す
右手を握る。
骨は折れていない。皮膚にも傷一つなく、指も問題なく動いた。
レンは一度だけ手を開き、もう一度握った。
「まだ感覚残ってる?」
正面から、明るい声が飛んできた。
女神はいつもの笑顔で、何もない白い空間に浮かんでいる。
「少しな」
「そっか」
それ以上、女神は聞かなかった。
代わりに片手を持ち上げると、光の粒が集まり、一冊の依頼書へ変わった。
「それじゃあ、次のお仕事です」
「少しは休ませろ」
「休んだでしょ?」
「いつだ」
「報告書を書き終わってから今まで」
「一分も経ってない」
「君の報告書が短すぎるんだよ。もっと丁寧に書けば、そのぶん長く休めたのに」
「次も一行で終わらせる」
「今度こそ書き直させるからね」
女神が依頼書を放る。
レンは左手で受け取った。
前回よりも厚い。
表紙には、赤黒い文字で一つの名が記されていた。
黒竜王グラウゼン。
表紙をめくる。
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【対象名】グラウゼン
【通称】黒竜王
【異世界種別】異種転生者
【種族】黒竜種
【危険度】A+
【世界影響度】A+
【推定固有能力】《昇華》
【処分範囲】対象本人および異世界由来の影響――要調査
「推定か」
レンは最初の頁へ目を戻した。
レンは頁をめくる。
最初に記されていたのは、グラウゼンが異世界人と疑われる理由だった。
黒竜そのものは、その世界に以前から存在している。
人間より長く生き、高い知性と膨大な魔力を持つ個体も珍しくない。ただし、その多くは群れず、山岳や森林、火山などに縄張りを持ち、他種族の争いには積極的に関わらない。
グラウゼンは違った。
三十年ほど前に姿を現して以降、獣人、亜人、魔族を集め、さらに本来は言葉を持たない魔物まで自らの勢力へ加え始めた。
それだけならば、異常に強い竜が他種族を従えただけとも考えられる。
問題は、その方法だった。
グラウゼンは異なる言語、習性、身体構造を持つ種族を、短期間で一つの軍として編成した。
十進法による物資管理。
武器や防具の規格統一。
工程を分けた大量生産。
前線と後方を結ぶ補給路と備蓄庫。
負傷者を戦場から運び出す専門部隊。
煮沸、隔離、汚物処理を含めた集団衛生。
命令系統を明確に分けた軍制。
さらに、複数種族へ共通の文字を教え、命令書、地図、在庫、負傷者数まで記録させている。
その世界にも似た知識は存在していた。
だが、それらを一つの仕組みとして組み合わせ、種族の異なる大集団へ導入した例はない。
グラウゼンが現れるまでは。
「異世界の知識に似ているだけの可能性は」
「一つずつならね」
女神が人差し指を立てた。
「でも、対象が使っている記号、計算方法、軍事用語の一部は、地球に存在するものと高い割合で一致してる。それに、捕虜になった兵士が妙な言葉を聞いてる」
依頼書の文字が淡く光る。
証言として残されていたのは、戦場でグラウゼンと対面し、生き延びた人間の言葉だった。
«あの竜は、自分が人間を知っていると言った。
生まれたときからではない。
人間として生き、人間として死んだから知っているのだと。»
「本人がそう言った証拠は」
「この一件だけ。証言した兵士も、遠くから聞いただけみたい」
「弱いな」
「だから推定なの。依頼書に名前があったからって、すぐ殺さないでね?」
レンは依頼書から目を上げた。
「言われなくても調べる」
「成長したねぇ」
「誰かが間違えるからだ」
「まだ言うんだ……」
女神が視線を逸らした。
レンは次の頁を開く。
そこには、グラウゼンの固有能力について記されていた。
《昇華》。
対象の血、あるいは魔力を与えられた人外種に、恒久的な変化を起こす能力。
身体能力の上昇。
魔力量の増大。
知性を持たなかった魔物が、命令を理解するようになった例。
下位種とされていた魔物が、通常は長い年月を必要とする上位種へ、数日で変化した例も確認されている。
どの変化が起きるか、対象が選べるのか。
一度に何体まで使えるのか。
変化した者が、グラウゼンの死後も力を保つのか。
いずれも分かっていない。
「意志まで支配する能力か?」
「それも不明。敗れて従った種族もいれば、自分からグラウゼンのもとへ集まった種族もいるみたい」
「解除方法は」
「分からない」
「本人を殺した場合は」
「分からない」
レンは頁を閉じかけた。
「何が分かっている」
「すごく危ないってこと」
女神は笑顔で答えた。
レンは無言で頁をめくった。
グラウゼン自身も、《昇華》の影響を受けている可能性がある。
通常、竜が古竜と呼ばれる領域へ達するには、数百年を要する。
しかしグラウゼンは、確認されてから三十年足らずで、既存の古竜を上回る力を得ていた。
城壁を一撃で崩す吐息。
複数の宮廷魔導師による攻撃を防ぐ鱗。
都市全体を覆う結界を、上空から力ずくで破壊した記録。
対竜兵器を用いた討伐隊と交戦し、損傷が確認されないまま全滅させた記録。
単独で国家の防衛戦力に匹敵する。
そのうえ、グラウゼンの背後には、彼によって強化された異種族と魔物の軍勢がいる。
すでに複数の人間国家が滅びていた。
「影響度A+」
レンが呟いた。
「そこ、気になる?」
「Sではないのか」
「Sは、放っておけば世界そのものを壊しかねない対象。グラウゼンが今のまま勢力を広げても、滅びるのは人間だけだから」
女神の声は軽いままだった。
レンは依頼書から目を上げる。
「だけ、か」
「世界から見ればね。人間がいなくなっても、他の種族と生き物が残れば世界は続くよ」
その世界では、グラウゼンが現れるよりはるか以前から、人間と異種族の争いが続いていた。
どちらが先に攻めたのか。
どちらがより多く奪ったのか。
今となっては、誰にも分からない。
少なくとも、グラウゼンが戦争を始めたわけではなかった。
彼が変えたのは、勝敗だった。
それまで人間側へ傾いていた力の差を覆し、散らばっていた異種族と魔物を一つの勢力へ変えた。
「対象を殺しても、戦争は終わらない」
「うん」
「教えた知識も残る」
「残るだろうね」
「強化された種族が元へ戻るとも限らない」
「そのとおり」
女神は新しい紙を一枚だけ出現させた。
そこへ光の文字が並んでいく。
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【任務内容】
一、グラウゼンが異世界からの転生者であるか確認する。
二、異世界由来の知識が及ぼした範囲を調査する。
三、固有能力《昇華》の条件、継承性、解除の可否を確認する。
四、対象を源として現在も続いている影響を特定する。
五、必要と判断した対象および影響を処分する。
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「国ごと消せ、とは書いていないんだな」
「中で何が起きているか分からないからね」
「人間を救え、とも書いていない」
「それを決めるのは、あの世界の人たちだよ」
女神は笑顔へ戻った。
「君の仕事は、どちらが正しいか決めることじゃない。外から持ち込まれ、今もグラウゼンを源として続いているものを見つけること」
レンは依頼書を閉じた。
「見つけたあとは」
「いつもどおり」
「殺すのか」
「もちろん」
軽い返事だった。
レンはもう一度、依頼書の厚さを確かめる。
頁の大半は、戦場の外から観測できた事実で埋められている。
だが、グラウゼンが築いた勢力の内部については、ほとんど何も記されていなかった。
種族同士がどのように暮らしているのか。
本当に全員がグラウゼンへ従っているのか。
《昇華》を受けた者が、何を失い、何を得たのか。
人間を滅ぼしたあと、グラウゼンが何をするつもりなのか。
すべて空白だった。
「情報が足りない」
「だから君が行くんだよ」
「便利な言葉だな」
「現地調査って、そういうものでしょ?」
白い空間に、一枚の扉が現れた。
女神が指を鳴らす。
レンの服装が、暗色の上着と革靴へ変わった。腰には短剣。内側の隠し場所には細い刃が二本。懐には、当面の食事と宿へ困らない程度の硬貨が入っている。
「今回の身分は、流れの冒険者。特定の国や組織には所属していない。言葉はいつもどおり通じるようにしてあるよ」
「グラウゼンの勢力内でもか」
「言語として存在しているものならね。魔物の唸り声までは保証できないけど」
「十分だ」
レンは扉へ手をかけた。
「最初に何を調べるの?」
「グラウゼンのもとへ行く方法だ」
「正面から国境を越える?」
「国をいくつも滅ぼした軍勢へ、一人で正面から近づく気はない」
「よかった。君、たまに危ないことを平然とやるから」
「お前に言われたくない」
扉を開く。
向こう側には、石造りの建物に挟まれた細い路地が見えた。
遠くから鐘の音が響いている。
それに混じり、何人もの怒鳴り声と、何かが割れる音が聞こえた。
レンが一歩を踏み出す。
「レンくん」
背後から呼び止められた。
振り返らずに待つ。
「前回より危険度高いからね。気をつけて」
「分かっている」
「国ごと敵に回したりしないでよ?」
レンは少しだけ考えた。
「調べてから決める」
「そこは否定してほしかったなぁ」
扉が閉じる。
白い空間も、女神の声も消えた。
残ったのは、知らない街の空気と、酒の匂い。
そして通りの先から聞こえる、酔客たちの大声だった。
情報を集める場所としては、悪くない。
レンは声のする方角へ歩き始めた。




