エピローグ 2人がいた証
「おっかえりー!」
白い部屋へ、女神の明るい声が響いた。
声に少し遅れて、何もなかった空間から女神が姿を現す。
片手を大きく振りながら、レンのもとへ歩いてきた。
「いやぁ、強かったねぇ! ザグナ!」
「ああ」
「腕を折られて、肋骨も折られて、顔まで殴られて。今回は本当に危なかったんじゃない?」
「死ななかった」
「結果だけ見ればね」
女神がレンの周囲を一周する。
帰還と同時に、身体の傷は消えていた。
折れていた右腕も、問題なく動く。
破れていた服も元に戻っている。
それでも、ザグナの胸を杭で貫いた感触だけは、右手から消えていなかった。
「正面から戦ったら勝てた?」
「無理だ」
「即答だね」
「正面から勝つ必要はない」
レンは右手を握る。
「殺せれば、それでいい」
「だからって、毒、腐蝕液、爆発物、買収、最後には人質まで使う?」
「使えるものを使った」
「ここまで揃うと、卑怯を通り越して潔いね」
女神が指を折りながら数える。
「装備検査係を買って、審判を買って、観客を雇って、柵に細工までして。あの街で稼いだお金、ほとんどなくなったんでしょ?」
「ああ」
「相変わらず、お金には執着しないねぇ」
「持ち帰っても使えない」
「そういう問題かな?」
女神が首を傾ける。
「それにしても、二度目から効かなくなる身体かぁ。かなり厄介だったね」
「一度目のほうが厄介だった」
「二度目じゃなくて?」
「あいつは、最初の一撃を耐える」
毒も。
腐蝕液も。
破裂石も。
初めて受けた瞬間には、確かにザグナを傷つけていた。
だが、どれも致命傷には届かなかった。
一度目を耐えられれば、同じものは二度と通じない。
普通の人間なら死ぬ量の毒も。
肉を溶かす液体も。
腹で爆発した破裂石も。
ザグナは耐えた。
「二度目が効かない以前に、一度目で死なないのがおかしい」
「それは確かに」
女神が納得したように頷く。
「心臓は、一度目で止められてよかったね」
「外せば終わっていた」
「だからミレアちゃんを使った、と」
レンは答えなかった。
「ものすごく怒ってたね」
「ああ」
「絶対に許さないって言われてたよ」
「ああ」
「もしザグナが庇わなかったら、本当に撃ってた?」
「ああ」
女神の笑みが、少しだけ薄くなった。
「迷わず?」
「迷えば、ザグナに止められる」
「そっか」
女神は、それ以上聞かなかった。
白い床の上を数歩歩く。
やがて、レンを振り返る。
「ザグナ。最後はすごく満足そうだったね」
胸を杭で貫かれても、ザグナは笑っていた。
死にたいわけではない。
死ぬかもしれない場所で、生きたい。
自分を殺せる何かが残っている間だけ、ただの人間でいられる。
そう叫んでいた。
「望んでいた戦いだったんだろう」
「殺した相手の望みまで叶えて帰ってくるなんて、ずいぶん親切な暗殺者だね」
「叶えるつもりはなかった」
「でも、結果的には叶った」
女神は笑った。
だが、その声が一段だけ低くなる。
「癖にはしないでね」
レンが女神を見る。
「満足できる最期を用意してあげることが、君の仕事じゃない」
「ああ」
「相手が何を望んでいても、君がやることは変わらない」
「分かっている」
「ならいいよ」
女神の声が、いつもの軽さへ戻った。
その手には、いつの間にか一枚の紙が握られている。
「はい。それじゃあ、いつもの報告書」
「見ていたなら必要ないだろう」
「見てたことと、記録を残すことは別なの」
レンは紙を受け取る。
「対象、ザグナ。排除完了」
「一行で終わらせないでよ」
「ほかに必要か?」
「必要! 今回は特に書くこといっぱいあるでしょ!」
「毒を使った」
「知ってる!」
「金も使った」
「それも知ってる!」
「なら、書く必要はない」
「そういう話じゃないんだってば!」
女神の声が、白い部屋へ響く。
いつもと変わらない帰還。
いつもと変わらないやり取り。
それでも。
レンの耳にはしばらく、ザグナの笑い声が残っていた。
◇
ザグナが死んでから、一か月が過ぎた。
白い光とともに消えた勝者について、街では今も様々な噂が流れている。
新たな闘王は決まらず、闘技場は評議会による暫定管理へ移っていた。
街から、争いが消えたわけではない。
酒場では、今も喧嘩が起きる。
闘技場では、今日も闘士たちが戦っていた。
強い者が尊敬されることも変わらない。
それでも。
強ければ何をしても許されるという空気は、少しずつ薄れ始めていた。
道を歩くだけで喧嘩を売る者が減った。
弱い者から金を奪っていた男たちは、衛兵を見ると逃げるようになった。
闘王の名を持ち出し、暴力を正当化する者もいなくなった。
何より。
誰にも負けないと思われていたザグナが、無名の男に敗れた。
金も。
毒も。
罠も。
人質さえ使った相手に、殺された。
その事実が、強さだけを信じていた者たちの熱を冷ましていた。
ザグナが広げた弱肉強食の風潮は、彼が倒れたことで、少しずつ落ち着きを取り戻そうとしていた。
ガルド工房へ持ち込まれる仕事も変わった。
剣。
斧。
鉄籠手。
人を傷つけるための武器の注文が、目に見えて減っている。
代わりに持ち込まれるようになったのは、壊れた農具や荷車の車輪。
鍋。
包丁。
生活に使う道具ばかりだった。
だが、安い修理仕事がいくら増えても、高価な武器一つ分の利益にはならない。
作業台の前に座ったミレアは、薄くなった注文書の束をめくった。
「今の街の状態を見ると、あいつ、本当にろくな存在じゃなかったわね」
作業台の隅には、二つの装飾品が並べられている。
銀色の髪飾り。
古びた腕輪。
どちらにも、同じサルビアの花が刻まれていた。
その隣には、壊れた金属筒。
歪んだ枠も、飛び出した板ばねも、あの日のまま残されている。
ミレアは古びた金属板を手に取った。
指先で、サルビアの紋章をなぞる。
「顔を合わせれば喧嘩ばっかりだったし、街中に悪影響をばらまくし……本当に、最後まで迷惑な奴」
返事はない。
ミレアは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
それでも、腕輪を捨てることはしなかった。
自分の髪飾りの隣へ、丁寧に戻す。
「でも、注文数が減ったのは痛手ね」
ため息をついた、そのとき。
工房の扉が開いた。
「いるか、工房娘」
ドルグが入ってくる。
肩には、大きな革袋を担いでいた。
「見れば分かるでしょ。それと工房娘じゃなくて、ミレア」
「細けぇことはいいんだよ」
「何の用?」
「届け物だ」
ドルグが革袋を投げた。
ミレアは慌てて両腕で受け止める。
予想以上の重さに、身体が後方へ傾いた。
「ちょっと! 何が入ってるのよ!」
「覇王祭の優勝賞金」
ミレアの動きが止まる。
「何で、それを私に?」
「大会事務所に、受取人としてお前の名前が書かれてた」
「私の?」
「ああ。闘王戦の前に、あいつから頼まれてたんだよ。自分が受け取れなくなったら、お前へ届けろってな」
「レンが?」
「ほかに誰がいる」
ドルグが革袋を指差す。
「武器代だってよ」
ミレアは袋の口を開いた。
中には、大量の金貨と銀貨が詰まっている。
金属筒一つの代金としては、どう考えても多すぎた。
工房へ入る武器の注文が何件減ろうと、しばらく困らないほどの額だった。
「こんなの、受け取れないわよ」
「俺に言うな。返したいなら、自分であいつを捜せ」
「どこにいるかも分からないのに?」
「なら、もらっとけ」
ドルグは踵を返す。
扉へ向かいかけてから、思い出したように足を止めた。
「そうだ。言伝がもう一つあった」
「何?」
「銀貨一枚分だから、一応伝えておく」
ドルグが振り返る。
「『いい仕事だった。また頼む』とのことだとよ」
ミレアは、しばらく動かなかった。
やがて額に青筋が浮かぶ。
「誰が作るか!」
怒鳴り声が工房へ響いた。
「私はもう、あんなもの二度と作らないって言ったの! だいたい、自分で取りに来る気もないくせに、何が『また頼む』よ!」
「俺に怒鳴るな」
「ほかに怒鳴る相手がいないのよ!」
「面倒くせぇな」
ドルグは扉を開ける。
「用は済んだ。じゃあな、工房娘」
「ミレアだって言ってるでしょ!」
扉が閉まった。
一人残されたミレアは、賞金の入った革袋を作業台へ置く。
その隣には、壊れた金属筒。
さらに隣には、二つのサルビア。
「本当に、私の周りにはろくな男がいないんだから」
呆れたように息を吐く。
それから、賞金の入った袋を大事そうに抱え直した。
「また頼む、じゃないわよ」
口ではそう言いながら。
ミレアの口元は、少しだけ嬉しそうに緩んでいた。




