家族を〇す
闘王戦の朝。
ガルド工房の椅子に座ったレンの右腕へ、ミレアが金属筒を取りつけていた。
三本の革帯を順番に締めていく。
手首。
前腕。
肘の下。
幅広の金属板が、腕の骨へ沿うように固定された。
二号試験機と形は似ている。
だが、使われている部品はすべて新しい。
試験で歪んだ枠も、曲がった後部板も、一枚として残っていなかった。
「指を動かして」
レンが右手を握る。
革帯が皮膚へ食い込んだ。
重い。
それでも、動かせないほどではない。
「痛くない?」
「まだな」
「使ったら、その返事もできなくなるかもしれないけどね」
ミレアが金属筒の位置を調整する。
中には、四角錐型の太い杭が一本。
重ねられた板ばねが、解放の瞬間に杭を押し出す。
射程は五歩ほど。
狙った場所へ確実に届くのは、三歩以内。
一度撃てば、杭は戻らない。
枠も歪み、二度目はない。
「使うときは、必ず三歩以内まで近づいて」
ミレアが、金属筒の側面を指差す。
「右腕をまっすぐ伸ばして、狙いを絞る。それから左手で安全金具を外して、こっちの留め具を押す」
「分かった」
「相手に筒口をつかまれた状態では撃たないで。杭が枠の中で曲がったら、反動が全部あんたの腕へ返る」
「三歩以内。右腕を伸ばす。つかまれたら撃たない」
「珍しくちゃんと聞いてる」
最後の革帯を締める。
レンは立ち上がった。
上着の袖を下ろす。
外から見れば、少し厚い腕当てにしか見えない。
「本当に行くのね」
「ああ」
「今からでも、やめられるわよ」
「やめない」
「聞くだけ無駄だった」
ミレアも上着を手に取った。
銀色の髪飾りをつける。
「私も行くから」
「好きにしろ」
「言っておくけど、あんたの応援じゃないわよ。武器がちゃんと動くか、自分の目で確かめるためだから」
「分かっている」
「本当に?」
「おそらく」
「そこは、ああって言いなさいよ」
中央大闘技場の地下通路では、ドルグが待っていた。
ミレアが観客用の通路へ消えてから、声を落とす。
「頼まれた連中は、全員席についてる」
「柵は?」
「下側の留め具を一つ抜いてある」
「分かった」
「合図は、左手で地面を二度叩く。それで間違いないな」
「それでいい」
「そのあと何が起きても、俺は何も知らねぇからな」
「ああ」
ドルグはレンの仮面を見る。
「本当に気に食わねぇ奴だ」
「知っている」
レンは先へ進んだ。
参加者用の入口では、二人の検査係が待っていた。
一人がレンの袖をまくり、右腕の金属筒を調べる。
魔力の反応はない。
杭の先端へ検査薬を塗っても、色は変わらなかった。
「申告されている仕掛け武器だな」
「ああ」
「一発だけか」
「そう聞いている」
もう一人が、レンの腰へ手を伸ばす。
短刀には、異常がない。
続いて、上着の内側へ手を入れた。
小さな陶器の球が二つ。
衝撃を受けると爆ぜる破裂石。
細長い硝子瓶が二本。
中身は、灰蛇から採った神経毒。
黄色い液体を封じた硝子玉が二つ。
鎧の継ぎ目を溶かす腐蝕液。
仮面の裏には、目を焼く刺激粉。
腰帯には、細い鋼線。
本来なら、その場で失格となる品ばかりだった。
破裂石には安全金具が取りつけられ、それぞれ厚い革のケースへ収められている。
毒と腐蝕液の容器も、内側へ綿を詰めた革筒に入っていた。
取り出して使わない限り、殴られた程度では割れない。
検査係は、並べた禁止物を見下ろした。
次にレンを見る。
やがて、すべてを元の場所へ戻した。
「異常なし」
入口の横では、今日の審判が立っている。
「問題が起きても、五つ数えるまでは判定を出さない」
レンだけに聞こえる声で言った。
「だが、闘王が止めろと言えば、その場でお前の負けだ」
「分かっている」
闘技場で働いて貯めた金。
勝ち上がりの報奨金。
賭けで増やした金。
ベルグへ渡した分を除き、そのほとんどが、検査係の目と審判の五つの数へ消えていた。
鉄格子が上がる。
「挑戦者、入場しろ!」
円形の試合場を、石造りの観客席が幾重にも囲んでいる。
外側へ向かうほど席が高くなり、どこからでも中央の砂地まで見渡せた。
空席はない。
レンが姿を現す。
観客席から、これまでで最も大きな歓声が降り注いだ。
覇王祭の優勝者。
四百十二番。
闘王へ挑む権利を得た、無名の男。
レンは最前列を見る。
ミレアが座っていた。
腰ほどの高さの木柵を挟み、試合場を見下ろしている。
反対側の鉄格子が上がる。
ザグナが姿を現した。
武器はない。
黒い長衣を腰へ巻き、上半身を晒している。
鍛えられた身体には、無数の傷跡が残っていた。
その右手首には、古びた金属板。
表面へ刻まれているのは、小さな花の紋章だった。
観客たちが一斉に立ち上がる。
「闘王!」
「ザグナ!」
「殺せ!」
声が重なり、闘技場そのものが震えた。
ザグナは試合場へ入る。
レンより先に、客席のミレアを見た。
「何でお前まで来てんだ」
「悪い?」
「巻き込まれても知らねぇぞ」
「あんたに心配される筋合いはないわよ」
「心配してねぇ」
「だったら、こっち見ないで」
ザグナが鼻で笑う。
レンへ向き直った。
「右腕に、面白そうなもんを隠してるな」
「ああ」
「そいつが一度目か?」
「確かめてみろ」
ザグナの笑みが深くなった。
「絶対に外すなよ」
二人が中央で向き合う。
審判が片手を上げた。
「闘王戦を開始する!」
鐘が鳴る。
ザグナの姿が消えた。
レンは反射的に身体を横へ投げる。
直後。
拳が、先ほどまで頭のあった場所を通過した。
拳圧が仮面を叩く。
耳の奥で音が歪んだ。
地面へ転がったレンへ、ザグナが足を振り下ろす。
さらに転がる。
踵が砂地へ突き刺さった。
土が弾け、小石が頬を切る。
「どうした!」
ザグナが笑う。
「俺を殺しに来たんだろ!」
レンは起き上がりながら、腰の短刀を抜いた。
ザグナの右目へ投げる。
避けない。
刃先が瞼へ当たった。
甲高い音を立て、短刀が折れる。
皮膚には白い跡しか残らない。
「刃物は、もう飽きるほど受けた!」
ザグナが踏み込む。
レンは腕で顔を守りながら、斜め後方へ跳んだ。
拳が左前腕をかすめる。
服の下へ巻いていた革板が割れた。
衝撃を逃がしても、指先まで痺れる。
直撃なら、腕ごとなくなっていた。
レンは上着の内側から、黄色い硝子玉を取り出す。
ザグナの胸へ投げた。
ザグナが拳で打ち砕く。
液体が、左胸へ広がった。
白い煙が上がる。
肉の焼ける匂い。
胸骨の左側で皮膚が赤く崩れ、筋肉が露出した。
ザグナの動きが止まる。
自分の胸を見る。
痛みで顔を歪める代わりに、笑った。
「これは初めてだ!」
レンは間を与えない。
黒い小瓶の蓋を親指で弾き、ザグナの顔へ投げる。
ザグナが反射的に払った。
硝子が割れる。
黒い液体が細かな霧となり、口と鼻へ入った。
一歩。
ザグナの右腕が下がる。
もう一歩。
右脚が沈む。
片膝が砂地へついた。
「この毒も……初めてだったか」
呂律がわずかに乱れている。
大型の魔獣さえ動けなくする、灰蛇の神経毒。
量は十分だった。
普通の人間なら、立つこともできない。
レンは右腕を伸ばす。
筒口を、腐蝕液で開いた左胸の傷へ向けた。
距離は二歩。
左手が安全金具へ触れる。
その前に、ザグナの左手が動いた。
金属筒ごと、レンの右手首をつかむ。
毒で動かない右半身を捨て、左腕だけで止めていた。
「いいぞ……!」
指に力が入る。
筒口が傷から外れる。
つかまれた状態では撃てない。
レンは、安全金具から手を離した。
ザグナの頭が迫る。
頭突きが仮面へ当たる直前、首をひねった。
額ではなく、頬へ衝撃が抜ける。
仮面の留め紐が切れた。
レンは、つかまれた右腕を軸に身体を回す。
関節が壊れる前に、外側へ抜いた。
同時に左手で、陶器の球を取り出す。
安全金具を抜いた。
ザグナの腹へ押し当てる。
「これも初めてだ」
陶器の殻を叩き割る。
破裂石が爆ぜた。
爆音。
二人の身体が、反対方向へ吹き飛ぶ。
砂と煙が試合場を覆う。
観客席から悲鳴が上がった。
レンは、背中から落ちる直前に身体を丸めた。
肩から砂地へ転がる。
服の下へ入れていた革板が、破片をいくつか止めていた。
それでも、左脇腹へ熱が走る。
浅い破片が一本、刺さっていた。
煙の向こうで、審判が片手を上げる。
「禁止物の使用を確認した! 試合を――」
一つ。
審判の口が止まる。
二つ。
煙が薄れる。
三つ。
ザグナは仰向けに倒れていた。
腹の皮膚が裂け、血が流れている。
左胸には、腐蝕液で開いた傷。
右腕も、まだ動いていない。
四つ。
ザグナが左手を地面へつく。
五つ。
上半身を起こした。
「止めるな!」
声が、闘技場全体へ響く。
審判がザグナを見る。
「しかし、闘王――」
「言っただろうが!」
ザグナが血を吐きながら笑う。
「こいつが持ち込んだもんは、全部俺が認める! 俺が死ぬか、こいつが死ぬまで続けろ!」
短い沈黙。
審判が上げていた手を下ろした。
「闘王の意思により、試合続行!」
歓声が爆発した。
反則を責める声も、すべて飲み込まれる。
ザグナが立ち上がった。
右手の指が動く。
次に、肘が曲がる。
神経毒による痺れが、それ以上広がらなくなっていた。
腐蝕液も、露出した筋肉の手前で進行を止めている。
だが、傷そのものは消えていない。
左胸は焼けたまま。
腹からも、血が流れ続けていた。
適応は、受けた傷をなかったことにはしない。
同じ原因で、それ以上壊れなくなるだけだった。
「毒」
ザグナが右腕を持ち上げる。
「腐る水」
焼けた左胸へ触れる。
「爆ぜる石」
腹の血を手の甲で拭った。
「よく1度目だと分かったな」
「試合記録を全て見た」
「検査係も、審判も買ったな?」
「ああ」
「いくら使った?」
「持っていた金のほとんどだ」
ザグナの笑みが深くなる。
「最高じゃねぇか!」
地面を蹴る。
右拳が飛ぶ。
レンは頭を下げた。
拳圧が髪を揺らす。
次の左拳を、割れていない右側の革板で受け流す。
それでも、身体が横へずれた。
ザグナは止まらない。
レンの腹へ、膝を突き上げる。
レンは左肘と太腿で挟み、直撃を避けた。
衝撃で息が漏れる。
「俺はなぁ!」
ザグナが叫ぶ。
「ずっと、命懸けの戦いを望んでた!」
横から拳が来る。
レンは身体を沈める。
拳が頭上を通過した。
「何を食らっても、次には効かなくなる!」
ザグナの足が砂を蹴り上げる。
視界が塞がれる。
レンは音を頼りに、後方へ跳んだ。
踵が胸元をかすめる。
服が裂け、身体が後方へ転がった。
「どんな強者も、一つずつ牙を失っていく!」
レンは起き上がりながら、残った黒い小瓶を投げる。
ザグナは避けない。
胸元で拳を振るい、小瓶を砕いた。
同じ神経毒が顔へ降りかかる。
口へ入る。
目にも入る。
それでも、今度は指一本止まらなかった。
「同じ毒は、もう効かねぇ!」
踏み込んでくる。
レンは二つ目の黄色い硝子玉を、焼けていない右肩へ投げた。
腐蝕液が広がる。
白い煙は上がらない。
水のように肌を流れ落ちた。
「それも二度目だ!」
続けて、二つ目の破裂石を取り出す。
安全金具を抜き、ザグナへ投げた。
ザグナは、胸で受ける。
爆発。
炎と砂煙が身体を包んだ。
その中から、傷一つ増えていない拳が伸びる。
レンは両腕を交差させ、後方へ跳んだ。
まともには受けていない。
それでも右腕の革板が砕け、胸の奥で骨が軋む。
砂地へ片膝をついた。
息を吸うと、右の肋骨が痛む。
一本はひびが入っている。
それ以上ではない。
まだ立てる。
「最初は俺を傷つけた奴が、最後には何をしても通じなくなる!」
ザグナが煙の中から歩いてくる。
左胸と腹から、血を流したまま。
傷ついている。
だが、同じ手ではもう傷を増やせない。
「強くなるほど、死から遠ざかっていく!」
ザグナが両腕を広げた。
「それじゃ勝負じゃねぇ! ただの作業だ!」
レンは立ち上がる。
「死にたいのか」
「違う!」
ザグナが拳を握った。
「俺は死にてぇんじゃねぇ!」
地面を踏む。
「死ぬかもしれねぇ場所で、生きてぇんだ!」
拳が迫る。
レンは半歩だけ外へずれた。
肩をかすめ、衝撃が背後へ抜ける。
完全には避け切れない。
左肩の皮膚が裂けた。
腕は動く。
骨にも届いていない。
「俺を殺せる一撃が残ってる間だけ、俺は化け物じゃなく、ただの人間になれる!」
ザグナの顔に、無邪気な笑みが浮かんだ。
「お前は次から次へと、俺の知らねぇ殺し方を持ってきた!」
さらに踏み込む。
「お前みてぇな奴を、ずっと待ってたんだ!」
レンは仮面の内側へ指を入れた。
白い刺激粉をつかみ、ザグナの顔へ投げる。
粉が両目を覆う。
「ぐっ――」
ザグナが、初めて目を閉じた。
新しい攻撃。
一度目は通じる。
レンは走った。
右腕を伸ばす。
狙うのは、腐蝕液で開いた左胸の傷。
距離は三歩。
二歩。
安全金具へ左手を添える。
ザグナは目を閉じたまま、上半身をひねった。
筒口の正面から、傷を外す。
同時に、右手がレンの前腕へ触れた。
つかまれる前に、レンは身体を引く。
杭は撃たない。
ザグナが瞼を開いた。
目は赤く充血している。
涙も流れている。
それでも、笑っていた。
「惜しかったな!」
拳が伸びる。
レンは後方へ倒れ込み、顎をかすめるだけに留めた。
背中から砂地へ落ちる。
ザグナが追う。
レンは腰帯から、鋼線を引き抜いた。
端の輪を、ザグナの右足へ投げる。
ザグナが踏み込んだ足を、自分から輪の中へ入れた。
レンはもう一方の端を、外周の石柱へ回す。
身体ごと引いた。
鋼線が足首へ締まる。
ザグナの身体が前へ流れた。
左胸と腹の傷が、動きを遅らせている。
右膝が、一瞬だけ砂地へ触れる。
観客席から、大きなどよめきが上がった。
レンは背後へ回る。
鋼線を首へかけた。
片端を石柱へ。
もう片端を足首へ。
ザグナ自身の身体を、一本の線でつなぐ。
立ち上がれば、首が締まる。
首を守れば、足を取られる。
「いいじゃねぇか!」
ザグナが左手で鋼線をつかんだ。
掌から血が出る。
腕力だけで引きちぎろうとする。
鋼線が甲高い音を立てる。
一本目が切れた。
レンは残った線を引き、右腕の筒口を左胸へ向ける。
二本目が切れる。
ザグナの首が自由になる。
それでも、足首の輪は残っていた。
レンは一歩入る。
距離は三歩。
ザグナが身体を起こす。
筒口と左胸の傷が、一直線に重なる。
あと少し。
レンの左手が、安全金具へ触れた。
ザグナが石柱を蹴る。
鋼線が根元から切れた。
巨体が、正面へ飛び出す。
レンは発射をやめ、右腕を上へ逃がした。
ザグナの拳が脇腹をかすめる。
先ほどひびの入った肋骨に、鋭い痛みが走る。
折れた。
それでも身体は飛ばない。
衝撃へ逆らわず、横へ転がる。
木柵の近くで止まった。
すぐ上に、ミレアがいた。
「レン!」
声は聞こえた。
返事はしない。
右腕は動く。
金属筒も歪んでいない。
左腕も動く。
折れた肋骨が、呼吸のたびに痛む。
左脇腹には破片。
片目は血で見えにくい。
それでも、立ち上がることはできた。
ザグナも無傷ではない。
左胸は焼け、腹は裂けている。
血を失い、最初より動きが落ちていた。
一度目に受けた傷は、確かに残っている。
レンは右腕を守りながら、もう一度踏み込んだ。
左拳を振る。
ザグナが受け止める。
レンは拳を開き、切れ残った鋼線を手首へ絡ませた。
身体を潜り込ませる。
腕を肩へ載せ、その勢いを前へ流す。
ザグナの体が、わずかに浮いた。
だが、投げ切れない。
ザグナが空中で身体をひねる。
両足から着地した。
鋼線をつかみ、レンを引き寄せる。
「その手も見た!」
拳が来る。
レンは顔を逸らした。
頬をかすめた拳が、革の仮面を外す。
身体が、木柵の近くへ倒れた。
後頭部が砂へ沈む。
視界が一瞬、暗くなる。
それでも左手を地面へついた。
一度。
二度。
合図。
ミレアの周囲にいた六人が、一斉に立ち上がった。
二人が肩をぶつける。
怒鳴り合うふりをしながら、互いを押す。
別の男たちも立ち上がり、止めるふりをして輪へ加わった。
六人の身体が、一つの波となって最前列へ押し寄せる。
その中の一人が、ミレアの背中へぶつかった。
「ちょっと、何するのよ!」
ミレアが振り返る。
さらに別の男の肩が当たった。
足元がもつれる。
身体が、木柵へぶつかった。
下側の留め具を抜かれていた柵が、試合場側へ傾く。
「え――」
柵が外れた。
ミレアの身体が、客席から投げ出される。
砂地へ落ちた。
息を詰まらせている。
だが、頭は打っていない。
起き上がろうと、両手を砂へついた。
レンから三歩も離れていない。
ザグナは、倒れたレンを見下ろしていた。
「惜しかったな」
右拳を持ち上げる。
「毒も、腐る水も、爆ぜる石も使った」
拳へ力が集まる。
「検査係も審判も買った。俺をここまで傷つけた奴は久しぶりだ」
ザグナが一歩踏み込む。
「だが、もう全部見た」
最後の拳が振り下ろされる。
「俺の勝ちだ!」
レンが顔を上げた。
「いや」
身体をひねる。
「これでいい」
右腕を、ザグナではない方向へ向ける。
筒口の先にいるのは、砂地へ落ちたミレア。
距離は三歩。
正確に届く。
起き上がりかけていたミレアの表情が固まった。
自分で作った武器だからこそ、その意味が分かる。
「……レン?」
ザグナの拳が止まった。
ほんの一瞬。
その目が、筒口の先を追う。
レン。
金属筒。
ミレア。
すべてを理解した瞬間、笑みが消えた。
「てめぇ!」
地面を蹴る。
振り下ろしかけた拳を引き戻し、筒口とミレアを結ぶ線へ身体を投げ出した。
左腕でミレアを突き飛ばす。
自分の胸を、筒口の前へ晒した。
腐蝕液で開いた左胸の傷が、正面へ重なる。
予想どおりだった。
レンの左手は、すでに安全金具を外している。
留め具を押した。
耳を打つ金属音。
圧縮されていた板ばねが解放される。
杭が筒口から飛び出した。
三歩にも満たない距離を走る。
焼け崩れた左胸へ突き刺さる。
硬くなった表皮ではなく、露出していた筋肉を押し裂いた。
胸骨の横。
肋骨の間。
その奥へ到達する。
血が、レンの顔へ飛んだ。
一瞬遅れて、反動が右腕へ返る。
骨が折れた。
前腕が、本来とは違う方向へ曲がる。
金属筒の後部が裂け、板ばねが外側へ飛び出した。
二本の革帯が千切れる。
それでも杭は、ザグナの胸へ深く残っていた。
ザグナの口から血が流れる。
傷口の周囲が硬く変わり始めた。
筋肉が、刺さった杭を締めつける。
身体が、新しい攻撃へ適応しようとしている。
だが、遅い。
次に同じ杭を撃てば、もう胸までは届かない。
二度目なら防げた。
一度目の杭は、すでに心臓を破っている。
レンは、ザグナの右手首を見た。
古びた腕輪。
そこに刻まれた、小さな花。
次に、突き飛ばされたミレアの髪飾りへ視線を移す。
「その紋章――」
レンは言った。
「サルビアの花言葉は、家族愛だ」
ザグナの目が見開かれる。
「お前なら、間違いなく庇うと思った」
短い沈黙。
ザグナの口元が持ち上がった。
「は……」
血を吐きながら笑う。
「最後の一手が……それかよ」
「ああ」
「そこまで……見てやがったか」
ザグナの膝が揺れる。
ミレアが駆け寄り、倒れかけた身体を支えた。
「何笑ってるのよ」
「一度目で……終わらせやがった」
「喋らないで!」
ザグナは、ミレアを見る。
「お前の武器……すげぇじゃねぇか」
「褒めてる場合じゃないでしょ!」
「ちゃんと、俺を殺したぞ」
「そんな報告、いらない!」
ザグナはもう一度、レンを見る。
一度だけ頷いた。
「レン。お前の勝ちだ」
「最初から、そのつもりだ」
「…可愛げのねぇ奴だな」
「だが…強かった」
ザグナは一瞬だけ嬉しそうに口元を歪め、ゆっくり目を閉じる。
笑みだけを残し、身体から力が抜けた。
心臓が止まった。
審判が駆け寄る。
ザグナの首へ指を当てた。
胸へ耳を寄せる。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
「闘王ザグナ、死亡!」
震える声が、静まり返った闘技場へ響く。
「勝者――覇王祭優勝者、レン!」
その瞬間。
レンの足元から、白い光が立ち上った。
光が身体の輪郭へ絡みつく。
帰還が始まる。
任務の対象であるザグナが死んだ。
条件は達成された。
観客席から、すぐには歓声が上がらなかった。
誰もが、倒れた闘王と、白い光に包まれる勝者を見ている。
「何……それ」
ミレアがレンを見た。
右足の先が透けている。
白い光へ溶けるように、少しずつ輪郭が消えていた。
「帰る」
「帰るって、どこへ?」
「ここではない場所だ」
「今すぐ?」
「ああ」
帰還の光は、足元からゆっくりと昇っている。
完全に消えるまで、数十息。
それ以上は残れない。
ミレアは腕の中のザグナを見る。
その口元には、まだ満足そうな笑みが残っていた。
悲しそうに眉を下げる。
「本当に、馬鹿」
ザグナの頬へ触れた。
「こんなに満足そうに死んでる顔を見せられたら、怒れないじゃない」
「怒ってもいい」
「勘違いしないで」
ミレアが顔を上げる。
「あいつに怒れないって言ったの。あんたには、ものすごく怒ってる」
「そうか」
「客席も、柵も、周りにいた連中も、全部あんたが用意したのね」
「ああ」
「私を落として、私が作った武器を私へ向けた」
「ああ」
「もし、あいつが庇わなかったら?」
白い光が、レンの膝まで昇る。
レンは答えた。
「撃っていた」
「そこは嘘でも否定しなさいよ!」
「今さら必要か?」
「本当に最低!」
ミレアはザグナの身体を砂地へ横たえた。
レンの前まで歩く。
折れた右腕を見る。
「その武器、返して」
「壊れている」
「知ってる。だから返して」
三本あった革帯のうち、二本は反動で千切れている。
ミレアは、残った一本の留め金を外した。
乱暴な手つきだった。
それでも、折れた骨へ触れないよう慎重だった。
歪んだ金属筒を両手で受け取る。
「もう二度と、同じものは作らない」
「それでいい」
「私を利用して、騙して、人質にして、あいつまで殺した」
「ああ」
「絶対に許さないから」
「ああ」
「たぶん、ずっと恨む」
「ああ」
光が、レンの腰へ届く。
ミレアは振り返った。
地面へ横たわるザグナを見る。
その笑みを、もう一度確かめる。
「でも」
声が、わずかに震えた。
「あいつは、ずっと探してたんだと思う」
ザグナの右手首に巻かれた腕輪へ触れる。
「本当に自分を殺せる相手を」
レンは何も言わなかった。
ミレアが息を吸う。
「あいつが望んだ終わりだったことだけは分かる。でも、あんたには礼を言わない」
「礼を言われることではない」
「分かってるならいい」
光が、レンの胸元へ届く。
ミレアの目に涙が浮かんでいた。
落ちる前に、袖で拭う。
「さよなら、レン」
「ああ」
レンの輪郭が、白く崩れていく。
最後に残った顔まで光へ包まれる。
完全に消える直前。
ミレアが叫んだ。
「今度どこかで会ったら、絶対に殴るからね!」
「覚えていたら避ける」
「避けるな!」
白い光が視界を埋め尽くした。
観客の声も。
審判の声も。
ミレアの姿も。
すべてが遠ざかる。
次に足の裏へ触れたのは、砂ではなかった。
どこまでも続く白い床。
見慣れた白い部屋。
折れていた右腕は元に戻っている。
肋骨の痛みもない。
破れた服も、浴びた血も、すべて消えていた。
レンは何も残っていない右手を握る。
それでも。
ザグナの胸を杭で貫いた感触だけは、掌から消えていなかった。




