金を〇す
覇王祭の予選まで、あと六日。
レンがガルド工房へ通い始めてから、四日が過ぎていた。
朝は大闘技場で在庫を確認する。
昼になると、修理する武具をガルド工房へ運び、代わりに直ったものを持ち帰る。
仕事が終われば、ミレアの帳簿を手伝う。
数日前まで、バルドは修理品を運ぶ人間を毎回変えていた。
だが今朝、レンへ一枚の書類を渡しながら言った。
「今後、ガルド工房とのやり取りはお前がやれ」
「お、俺がですか?」
「向こうからの指名だ」
「ミレアさんが?」
「お前が持ち帰る受領書は、数も日付も間違ってない。前の奴らは剣を三本預けて二本しか書かなかったり、修理代の桁を一つ間違えたりしてたからな」
バルドは面倒そうに手を振った。
「職人に気に入られたなら、そのまま機嫌を取っておけ。それも用具係の仕事だ」
「き、気に入られたというわけでは……」
「どっちでもいい。昼までに行ってこい」
レンはいつものように荷車を押し、職人区へ向かった。
ガルド工房へ着くと、扉は開いていた。
中では、ミレアが胸当ての留め具を調整している。
「こんにちは……」
「遅い」
「す、すみません」
「冗談よ。まだ鐘も鳴ってないでしょ」
ミレアは顔を上げずに言った。
最初に会った頃と比べ、レンが工房へ入っても作業を止めなくなっていた。
レンも、ミレアの前では言葉につかえる回数を少しずつ減らしている。
何度も顔を合わせているのに、初対面と同じ怯え方を続けるほうが不自然だからだ。
それでも、大きな音が鳴れば肩を揺らす。
ミレアが急に振り向けば、反射的に視線を落とす。
気弱で争いを嫌う男という姿は、崩していなかった。
「バルドさんから聞きました。今後は、俺がこちらを担当するそうです」
「頼んだのは私よ」
ミレアが当然のように答える。
「別の人が来るたびに、同じ説明をするのが面倒なの。あんたなら、帳簿も読めるし」
「俺でよければ……」
「嫌なら別の人にするけど?」
「い、いえ。嫌ではありません」
レンが慌てて否定すると、ミレアは小さく笑った。
「なら決まりね」
レンは修理品を荷車から下ろした。
そのあとは、前日にミレアが直した武具と帳簿を照合する。
槍が二本。
胸当てが一つ。
革帯を交換した盾が三枚。
数も修理代も合っている。
「こちらは、今日持ち帰っても?」
「いいわよ。あ、その前にこれ」
ミレアが紙の包みを投げる。
レンは胸元で慌てたように抱え込んだ。
中には、焼いた豆を挟んだ薄いパンが入っている。
「昼食ですか」
「昨日の帳簿代」
「毎日いただいていますけど……」
「毎日手伝ってるでしょ」
「書くだけなので、大したことはしていません」
「あんたが大したことないと思ってても、私は助かってるの。それでいいでしょ」
「……ありがとうございます」
レンは作業台の端へ腰を下ろした。
ミレアも向かいへ座り、自分の分のパンを口へ運ぶ。
以前は食事中にも途切れがちだった会話が、今では自然に続くようになっていた。
武具の状態。
闘技場の試合。
値上がりした炭。
工房の屋根へ住みついた鳥。
どれも、ザグナの調査とは関係のない話だった。
食事を終えたミレアが、不意に腰の革紐へ手を伸ばした。
外したのは、小さな鉄の鍵だった。
「レン。今日の夕方、時間ある?」
「仕事が終わったあとなら……」
「炉材商から、鋼の薄板が届くの。十二枚」
ミレアは鍵をレンの前へ置いた。
「でも、同じ時間に商工連合の集まりがあるのよ。ガレムの盾を修理する費用を、闘技場と連合のどっちが出すか決めるんだって」
「ミレアさんが出席するんですか」
「盾の構造を説明できる人間が、私しかいないからね」
レンは置かれた鍵を見る。
「これは……」
「裏口の鍵。夕方、先に入って待ってて」
「お、俺が一人で?」
「ほかに誰がいるのよ」
「でも、工房には高価な武具もありますし……」
「材料庫と金庫は別の鍵よ。炉にも触らないで。届いた薄板の数と、表面にひびがないかを確認して、受領書へ名前を書く。それだけ」
「そういう意味ではなく……俺みたいな人間に、工房の鍵を預けていいんですか?」
ミレアは眉をひそめた。
「何よ。盗むつもり?」
「そんなことはしません!」
レンが顔を上げる。
声が思った以上に大きく出たように装い、すぐに肩を縮めた。
「す、すみません……。でも、本当にしません」
「知ってる」
ミレアはあっさり答えた。
「あの子がパンを盗んだときだって、自分が殴られるかもしれないのに間へ入ったでしょ」
レンは気まずそうに視線を落とした。
「あれは……放っておいたら、あの子が殴られそうだったので」
「それで、代わりに自分が殴られようとする?」
「俺なら、少しくらい殴られても……」
「そういうことを平気で言わないで」
ミレアが眉をひそめる。
「すみません……」
「怒ってるわけじゃないけど」
ミレアは残ったパンをちぎった。
「少なくとも、子供のために自分のお金を払って、店主にまで頭を下げるようなお人好しが、私の工房から物を盗むとは思わないわ」
「お人好しというほどでは……」
「褒めてないから」
「そうですか……」
「褒めてほしかったの?」
「いえ」
「なら、その顔やめて」
ミレアは鍵を指で弾いた。
レンは両手で受け止める。
冷たい鉄の感触が、掌へ落ちた。
「絶対に失くさないでよ」
「はい。命に代えても」
「鍵一つで死なないで」
夕刻。
仕事を終えたレンは、職人区へ戻った。
ガルド工房の正面扉は閉まっている。
建物の横にある細い道へ入り、裏口の前で足を止めた。
預かった鍵を差し込む。
抵抗なく回った。
扉の先は、工房の作業場へつながっている。
右手には炉。
左手には修理を待つ武具。
奥の扉を抜ければ、ミレアが寝起きしている居住部がある。
レンは鍵を抜き、扉を閉めた。
作業台には、ミレアが用意した受領書が置かれている。
鋼の薄板、十二枚。
厚さ。
長さ。
一枚あたりの重さ。
検品する箇所まで、横へ書き添えられていた。
ほどなくして、表の扉が叩かれた。
「炉材商だ! 荷物を持ってきたぞ!」
レンが扉を開けると、二人の男が木箱を抱えて立っていた。
「ミレアは?」
「商工連合へ出ています。その……俺が受け取るように言われました」
「お前が?」
男がレンの木札を見る。
「闘技場の雑用係じゃねぇか」
「は、はい。ですから、間違えないように確認します」
男たちは面倒そうに木箱を作業台へ置いた。
蓋を外す。
中には、布で包まれた鋼の薄板が重ねられていた。
レンは一枚ずつ取り出し、表面と縁を確認していく。
十枚。
十一枚。
そこで箱が空になった。
「……一枚、足りません」
「あ?」
「受領書には、十二枚と書いてあります」
「入れたはずだ」
「ですが、ここには十一枚しか……」
「細けぇこと言わずに名前を書け。こっちは次の配達もあるんだ」
男が苛立ったように机を叩く。
レンの肩が跳ねた。
握っていた筆の先が、紙の上でわずかに震える。
「す、すみません。でも、十二枚受け取ったと書くことはできません」
「一枚くらい、あとで持ってくりゃ同じだろ」
「同じではありません」
レンは怯えた表情のまま、受領書を手元へ引いた。
「ミレアさんから、十二枚を確認するように言われました。十一枚で名前を書けば……預けてもらった仕事を、俺が勝手に変えたことになります」
「面倒くせぇ奴だな」
男がレンの胸ぐらへ手を伸ばしかける。
その視線が、入口に下がる商工連合の保護札へ向いた。
舌打ちし、手を止める。
「もう一回、荷車を見てこい」
外にいたもう一人が戻っていく。
しばらくして、布に包まれた薄板を一枚抱えてきた。
「荷台の隙間に落ちてました」
「最初からちゃんと探せ!」
男は十二枚目を作業台へ置いた。
レンは表面を確認し、受領書へ名前を書く。
「確かに、十二枚受け取りました」
「お前、見た目のわりに頑固だな」
「す、すみません……」
「そこで謝るくらいなら、最初から黙って受け取れよ……いや、悪かったな」
男は頭をかき、空の木箱を抱える。
二人が工房を出ていったあと、レンは薄板を種類ごとに分け、ミレアが指定した棚へ置いた。
そのまま、途中になっていた修理帳簿を開く。
ミレアが戻ってきたのは、最後の一行を書き終えた頃だった。
裏口が開く。
「遅くなったわ」
「お、おかえりなさい」
言ってから、レンは少し困ったように目を伏せた。
「すみません。俺の家ではないのに」
ミレアが一瞬、目を丸くする。
「別に、それくらいで謝らなくていいけど」
机へ置かれた受領書を手に取る。
「十二枚、ちゃんとあった?」
「はい。一度は十一枚しかありませんでしたが、荷車に残っていたようです」
「そのまま受け取らなかったの?」
「十二枚を確認するように言われましたから」
「怒鳴られたでしょ」
「少しだけ……」
「怖くなかった?」
レンは答えるまでに、わずかな間を空けた。
「怖かったです」
それでも、と続ける。
「ミレアさんが俺を信用して、鍵まで預けてくれたので。勝手なことはできません」
ミレアは受領書を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「ほんと、変なところで真面目ね」
「すみません」
「謝るところじゃないって言ってるでしょ」
レンは懐から鍵を取り出した。
「ありがとうございました。お返しします」
ミレアへ差し出す。
だが、ミレアは受け取らなかった。
「持ってて」
「……はい?」
「どうせ、これからも毎日のように来るでしょ。私が仕入れで留守にすることもあるし、先に入って帳簿を始めてもらったほうが楽だから」
「でも……」
「それに、また闘士に絡まれたら、ここへ逃げ込めばいいわ」
ミレアが入口の保護札を指差す。
「工房の中なら、商工連合の保護がある。路地で殴られるよりは安全よ」
「そこまでしてもらう理由がありません」
「あんたは私の仕事を手伝ってる。それで十分でしょ」
ミレアはレンの手を取り、開いた掌へ鍵を戻した。
そのまま、指を閉じさせる。
「私は、あんたなら勝手なことをしないと思って渡してるの」
レンは握らされた鍵へ視線を落とした。
「……失くしたら?」
「給金から引く」
「ほとんど残らなくなります」
「なら、絶対に失くさないことね」
ミレアはそう言って笑った。
レンも、困ったように小さく笑い返す。
「分かりました。大切にします」
工房を出たあとも、レンの背中は丸まったままだった。
人通りのある道を抜ける。
大闘技場の職員寮へ戻る角を通り過ぎる。
明かりのない裏通りへ入ったところで、歩き方が変わった。
背筋が伸びる。
足音が消える。
表情から、先ほどまでの頼りなさが抜け落ちた。
レンは大闘技場の東側にある、古い訓練棟へ向かった。
今は倉庫として使われている建物だった。
扉を三度叩く。
少し間を置き、内側から鍵が外された。
「遅かったな」
ドルグが顔を出す。
レンを中へ入れると、すぐに周囲を確認して扉を閉めた。
倉庫の中央には、木剣や革鎧が積まれている。
その上に、顔の上半分を覆う革製の仮面が置かれていた。
「頼まれたものだ」
ドルグが仮面を差し出す。
「魔法も仕掛けもない。試合前の検査には通る」
レンは受け取り、顔へ当てた。
視界は狭くない。
息もこもらない。
外からは、目元と鼻筋しか見えなくなる。
「番号だけで出る奴は珍しくないのか」
「借金取りから逃げてる奴や、身分を隠した傭兵もいる。予選までなら、顔を隠してても問題ねぇ」
「本戦へ進めば?」
「名前を出すように求められる。断ることもできるが、そのぶん、客の前で仮面を剥がそうとする奴は増える」
「分かった」
レンは懐から小さな革袋を取り出し、木箱の上へ置いた。
中で硬貨が鳴る。
ドルグが怪訝そうに袋を見る。
「何だ、これ」
「仮面の代金と、これまでの情報料。それから、今日の分だ」
ドルグは袋を手に取り、中を確認した。
「俺を脅して使ってるくせに、金は払うのか」
「働いた分は払う」
「最初からそうしろよ」
「最初から金を渡して、お前が素直に話したと思うか?」
ドルグが口を閉ざす。
革袋に入れたのは、レンが持つ金の三分の一ほどだった。
余裕のある額ではない。
それでも、今後もドルグを使うなら、命令と恐怖だけで動かし続けるより効率がいい。
ドルグは革袋を腰へしまった。
表情から警戒は消えていない。
「今日の分ってのは?」
「稽古につき合え」
「それも入ってるのかよ」
「ああ」
レンは作業着の内側から、黒鉄の札を取り出した。
四百十二。
刻まれた数字を見て、ドルグの顔が強張る。
「本当に出るんだな」
「もし、俺と当たったら普段どおり戦え」
「手加減しろってことか?」
「逆だ。お前が不自然な動きをすれば、俺との関係を疑われる」
「本気でやったら、怪我じゃ済まねぇかもしれねぇぞ」
「だから、今のうちに確かめる」
レンは仮面をつけた。
「本気で来い」
ドルグはしばらく動かなかった。
命令どおりに攻撃し、その結果レンを傷つけた場合、何をされるか分からない。
そう考えている顔だった。
「今日の報酬に含まれている」
レンが言った。
「遠慮は必要ない」
「……あとで文句言うなよ」
ドルグは倉庫の端に立てかけてあった木剣を手に取った。
レンは武器を持たない。
腰を落とすこともなく、両腕を自然に下げたまま立つ。
ドルグが踏み込んだ。
木剣が横薙ぎに振るわれる。
レンは頭を下げて避けた。
返す刃が肩へ向かう。
半歩前へ出て、ドルグの手首を掌で押す。
木剣の軌道がずれた。
同時に脇腹へ拳を入れる。
ドルグの身体がわずかに曲がる。
だが、止まらない。
左腕が伸び、レンの作業着をつかんだ。
身体が浮く。
レンは力では抵抗できなかった。
そのまま背中から床へ叩きつけられる。
肺から息が抜けた。
視界が揺れる。
ドルグが歯を食いしばり、木剣を振り下ろす。
レンは横へ転がった。
木剣が床を叩く。
立ち上がるより先に、ドルグの蹴りが迫る。
レンは両腕で受けた。
衝撃を殺しきれず、身体が木箱へぶつかる。
まともに力を比べれば、ドルグのほうが上だろう。
ドルグも、それを理解したはずだった。
それでも追撃する足には、迷いが残っている。
レンは逃げなかった。
ドルグの足が、床へ置かれていた細い縄の輪へ入る。
稽古を始める前、レンが用意していたものだった。
縄の端を引く。
輪が足首へ絡みつき、ドルグの体勢が崩れた。
レンは木剣を持つ手首をつかみ、その勢いを止めずに前へ引く。
ドルグが床へ片手をついた。
その背後へ回り、縄を首へかける。
膝を背中へ当て、後方へ引いた。
「ぐっ……!」
ドルグの手から木剣が落ちる。
それでも、力だけで立ち上がろうとする。
レンは木箱の上に置かれていた訓練用の短刀を取り、その先端をドルグの耳の下へ押し当てた。
「実戦なら、これは刃物だ」
ドルグの動きが止まる。
「お前が俺をつかめば、俺は力では勝てない」
レンは淡々と言った。
「だから、つかまれた時点で俺の失敗だ」
「なら……今のは俺の勝ちじゃねぇのか」
「試合ならな」
レンは縄をさらに引いた。
「だが、殺し合いならまだ終わっていない」
ドルグが両手を床へつく。
降参の意思表示だった。
レンが縄を緩める。
ドルグは咳き込みながら、その場へ座った。
「金をもらっても、割に合わねぇ仕事だな……」
「次から断ってもいい」
「断ったら、指を折るんじゃねぇのか?」
「仕事を断っただけなら何もしない。別の人間を探す」
ドルグが意外そうにレンを見る。
「ただし、俺について誰かに話した場合は別だ」
その一言で、ドルグの表情が再び強張った。
「……分かってるよ」
ドルグがレンに従う理由は、一つではない。
逆らった場合の恐怖。
秘密を握られていること。
そして、頼まれた仕事をこなせば支払われる報酬。
恐怖だけで縛られた人間は、逃げる機会を探す。
だが、利益まで与えられた人間は、自分から関係を切ることを迷い始める。
「それじゃあ、俺は死なねぇぞ」
倉庫の奥から、声がした。
ドルグの顔から血の気が引く。
レンは振り向かなかった。
足音は聞こえていた。
気配を隠すつもりもなく、男が暗がりから姿を現す。
ザグナ。
折れた右腕は、布と木板で固定されていた。
それでも、苦痛を感じている様子はない。
「と、闘王……」
ドルグが後退る。
ザグナは一度もドルグを見なかった。
仮面をつけたレンだけを見ている。
「似合ってるじゃねぇか」
「覗き見が趣味なのか」
「面白そうな音がしたから来ただけだ」
ザグナの視線が、レンの手にある黒鉄の札へ落ちる。
「四百十二番」
口元が吊り上がった。
「やっぱり出るんじゃねぇか」
「出ないとは言っていない」
「俺と戦う気になったか?」
「お前へ近づく方法の一つとして選んだだけだ」
「同じことだろ」
ザグナは楽しそうに笑った。
ドルグが壁際を伝い、出口へ向かう。
「俺は……これで……」
「行け」
レンが言うと、ドルグは逃げるように倉庫を出ていった。
扉が閉まる。
ザグナが倒れた木箱へ腰を下ろす。
「どうだった?」
「何がだ」
「俺の試合だよ。ちゃんと見てたんだろ?」
「初めて受ける攻撃は通る」
レンは答えた。
「反衝盾で、お前の右腕は折れた。二度目は効かなかった」
「それだけか?」
「お前は、未知の攻撃を避けようとしない」
ザグナの笑みがわずかに深くなる。
「避けたら、どんな攻撃か分からねぇだろ」
「その性格は利用できる」
「やってみろよ」
ザグナが立ち上がる。
「毒でも罠でも、見たことのねぇ武器でもいい。全部俺にぶつけてみろ」
「一度で殺せなければ、意味がない」
「なら、一度で殺せ」
「簡単に言うな」
「難しいから面白ぇんだろうが」
ザグナがレンの横を通り過ぎる。
月明かりが、高窓から倉庫へ差し込んだ。
その右腕に着けている、銀の腕輪が反射する。
表面には、小さな花穂を思わせる細かな線が刻まれていた。
レンの視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
ザグナが足を止めた。
「何だ?」
「何でもない」
ザグナは数秒黙ったあと、声を上げて笑った。
「やっぱり、お前は面白ぇな」
出口の扉へ手をかける。
「決勝まで来い、四百十二番」
「命令するな」
「途中で負けたら、俺が迎えに行ってやる」
「余計なことをするな」
「だったら負けるなよ」
ザグナは倉庫から出ていった。
笑い声が遠ざかる。
一人になったレンは、仮面を外した。
懐から、ガルド工房の鍵を取り出す。
反対の手には、四百十二と刻まれた黒鉄の札。
一つは、ミレアが自ら預けたもの。
もう一つは、闘王へ近づくために手に入れたもの。
レンは鍵を、木札の裏へしまった。
黒鉄の札は、反対側の懐へ戻す。
鍵は、信じていない相手には渡さない。
信じた相手を、自分の内側へ入れるためのものだった。
予選まで、あと六日。
レンはそのどちらも、使うべき時まで失くすつもりはなかった。




