パンを〇す
公開試合の翌朝。
レンが用具管理棟へ入ると、バルドが大量の書類に埋もれていた。
机の上には、昨日回収した武器の一覧。
負傷した闘士の名前。
修理費用と、廃棄する武具の見積書が積まれている。
「来たか」
「お、おはようございます」
レンは小さく頭を下げた。
「昨日の書類です。ガルド工房で、確認してもらいました」
「置いとけ」
バルドは書類を受け取り、内容へ目を通す。
「ずいぶん細かく書いてあるな」
「その……あとで分からなくなると困ると思ったので」
「お前が書いたのか?」
「は、はい。勝手なことをして、すみません」
「謝ることじゃない」
バルドが書類の端へ印を押す。
「胸当てが一つ、今日仕上がる予定だったな」
「はい。昼頃に取りに来るよう言われています」
「ついでに、こいつも渡してこい」
新しい修理依頼書が差し出された。
昨日の公開試合とは関係のない、刃こぼれした長剣が二本。
留め具の外れた革鎧が一着。
「昨日ほど多くはない。荷車はいらんだろ」
「分かりました」
「それと、今日から覇王祭の受付が始まる。闘技場の周りが混むから、巻き込まれるなよ」
「覇王祭……」
レンは不安そうに目を泳がせた。
「また、昨日のような試合をするんですか?」
「今度は一対一だ。予選を抜けた連中が本戦で戦い、最後まで残った一人が闘王へ挑む」
「死ぬ人も、いるんですよね」
「毎年いる」
バルドは興味もなさそうに答えた。
レンの肩が小さく縮む。
「俺には、関係なさそうです……」
「当たり前だ。お前が出たら最初の一分で死ぬ」
「で、ですよね」
レンは困ったように笑った。
修理品を抱え、大闘技場を出る。
覇王祭の受付初日ということもあり、大通りには昨日以上の人間が集まっていた。
武器を背負った闘士。
参加希望者へ装備を売る商人。
出場者を見定める賭場の仲介人。
通りの至るところで、威勢のいい声が飛び交っている。
職人区へ近づいたところで、人だかりができていた。
「この餓鬼!」
男の怒鳴り声が響く。
鉄札の下がるパン屋の前。
十歳にも満たない少年が、店主らしい男に襟首をつかまれていた。
少年の足元には、泥のついたパンが一つ落ちている。
「盗んだのはこれで何度目だ!」
「ご、ごめんなさい……」
「謝れば済むと思ってんのか!」
店主が拳を振り上げる。
周囲にいる者たちは、誰も止めようとしない。
店には商工連合の札がある。
少年には何もない。
この街では、どちらが守られるかを考えるまでもなかった。
レンは人だかりの間を抜ける。
「あ、あの……」
店主の拳が止まった。
「あ?」
「すみません。その子を、放してもらえませんか」
男の目がレンへ向く。
細い身体。
灰色の作業着。
胸元に下がる、木製の職員札。
何の脅威にもならないと判断したのだろう。
「関係ねぇ奴は引っ込んでろ」
「す、すみません」
レンの肩が跳ねる。
それでも、その場からは動かなかった。
「パンの代金なら、俺が払いますから」
「こいつが盗んだのは今日だけじゃねぇ!」
「でしたら、その分も……」
「払えんのか?」
レンは腰の革袋を開いた。
残っている硬貨を確認する。
「全部は、難しいですけど……」
「なら黙ってろ!」
店主が少年を引き寄せる。
レンは反射的に一歩下がった。
怯えた顔で男を見上げる。
それでも逃げず、革袋から硬貨を取り出した。
「これで、足りませんか」
店主の手へ硬貨を載せる。
パン一つの値段としては、多すぎる額だった。
店主は硬貨を数え、鼻を鳴らした。
「足りねぇ分は、次にこいつを見つけたときに払わせる」
少年の身体が地面へ落とされる。
「二度と来るな!」
「はい……すみません」
なぜかレンが頭を下げた。
店主は泥のついたパンを拾い、少年へ投げつける。
「それも持ってけ。売り物にならねぇ」
少年はパンを抱えた。
レンの顔を一度だけ見上げ、何も言わずに人混みの中へ逃げていった。
周囲の者たちも、興味を失ったように散っていく。
「……あんた、何してるの?」
背後から声がした。
レンが振り返る。
少し離れた場所に、ミレアが立っていた。
両手には、炉で使う炭の袋を抱えている。
「ミ、ミレアさん」
「今の子、知り合い?」
「いえ……」
「なら、何で代金を払ったのよ」
「その……」
レンは言葉を探すように、少年が消えた方向を見る。
「殴られそうだったので」
「それだけ?」
「はい」
ミレアは呆れたように口を開いた。
「あの子、前にもあの店から盗んでるのよ」
「そうなんですか」
「助けたって、またやるわよ」
「……そうかもしれません」
「だったら、放っておけばよかったでしょ」
レンは黙り込んだ。
怒られた子供のように視線を落とす。
「すみません」
「何で私に謝るのよ」
「余計なことをしたのかと思って……」
ミレアが深く息を吐く。
「余計なことではあるわよ。自分だって、そんなにお金持ってないんでしょ?」
「まだ少しは残っています」
「少ししか、でしょ」
レンは答えなかった。
ミレアがレンの顔を覗き込む。
「怖くなかったの?」
「怖かったです」
返事は早かった。
「店主が怒鳴ったとき、逃げようかと思いました」
「それなのに、割って入ったの?」
「目の前で殴られるのを見ているのも……少し、嫌だったので」
ミレアは何も言わない。
レンは不安そうに顔を上げた。
「あの……やっぱり、変でしょうか」
「変」
ミレアは即答した。
「自分のことも守れないくせに、他人を助けてどうするのよ」
「すみません……」
「だから、何で謝るの」
ミレアの口元が、わずかに緩んだ。
「本当に変な人ね、あんた」
それまでの言い方とは違っていた。
呆れてはいる。
だが、馬鹿にしているわけではない。
ミレアは抱えていた炭袋の一つを、レンへ押しつけた。
「持って」
「え?」
「工房まで。さっきお金を無駄にした分、働いてもらうから」
「それとこれに、関係があるんでしょうか……」
「あるの。私が決めた」
「は、はい」
レンは炭袋を抱えた。
見た目以上に重い。
少し身体をふらつかせながら、ミレアのあとを歩き出す。
「落とさないでよ」
「気をつけます」
「それ、中身をぶちまけたら掃除もあんたにやらせるからね」
「分かりました」
「返事だけはいいのね」
二人は並んで職人区を歩いた。
工房へ着くと、レンは炭袋を炉の近くへ運んだ。
床へ下ろし、疲れたように息を吐く。
「ありがとね」
「いえ。あの、こちらもお願いします」
持ってきた修理依頼書を差し出す。
ミレアは書類へ目を通し、長剣を確認した。
「これなら直せる。革鎧は留め具を替えるだけね」
「どのくらいかかりますか?」
「二日。急ぎなら明日の夜」
「二日で大丈夫です」
「そう」
ミレアは工房の奥から、修理の終わった胸当てを持ってきた。
留め具は新しいものへ交換され、革紐も補強されている。
「昨日言ってた分。確認して」
レンは胸当てを受け取った。
表と裏を眺める。
「俺には、どこを見ればいいのか……」
「留め具を引っ張って。外れなければ大丈夫」
「こうですか?」
「もっと強く」
「こ、壊れませんか?」
「直したばかりなのに壊れるわけないでしょ!」
言われたとおり、革紐を強く引く。
留め具は動かない。
「大丈夫みたいです」
「当たり前よ」
ミレアは満足そうに胸を張った。
レンが受領書を取り出す。
そのとき、作業台の端に積まれた紙の束が崩れた。
床へ何枚もの書類が散らばる。
「ああ、もう!」
ミレアが慌てて拾い始めた。
レンも胸当てを置き、床へしゃがむ。
散らばった紙には、修理した武具の名前と費用が書かれていた。
「順番は決まっていますか?」
「決まってた。今、分からなくなったけど」
「日付ごとに分ければ、戻せると思います」
「日付なんて書いてあった?」
「右上に」
ミレアが紙を見る。
「あ、本当だ」
「書いたのは、ミレアさんでは?」
「細かいところまで覚えてないのよ」
レンは紙を拾いながら、日付と依頼主ごとに分けていく。
「こちらは、先月分です」
「早いわね」
「前の商会でも、こういう仕事をしていましたから」
「そういえば、帳簿係だったわね」
数分後。
散らばっていた書類は、元よりも整った状態で積み直されていた。
ミレアが、その束をじっと見る。
「ねえ、レン」
「はい」
「少しだけ時間ある?」
「大闘技場へ戻るまでなら……」
ミレアは工房の奥を指差した。
そこには、さらに多くの書類が積まれている。
「こっちも、整理できる?」
「全部ですか?」
「全部じゃないわよ。今日の分だけ」
レンが不安そうに紙の山を見る。
「俺が見ても、大丈夫なんですか?」
「修理の記録だけよ。金庫の場所まで教えるわけじゃない」
「そうですよね」
「何、その安心したような顔」
「高価なものを任されたら、なくさないか心配なので……」
「帳簿は勝手に歩いて逃げないわよ」
ミレアが椅子を引いた。
「昨日の書類、分かりやすかったから。手が空いてるなら、少し手伝って」
「俺でよければ」
レンは机へ座った。
依頼主。
武具の種類。
破損箇所。
修理に必要な材料。
受け取った代金。
内容を一つずつ確認し、別々の紙へ書き写していく。
ミレアは向かいで、剣の柄へ革を巻いていた。
金属を打つ音とは違う、静かな時間が流れる。
「レンは、家族いないの?」
突然、ミレアが尋ねた。
レンの筆が止まる。
「どうしてですか?」
「昨日も帰るの遅かったのに、誰も待ってないみたいだったから」
「……いません」
「そう」
ミレアはそれ以上、聞かなかった。
自分も余計なことを尋ねたと思ったのか、剣へ視線を戻す。
「すみません。暗くしてしまいました」
「謝らなくていいって」
「でも……」
「私も父さんはいないし、兄はあんなのだし。似たようなものでしょ」
言葉は軽かった。
それでも、ミレアの手はわずかに止まっていた。
「寂しくはないんですか?」
「別に」
即答だった。
「一人のほうが静かだし、仕事も邪魔されないもの」
「そうですか」
「何よ」
「いえ……少しだけ、無理をしているように聞こえたので」
ミレアの眉が上がる。
レンはすぐに肩を縮めた。
「す、すみません。勝手なことを言いました」
「本当に、変なところだけ見てるわね」
ミレアは怒らなかった。
代わりに、巻き終えた剣を作業台へ置く。
「帳簿、終わった?」
「はい。あとは、こちらへ確認の印をお願いします」
「もう?」
「量は多くなかったので」
ミレアが書類を見る。
項目ごとに整えられ、必要な費用も計算されている。
「……これ、毎回やってくれない?」
「毎回ですか?」
「大闘技場から荷物を持ってきたときだけでいいわよ。代わりに、昼飯くらいは出すから」
「あの、食事までいただくのは……」
「昨日は食べたでしょ」
「そうですけど」
「嫌なの?」
「い、いえ。おいしかったです」
「昨日は温かいとしか言わなかったじゃない」
「今日は、ちゃんと味のことを言っています」
ミレアが吹き出した。
「分かった。じゃあ、決まりね」
レンは少し迷うような間を置いてから、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こっちこそ」
ミレアは胸当てを布で包み、レンへ渡した。
さらに、小さな紙包みをその上へ載せる。
「これは?」
「パン。帰りに食べなさい」
「でも、さっきお金を使ったこととは関係ないですよね」
「うるさい。どうせ昼飯も食べてないんでしょ?」
レンは答えなかった。
「図星ね」
「……ありがとうございます」
「それから」
ミレアが入口の鉄札を指差す。
「また闘士に絡まれたら、この工房へ逃げてきなさい」
「ここへ?」
「店の中まで追ってくる馬鹿は、そういないから」
「迷惑ではありませんか?」
「荷物運びと帳簿整理をするなら、少しくらい置いてあげる」
ミレアは視線を逸らす。
「昨日みたいな顔で来られると、こっちも気になるのよ」
レンは包みを抱えたまま、しばらくミレアを見つめた。
やがて、弱々しく笑う。
「ありがとうございます。ミレアさんは、優しいんですね」
「なっ……」
ミレアの顔が赤くなる。
「違う! 仕事に支障が出ると困るだけ!」
「はい。そういうことにしておきます」
「あんた、たまに言うわね……」
「すみません」
「謝れば何を言ってもいいと思ってない?」
ミレアは呆れながらも、笑っていた。
レンは小さく頭を下げ、工房を出た。
職人区の角を曲がる。
工房から姿が見えなくなったところで、丸めていた背中を伸ばした。
怯えたように揺れていた視線が止まる。
腕に抱えた胸当ての上には、ミレアから渡されたパンがある。
レンは紙包みを一度見た。
捨てることなく、そのまま作業着の内側へしまった。
大闘技場へ戻り、胸当てと受領書をバルドへ渡す。
残りの仕事を終える頃には、外は暗くなっていた。
レンは職員寮へ戻らなかった。
胸元から木製の職員札を外す。
作業着の上へ、灰色の外套を羽織る。
頭から深く布をかぶり、人の流れに紛れて大闘技場の正面へ向かった。
覇王祭の参加受付には、夜になっても長い列ができていた。
大柄な闘士。
鎧を着込んだ傭兵。
杖を持つ魔法使い。
その中に並べば、レンの細い身体はひどく場違いに見えた。
一時間ほど待ち、受付台の前へ立つ。
座っていた男が、外套の奥にあるレンの顔を見上げる。
「名前」
「レン」
先ほどまでの弱々しい声は消えていた。
「所属」
「ない」
「闘士登録は?」
「していない」
「構わん。予選に資格は必要ない」
男が書類へ名前を書き込む。
「使用武器は?」
「未定だ」
「公開名はどうする。本名を出したくないなら、予選中は番号で呼ばせることもできる」
「番号でいい」
「顔も隠すか?」
「ああ」
「武器以外の持ち込みは試合前に確認する。魔法による変装は禁止。布や仮面なら好きにしろ」
受付の男が手を差し出す。
「参加費」
レンは革袋から硬貨を取り出した。
昼間、少年のために支払った分が減っている。
それでも、足りた。
男は硬貨を数え、黒い鉄製の札を投げて寄越した。
レンが受け取る。
表面には数字だけが刻まれていた。
四百十二。
「予選は九日後。遅れたら失格だ」
「分かった」
「死体を引き取る者は?」
「いない」
「なら、死んだ場合は闘技場で処分する」
受付の男は、次の参加者を呼んだ。
レンは列を離れる。
人通りの少ない場所まで来ると、黒い鉄札を懐へ入れた。
その上から、木製の職員札を元の位置へ下げる。
弱い用具係を示す木札。
覇王祭への参加を示す黒鉄の札。
二つの札が、作業着の内側と外側で重なった。
明日になれば、レンは再びガルド工房へ向かう。
ミレアの前では、争いを嫌う気弱な青年として。
九日後には、顔も名も伏せた四百十二番として、闘技場へ立つ。
どちらも、必要な姿だった。




