殺意を〇す
「お前……俺を殺したいのかぁ?」
石造りの通路へ、ザグナの声が響いた。
レンは背中を丸めたまま、足元へ視線を落とした。
「……人違いではありませんか」
「違わねぇよ」
ザグナが一歩近づく。
「怯えてる奴は、俺の顔か拳を見る。逃げ道を探す奴もいる」
獣のような笑みが深くなった。
「お前は、俺の前に立った瞬間から妙に静かだった。荷車を握る手も、呼吸も、逃げる奴のものじゃねぇ」
レンは何も答えなかった。
ザグナの言うとおりだった。
歩き方から利き足を推測し、立ち位置から踏み込みの癖を読む。
傷の位置や衣服の膨らみを確認し、隠し武器の有無を探る。
ただし、それを悟られないよう、レンは視線をザグナへ固定しなかった。
顔を見れば怯えているように見える。
足元を見れば、弱者らしく振る舞える。
必要な情報は、視界の端で拾えばいい。
「俺を見てねぇのに、何を見てやがる?」
「す、すみません。怖くて、顔を見られないだけです」
「へぇ」
ザグナはレンの周囲をゆっくり歩いた。
レンは視線を動かさない。
ザグナの足音、床を踏む間隔、衣服の擦れる音だけを拾う。
「俺のどこを壊せば殺せるか、考えてただろ」
「闘王を初めて見たので、緊張しただけです」
声は変えない。
昨日、ドルグに見せたものと同じ、細く頼りない声だった。
ザグナが鼻で笑う。
次の瞬間、その右拳が動いた。
レンは拳を見なかった。
拳は、頬へ触れる寸前で止まった。
巻き起こった風が髪を揺らす。
レンは目を閉じていなかった。
身体も動かしていない。
ただ、荷車を握っていた右手だけが離れていた。
「ははっ」
ザグナが拳を引く。
「やっぱり嘘じゃねぇか」
「何がですか」
「普通の雑用係なら、今ので腰を抜かしてる」
「何が起きたか分からず、ぼーっとしてました。」
しばらくの沈黙。
やがてザグナは、腹を抱えて笑い始めた。
「面白ぇ!」
大きな笑い声が、狭い通路に反響する。
「細っこい身体で、弱ぇふりをして、見てもいねぇ拳を避けやがる!」
「避けてはいない」
「同じことだろうが!」
「殺したいわけではない」
ザグナの笑いが止まった。
「じゃあ何だ?」
レンは背中を伸ばした。
周囲には誰もいない。
弱者を演じ続ける意味も、今だけはなかった。
ただし、ザグナの顔は見ない。
視線を合わせれば、余計な情報を与える。
レンは通路の奥へ目を向けたまま、淡々と答えた。
「必要なら殺す」
「必要?」
「ああ」
「俺を殺すのに、理由がいるのか?」
「俺にはいる」
ザグナが首を傾げる。
理解できないというより、聞き慣れない言葉を耳にしたような反応だった。
「理由がなきゃ、殺さねぇのか」
「殺す必要がないからな」
「試合でも?」
「俺は闘士じゃない」
「じゃあ、何だ?」
レンは答えなかった。
ザグナも、答えを急かそうとはしない。
代わりに、レンの身体を観察する気配だけが近づいてくる。
「強そうには見えねぇな」
「強くはない」
「それも嘘か?」
「事実だ」
レンには、ザグナのような力はない。
一撃で石壁を破壊することもできない。
一度受けた攻撃へ適応する能力もない。
正面から拳を打ち合わせれば、先に倒れるのは自分だろう。
「ふぅん」
ザグナは興味深そうにレンを見つめる。
「なら、どうやって俺を殺す?」
「それを調べている」
「今ここで試してみるか?」
「断る」
即答だった。
ザグナの眉がわずかに動く。
「怖ぇのか?」
「必要がない」
「俺を殺す必要があるんだろ?」
「まだ決まっていない」
「さっきから、面倒くせぇ奴だな」
「よく言われる」
ザグナは数秒黙ったあと、再び笑った。
怒った様子はない。
期待していた玩具を、ようやく見つけたような顔だった。
「名前は?」
「レン」
「レンか」
ザグナが舌の上で確かめるように、その名を繰り返す。
レンは返事の代わりに、わずかに頭を下げた。
「覚えたぞ」
レンは答えなかった。
「明後日の公開試合、お前も来るんだろ?」
ザグナの視線が、レンの胸元に下がる木札へ向けられる。
レンは木札へ目を落とさず、指先で位置だけを確かめた。
「用具係なら、試合場の近くまで入れる」
「そのようだな」
「なら、よく見てろ」
ザグナが両腕を広げる。
「骨の砕き方も、魔法の避け方も、毒の耐え方も、全部見せてやる」
「なぜ俺に見せる」
「俺を殺すんだろ?」
「必要なら、だ」
「同じことだ」
ザグナにとっては、本当に同じなのだろう。
殺意を向けられることを、恐れていない。
排除しようともしていない。
むしろ、それを歓迎している。
暗殺を仕掛けた者が全員殺された理由も、報復ではないのかもしれない。
自分へ挑んだ者と、最後まで戦った。
ザグナの中では、それだけなのだろう。
「俺は逃げねぇ」
ザグナが言った。
「毒でも罠でも、好きに使え。俺を殺せると思ったら、いつでも来い」
その口元が、再び吊り上がる。
「その代わり、途中で逃げるなよ」
ザグナはレンへ背中を向けた。
数歩進んだところで、足を止める。
「弱ぇふりは好きにしろ」
顔だけを、わずかにこちらへ向けた。
「でも、俺の前でまで続けんな。つまらねぇからな」
そのまま通路の向こうへ消えていった。
足音が聞こえなくなる。
レンは再び荷車の取っ手を握った。
敵意を表へ出したつもりはなかった。
ザグナの顔を見続けたわけでもない。
それでも、見抜かれた。
依頼書に記されていた、殺意への異常な鋭敏さ。
少なくとも、その部分は正しいらしい。
ただし、ザグナが感知できるのが殺意そのものなのか、仕草や視線から推測しているだけなのかは分からない。
レンは、先ほどの自分の動きを思い返した。
視線は抑えた。
呼吸も乱していない。
それでも、拳を受ける直前に右手を荷車から離していた。
あれだけで、何かを察された可能性がある。
「強くはない、か」
自分で口にした言葉を繰り返す。
用具管理棟へ戻ると、バルドが机へ積まれた書類を整理していた。
「遅かったな」
「すみません…少し、道を塞がれました」
レンが受領書を差し出す。
バルドは内容を確認し、端へ印を押した。
「全部引き受けたか」
「胸当ては明日。槍は三日後、盾は五日後です」
「公開試合に使う分は足りるな」
バルドは別の書類を取り出した。
「ちょうどいい。明後日は、お前も試合場へ入れ」
「公開試合ですか」
「知ってるのか?」
「あ、はい。来る途中で聞きました」
「去年の覇王祭で本戦へ進んだ闘士から、六人が出る。闘王一人を相手に集団戦だ」
書類には、出場する闘士と使用武器が記されていた。
大盾と戦槌。
長槍。
二本の短剣。
鎖付きの鉄球。
弓。
火炎魔法を補助する杖。
攻撃方法の異なる六人が、同時にザグナへ挑むらしい。
「お前には、試合場外周の武器棚を任せる」
「武器の受け渡しを?」
「ああ。破損した武器の回収と、予備の補充だ。試合が始まれば闘士が飛んでくることもある。」
「柵があるのでは?」
「あれは観客席を守るためのものだ。試合場と外周の間にはない」
「えーと…職員は守らないんですね」
「木札の代わりはいくらでもいるからな」
バルドは当然のように答えた。
「怖いなら、今のうちに辞めてもいいぞ」
「…仕事なので行きます!」
「そうか」
バルドは興味を失ったように、次の書類へ目を落とした。
「北倉庫に過去の試合記録がある。出場者へ渡した武器を確認して、同じ数だけ用意しておけ」
「分かりました!」
北倉庫の奥には、古い帳簿と試合記録が保管されていた。
レンは公開試合に必要な武器を数えながら、ザグナの名前が記された記録を抜き出していく。
十五歳での初試合。
十六歳で上級闘士を撃破。
十八歳のとき、初めて集団戦へ参加。
二十二歳で、当時の闘王を殺害。
記録の多くには、対戦相手が使用した武器と、試合後の状態が書き残されていた。
ザグナが初めて長槍と戦った試合。
返却された槍の穂先には血が付着していた。
二度目の試合では、血痕なし。
初めて火炎魔法を受けた際には、ザグナが全身へ火傷を負い、試合後に治療師が呼ばれている。
次の試合では軽傷。
三度目には、火炎魔法そのもの浴びでも肌の色が少し変わる程度だった。
毒も同じだった。
違反物だが、こっそり持ち込んだ闘士が使用した記録があった。
最初は効く。
二度目から、急速に効果が下がる。
完全に無効化するまでの時間は、攻撃によって異なっていた。
だが、共通していることが一つある。
一度目は通用している。
攻撃を受ける前から無効なのではない。
受けたあとに、対応している。
「耐える必要があるのか」
レンは、小さく呟いた。
どれほど強力な攻撃でも、ザグナが生き残れば次は通じない。
反対に、一度で殺せるなら適応は起こらない。
問題は、これまで一度で殺せた者がいないことだった。
倉庫の扉が小さく鳴る。
レンはすぐに振り返らなかった。
足音の間隔と、扉の軋み方から相手を判断する。
「……呼んだか」
ドルグが隙間から顔を覗かせていた。
昨日までの態度は消えている。
周囲に誰もいないことを確認してから、中へ入ってきた。
「公開試合の出場者について聞きたい」
レンは六人の名が記された書類を、ドルグのほうへ滑らせた。
ドルグが表情を強張らせる。
「全員、金級か銀級だ。俺よりずっと強い」
「ザグナに勝てると思うか?」
「無理だ」
即答だった。
「六人同時でも?」
「去年は八人で挑んで、一分持たなかった」
「なら、なぜやる」
「客が喜ぶからだよ」
ドルグは声を潜める。
「闘王が強い奴をまとめて叩き潰す。それを見に、ほかの国からも客が来る。誰も勝てるなんて思ってねぇ」
「出場者は?」
「金が出る。生き残れば、負けても名が売れる」
「死ぬ可能性は?」
「闘士なら、それくらい覚悟してる」
ドルグの答えには、疑問さえ含まれていなかった。
「六人の中で、ザグナへ傷を負わせた者は?」
ドルグが書類を指差す。
「この槍使いだ。ヴァルダ」
「いつだ」
「三年前。闘王になる前のザグナの肩を貫いた」
「その後は?」
「二度戦って、肩の前で槍が止まったよ」
記録と一致する。
「火炎魔法の使い手は?」
「セドだ。ザグナを火だるまにしたことがある。ただ、今じゃ炎の中を平気で歩いてくるって話だ」
「残りの四人は、初めて戦うのか」
「大盾のガレムだけは初めてだ。ほかは一度以上負けてる」
レンは、ガレムの使用武器へ目を落とした。
大盾と戦槌。
未知の攻撃手段は、それだけ。
「隠し武器は認められているか」
「試合前の検査を通ればな」
「毒は?」
「禁止されている。こっそり潜ませるやつもいるが、今回は使わないだろうな」
「なぜ分かる」
「公開試合は闘王を殺すための試合じゃねぇ。見世物だ」
ドルグは当然のように言った。
「客を喜ばせる程度には抵抗して、最後は闘王に負ける。そういう試合なんだよ」
六人が本気で戦わないわけではない。
だが、運営側はザグナが死ぬことを望んでいない。
都市へ人と金を集める、最大の商品だからだ。
「もういい」
レンは書類を閉じた。
「誰にも見られずに出ろ」
「分かった」
ドルグは倉庫の扉へ向かう。
「待て」
その身体が跳ねた。
「な、何だ」
「明後日の試合、お前も来るのか」
「闘士用の観客席にいる」
「なら、見ておけ」
「何を?」
「ザグナが初めて受ける攻撃を」
ドルグは意味が分からない様子だったが、何も尋ねずに頷いた。
「分かった……」
扉が閉じる。
レンは再び、試合記録へ視線を落とした。
初めての攻撃だけは通る。
その記録が事実なのか。
どの程度の傷まで適応できるのか。
意識の外から受けた攻撃にも対応するのか。
確かめるべきことは多い。
二日後。
大闘技場は、朝から地鳴りのような歓声に包まれていた。
大勢の観客席が埋まり、無数の足音が石床を震わせている。
レンは試合場外周の武器棚に立っていた。
目の前には、剣、槍、斧、弓が並べられている。
中央の鉄格子が開いた。
六人の闘士が姿を現す。
観客たちが、それぞれの名を叫んだ。
反対側の門は、まだ閉ざされたままだった。
やがて、重い鐘が一度鳴る。
門が開く。
何の武器も持たない男が、一人で試合場へ入ってきた。
ザグナ。
六人の闘士を見ることなく、ゆっくりと観客席を見渡す。
その顔が、試合場の端に立つレンのほうへ向いた。
周囲には何百人もの職員がいる。
それでも、迷う様子はなかった。
レンはザグナを見返さず、武器棚の留め具へ手を伸ばした。
ザグナの口元が吊り上がる。
――よく見てろ。
声は聞こえなかった。
だが、その唇は確かにそう動いていた。
レンは返事をしなかった。
試合開始を告げる鐘が鳴った。




