弱者を〇す
白い光が消えた。
レンは薄暗い部屋の中に立っていた。
正面には小さな窓。
壁際には寝台と机、それから衣服を入れるための木箱が置かれている。
女神が見せたとおり、大闘技場の職員寮だった。
机の上には、何枚かの書類が並べられていた。
採用通知書。
職員寮の利用許可証。
大闘技場の通行証。
地方の武具商会で帳簿を担当していたという、レン自身にも覚えのない経歴書。
「潰れた商会か」
余計なことを聞かれた場合は、詳しく知らないと答えればいい。
勤め始めて間もなく商会が潰れ、仕事を求めてヴァルガスへ来た。
女神が用意した設定は、それだけだった。
レンは採用通知書を折り畳み、作業着の内側へ入れた。
窓を開ける。
乾いた風とともに、遠くから歓声が流れ込んできた。
職員寮の向こうには、巨大な石造りの建物がそびえている。
中央大闘技場。
朝日を受けた外壁には、いくつもの垂れ幕が下がっていた。
拳を突き上げる、細身の男。
闘王ザグナ。
垂れ幕の下には、大きな文字が記されている。
――強き者に、すべてを。
依頼書で読んだとおりだった。
レンは窓を閉め、部屋を出た。
職員寮から大闘技場までは、歩いて十分ほど。
大通りには、早朝から多くの人間が行き交っていた。
武器を背負った闘士。
負傷者を運ぶ治療師。
観戦券を売る商人。
木剣を振り回す子供たち。
通りの中央では、二人の少年が取っ組み合っていた。
一人が押し倒される。
勝った少年は、倒れた少年の首から飾りを引きちぎった。
「返せよ!」
「欲しけりゃ取り返せ!」
周囲の大人たちは止めなかった。
むしろ、勝った少年へ笑いながら声援を送っている。
レンは足を止めず、その横を通り過ぎた。
やがて、大闘技場の職員用入口が見えてくる。
入口の前には数人の男が集まり、壁へ寄りかかっていた。
いずれも闘士らしく、腰に武器を下げている。
レンが近づくと、そのうちの一人が壁から背を離した。
「おい」
男がレンの進路を塞ぐ。
レンよりも頭一つ背が高い。
分厚い腕と太い首を持ち、左の頬には古い傷が走っていた。
腰には拳をかたどった銅製の札が下がっている。
レンの視線が、一瞬だけその札へ向けられた。
「見ねぇ顔だな」
「えっと…今日から、こちらで働くことになっています」
「聞いてねぇよ」
男の視線が、レンの胸元へ向けられた。
そこには女神から与えられた、木製の職員札が下がっている。
男が鼻で笑った。
「何だ。木札の雑用か」
「あ、あの…通してもらえませんか」
「俺が誰か知ってるか?」
「いえ……」
「銅級闘士のドルグ様だ。今度の覇王祭にも出る」
覇王祭。
依頼書にも記されていた大会の名だった。
「…そうですか」
「反応が薄いな」
ドルグがレンの肩を押した。
「もう一回聞くぞ。俺が誰か分かったか?」
レンはわずかに背中を丸めた。
視線を落とし、喉を狭める。
「あ……す、すみません。今日、街へ来たばかりで……」
先ほどまでとは違う、細く頼りない声だった。
ドルグの口元が吊り上がる。
周囲にいた男たちからも、笑い声が上がった。
「街の決まりを教えてやるよ」
「決まり、ですか?」
「弱ぇ奴は、強ぇ奴に道を譲る。それから――」
ドルグが手を差し出した。
「通りたけりゃ金を払え」
「でも、これは生活費で……」
「知るかよ」
「仕事が始まる前なので、あまり持っていないんです」
「だったら、持ってる分だけ出せ」
レンは腰に下げた革袋を手で押さえた。
「す、すみません…勘弁してもらえませんか…」
「聞こえなかったか?」
ドルグの拳が、レンの頬を捉えた。
拳が触れる寸前、レンはわずかに顔を動かしていた。
だが周囲の者には、殴られて地面へ転がったようにしか見えない。
頬の内側が切れ、口の中に血の味が広がる。
「立てよ」
ドルグがレンの腹を蹴った。
レンは腕を畳み、急所だけを守る。
そのまま身体を丸めた。
「うっ……」
通りを歩く者たちは、誰も足を止めなかった。
職員用入口には衛兵も立っていたが、こちらを一度見ただけで顔を逸らした。
「情けねぇな」
ドルグがレンの腰から革袋を奪う。
中身を確かめると、満足そうに笑った。
「最初から渡せば、殴られずに済んだんだよ」
「返して……ください」
「あ?」
レンの声が、さらに小さくなる。
「それがないと、困るんです……」
ドルグがレンの頭を踏みつけた。
「だったら取り返してみろ」
周囲から笑い声が上がる。
「弱ぇ奴が物を持ってるから、盗られるんだ。悔しかったら強くなれ」
ドルグは革袋を懐へ入れた。
そのまま仲間を連れ、闘技場の中へ入っていく。
レンは地面へ手をつき、ゆっくりと起き上がった。
誰も声をかけてこない。
衛兵も、ドルグを追おうとはしなかった。
レンは口元の血を袖で拭い、職員用入口へ向かう。
「通行証」
衛兵が言った。
レンは木製の札と採用通知書を差し出した。
「あの…今の方を捕まえてくれないのですか…?」
「ドルグか?」
「ああ」
「金を取り返したいなら、自分でやれ」
衛兵は書類を返した。
「ここはそういう街だ」
レンは何も言わず、闘技場へ入った。
用具管理棟は、闘技場の東側にあった。
武器や防具を保管する倉庫と、修理前の備品を置く作業場。
その奥に、帳簿を管理する小さな部屋がある。
部屋へ入ると、白髪交じりの男が机に座っていた。
男はレンの顔を見るなり、眉をひそめる。
「お前が新入りか?」
「あ、はい!レンです。本日から、こちらで働くことになっています」
採用通知書を差し出す。
男は書類とレンの顔を交互に見た。
「来る途中でやられたのか」
「少し、絡まれまして……」
「相手は?」
「ドルグと名乗っていました」
「あいつか」
男は納得したように息を吐いた。
「銅級になってから、ずいぶん偉そうにしてる。新入りや商人から金を巻き上げるのが日課だ」
「捕まらないんですか」
「誰が捕まえる?」
男は書類へ印を押した。
「下級の衛兵より、銅級闘士のほうが強い。下手に手を出して返り討ちにされれば、衛兵の面子が潰れる」
「え、それって法律では、許されているんですか」
「まさか。暴行も強盗も犯罪だ」
男は当然のように答えた。
「だが、罰を与えられる奴がいないなら、法律なんてないのと同じだ」
依頼書に書かれていた内容と一致している。
強者による暴力が、被害者の弱さを理由に見過ごされる。
「お前もこの街で働くなら覚えておけ」
男が一本の鍵を投げて寄越した。
「何かを守りたいなら、強くなれ。強くなれないなら、奪われても騒ぐな」
レンは鍵を受け取った。
「……分かりました」
「俺は用具管理長のバルドだ。まず倉庫の在庫を数えろ。槍、剣、防具の順だ。帳簿と数が合わなければ、昼までに報告しろ」
「はい」
「それと、闘士に文句を言われたら逆らうな。壊れた武器を渡した覚えがなくても謝れ」
「前の人のようになるからですか」
バルドの手が止まった。
「よく知ってるな」
「…聞きました」
「なら話が早い」
バルドはそれ以上、何も言わなかった。
レンは倉庫へ向かった。
壁一面に、剣や槍が並べられている。
武器の多くには刃こぼれやひびがあった。
試合で破損したものだけではない。
手入れされないまま放置されているものも多い。
レンは帳簿を開き、一つずつ在庫を確認していった。
倉庫には、闘士や職員が頻繁に出入りした。
誰がどの入口を使うのか。
職員札の色によって、どこまで入れるのか。
武器がどの試合場へ運ばれるのか。
レンは仕事を進めながら、目にしたものを記憶していく。
昼を過ぎた頃、ドルグが倉庫の前を通った。
朝に奪った革袋を腰へ下げたままだった。
レンと目が合う。
ドルグは笑いながら、拳を軽く持ち上げた。
レンは怯えたように視線を伏せる。
「それでいい」
満足そうに言い残し、ドルグは東側の訓練場へ向かっていった。
レンは帳簿へ視線を戻した。
だがその耳は、周囲の闘士たちの会話を拾っている。
ドルグは毎日、日が沈むまで訓練する。
そのあと、仲間と酒場へ寄る。
職員寮とは反対側にある、安宿へ一人で帰る。
銅級闘士。
覇王祭への出場経験あり。
大闘技場にも日常的に出入りしている。
この街について尋ねる相手としては、悪くない。
日が沈む頃、最初の仕事が終わった。
レンは職員寮へ戻らず、大闘技場の外へ出た。
表通りを避け、建物の間にある細い道を進む。
少し先を、ドルグが一人で歩いていた。
仲間たちと別れたあとらしく、足取りは酒でわずかにふらついている。
ドルグが人通りの少ない路地へ入った。
レンも足音を立てず、そのあとを追った。
路地の先は行き止まりだった。
ドルグは壁際に立ち、酒瓶の残りを口へ流し込んでいる。
その背後へ、レンが近づいた。
革紐を首へ回し、後方へ引く。
「がっ――」
同時に膝裏を蹴る。
ドルグの身体が崩れた。
レンはその背中へ膝を押し当て、右腕を背中側へねじり上げる。
「動くな」
朝までの弱々しい声は消えていた。
「質問に答えろ」
「て、てめぇ……!」
ドルグが全身へ力を込める。
太い腕が、レンの拘束を無理やり振りほどいた。
身体をひねり、背後へ肘を振るう。
レンは革紐から手を離し、後方へ下がった。
ドルグが立ち上がる。
レンの顔を確認した瞬間、その目が見開かれた。
「朝の木札……?」
レンは答えなかった。
ドルグの顔へ怒りが浮かぶ。
「てめぇ、殺す!」
ドルグが拳を振り上げ、正面から踏み込んできた。
朝と同じ拳だった。
レンは身体をわずかに傾け、それを避ける。
すれ違いざま、ドルグの脇腹へ肘を打ち込んだ。
息が止まる。
ドルグが振り向くより先に、右膝の側面を蹴った。
体勢が崩れたところへ、顎を掌底で打ち上げる。
ドルグの身体が仰け反った。
それでも踏みとどまり、腰の短剣を抜く。
横薙ぎに振るわれた刃を、レンは半歩下がって避けた。
次の突きを手首ごと外へ流す。
肘をつかみ、関節を反対側へ曲げた。
短剣が落ちる。
レンはそれを拾い上げることなく、ドルグの腹へ拳を打ち込んだ。
一度。
二度。
三度。
ドルグが膝をつく。
レンはその顔面を蹴り、石壁へ叩きつけた。
ドルグの巨体が地面へ崩れ落ちる。
朝の一方的な光景とは、正反対だった。
ドルグは咳き込みながら、顔を上げた。
「な、何で……」
「立て」
「何……?」
「立てと言った」
ドルグの顔が怒りに歪む。
壁へ手をつき、再び立ち上がった。
雄叫びを上げ、レンへ掴みかかる。
レンは腕をかいくぐり、喉へ指先を打ち込んだ。
ドルグの声が消える。
腹へ膝を入れ、後頭部をつかむ。
そのまま顔面を再度石壁へ叩きつけた。
一度で、鼻から血が噴き出した。
レンが手を離す。
ドルグは再び地面へ倒れた。
「立て」
今度は、すぐに動かなかった。
「聞こえなかったか」
「ま、待て……」
「朝は俺に同じことを言っただろ」
レンがドルグの腹を蹴る。
身体が地面の上を転がった。
「立て」
ドルグは震える腕で地面を押し、どうにか上半身を起こした。
だが、立ち上がろうとはしなかった。
「もう……やめろ」
レンはドルグの前へしゃがんだ。
「俺はお前と勝負をしに来たんじゃない」
ドルグの右手をつかむ。
人差し指を、一本だけ立たせた。
「情報を聞きに来た」
「は……?」
「質問に答えろ」
「誰が、てめぇなんかに――」
レンは人差し指を逆方向へ折った。
短い音が響く。
数秒遅れて、ドルグの絶叫が路地に上がった。
レンは空いた手でドルグの口を塞ぐ。
「静かにしろ」
ドルグの目から、怒りが消えていた。
代わりに浮かんだのは、困惑と恐怖だった。
「次に声を上げたら、もう一本だ」
レンが手を離す。
ドルグは荒い呼吸を繰り返しながら、何度も頷いた。
「ザグナは普段、どこにいる」
「と、闘技場の北棟だ……王者専用の区画がある……」
「誰でも入れるのか」
「入れない。銀級以上の闘士か、許可を持った職員だけだ」
「ザグナと戦うには?」
「公式戦で勝ち上がるか、直接挑むしかない……」
「直接挑めば戦うのか」
「闘王の気分次第だ。弱いと判断されたら、相手にもされない」
「暗殺を仕掛けた者は」
ドルグが一瞬、口を閉ざした。
レンの指が、その中指へ触れる。
「待て!」
ドルグが声を上げ、すぐに自分の口を押さえた。
「全員殺された! 有名な話だ! 闘王に殺意を向ければ、どこに隠れていても見つかるって!」
「誰から聞いた」
「闘士なら誰でも知ってる! 遠くから矢を射った奴も、毒を盛った奴も、次の日には死体になってた!」
依頼書の内容と一致している。
「覇王祭はいつだ」
「予選は二週間後。参加受付は五日後からだ」
「闘王も出るのか」
「決勝だけだ。最後まで勝ち残った奴が、闘王に挑む」
「近いうちに、ザグナを見られる機会はあるか」
「三日後……」
「何がある」
「覇王祭前の公開試合だ。去年の本戦出場者を集めて、闘王と戦わせる」
「職員も入れるのか」
「用具係なら、試合場の外までは入れる」
レンは質問を止めた。
ドルグの呼吸だけが、路地に響いている。
「知っていることは、それだけか」
「ああ……全部話した」
「嘘は?」
「ついてない。本当だ」
レンは折れた指から手を離した。
ドルグが安堵したように息を吐く。
その顔に、わずかな憎しみが戻った。
「覚えてろよ」
レンがドルグを見る。
「何?」
「今日は一人だったからだ。仲間を連れてくれば、てめぇなんか――」
レンはドルグの胸ぐらをつかみ、立ち上がらせた。
そのまま石壁へ叩きつける。
後頭部が壁へぶつかった。
ドルグの身体から力が抜ける。
それでもレンは手を離さなかった。
腹へ拳を打ち込む。
ドルグが胃の中のものを吐き出した。
「や、やめ……」
もう一度。
「やめて、くれ……」
さらにもう一度。
「すみません……!」
レンの手が止まった。
ドルグは地面へ崩れ、腹を抱えてうずくまった。
「今の言葉を、もう一度言え」
「すみません……」
「何がだ」
「もう、逆らいません……」
「顔を上げろ」
ドルグが顔を上げる。
鼻から血を流し、目には涙が浮かんでいた。
そこに、朝までの自信は残っていなかった。
「明日から、俺を見かけたらどうする」
「何も……しません」
「違う」
レンは淡々と言った。
「今日までと同じように振る舞え。俺を弱い雑用係だと思って、笑っていろ」
ドルグが怯えたようにレンを見る。
「で、でも……」
レンが折れた指へ触れた。
「分かりました!」
ドルグが身体を震わせる。
「今までどおりにします! 誰にも言いません!」
「俺が呼んだら来い」
「はい」
「聞いたことに答えろ」
「はい……」
「俺のことを誰かに話せば、次は殺す」
ドルグは何度も頷いた。
「言いません。絶対に言いません……」
それは脅しに屈しただけの声ではなかった。
もう一度逆らえば、次に何をされるか分からない。
その恐怖が、ドルグの中へ染みついていた。
レンはドルグの腰から革袋を外した。
中を確認する。
朝に奪われた硬貨は残っている。
レンは革袋を自分の腰へ戻した。
「その怪我は、酒場で喧嘩したことにしろ」
「分かりました……」
「立て」
ドルグの身体が反射的に跳ねた。
壁へ手をつき、ふらつきながら立ち上がる。
先ほどまで何度言っても立たなかった男が、今度は一度で従った。
「行け」
ドルグはレンへ背中を向けた。
数歩進んだところで、振り返りそうになる。
だが結局、こちらを見ることなく路地から逃げていった。
レンは作業着についた埃を払った。
正面から戦っても、ドルグには勝てた可能性は高い。
それでも、人前では戦わなかった。
ただ倒すだけでは、何も得られない。
弱者を演じ、警戒を解かせる。
一人になるまで待ち、情報を吐かせる。
そして、今後も使える情報源として残す。
レンが欲しいのは、目の前の勝利ではない。
目的を果たすためならば、勝ち方に意味はなかった。




