闘王を〇す
レンが次の世界に消えた、その直後だった。
「ちょっと待ったぁ〜!」
薄れゆく意識から、間の抜けた声が飛んできた。
足元に地面の感触が生まれる寸前、視界が再び白く染まる。
身体を後ろへ引かれるような感覚があり、次に靴底が触れたのは、境目のない白い床だった。
振り返る。
女神が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「……何だ」
「やばいやばい。私、ちょっとぼーっとしてた」
「神がぼーっとするな」
「レンくん、ちゃんと依頼書を読んでから向かって」
レンは手に持ったままの白い紙へ視線を落とした。
「今さらだろ。現地へ送ってから依頼書を寄越したこともあった」
「違うんだよぉ。今回は本当に危ないの。対象そのものもそうだけど、どこへ、どんな立場で送るかも考えたほうがいい」
「一体、何なんだ」
「だから、それを読んで」
レンは依頼書を開いた。
白い紙の上へ、淡い光を帯びた文字が浮かび上がる。
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【対象調査依頼書】
名称:ザグナ
通称:闘王
年齢:推定二十代半ば
異世界種別:転生
現在地:闘技都市ヴァルガス
対象は、闘技都市ヴァルガスの中央大闘技場に君臨する闘士。
対象に関する最古の記録は、十四年前。
当時十歳前後と思われる対象が、ヴァルガス近郊で保護されている。
それ以前の出生地、家系および生活歴に関する記録は存在しない。
保護された時点で現地語を理解しており、自身をザグナと名乗った。
十五歳で中央大闘技場の公式戦へ参加。
以降、公式戦百四十三戦、全勝。
うち、対戦相手の死亡が八十一名。
三年前、当時の闘王を殺害し、現王者となる。
現在は、年に一度開催される武闘大会『覇王祭』の最終勝者と対戦している。
これまでに三度、防衛。
挑戦者は全員死亡。
対象は、武器を使用せず、主に徒手で戦う。
一撃で大型魔獣の頭蓋を粉砕。
厚さ一メートルを超える石壁を破壊。
十三名の上級闘士を相手とした集団戦では、開始から三十六秒で全員を戦闘不能にしている。
また、対象は戦闘中、相手の攻撃へ急速に適応する。
過去の記録では、一度目に命中した攻撃が、二度目以降は防御される傾向が極めて強い。
斬撃、打撃、魔法、毒物を問わず、同一の手段を繰り返すほど効果が低下する。
異世界由来の固有能力である可能性あり。
暫定名称――《闘争適応》。
対象に対する暗殺は、確認されているだけで七件。
毒殺、睡眠中の襲撃、遠距離からの狙撃、建造物の倒壊を利用した攻撃は、すべて失敗。
実行者は全員死亡している。
対象は自身へ向けられた敵意、殺意に対し、異常なまでに鋭敏である。
異世界由来の知識、技術および道具を使用した形跡は確認されていない。
対象出現以前、闘技は一部地域における娯楽および軍人、傭兵の実力を示す手段にすぎなかった。
対象が闘王となって以降、状況は変化。
対象の掲げる、強者がすべてを手にし、弱者は強者に従うべきという思想が、闘技都市を中心に拡大している。
現在、一部の商会および職人組合では、役職や報酬を決闘の結果によって決定。
市民間の揉め事においても、腕力または決闘の勝者を優先する風潮が発生している。
高位闘士による暴行、略奪行為が、被害者側の弱さを理由に不問とされた事例を複数確認。
同様の思想は周辺都市および近隣諸国にも広がりつつある。
対象本人が政治へ介入した記録はない。
対象が他者へ求めるものは、より強い対戦相手のみ。
対象は異世界由来の知識ではなく、その能力と思想によって世界へ継続的な影響を与えている可能性が高い。
対象が異世界人であることを確認した場合、殺害。
推定危険度――A
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レンは最後まで読み、依頼書の中ほどへ視線を戻した。
「十歳以前の記録がないだけか」
「うん。ザグナ本人は、昔のことをほとんど話さないみたい」
「記憶がないと言っているのか」
「それすら分からない。聞かれても答えないんだって」
「異世界の知識を使った形跡もない」
「何もないね。料理も、道具も、制度も、新しく持ち込んだものは一つも確認されてない」
女神が指を振る。
依頼書の横へ、半透明の映像が浮かび上がった。
映し出されたのは、石造りの闘技場だった。
その中央に、一人の男が立っている。
背丈は、周囲の闘士たちと大きく変わらない。
鍛えられてはいるが、身体は細い。腕も胴も無駄なく引き締まり、鎧を着込んだ闘士たちの間に立てば、むしろ華奢にさえ見えた。
「これがザグナか」
「うん。見た目だけなら、もっと強そうな人はいくらでもいるんだけどね」
映像の中で、ザグナと向かい合っているのは、頭一つ大きな男だった。
両手で巨大な斧を構え、全身を鉄の鎧で覆っている。
開始の合図と同時に、大男が斧を振り下ろした。
石造りの床が砕ける。
ザグナは半歩だけ横へ動き、斧を避けていた。
大男が斧を持ち上げる。
その前に、ザグナの拳が鎧の腹部へ触れた。
大きな音はしなかった。
だが次の瞬間、鉄の鎧が内側へとへこみ、大男の身体が地面から浮いた。
背中から倒れた男は、そのまま動かなくなった。
「一撃か」
「この試合の相手、当時の上級闘士だよ」
映像の中で、ザグナは倒れた男を見下ろしていた。
勝利を喜んでいる様子はない。
期待を裏切られたように、つまらなそうな顔をしている。
やがて観客席へ振り返ると、大きく両腕を広げた。
『次は誰だぁ!』
映像から、荒々しい声が響いた。
『金が欲しい奴! 地位が欲しい奴! 俺を殺してぇ奴! 誰でもいい!』
観客席から歓声が上がる。
『欲しけりゃ、力ずくで奪ってみろ! 勝った奴が、全部持っていきゃいいんだよ!』
映像が止まった。
「この発言だけなら、闘士の煽り文句にも聞こえる」
「最初は、みんなもそう思ってたみたい」
女神が別の映像を浮かべる。
商会の前で、二人の男が殴り合っている。
片方が倒れると、周囲にいた者たちは勝者へ帳簿と鍵を渡した。
次の映像では、若い男が路地裏で老人から荷物を奪っている。
近くに衛兵がいるにもかかわらず、止めようとはしない。
『守れないなら、持つ資格がない』
奪った男がそう言うと、周囲から笑い声が上がった。
さらに映像が切り替わる。
広場に集められた子供たちが、木剣を持って向かい合っていた。
教師らしき男が、倒れた子供へ叫んでいる。
『泣くな! 弱いお前が悪い!』
「ザグナが命令したのか」
「ううん」
女神が映像を消した。
「法律を作ったわけでもないし、誰かに従えと言ったわけでもない。ただ勝ち続けて、同じことを言い続けただけ」
「強い者が正しい、と」
「うん。ザグナは闘技都市で一番人気がある。子供も、大人も、貴族も、みんなあの男の言葉を聞いてる、ある種のカリスマってやつね」
女神は少しだけ声を落とした。
「最初は闘技場の中だけだった。でも今は、街の外でも、同じ考え方をする人が増えてる」
「国は止めないのか」
「ザグナの人気を利用してるんだよ。闘技場には人もお金も集まる。それに、強い兵士が増えるのは悪いことじゃないって考えてる人も多い」
「都合の悪い部分は見ないふりか」
「いつものことだね」
レンは依頼書を閉じなかった。
「本人は、世界を変えようとしているのか」
「たぶん、そんなこと考えてないよ」
女神は即答した。
「ザグナが欲しがってるのは、自分と戦える相手だけ。政治にも、お金にも、名誉にも、ほとんど興味がない」
「それでも周囲が勝手に変わる」
「うん。本人が何かを広めるつもりじゃなくても、影響は残るから」
レンは、再びザグナの能力へ目を通した。
「同じ攻撃は通用しなくなるのか」
「正確には分からないけどね。一度受けた攻撃へ、ものすごい速さで対応してるのは確か」
「傷は治るのか」
「治癒能力は確認されてないよ。攻撃を受ければ、普通に傷つく。ただ、同じ方法では二度目がない」
「毒は?」
「一度目は日苦しんだ。二度目に同じ毒を盛られたときは、何も起きなかった」
「別の毒なら」
「効く可能性はある。でも殺しきれなかったら、その毒も次からは通じなくなると思う」
「眠っている間の襲撃は」
「三人で寝室へ入って、武器を抜く前に全員殺された」
「起きていたのか」
「寝てたはずなんだけどね」
女神が苦笑する。
「殺意に反応して目を覚ましたんじゃないかって言われてる」
「暗殺は難しいか」
「難しいで済めばいいんだけど」
女神は依頼書に記された七件の暗殺記録を指差した。
「毒を盛った料理人も、遠くから矢を射た狙撃手も、建物を崩した魔法使いも、全員その日のうちに見つけ出されて殺されてる」
「報復はするのか」
「戦いを挑まれたと思ってるみたい。本人はすごく楽しそうだったって」
「戦えれば、方法は問わない」
「たぶんね」
レンは依頼書を閉じた。
「現地を見なければ分からないな」
「どうやって殺すか、決まった?」
「まだ決めない」
女神が意外そうに瞬きをした。
「依頼書に覇王祭のことも書いてあるよ。大会へ出れば、勝ち残った先でザグナと戦えるけど」
「記録通りならな」
「疑ってるの?」
「確認するために行くんだろ」
「まあ、そうだけど……」
「街の状況も、対象の能力も、外から集めた記録にすぎない。実際に見てから方法を決める」
女神は少しだけ頬を膨らませた。
「最近、依頼書への信用が低くない?」
「信用しているから読んでいる」
「じゃあ信じてよ」
「間違っていないか確認することと、信用しないことは違う」
「理屈っぽくなったねぇ」
「お前が間違えるからだ」
女神が目を逸らした。
「さて、どこへ送ろうかなぁ」
露骨に話を変えながら、女神が手を叩く。
二人の間に、都市の地図が浮かび上がった。
中央には巨大な円形の闘技場。
その周囲を、商業区、居住区、職人区が取り囲んでいる。
「身分はどうする? 闘士として登録しておけば、闘技場には入りやすいよ」
「却下だ」
「即答だ」
「大会へ出るとは決めていない」
「じゃあ、旅人?」
「長く滞在すれば不自然になる」
「行商人の護衛」
「目立つ」
「料理n」
「断る」
「最後まで言わせてよ」
女神は不満そうに唇を尖らせた。
「前の世界であれだけ料理してたんだから、もう特技ってことにしてもいいと思うけどなぁ」
「料理をするために行くんじゃない」
「分かってるよぉ」
女神が地図を指でなぞる。
闘技場に隣接する細長い建物が、淡い光を放った。
「それなら、大闘技場の用具管理棟はどう?」
「用具管理?」
「試合で使う武器や防具の在庫確認。壊れた備品の回収と、修理工房への受け渡し。闘技場の設備に異常がないか記録する仕事だね」
「闘技場の職員か」
「臨時の記録係が一人辞めたばかりで、ちょうど募集してる」
「辞めた理由は」
「試合に負けた闘士が、武器の手入れが悪かったって怒って、腕を折ったから」
「職員に責任はなかったのか」
「なかったみたい」
「加害者は?」
「お咎めなし。用具係より闘士のほうが強かったから、仕方ないって」
女神は肩をすくめた。
「少し前なら、普通に捕まってたらしいけどね」
レンは光っている建物を見る。
闘技場へ出入りできる。
試合の記録を確認できる。
対象へ近づく機会もある。
大会へ参加せずとも、現地の闘士や職員から話を聞ける。
「それにしろ」
「やっぱり近くから見るんだ」
「遠くから見て分かる相手じゃない」
「用具の知識は?」
「帳簿と在庫の確認ならできる。武器も一通り扱ったことがある」
「一通り、ねぇ」
女神の指が、地図の上を軽く叩いた。
「名前はレンのまま。地方の武具商会で帳簿を担当していたけど、商会が潰れて仕事を探しに来たことにしておくね」
「確認されないのか」
「潰れた商会なら、確認しようがないでしょ?」
「雑だな」
「細かく作り込みすぎると、逆にどこかで矛盾するんだよ」
「住む場所は?」
「職員寮の空き部屋。明日の朝から勤務開始って記録を入れておく。採用書類と通行証は、部屋に置いておくよ」
「転送場所もそこか」
「うん。今は誰も使ってないから、突然現れても見つからない」
女神が指を鳴らす。
レンの服装が、黒を基調としたものから、灰色の簡素な作業着へと変わった。
腰には革製の小さな道具入れ。
胸元には、闘技場職員であることを示す木製の札が下がっている。
レンは袖を軽く引いた。
「動きにくくはないな」
「でしょ? 今回はちゃんと考えたんだから」
「最初から考えろ」
「褒めてくれてもいいじゃん」
都市の地図が、光の粒となって消えていく。
代わりに、白い扉が再び現れた。
女神は扉へ手をかける。
「最後に確認ね」
レンが顔を上げた。
「ザグナが本当に異世界人なのかを調べる。それから、ザグナが与えている影響と、殺害後に何が残るのかを確認する」
「ああ」
「対象がただ強いだけの現地人だった場合、殺害する必要はないからね」
「分かっている」
女神は扉を開いた。
その向こう側は薄暗い。
小さな窓と、簡素な寝台だけが置かれた部屋が見える。
大闘技場の職員寮。
転送先として用意された、レンの部屋だった。
「今回は、すぐに殺しに行かないんだね」
「方法が決まっていない」
「大会へ出る可能性は?」
「現地を見てからだ」
「そっか」
女神は少しだけ笑った。
「それじゃあ今度こそ、行ってらっしゃい。レンくん」
レンは依頼書を懐へ入れる。
「次は止めるなよ」
「もう大丈夫。今度はちゃんと依頼書も読ませたし、身分も決めたからね」
「止めた原因はお前だろ」
「細かいことは気にしない」
「反省しろ」
レンは白い床を蹴った。
扉の向こうへ、片足を踏み出す。
闘王を殺す方法は、まだ決まっていない。
それを決めるのは、対象と――対象によって変わりつつある世界を、自分の目で確かめてからだった。
白い光がレンの身体を包む。
次の瞬間、その姿は白い世界から消えた。




