エピローグ 帰る場所
「おかえり〜、レンくん!」
目を開けると、白い部屋だった。
壁も床も天井も、すべてが白い。
その中央で、女神がいつもの笑顔を浮かべている。
「今回は長かったねえ。途中で住み着いちゃったのかと思ったよ」
「住み着いてはいない」
「三か月も同じ店にいたんでしょ?」
「必要だった」
「ふぅん」
女神は軽く手を振った。
「まあ、とりあえずお疲れさま。無事に帰ってきてくれて、お姉さんも安心しました」
「そうか」
「うんうん。じゃあ――」
女神の手が止まる。
「で、どういうこと?」
声の調子は変わっていなかった。
笑顔も、そのままだった。
それなのに、白い部屋から音が消えた。
「何の話だ」
「佐伯宗一郎」
女神が指を動かす。
何もなかった空間へ、白い文字が浮かび上がった。
『対象、帰還用と推定される扉を通過』
『直後、《異界厨房》および任務世界との接続口が消滅』
『以上をもって処分完了と判断する』
レンが提出した報告だった。
「報告内容は見たよ」
女神は笑っている。
だが、その目には何も浮かんでいなかった。
「その扉が、本当に佐伯宗一郎の元いた世界へ繋がっていたって、どうして分かるの?」
レンは答えない。
「あれが、ただの転移装置だったら?」
女神が一歩近づく。
「同じ世界の別の大陸。あるいは、まったく別の異世界。そこへ移動しただけなら?」
「可能性はある」
「そこで、また《異界厨房》を開いたら?」
「それも否定できない」
「責任、取れる?」
「取れない」
女神の眉が、わずかに動いた。
「なら、殺すべきだった」
「佐伯を殺しても、《異界厨房》が閉じる保証はなかった」
「それでも、佐伯宗一郎という人間だけは確実に消せた」
「ああ」
「確実に対象を処分する。それが一番大事だよね?」
「ああ」
「分かっていて、殺さなかった」
「そうだ」
女神の笑みが深くなる。
「フィーネちゃんに止められたから?」
「違う」
「佐伯くんの料理がおいしかったから?」
「関係ない」
「じゃあ、どうして?」
「俺が決めた」
レンの声は変わらない。
「佐伯が任務世界から消えた。《異界厨房》も消え、新しい食材の流入は止まった。俺は、確認した結果を優先した」
「その判断が間違っていたら?」
「そのとき殺す」
「任務の内容を決めるのは私だよ?」
「任務を果たす方法は、俺が決める」
白い部屋へ沈黙が落ちる。
女神はレンを見ていた。
笑顔の奥まで見返しても、何を考えているのかは分からない。
やがて、女神が小さく息を吐いた。
「入口が消えたのは事実。佐伯宗一郎が、あの世界からいなくなったことも確認できてる」
浮かんでいた報告の文字が消える。
「今回は、任務完了として扱うよ」
「そうか」
「でも、結果を認めただけ。君の判断まで認めたわけじゃないからね」
女神は笑った。
「ふーん、まぁいいや。でも、これっきりにしてね」
声は優しい。
それでも、目だけは笑っていなかった。
レンは答えない。
しばらく、二人は黙って向かい合っていた。
やがて女神が、ぱん、と両手を叩く。
「はい! この話はおしまい!」
白い部屋を満たしていた圧が、一瞬で消えた。
女神がレンの前へ身を乗り出す。
「それよりレンくん、料理できるようになったんでしょ! 食材は何でも用意するから、作ってよ!」
「いやだ」
「即答!?」
「お前に作る理由がない」
「私がお客さんになるよ!」
「ここは店じゃない」
「厨房なら用意できるよ?」
「料理は店で作る」
女神が目を丸くする。
「本当に料理人みたいなこと言うね」
「料理人だからな」
今度は迷わず答えた。
女神は何かを言いかけ、やめた。
「そっか」
そのときだけ、女神の目も笑った。
「じゃあ、佐伯くんに作った料理は何て名前なの?」
「名前はない」
「決めなかったの?」
「俺の担当じゃない」
「誰の担当?」
レンの脳裏に、潮迎え祭の屋台へ掲げられた板が浮かんだ。
《潮魚の揚げ包み》。
大げさな名前だと言ったレンへ、フィーネは胸を張って答えた。
『名前は私の担当です』
「フィーネだ」
「ふぅん」
女神が楽しそうに笑う。
「じゃあ、次に帰ってきたときに教えてね」
「覚えていたらな」
白い壁の一部に、扉が現れた。
次の世界へ続く扉。
「もう行くの?」
「そのために戻ってきた」
「相変わらず働き者だねえ」
レンは扉の前へ立った。
これまでは、扉の先へ行くだけだった。
今は、戻る場所を一つ残してきた。
『行ってらっしゃい、レンさん』
フィーネの声を思い出す。
「行ってらっしゃい、レンくん」
女神の声が重なった。
レンは踏み出す。
「行ってくる」
白い光の中へ踏み出す。
1歩踏み出したあとも、その言葉だけがしばらく白い部屋へ残っていた。
◇
《渡り鳥亭》の昼は、今日も騒がしかった。
「二番卓、魚の焼き物を二つ追加です!」
「三番卓のお客様がお会計です!」
「店主、北の村から黄色根が届きました!」
「帳簿へ数を書いておいてください! 傷んでいるものは先に分けますっ!」
フィーネは食堂と厨房の間を行き来していた。
注文を受ける。
料理を運ぶ。
仕入れた食材を確認する。
合間に帳簿へ目を通し、料理人へ指示を出す。
腰では、佐伯から受け取った鍵束が揺れていた。
「店主、煮込みを見てもらえますか!」
若い料理人が鍋の蓋を開ける。
赤実を使った濃い色の煮汁。
その中で、猪の肉と黄色根が柔らかく煮えていた。
立ち上る湯気に、玉葱と肉の香りが混じっている。
フィーネは小皿へ煮汁を取り、味を見る。
赤実は、前に使ったものより甘い。
猪の肉は脂が少なく、煮汁にも重さが足りなかった。
「猪の出汁をお願いします」
料理人から器を受け取り、フィーネは自分で鍋へ加えた。
木匙でゆっくりと混ぜる。
もう一度、味を見る。
まだ赤実の甘さが少し強い。
細かく刻んだ苦葉を指先で取り、鍋へ散らした。
「塩は入れないんですか?」
「まだです。足りないからといって、すぐ塩へ逃げてはいけませんっ」
弱い火で、もう少しだけ煮込む。
肉の出汁が赤実の甘みと馴染み、苦葉の香りが後味を引き締めた。
フィーネは三度目の味見をする。
今度は何も加えなかった。
「これで出します」
深い皿へ、猪の肉と黄色根を盛る。
赤い煮汁をかけ、最後に細く刻んだ苦葉を少量だけ散らした。
二皿。
大きさも、煮汁の量も揃っている。
それでも、秤は使っていない。
フィーネは料理を盆へ載せた。
厨房の棚には、洗って畳まれた前掛けが一枚置かれている。
長期休暇中の料理人が、いつ戻ってきても使えるように。
(レンさん)
心の中で呼びかける。
(帰ってきたとき、味が違うなんて言わせませんからね)
返事はない。
フィーネは小さく笑った。
(それと――名前は、私の担当ですっ)
盆を持ち上げ、客の待つ卓へ向かう。
いつかレンが戻ってきたら、勝手な名前をつけるなと文句を言うだろう。
そのときは、もっと売れそうな名前を自分で考えなかった方が悪いと言い返せばいい。
フィーネは二つの皿を卓へ置いた。
「お待たせしました。《旅人のための煮込み》ですっ」




