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翌朝。
空が白み始めるより前に、《渡り鳥亭》の厨房へ火が入った。
作業台には、食材が並んでいる。
猪の肩肉。
黄色根。
赤実。
玉葱。
苦葉。
乳と、猪の骨から取った出汁。
《異界厨房》から持ち出したものは一つもない。
すべて、この世界で育ち、この街へ運ばれてきた食材だった。
佐伯が作業台の向こうから覗き込む。
「決めたのか」
「ああ」
「何を作る」
「出来てから言う」
「昨日は自分から聞いてきたくせに、生意気になったな」
レンは答えず、猪肉へ触れた。
指で押す。
脂は少ない。
筋が太く、焼くだけでは硬さが残る。
同じ部位でも、昨日使った肉とは違う。
『同じ量を使った』
『今日の魚は小さいでしょう?』
『骨の数は同じだ』
『大きさが違いますっ』
あのころは、同じ数だけ使えば、同じ味になると思っていた。
骨一本分の味が違うと言われても、理解できなかった。
今なら分かる。
同じ食材など、一つもない。
育った場所。
食べた餌。
収穫された時期。
運ばれてきた時間。
一つ違えば、水分も脂も味も変わる。
レンは猪肉の塊を二つに分けた。
形の整った部分は、大きめに切る。
筋と脂の多い端は細かく刻んだ。
次に、黄色根を手に取る。
一つは柔らかく茹でるため、大きさを揃えて切る。
もう一つは、小さな角切りにした。
『用途が違うのに、全部同じ形へ切ったところです』
煮込み用と揚げ物用を、同じ厚さへ切っていた。
大きさを揃えることだけが正解だと思っていた。
今は違う。
柔らかく潰すもの。
表面を焼き、歯触りを残すもの。
同じ黄色根でも、役割によって形を変える。
「ずいぶん迷いがなくなったな」
佐伯が言う。
「手を出すなよ」
「出さねえよ。これはお前の料理だ」
佐伯は厨房を出て、食堂の卓へ座った。
入れ替わるように、フィーネが入ってくる。
髪はまだ完全に整っていない。
急いで部屋を出てきたらしい。
「もう始めていたんですか?」
「ああ」
フィーネが袖を捲る。
「何をすればいいです?」
「何もしなくていい」
「ほぁ~。私の助けがなくても作れると?」
「俺の料理だからな」
「昨日まで、私がいなければ黄色根の皮を剥く量すら間違えていた人が、偉くなりましたねぇ」
「昨日ではない」
「似たようなものですっ」
そう言いながらも、フィーネは包丁へ手を伸ばさなかった。
作業台から少し離れた場所へ立つ。
「では、見ています」
「監視か」
「味見役ですっ」
「味見もするな」
「何のために起きてきたんでしょうねぇ」
レンは厚い鍋を火へかけた。
油を引く。
鍋が十分に温まったところへ、猪肉を置いた。
高い音が鳴る。
肉の表面から水分が出て、鍋底へ張りついた。
レンは動かさない。
『まだです』
『皮が鍋へついています。無理に動かすと剥がれます』
『いつ返す』
『自然に離れるまでです』
魚を焼いた日の声だった。
あのときは、言われるまで待つことができなかった。
今は、肉の縁を見る。
色。
音。
立ち上がる煙。
脂の匂い。
鍋を軽く揺らす。
猪肉が、鍋底から自然に離れた。
返す。
焼けた面には、濃い褐色の焼き目がついている。
フィーネが何も言わず、わずかに頷いた。
すべての面を焼き、肉を一度取り出す。
同じ鍋へ、細かく刻んだ猪肉を入れた。
脂を出す。
薄く切った玉葱を加える。
最初は白かった玉葱が、透き通る。
さらに火を弱くする。
焦がさないよう、木匙で鍋底をこする。
肉の焼けた跡が出汁へ溶け、玉葱へ色が移っていく。
刺激の強い香りが、少しずつ甘く変わった。
熟した赤実を潰し、鍋へ加える。
赤い汁が広がる。
肉を戻す。
猪の骨から取った出汁を、肉が半分浸るまで注いだ。
蓋をする。
「量らないんですか?」
フィーネが尋ねる。
「必要ない」
「以前は、一滴違っても気にしていましたよね」
『同じ値段で売るなら、同じ量にする』
『二百個ありますよ』
『なら、二百回量る』
『祭りが終わります』
レンは鍋から立つ湯気を見る。
『料理人の目は秤ですっ』
今でも、目盛りのついた器の方が正確だと思っている。
だが、鍋の中に同じ食材はない。
水分の多い赤実。
脂の少ない肉。
今日の食材に、昨日と同じ数字を当てはめても同じ味にはならない。
必要な量は、食材を見て決める。
鍋を弱い火へかけたまま、黄色根を茹でる。
柔らかくなったものへ、温めた乳と油を加えた。
木匙で潰す。
最初は粒が残る。
さらに練る。
白っぽい黄色根が滑らかになり、穀物に似た甘い香りが立った。
角切りにした黄色根は、別の鍋で焼く。
外側だけを香ばしくし、中には少し硬さを残した。
時間が過ぎる。
猪肉を煮込んだ鍋から、蓋を外す。
湯気とともに、肉と赤実の匂いが広がった。
レンは肉へ細い串を刺す。
抵抗はある。
だが、硬くはない。
これ以上煮れば、形が崩れる。
肉だけを取り出す。
残った汁を強い火で煮詰めた。
木匙ですくう。
味を見る。
赤実の酸味。
猪肉の脂。
玉葱の甘み。
まだ、酸味が強い。
レンの手が塩へ伸びかける。
『そうやって、すぐ塩へ逃げないでくださいっ』
手を止めた。
塩を増やしても、酸味は消えない。
味が濃くなるだけだ。
レンは炒めた玉葱を少量加えた。
黄色根を潰したものも、木匙の先へわずかに取る。
ソースへ溶かす。
再び味を見る。
酸味の角が取れた。
肉の脂と玉葱の甘みが、赤実を一つの味へまとめている。
最後に、細かく刻んだ苦葉を加えた。
「入れるんですね」
フィーネが言う。
「佐伯は食う」
「私の分には?」
「作ってない」
「一口くらい残してくださいよぉ」
「これは佐伯の料理だ」
二百人へ売る料理を作ったときは、全員へ同じものを出す難しさを知った。
今日は、一人だけのために作る。
佐伯が何を先に食べるか。
何を皿に残すか。
脂の多い肉を食べるとき、必ず苦葉も一緒に口へ入れること。
この二か月、レンは見ていた。
見ることは、昔から得意だった。
相手の利き腕。
逃げ道。
懐へ隠した武器。
どこを切れば、早く死ぬか。
今は、同じように食材と、食べる人間を見ている。
フィーネは、作業台の前に立つレンを見つめていた。
包丁を使う手。
鍋の火を調整する指。
味を確かめ、足りないものを選ぶまでの間。
「……本当に、成長しましたね」
静かな声だった。
普段の余計な調子はついていない。
レンがフィーネを見る。
「最初は、レンさんが背後を通るたびに包丁を握り直していたのに」
今は、レンへ背中を向けられる。
同じ厨房へ立ち、刃物がどこにあるか確認しなくてもいい。
何も教えず、料理が出来上がるのを待てる。
「今は、私が口を出すところがありません」
「なら黙って見てろ」
「はい」
素直な返事だった。
レンは皿を温めた。
滑らかにした黄色根を置く。
その上へ、赤実で煮込んだ猪肉を載せた。
周囲へソースを流す。
焼いた黄色根を添える。
仕上げに、苦葉を少量。
一つの皿が完成した。
「できた」
佐伯が食堂で顔を上げる。
レンは皿を運び、佐伯の前へ置いた。
赤実の赤。
黄色根の淡い色。
濃い焼き目のついた猪肉。
湯気とともに、肉と玉葱の匂いが立ち上る。
佐伯は皿を見る。
「嵐の夜に作った煮込みか」
「材料が同じなだけだ」
「あれより、ずいぶん気取った見た目になったな」
「あのときは、街の人間へ食わせる鍋だった」
「今日は?」
「お前一人だ」
佐伯が匙を取る。
「料理の名前は?」
「ない」
「売る気がねえな」
「お前に食わせるために作った」
佐伯の手が、わずかに止まった。
すぐに猪肉へ匙を入れる。
力を入れなくても、肉がほぐれた。
黄色根とソースを一緒にすくう。
口へ運ぶ。
佐伯は何も言わない。
ゆっくりと噛む。
赤実の酸味が、最初に広がる。
続いて、玉葱と黄色根の甘み。
猪肉の脂と出汁が、その二つを繋いでいる。
苦葉のかすかな苦みが、最後に残る脂を消した。
焼いた黄色根には、柔らかな煮込みとは違う歯触りがある。
佐伯は二口目を食べた。
フィーネが、少し離れた場所から見ている。
レンは尋ねない。
佐伯が何と言うか。
答えは、最初から一つしかなかった。
三口目。
佐伯は匙を置いた。
「……うまい」
厨房の火が、小さく鳴った。
フィーネの肩から、力が抜ける。
レンは佐伯を見る。
「そうか」
「もう少し喜べ」
「約束は?」
「分かってる。帰るよ」
佐伯は再び匙を取った。
皿に残った猪肉を食べる。
黄色根をソースへ絡める。
最後に、皿の縁へ残っていたソースまで、薄焼きパンで拭った。
皿には、何も残らなかった。
「ごちそうさん」
佐伯が言う。
「レン」
「何だ」
「合格だ」
佐伯は空になった皿を、レンへ返した。
「お前はもう、料理人見習いじゃねえ」
「料理人か」
「ああ」
「そうか」
「だから、もう少し喜べ」
「店主」
フィーネが口を挟む。
「レンさんに普通の反応を求めるのは、まだ早いですよぉ」
「そこは成長してねえんだな」
「必要ない」
佐伯が笑う。
レンは空の皿を持ち、厨房へ戻った。
水場へ置く。
自分の作った料理を、佐伯は一つも残さなかった。
その事実だけで十分だった。
開店の時間を遅らせ、佐伯は従業員たちを食堂へ集めた。
遠い故郷へ帰る。
この店へは、もう戻れない。
伝えたのは、それだけだった。
怒る者がいた。
冗談だと思って笑う者もいた。
何も言えず、俯く者もいた。
佐伯は、一人ずつへ言葉をかけた。
料理人には、火を急ぐなと言った。
給仕には、酔った船乗りへ水を出すのを忘れるなと言った。
仕入れを担当する者には、魚屋の最初の値段を信じるなと言った。
最後に、腰から鍵束を外す。
フィーネへ差し出した。
「店は任せた」
フィーネは鍵を受け取る。
「今さらですか?」
「今さらだ」
「三日で潰さないでくださいね」
「それは俺の台詞だ」
「店主一人でなければ大丈夫ですっ」
佐伯は何か言い返そうとして、やめた。
「世話になったな」
「こちらこそ」
フィーネの声は、静かだった。
従業員たちが持ち場へ戻ったあと。
厨房には、三人だけが残った。
フィーネが腰へ鍵束をつける。
小さな金属音が鳴った。
「レンさんも、店主が帰ったら行ってしまうんですよね」
「ああ」
「そうですか」
フィーネは一度だけ俯く。
すぐに顔を上げた。
「では、レンさんが帰ってきたときには、毎日、もっと成長した私の料理を食べさせてあげましょう!」
佐伯が眉を上げる。
「何だ?プロポーズか?」
次の瞬間。
フィーネの拳が、無言で佐伯の脇腹へ入った。
「ぶふぉあっ」
佐伯の大きな身体が折れる。
その場へ膝をつき、脇腹を押さえた。
「店主。出発前に、余計なことを言わないでください」
「せめて……口で言ってから殴れ……」
「口で言えば、避けるでしょう?」
「当たり前だろ……」
フィーネは何事もなかったように、レンへ向き直った。
「何も聞こえませんでしたね?」
「全部聞こえた」
「忘れてくださいっ」
「無理だ」
「お前ら……俺より先に話を進めるな……」
佐伯が作業台へ手をつき、立ち上がる。
レンはその脇腹を見る。
「帰る前に死ぬなよ」
「誰のせいだと思ってる」
「店主のせいですっ」
「そうかよ……」
地下室へ下りたのは、三人だけだった。
突き当たりにある木の扉。
佐伯が取っ手へ触れる。
白い光が漏れる。
《異界厨房》の扉が開いた。
冷たい空気。
銀色の作業台。
炎を使わない灯り。
佐伯は何も持っていなかった。
この世界から、食材も種も持ち出さない。
十四年間を過ごした服だけを身につけ、奥へ進む。
灰色の扉へ手を当てた。
低い音。
扉の向こうに、佐伯が元いた世界の厨房が現れる。
佐伯は境目の前で立ち止まった。
《異界厨房》を振り返る。
「レン」
「何だ」
「あの料理、名前くらい考えとけ」
「必要ない」
「料理人なら、自分の料理に責任を持て」
「フィーネが勝手につける」
「押しつけないでくださいっ」
「店主の仕事だろ」
フィーネが一瞬、言葉を失う。
「……そうでしたね」
佐伯が笑った。
「頼んだぞ、店主」
「はい」
フィーネは、まっすぐ佐伯を見る。
「行ってらっしゃい、店主」
「行ってくる」
佐伯はレンを見る。
「次に会うことがあったら、今度は俺が一皿作ってやる」
「うまいものにしろ」
「言うようになったな」
佐伯は一歩、扉の向こうへ踏み出した。
もう一歩。
身体が完全に境界を越える。
最後まで、後ろは振り返らなかった。
灰色の扉が閉じる。
佐伯の姿が見えなくなる。
直後。
《異界厨房》の奥から、灯りが一つずつ消え始めた。
棚が薄くなる。
並んでいた食材が、白い光へ溶ける。
銀色の作業台。
火口。
水場。
レンを追い詰めた布も、革帯も、床の継ぎ目も消えていく。
最後に、三人が入ってきた木の扉だけが残った。
レンとフィーネが地下室へ戻る。
扉が閉じる。
白い光が細くなり、消えた。
厚い木の扉も、その場から消える。
残ったのは、何もない石の壁だった。
《異界厨房》は閉じた。
佐伯宗一郎も、この世界からいなくなった。
任務は終わった。
レンの足元へ、白い光が集まり始める。
フィーネがそれを見る。
「今度は、何ですか」
「俺の帰り道だ」
「レンさんも、行くんですか」
「ああ」
白い光が、レンの膝まで昇ってくる。
フィーネは何かを言おうとした。
一度、口を閉じる。
それから、いつもの調子に戻そうとするように息を吸った。
「正式に料理人になったその日に、いなくなるんですか?」
「辞めるとは言ってない」
フィーネが目を瞬く。
「では、長期休暇ですねっ」
「長くなる」
「構いません。籍は残しておきます」
「戻れるとは限らない」
「そういうところは、成長していませんねぇ」
白い光が、レンの胸まで届く。
フィーネは笑っていた。
目の端に浮かんだものを、拭おうとはしなかった。
「店は潰すなよ」
「誰に言っているんですか?」
「店主に」
フィーネが、腰の鍵束を握る。
「戻ってきたとき、働く場所がないと言われても困る」
「仕方ありませんねぇ」
フィーネは小さく息を吐いた。
「では、勝手に残しておきます」
「ああ」
「来年の潮迎え祭は、もっと売れるものを作りますよ」
「俺がいるとは限らない」
「知っています」
フィーネはレンをまっすぐ見る。
最初に門前で向き合ったときと同じ目だった。
だが、もう逃げ道を塞ごうとはしていない。
「私が勝手に待ちますっ」
白い光が、レンの視界を覆う。
フィーネの姿が薄くなっていく。
「行ってらっしゃい、レンさん」
レンは最後まで、彼女から目を逸らさなかった。
「ああ」
光が満ちる。
レンの姿が消えた。
地下室には、フィーネだけが残された。
しばらく、何もない石の壁を見ていた。
やがて、腰の鍵束が鳴る。
フィーネは踵を返し、階段を上った。
厨房では、ほかの料理人たちが待っている。
冷めかけた炉へ薪を入れる。
火を起こす。
佐伯が食べ終えた皿を洗い、棚へ戻した。
異世界へ続く扉は、もうない。
それでも《渡り鳥亭》の扉は、その日もいつもどおり開いた。




