一皿を◯す
嵐が去って二日目。
港へ、最初の船が入った。
積まれていたのは、小麦と塩。
干した魚。
北の村から運ばれてきた豆。
街道からも、野菜や穀物を積んだ荷車が届き始めている。
《渡り鳥亭》の前にできていた列は、朝ごとに短くなった。
それでも、厨房の火は一日中消えなかった。
猪の肉。
黄色根。
赤実。
村から届いた食材を使い、煮込みを作る。
昨日より肉を減らし、豆を増やした。
赤実の酸味が強いものには、よく炒めた玉葱を加える。
熟しすぎたものは、潰して別の鍋へ回した。
《異界厨房》から持ち出されたものは、一つもない。
それでも、料理は作れた。
客は食べた。
街は、少しずつ元へ戻っていった。
その日の営業を終えたあと。
レンは、厨房に残っていた佐伯へ声をかけた。
「話がある」
佐伯は鍋の底を布で拭いていた。
「物騒な顔だな」
「店主」
帳簿をまとめていたフィーネが、二人を見る。
「私も聞きます」
「お前には関係ない」
「あります。この店の話でしょう?」
レンは否定しなかった。
最後の鍋が棚へ戻される。
佐伯は布を作業台へ置いた。
「それで、何だ」
「調査は終わりだ」
佐伯の目が細くなる。
「結論は?」
「お前を殺す」
フィーネの手が止まった。
厨房には、炉の中で炭が崩れる音だけが残った。
「店主は、約束を守りました」
フィーネが言う。
「《異界厨房》の扉は開いていません」
「開けようとはした」
「それでも、開けませんでした」
「今回はな」
フィーネが言葉に詰まる。
佐伯は黙って、レンを見ていた。
「また同じことが起きる」
レンが続ける。
「次は飢饉かもしれない。病が広がるかもしれない。戦争で食料がなくなるかもしれない」
「そのたびに、俺が扉を開けると?」
「ああ」
「ずいぶん信用がねえな」
「信用の話じゃない」
レンは佐伯から目を逸らさない。
「お前は、あの扉を開けなくても多くのものを知っている。食材の育て方。保存の方法。料理。道具。病を防ぐ知識」
この世界にないものを、佐伯は覚えている。
すべてを持ち込まなくても、一つ教えれば流れは変わる。
黄色根も、赤実も、最初は一つの種と一人の知識から始まった。
「俺の目的は、お前が善人かどうかを決めることじゃない」
レンが言う。
「異世界からの流入を止めることだ」
フィーネの顔が固くなる。
「扉を閉じても、店主が覚えていることまでは消えません」
「ああ」
「だから、殺すんですか」
「ああ」
短い返事だった。
佐伯が善人か悪人かは関係ない。
すでに広まったものを消せないことも分かっている。
それでも、これ以上増えることは止められる。
佐伯が生きて、この世界にいる限り。
新しい影響が生まれる可能性は残る。
それが、レンの出した結論だった。
佐伯はしばらく黙っていた。
やがて、作業台へ両手をつく。
「待て」
「何だ」
「殺さなくても、俺をこの世界から消す方法ならある」
フィーネが佐伯を見る。
「あるんですか?」
「ああ」
佐伯は厨房の奥へ視線を向けた。
地下へ続く階段。
その先にある、厚い木の扉。
「俺が、元の世界へ帰ればいい」
誰も言葉を返さなかった。
「帰れるのか」
最初に尋ねたのはレンだった。
「帰れる」
「今まで、そんな話はしていない」
「聞かれなかったからな」
「聞かなければ、殺されるまで黙ってるつもりだったのか」
「帰る気がなかった」
佐伯はそう言って、階段へ向かった。
「見せた方が早い。来い」
地下室の突き当たり。
佐伯が木の扉の取っ手へ触れる。
扉の縁から、白い光が漏れた。
「開けるんですか」
フィーネが尋ねる。
「何も持ち出さねえよ」
「私も入ります」
「好きにしろ」
佐伯が扉を開いた。
冷たい空気が、地下室へ流れ出す。
継ぎ目のない白い床。
銀色の作業台。
炎を使わずに室内を照らす、細長い灯り。
壁際には、見たことのない食材や器具が並んでいる。
レンにとっては、二度目の《異界厨房》だった。
フィーネは入口で足を止めた。
「ほぁ……」
「触るなよ」
「触りませんっ」
三人が中へ入る。
背後で、木の扉が閉じた。
佐伯は作業台の間を抜け、さらに奥へ進んでいく。
レンが以前に見た、別の扉。
あのときは、どこへ繋がっているか分からなかった。
佐伯は、その前で立ち止まった。
「これだ」
ほかの扉より細い。
表面は灰色で、取っ手も鍵穴もない。
佐伯が手を当てる。
低い音が鳴った。
灰色の扉が、ゆっくりと横へ開いていく。
その向こうにも、厨房があった。
白い壁。
金属で作られた流し台。
四角い箱の並ぶ棚。
天井には、こちらと同じように炎を使わない灯りがある。
さらに奥から、低い機械音が聞こえていた。
どれも、この世界には存在しないものだった。
佐伯だけが、その光景を知っている。
「ここが、俺の元いた世界だ」
フィーネが扉の向こうを見る。
「本当に、帰れるんですね」
「ああ」
「帰ったら、《異界厨房》はどうなる」
レンが尋ねた。
「消える」
佐伯は開いた扉へ手を置いた。
「俺が向こうへ戻れば、ここも、この街の地下にある扉も消える。二度と開かない」
「どうして分かる」
「この厨房を使えるようになったときから、使い方だけは頭に入ってる」
佐伯は自分の頭を指で叩く。
「どの火口がどこへ繋がってるか。どの扉から何を持ち込めるか。帰るための扉がどれかもな」
レンは扉の縁を見る。
罠の気配はない。
佐伯の言葉が真実かどうかは、実際に帰らせれば確認できる。
《異界厨房》が消えれば、新しい食材も道具も入ってこない。
佐伯自身も、この世界からいなくなる。
目的は達成される。
殺すこと自体が目的ではない。
佐伯による流入を止められるなら、それでいい。
ただし、佐伯が帰ると決めればの話だった。
「どうして、今まで帰らなかったんですか」
フィーネが尋ねた。
佐伯は答えず、扉の向こうを見た。
「店があった」
しばらくして、それだけを言った。
「腹を空かせた連中がいた。弟子が増えた。畑ができた。帰る理由より、残る理由の方が多くなった」
「それで、帰らなかった?」
「ああ」
「今も、店はあります」
フィーネが言う。
「お前たちもいる」
「はい」
「なら、同じだろ」
「違います」
フィーネの声には、迷いがなかった。
「店は、私がやります」
佐伯が振り返る。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、店主が死ぬよりは簡単ですっ」
「お前一人で、この店を回せると思ってるのか」
「店主一人に任せていたら三日で潰れる店を、今まで回してきたのは誰だと思っているんですか?」
佐伯が黙る。
「料理人もいます。仕入れ先もあります。店主の弟子も、この街には残っています」
フィーネは一度だけ、扉の向こうを見た。
「ここは、店主だけの店ではありません。私の店でもあります」
「勝手に自分のものにするな」
「帰ったあとで文句を言いに来てください」
「帰ったら来られねえんだよ」
「では、諦めてくださいっ」
普段に近い口調だった。
それでも、フィーネは笑っていなかった。
「生きて帰れるのに、私たちを店主が死ぬ理由にしないでください」
佐伯は何も答えない。
レンは二人のやり取りが終わるのを待った。
佐伯が何を惜しみ、誰を残したくないと思っていても、任務の条件は変わらない。
「戻れば、任務は終わる」
レンが言う。
「《異界厨房》が消えるまで、俺がここで確認する。それでいい」
佐伯は開いた扉を見る。
次に、《異界厨房》を見回した。
銀色の作業台。
並べられた刃物。
棚に収められた食材。
この世界へ持ち込まれなかったものが、いくつも残っている。
最後に、フィーネを見た。
長い息を吐く。
「分かった!」
厨房の奥まで届く声だった。
「ただし、条件がある」
レンの眉が動く。
「今さらですか?」
フィーネが言う。
「今さらだからだ」
佐伯はレンへ向き直った。
「最初に言ったとおりだ。レン。俺に『うまい』と言わせろ」
「何?」
「最後に一皿作れ」
佐伯は口元を上げる。
「それを食って、俺がうまいと言ったら、元の世界へ帰ってやる」
フィーネが呆れた顔になる。
「言わなかったら?」
「帰らん」
「子供ですか、あなたは」
「料理人だ」
レンは佐伯を見る。
フィーネが尋ねる。
「美味しくても、嘘をついたら?」
佐伯の表情から、笑みが消えた。
「うまいものを食って、うまいと言わねえほど、料理人を舐めちゃいねえ」
返事に迷いはなかった。
レンは佐伯を見る。
元の世界へ帰らせれば、任務は終わる。だが…
「作る必要ない、お前を殺せばいい」
「やれるもんならやってみろ」
佐伯は腕を組んだ。
「今度は死ぬ気で逃げてやる」
「逃がさない」
「お前、一度俺に負けてるだろ?」
レンは答えなかった。
敗北を否定するつもりはない。
だが、本人に得意げに言われると腹が立つ。
「ほぁ~」
フィーネがレンの顔を覗き込む。
「反論できない顔ですねぇ」
「顔に出てるか」
「かなり出ていますっ」
「だったら、今度は料理で勝ってみろ」
佐伯が言う。
「店主が意地を張って、うまいと言わなかったらどうするんですか?」
フィーネが尋ねる。
佐伯の表情から、笑みが消えた。
「うまいものを食って、うまいと言わねえほど、料理人を舐めちゃいねえ」
返事に迷いはなかった。
「どうした、レン」
佐伯が再び笑う。
「俺にうまいと言わせる自信がねえのか?」
「安い挑発だな」
「一度負けてる奴には、十分効くだろ」
レンの眉間に、わずかに皺が寄った。
「ほぁ~。効いていますねぇ」
「お前は黙ってろ」
「はいはいっ」
レンは佐伯を睨んだ。
佐伯も、目を逸らさない。
「分かった」
レンは、吐き捨てるように言った。
「作る」
佐伯が満足そうに頷く。
「何を作ればいい」
「自分で考えろ
レンの顔が、再びわずかに歪んだ
佐伯はそれを見て笑った。
「最初から、そういう試験だ」




