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31/73

道を◯す


潮迎え祭の翌朝。


休業を告げる板が、《渡り鳥亭》の入口へ下げられていた。


厨房の炉にも火は入っていない。


料理人も給仕も、それぞれの部屋で眠っている。


それでもレンは、いつもと同じ時間に目を覚ました。


屋根裏を出る。


静かな厨房へ下りると、食堂に灯りがあった。


フィーネが一人で卓へ座っている。


目の前には、昨日の売上を記した帳簿と、銅貨の入った袋。


隣には、湯気の立つ茶が置かれていた。


「休む練習はどうした」


レンが尋ねる。


フィーネが顔を上げる。


「レンさんにだけは言われたくありませんっ」


「俺はいつも起きる時間だ」


「私もです」


「それを休んでないと言うんだろ」


「ほぁ~。昨日教えたことを、もう覚えたんですねぇ」


「馬鹿にしてるな」


「褒めていますよぉ」


レンは向かい側へ座った。


帳簿には、材料費と売上が細かく書き込まれている。


魚。


黄色根。


薄焼きパン。


赤実。


油。


香草。


利益は、祭りで売った銅貨四百枚のうち、三分の一ほどだった。


「思ったより少ないな」


「材料費だけではありません。屋台の使用料、薪代、手伝ってくれた方への賃金もありますから」


「二百個売って、これだけか」


「十分ですよ。初めての料理で赤字にならなかったんですから」


フィーネは帳簿へ最後の数字を書き込む。


「来年は、仕入れの量を増やしてもよさそうですねっ」


「もう来年の話をするのか」


「一年後に準備を始めたら遅いでしょう?」


「俺がいるとは限らない」


「昨日も聞きました」


フィーネは帳簿を閉じた。


「同じ答えを何度も言わなくていいですよぉ」


「お前が何度も言わせてる」


「では、来年までに違う答えを考えておいてくださいっ」


レンが《渡り鳥亭》へ来てから、三か月目に入った。


祭りの翌々日から、レンは昼の料理を一品任された。


最初は焼いた魚と黄色根。


次は、白身魚と玉葱の汁物。


その次は、灰鳥の肉を香草で焼いたもの。


毎日ではない。


佐伯が材料を選び、その日の客数を見ながら任せる。


味が悪ければ賄いへ回される。


火の入れ方を誤れば、佐伯が作り直した。


客へ出せた日も、必ず何かを指摘された。


「昨日より塩が強い」


「肉が違う」


「同じ灰鳥だ」


「育った場所が違う。今日の方が身に脂が少ねえ」


「見ただけで分かるか」


「触れば分かる」


「フィーネと同じことを言うな」


「俺が教えたんだよ」


客から料理が戻ってくることはなかった。


それでも佐伯は、レンを料理人とは呼ばなかった。


「いつまで見習いなんだ」


「包丁を持つたびに人の急所を確認しなくなるまでだ」


「料理と関係ないだろ」


「厨房で働くなら関係ある」


フィーネの監視も続いていた。


ただし、私物の刃物を預けることはなくなった。


地下へ下りるときも、レンが先かフィーネが先かで揉めることはない。


閉店後。


二人で《異界厨房》の扉を確認する。


糸。


灰。


帳簿。


佐伯が扉を開いた形跡は、一度もなかった。


潮迎え祭から三週間が過ぎたころ。


海の色が変わった。


朝から空が暗い。


沖には黒い雲が広がり、港へ向かう風が次第に強くなっていく。


昼前には雨が降り始めた。


細かった雨は、夕方には通りの向こうが見えないほど強くなった。


窓板が風に叩かれる。


屋根の隙間から水が入り、二階では使用人たちが桶を並べていた。


その日、港へ戻る予定だった漁船は一隻も入らなかった。


翌日も。


その翌日も。


沖が荒れ、船は別の港へ逃げるか、湾の外で待つしかなかった。


東の街道では土砂が崩れ、農村から来る荷車も止まった。


四日目。


市場から鮮魚が消えた。


六日目。


麦と豆の値段が上がった。


七日目。


フィーネが食堂の卓へ、店の在庫を並べた。


麦。


豆。


黄色根。


塩漬けの魚。


干し肉。


乾燥した香草。


それぞれの量と、通常の営業で何日分になるかが書かれている。


「今までどおり営業した場合、六日です」


フィーネが言う。


「賄いと従業員の食事を含めています」


佐伯は腕を組み、帳簿を見る。


「量を減らせば?」


「十日ほどです」


「街の倉庫は」


「商人組合の備蓄が、全体で八日分。領主の倉庫にも麦があるそうですが、放出するかはまだ決まっていません」


「遅いな」


レンが言う。


「倉庫を開けるにも決まりがあります」


「飢えてから開けるのか」


「そうならないために、今話し合っているんです」


「話し合いは食えない」


「それは私に言わないでくださいっ」


佐伯が帳簿を閉じる。


「明日から、昼だけ営業する」


「夜は?」


「閉める。麦を使う料理も減らせ」


「値段はどうしますか」


「変えるな」


フィーネの眉が寄る。


「仕入れ値は上がっています」


「今値段を上げたら、金のない奴から食えなくなる」


「店の損失が増えます」


「潰れない程度にしろ」


「簡単に言いますねぇ」


「簡単じゃねえから、お前に任せる」


「ほぁ~。信頼の言葉で仕事を増やされました」


佐伯はレンを見る。


「お前は、黄色根と豆で腹に溜まるものを考えろ」


「肉は?」


「干し肉を少し使え。味を出すだけだ」


レンは地下へ続く階段を見る。


「扉を開けば、食材は出せるんだろ」


食堂が静かになる。


フィーネも佐伯を見る。


「ああ」


佐伯は答えた。


「開けるのか」


「開けない」


迷いのない返事だった。


「まだ、六日分ある。街の倉庫も空じゃねえ」


「なくなったら?」


佐伯は答えなかった。


翌日から、《渡り鳥亭》は昼だけ店を開いた。


料理は一種類。


黄色根と豆の煮込み。


細かく刻んだ干し肉を油で炒め、玉葱と豆を加える。


出汁へ黄色根を入れ、形が崩れるまで煮た。


肉は一人分に一切れも入らない。


それでも炒めた脂と塩気が鍋全体へ広がり、豆と黄色根だけで煮るより、味に厚みが出た。


固い黒パンを一切れ添える。


普段の《渡り鳥亭》なら、最も安い料理よりさらに質素な一皿だった。


店の前には、開店前から人が並んだ。


船が入らず、仕事を失った荷運び人。


漁へ出られない船乗り。


値上がりした食材を買えない家族。


フィーネは一人ずつ銅貨を受け取り、順番に席へ案内した。


代金が足りない者もいた。


「銅貨が一枚足りない」


年老いた男が、手のひらに載せた金を数える。


「では、次に来たときいただきます」


フィーネが答える。


「次も払えんかもしれん」


「その場合は、店主の酒代から引きますっ」


厨房から佐伯の声が飛ぶ。


「勝手に引くな!」


「聞こえなかったことにしますねっ」


「本人に聞こえてるぞ!」


男は困ったように笑い、席へ向かった。


レンは煮込みを器へよそう。


量を揃える。


多すぎれば、後ろの客へ届かない。


少なすぎれば、食べた者の腹が満たされない。


祭りで料理を売ったときとは違う。


客は楽しむためではなく、食べるために来ていた。


十日目。


雨は弱まらなかった。


東街道の復旧には、さらに二週間かかるという知らせが届いた。


商人組合が備蓄の一部を市場へ出した。


だが、すべての店へ行き渡る量ではない。


価格も下がらなかった。


その日の閉店後。


濡れた外套を着た若い男が、《渡り鳥亭》へ駆け込んできた。


赤実を育てている村の人間だった。


「バルトさんからです」


差し出された紙は雨で濡れ、端が崩れていた。


フィーネが開く。


「村に食材はあるそうです」


「運べないのか」


佐伯が尋ねる。


「水路が溢れて、南側の橋が落ちています。東街道へ出る道も、土が流れて荷車が通れないそうです」


「どのくらいある」


「赤実が二十箱。黄色根と豆も、店の倉庫へ入りきらないほど。ただ、このまま雨が続けば傷みます」


街では食料が減っている。


村では、運べない食料が腐ろうとしている。


「明日の朝、村へ行きます」


フィーネが言う。


「道がないんだろ」


レンが尋ねる。


「荷車が通れないだけです。人は通れます」


「何をしに行く」


「どうすれば運べるか確認します」


「お前一人で?」


「レンさんも来ますっ」


「勝手に決めるな」


「料理人見習いは、食材の仕入れも仕事です」


「便利な言葉だな」


佐伯が二人を見る。


「行ってこい」


「店は?」


フィーネが尋ねる。


「明日は俺が帳簿も見る」


フィーネの表情が曇る。


「店を潰す気ですか?」


「一日くらい任せろ」


「不安ですねぇ」


「俺を何だと思ってる」


翌朝。


雨が弱くなるのを待ち、レンとフィーネは東門を出た。


荷車は使えない。


食料と道具を背負い、徒歩で村へ向かう。


街道の脇には水が溜まり、低い場所では膝近くまで泥へ沈んだ。


風が吹くたび、外套が大きく膨らむ。


フィーネは何度も足を取られた。


そのたびに、自分で体勢を戻す。


「荷物を持つ」


レンが言う。


「持てます」


「歩くのが遅い」


「誰かさんが速すぎるんですっ」


「日が暮れる」


「では、少しゆっくり歩いてください」


「荷物を渡せ」


「嫌です」


「なぜだ」


「全部持たせたら、私が役に立っていないように見えるからです」


「誰に見せるんだ」


「レンさんにですっ」


川へ近づくほど、水の流れは強くなった。


以前、赤実の蔓が広がっていた水路も溢れている。


岸の土が削られ、ところどころで崩れていた。


岸留め草が残っている場所は、根が土を抱え込んでいる。


赤実に覆われた場所ほど、崩れ方が大きかった。


「畑の外へ広がった影響が出ていますね」


フィーネが言う。


「ああ」


赤実の蔓そのものに、土を留める力がないわけではない。


だが、岸留め草ほど深く根を張らない。


表面を覆っていても、強い水が来れば、下の土ごと流される。


「店主へ見せるべきでしょうか」


「見せなくても話せば分かる」


「自分の目で見ないと納得しない人もいますから」


フィーネがレンを見る。


「誰の話だ」


「さあ?」


橋が落ちた場所へ着いた。


石造りの橋の中央が崩れ、濁った水が隙間を流れている。


人が渡るだけなら、残った石と渡された板を使える。


荷車は無理だった。


フィーネが板へ足を乗せる。


濡れた木が沈み、身体がわずかに傾いた。


レンが手を差し出す。


フィーネは何も言わず、その手を取った。


一歩ずつ進む。


中央を越え、反対側へ下りる。


安全な地面へ着いても、二人の手は繋がったままだった。


フィーネが先に気づく。


「もう大丈夫です」


「ああ」


レンが手を離す。


「最初なら、手を借りなかったな」


「最初なら、レンさんより先に渡ろうともしません」


「俺を後ろへ置きたくなかったからか」


「はい」


フィーネは外套の袖を整える。


「今は、後ろへいても大丈夫です」


村へ着いたのは、昼を過ぎたころだった。


バルトが倉庫の前で待っていた。


「よく来たな。街はどうなってる?」


「あと数日で、店の食材がなくなります」


フィーネが答える。


バルトの顔が強張る。


「こっちは逆だ。運び出せないせいで、赤実が傷み始めてる」


倉庫には、木箱が積み上げられていた。


赤実。


黄色根。


乾燥させた豆。


加工所へ送る予定だった赤実の保存煮。


量は十分にある。


だが、荷車が通れる道がない。


「橋を直すのに何日かかる」


レンが尋ねる。


「石工は五日と言ってる。雨が強くなれば、もっとだ」


「別の道は?」


「北の林を抜ける古い道がある。昔は荷車も通ったが、今は使ってない」


「なぜだ」


バルトが村の北を見る。


「灰牙猪が増えた」


林の入口には、赤実の蔓が伸びている。


森の中まで続いていた。


灰牙猪は、それを餌にして数を増やしている。


「何頭いる」


「分からん。十頭以上は見た。子連れもいる」


「道の幅は?」


「木を払えば、荷車一台は通れる」


「距離は」


「街道まで半日だ」


レンは地面へしゃがみ、バルトから周辺の形を聞いた。


川。


林。


古い道。


斜面。


猪が現れる場所。


村人が使っている罠。


「二日で通せる」


レンが言う。


「本気か?」


「木を切る人間が十二人。道へ土を入れる人間が八人。荷車を直せる奴が二人。猪は道から外へ寄せる」


「どうやって?」


「熟しすぎた赤実を使う。道の北へ餌場を作る」


「また戻ってくるぞ」


「道を通す間だけでいい。近づいた猪は罠へ入れる」


「罠に入りきらなかったら?」


「俺がやる」


バルトはレンの腰にある短刀を見る。


「料理人見習いじゃなかったのか?」


「地方による」


「便利な地方ですねぇ」


フィーネが横から言った。


人を集めることはできた。


問題は、食材を誰が買うかだった。


街の商人が、今までと同じ値段を払う保証はない。


道が閉ざされていることを理由に、値を下げようとする者もいる。


「《渡り鳥亭》が先に買います」


フィーネが言った。


「店だけで使える量じゃないぞ」


バルトが答える。


「残りは、街の食堂と商人組合へ回します。私から話します」


「金は?」


フィーネは持ってきた革袋を卓へ置いた。


祭りで得た利益が入っていた。


「これを前金にします」


レンが革袋を見る。


「全部使うのか」


「銅貨は食べられませんから」


「来年の祭りは?」


「来年までに、また稼ぎますっ」


「俺がいる前提か」


「嫌なら、今のうちに返してください」


レンは革袋から手を離した。


その日のうちに、古い道の整備が始まった。


村人が木を切る。


泥へ石と枝を入れ、荷車の車輪が沈まないよう固める。


レンは林へ入り、灰牙猪の足跡を確認した。


親。


若い個体。


子。


どの方向から来て、どこへ戻っているか。


村で捨てる予定だった赤実を、道から離れた場所へ運ばせる。


匂いを広げる。


猪が餌へ集まる位置へ、縄と木を組んだ罠を置く。


すべてを捕らえる必要はない。


荷車が通る二日間だけ、道から遠ざければいい。


フィーネは村の作業台を借り、街へ送る手紙を書いた。


料理人組合。


商人組合。


《渡り鳥亭》。


必要な荷車の数。


運べる食材の量。


値段。


到着予定。


書き終えると、一番足の速い若者へ渡した。


夜。


二人はバルトの家の納屋を借りた。


寝床は干し草の上。


毛布が二枚。


雨が屋根を叩いている。


「眠れますか?」


フィーネが尋ねた。


「どこでも眠れる」


「そう言う人ほど眠らないんですよねぇ」


「お前は寝ろ」


「明日の分を確認してからです」


フィーネは油灯の近くで帳簿を開く。


村の在庫。


荷車一台へ載せる量。


街へ着くまでに傷む可能性。


売値。


運送費。


細かな数字を、一つずつ書き込んでいく。


「眼が赤いぞ」


レンが言う。


「煙が入っただけです」


「昨日も同じことを言ってた」


「よく覚えていますね」


「寝てない人間の動きは分かる」


「暗殺者の知識ですか?」


「ああ」


「料理人として役に立たない知識ですねぇ」


「今は役に立ってる」


レンはフィーネの前から帳簿を取った。


閉じる。


「寝ろ」


「まだ途中です」


「明日の朝で間に合う」


「返してください」


フィーネが手を伸ばす。


レンは届かない場所へ帳簿を置いた。


「子供ですか、あなたは」


「寝ない方が悪い」


「では、レンさんも寝てください」


「分かった」


レンは壁へ背を預けた。


フィーネも毛布へ横になる。


しばらくして、雨の音へ小さな寝息が混じった。


翌朝。


フィーネは帳簿を抱えたまま眠っているレンを見つけた。


「返さないと言っただろ」


眼を閉じたまま、レンが言う。


「起きていたんですか?」


「今起きた」


「では、どうして分かったんです?」


「お前は動く前に息を止める」


フィーネが黙る。


「……本当に、嫌な人ですねぇ」


「褒めてるのか」


「いいえっ」


二日後。


古い道を、最初の荷車が通った。


荷台には黄色根と豆。


次の荷車には赤実。


その後ろには、罠へかかった灰牙猪の肉が積まれている。


すべての猪を捕らえたわけではない。


繁殖した群れの一部だけを狩り、残りは森の奥へ追い戻した。


赤実に覆われた水路では、蔓を一度にすべて抜かず、岸留め草の周囲だけを刈った。


崩れた場所へ土を入れ、岸留め草の株を移す。


元へ戻すことはできない。


それでも、これ以上崩れる場所を減らすことはできる。


レンとフィーネは、荷車より先に街へ戻った。


雨の中を歩き続け、東門へ着いたころには日が沈んでいた。


街の食料は、予想より早く減っていた。


商人組合の備蓄は、ほとんど残っていない。


領主の倉庫から放出された麦も、各区画へ分ければ一人分はわずかだった。


《渡り鳥亭》の地下に残っているのは、豆と黄色根が一日分。


従業員用の黒パンが数個。


塩漬けの魚も使い切っていた。


「荷車は?」


佐伯が尋ねる。


「明日の朝には着きます」


フィーネが答える。


「道が崩れなければな」


「補強しました」


「この雨だ」


「それでも来ます」


佐伯は何も言わなかった。


その日の煮込みは、開店から一時間でなくなった。


店の外には、まだ人が並んでいる。


フィーネが一人ずつ頭を下げた。


明日の朝、食材が届くこと。


今日は、もう出せるものがないこと。


客は怒鳴らなかった。


落胆した顔で帰っていく。


それが、怒鳴られるより苦しかった。


幼い兄妹を連れた女が、最後まで入口に立っていた。


「パンだけでもありませんか」


フィーネが厨房を見る。


従業員用に残していた黒パンがある。


佐伯は一つ取り、女へ渡した。


代金は受け取らなかった。


店を閉めたあと。


料理人たちは、何も食べずに部屋へ戻った。


「一晩くらい食わなくても死なない」


若い料理人は、そう言って笑った。


フィーネも笑った。


佐伯だけは笑わなかった。


夜が深くなる。


レンは屋根裏の寝台へ横になっていた。


雨。


風。


遠くの船鐘。


店の中は静かだった。


やがて、二階から足音がした。


重い。


一定の歩幅。


佐伯だった。


一階へ下りる。


厨房を抜ける。


地下へ続く扉が開いた。


レンは身体を起こした。


腰の短刀を取る。


屋根裏を出た。


地下室へ下りると、奥に灯りが見えた。


《異界厨房》へ続く扉。


その前に、佐伯が立っている。


扉の前へ張られていた糸は外されていた。


床の灰には、佐伯の足跡が残っている。


佐伯の右手が、取っ手の前で止まっていた。


触れてはいない。


触れれば、扉は開く。


「開けるのか」


レンが言う。


佐伯は振り返らなかった。


「まだ開けてない」


「質問に答えろ」


佐伯の手は動かない。


「七年前も、最初はまだ大丈夫だと思ってた」


低い声だった。


「倉庫に麦がある。ほかの街から荷車が来る。明日になれば船が入る。そう言って待った」


「今回は荷車が来る」


「道が崩れたら?」


「別の道を探す」


「それまで、何を食わせる」


「残ってるものを分ける」


「もう残ってねえ」


「俺たちの分はある」


「四つだけだ」


佐伯は取っ手を見る。


「さっきの兄妹に一つずつ渡せば、残りは二つだ。この店だけで、腹を空かせた人間が何十人もいる」


「扉を開けば増える」


「ああ」


「約束を破ることになる」


「ああ」


「俺がお前を殺す」


「分かってる」


佐伯の声に、迷いはなかった。


それでも、取っ手には触れない。


「殺されても出すのか」


レンが尋ねる。


「七年前と同じならな」


「同じじゃない」


「何が違う」


「今回は、お前一人じゃない」


階段から、別の足音が聞こえた。


フィーネが油灯を持って下りてくる。


寝間着の上へ外套だけを羽織っていた。


「二人とも、起こすなら声をかけてください」


「寝てろ」


佐伯が言う。


「この状況で眠れると思いますか?」


フィーネは扉の前まで来る。


佐伯の手を見る。


「店主。手を下ろしてください」


「明日、荷車が来なかったらどうする」


「来ます」


「絶対か?」


フィーネは答えなかった。


絶対とは言えない。


雨は降り続いている。


直した道が再び崩れる可能性もある。


荷車が灰牙猪に襲われることもある。


車輪が壊れるかもしれない。


「店主」


フィーネは佐伯を見上げる。


「祭りの料理を作るとき、レンさんは最初、一人で全部やろうとしました」


「今その話か?」


「硬くて、武器みたいなものができました」


「余計な話をするな」


レンが言う。


「次は、鍋の中で崩れました」


「それも言うな」


「一人で正しいものを作ろうとしたからです」


フィーネは続ける。


「魚を選んだ人。買った人。焼いた人。包んだ人。食べて、意見を言った人。全員がいたから、最後は二百個売れました」


佐伯の手がわずかに下がる。


「今回も同じです」


「料理と飢えを一緒にするな」


「食べてもらうためにしていることは同じです」


フィーネの声は震えていなかった。


「バルトさんたちが食材を用意しました。村の方々が道を直しました。レンさんが猪を追い、荷車を通しました。街では料理人組合が、食材を受け入れる場所を空けています」


「まだ届いてない」


「あと数時間です」


「届かなかったら」


「そのとき、もう一度考えます」


「遅いかもしれん」


「一人で今決めるよりは、ましです」


フィーネは佐伯の右手を取った。


取っ手から離す。


「七年前、店主は一人で食べ物を出しました」


「ほかに方法がなかった」


「はい。だから、今回は私たちにもやらせてください」


佐伯はフィーネを見る。


次に、レンを見る。


「本当に、明日の朝まで待てると思うか」


レンが答える。


「待たせる」


「力ずくでか?」


「ああ」


「お前らしいな」


佐伯は短く息を吐いた。


扉から一歩離れる。


白い光は出ない。


《異界厨房》は開かなかった。


三人は食堂へ戻った。


従業員用に残していた四つの黒パンを、一つの籠へ入れる。


薄く切る。


水へ豆を少量入れ、塩だけで煮た。


一人分にも足りないものを、三人で分ける。


「まずいな」


佐伯が言う。


「店主が作ったんでしょう?」


フィーネが答える。


「材料がない」


「言い訳ですねぇ」


「お前が作ればよかっただろ」


「扉を開けようとした人へ任せない方がよかったですか?」


佐伯が黙る。


レンは薄い豆の汁を飲んだ。


出汁はない。


豆も硬い。


塩気だけが舌に残る。


「朝になったら作り直す」


レンが言う。


佐伯が見る。


「食材が届いたらな」


「届く」


「絶対か?」


「俺が通した道だ」


「自信だけは料理人らしくなってきたな」


夜明け前。


東門から鐘の音が響いた。


一度。


二度。


続いて、荷車の車輪が石畳を進む音が聞こえてくる。


フィーネが椅子から立ち上がった。


三人は店の外へ出る。


雨は弱くなっていた。


通りの向こうから、灯りが近づいてくる。


一台。


二台。


三台。


泥に覆われた荷車が、列を作って進んでいた。


先頭の御者台には、バルトが座っている。


「遅くなった!」


大きな声が通りへ響く。


「途中で車輪が一つ外れた!」


「直したんですか?」


フィーネが駆け寄る。


「縄で縛った! 帰りまでは保たん!」


「帰りの心配は、あとでしますっ」


荷台の布が外される。


黄色根。


豆。


赤実。


灰牙猪の肉。


街の人間が、自分の家から出てきた。


料理人組合から来た者たちも集まる。


食材が、それぞれの食堂と市場へ分けられていく。


《渡り鳥亭》には、黄色根と豆。


灰牙猪の肉。


熟した赤実が運び込まれた。


佐伯は肉の状態を確認する。


レンは黄色根を洗う。


フィーネは数量を帳簿へ書き、代金を渡した。


言葉で決めなくても、三人は同時に動いていた。


大鍋へ、灰牙猪の肉を入れる。


表面を焼く。


強い脂の匂いが立つ。


刻んだ玉葱。


赤実。


豆。


水。


肉が柔らかくなるまで煮る。


黄色根を加える。


灰牙猪の脂を、赤実の酸味が軽くした。


肉と豆の出汁を黄色根が吸い、煮崩れた部分が汁へ溶けていく。


塩を入れる。


一度、レンが味を見る。


「薄い」


「煮詰めろ」


佐伯が答える。


「客が待ってる」


「水みたいなものを出すよりましだ」


「火を強くする」


「肉が硬くなる」


「では、鍋を分けますっ」


フィーネが別の鍋を運んでくる。


半分を移し、二つの鍋で煮詰める。


佐伯が片方を見る。


レンがもう片方を見る。


日が昇るころ。


店の前には、再び人が並んでいた。


最初の器は、昨日パンを求めた女と、その子供たちへ渡された。


赤い煮込み。


黄色根。


豆。


小さく切った灰牙猪の肉。


子供が匙ですくう。


息を吹きかけ、口へ入れた。


「熱い」


「昨日も同じことを言った子がいたな」


レンが呟く。


「祭りの女の子ですか?」


フィーネが尋ねる。


「ああ」


「覚えていたんですね」


「二回来たからな」


「一人半のお客様ですねっ」


次の器を出す。


その次。


店の前に並んだ人間へ、煮込みを渡していく。


祭りの料理ほど見た目は整っていない。


赤実の形も、黄色根の大きさも揃っていなかった。


それでも温かかった。


食べた者の腹へ残った。


昼を過ぎるころには、街のほかの食堂からも煙が上がっていた。


運ばれた食材が、料理へ変わっている。


雨は止み始めていた。


閉店後。


空になった鍋を洗いながら、佐伯が言った。


「昨日、お前らが来なければ開けてた」


レンは手を止めない。


「知ってる」


「開けてたら、殺したか」


「ああ」


「迷わず?」


レンの手が、わずかに止まる。


フィーネが二人を見る。


「昨日は、どちらも起きませんでした」


「ああ」


佐伯が答える。


「だが、また同じことが起きたら、俺は扉の前へ行く」


「その前に止めます」


フィーネが言う。


「次は間に合わんかもしれん」


「間に合わせます」


「簡単に言うな」


「店主にだけは言われたくありませんっ」


佐伯は笑わなかった。


レンも答えなかった。


今回は、扉を開かずに済んだ。


赤実が広がったことで崩れた道を、赤実を育てる村の人間が直した。


その赤実を食べて増えた灰牙猪が、街の人間の腹を満たした。


佐伯が持ち込んだものによって起きた問題を、佐伯が持ち込んだものを使って乗り越えた。


正しかったのかは分からない。


何もなかったころへ戻ったわけでもない。


ただ、この世界にすでにあるものを使い、人の手で朝まで繋いだ。


《異界厨房》の扉は開かなかった。


それでも。


佐伯が、あの扉の前へ立つ理由までは消えていなかった。

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