道を◯す
潮迎え祭の翌朝。
休業を告げる板が、《渡り鳥亭》の入口へ下げられていた。
厨房の炉にも火は入っていない。
料理人も給仕も、それぞれの部屋で眠っている。
それでもレンは、いつもと同じ時間に目を覚ました。
屋根裏を出る。
静かな厨房へ下りると、食堂に灯りがあった。
フィーネが一人で卓へ座っている。
目の前には、昨日の売上を記した帳簿と、銅貨の入った袋。
隣には、湯気の立つ茶が置かれていた。
「休む練習はどうした」
レンが尋ねる。
フィーネが顔を上げる。
「レンさんにだけは言われたくありませんっ」
「俺はいつも起きる時間だ」
「私もです」
「それを休んでないと言うんだろ」
「ほぁ~。昨日教えたことを、もう覚えたんですねぇ」
「馬鹿にしてるな」
「褒めていますよぉ」
レンは向かい側へ座った。
帳簿には、材料費と売上が細かく書き込まれている。
魚。
黄色根。
薄焼きパン。
赤実。
油。
香草。
利益は、祭りで売った銅貨四百枚のうち、三分の一ほどだった。
「思ったより少ないな」
「材料費だけではありません。屋台の使用料、薪代、手伝ってくれた方への賃金もありますから」
「二百個売って、これだけか」
「十分ですよ。初めての料理で赤字にならなかったんですから」
フィーネは帳簿へ最後の数字を書き込む。
「来年は、仕入れの量を増やしてもよさそうですねっ」
「もう来年の話をするのか」
「一年後に準備を始めたら遅いでしょう?」
「俺がいるとは限らない」
「昨日も聞きました」
フィーネは帳簿を閉じた。
「同じ答えを何度も言わなくていいですよぉ」
「お前が何度も言わせてる」
「では、来年までに違う答えを考えておいてくださいっ」
レンが《渡り鳥亭》へ来てから、三か月目に入った。
祭りの翌々日から、レンは昼の料理を一品任された。
最初は焼いた魚と黄色根。
次は、白身魚と玉葱の汁物。
その次は、灰鳥の肉を香草で焼いたもの。
毎日ではない。
佐伯が材料を選び、その日の客数を見ながら任せる。
味が悪ければ賄いへ回される。
火の入れ方を誤れば、佐伯が作り直した。
客へ出せた日も、必ず何かを指摘された。
「昨日より塩が強い」
「肉が違う」
「同じ灰鳥だ」
「育った場所が違う。今日の方が身に脂が少ねえ」
「見ただけで分かるか」
「触れば分かる」
「フィーネと同じことを言うな」
「俺が教えたんだよ」
客から料理が戻ってくることはなかった。
それでも佐伯は、レンを料理人とは呼ばなかった。
「いつまで見習いなんだ」
「包丁を持つたびに人の急所を確認しなくなるまでだ」
「料理と関係ないだろ」
「厨房で働くなら関係ある」
フィーネの監視も続いていた。
ただし、私物の刃物を預けることはなくなった。
地下へ下りるときも、レンが先かフィーネが先かで揉めることはない。
閉店後。
二人で《異界厨房》の扉を確認する。
糸。
灰。
帳簿。
佐伯が扉を開いた形跡は、一度もなかった。
潮迎え祭から三週間が過ぎたころ。
海の色が変わった。
朝から空が暗い。
沖には黒い雲が広がり、港へ向かう風が次第に強くなっていく。
昼前には雨が降り始めた。
細かった雨は、夕方には通りの向こうが見えないほど強くなった。
窓板が風に叩かれる。
屋根の隙間から水が入り、二階では使用人たちが桶を並べていた。
その日、港へ戻る予定だった漁船は一隻も入らなかった。
翌日も。
その翌日も。
沖が荒れ、船は別の港へ逃げるか、湾の外で待つしかなかった。
東の街道では土砂が崩れ、農村から来る荷車も止まった。
四日目。
市場から鮮魚が消えた。
六日目。
麦と豆の値段が上がった。
七日目。
フィーネが食堂の卓へ、店の在庫を並べた。
麦。
豆。
黄色根。
塩漬けの魚。
干し肉。
乾燥した香草。
それぞれの量と、通常の営業で何日分になるかが書かれている。
「今までどおり営業した場合、六日です」
フィーネが言う。
「賄いと従業員の食事を含めています」
佐伯は腕を組み、帳簿を見る。
「量を減らせば?」
「十日ほどです」
「街の倉庫は」
「商人組合の備蓄が、全体で八日分。領主の倉庫にも麦があるそうですが、放出するかはまだ決まっていません」
「遅いな」
レンが言う。
「倉庫を開けるにも決まりがあります」
「飢えてから開けるのか」
「そうならないために、今話し合っているんです」
「話し合いは食えない」
「それは私に言わないでくださいっ」
佐伯が帳簿を閉じる。
「明日から、昼だけ営業する」
「夜は?」
「閉める。麦を使う料理も減らせ」
「値段はどうしますか」
「変えるな」
フィーネの眉が寄る。
「仕入れ値は上がっています」
「今値段を上げたら、金のない奴から食えなくなる」
「店の損失が増えます」
「潰れない程度にしろ」
「簡単に言いますねぇ」
「簡単じゃねえから、お前に任せる」
「ほぁ~。信頼の言葉で仕事を増やされました」
佐伯はレンを見る。
「お前は、黄色根と豆で腹に溜まるものを考えろ」
「肉は?」
「干し肉を少し使え。味を出すだけだ」
レンは地下へ続く階段を見る。
「扉を開けば、食材は出せるんだろ」
食堂が静かになる。
フィーネも佐伯を見る。
「ああ」
佐伯は答えた。
「開けるのか」
「開けない」
迷いのない返事だった。
「まだ、六日分ある。街の倉庫も空じゃねえ」
「なくなったら?」
佐伯は答えなかった。
翌日から、《渡り鳥亭》は昼だけ店を開いた。
料理は一種類。
黄色根と豆の煮込み。
細かく刻んだ干し肉を油で炒め、玉葱と豆を加える。
出汁へ黄色根を入れ、形が崩れるまで煮た。
肉は一人分に一切れも入らない。
それでも炒めた脂と塩気が鍋全体へ広がり、豆と黄色根だけで煮るより、味に厚みが出た。
固い黒パンを一切れ添える。
普段の《渡り鳥亭》なら、最も安い料理よりさらに質素な一皿だった。
店の前には、開店前から人が並んだ。
船が入らず、仕事を失った荷運び人。
漁へ出られない船乗り。
値上がりした食材を買えない家族。
フィーネは一人ずつ銅貨を受け取り、順番に席へ案内した。
代金が足りない者もいた。
「銅貨が一枚足りない」
年老いた男が、手のひらに載せた金を数える。
「では、次に来たときいただきます」
フィーネが答える。
「次も払えんかもしれん」
「その場合は、店主の酒代から引きますっ」
厨房から佐伯の声が飛ぶ。
「勝手に引くな!」
「聞こえなかったことにしますねっ」
「本人に聞こえてるぞ!」
男は困ったように笑い、席へ向かった。
レンは煮込みを器へよそう。
量を揃える。
多すぎれば、後ろの客へ届かない。
少なすぎれば、食べた者の腹が満たされない。
祭りで料理を売ったときとは違う。
客は楽しむためではなく、食べるために来ていた。
十日目。
雨は弱まらなかった。
東街道の復旧には、さらに二週間かかるという知らせが届いた。
商人組合が備蓄の一部を市場へ出した。
だが、すべての店へ行き渡る量ではない。
価格も下がらなかった。
その日の閉店後。
濡れた外套を着た若い男が、《渡り鳥亭》へ駆け込んできた。
赤実を育てている村の人間だった。
「バルトさんからです」
差し出された紙は雨で濡れ、端が崩れていた。
フィーネが開く。
「村に食材はあるそうです」
「運べないのか」
佐伯が尋ねる。
「水路が溢れて、南側の橋が落ちています。東街道へ出る道も、土が流れて荷車が通れないそうです」
「どのくらいある」
「赤実が二十箱。黄色根と豆も、店の倉庫へ入りきらないほど。ただ、このまま雨が続けば傷みます」
街では食料が減っている。
村では、運べない食料が腐ろうとしている。
「明日の朝、村へ行きます」
フィーネが言う。
「道がないんだろ」
レンが尋ねる。
「荷車が通れないだけです。人は通れます」
「何をしに行く」
「どうすれば運べるか確認します」
「お前一人で?」
「レンさんも来ますっ」
「勝手に決めるな」
「料理人見習いは、食材の仕入れも仕事です」
「便利な言葉だな」
佐伯が二人を見る。
「行ってこい」
「店は?」
フィーネが尋ねる。
「明日は俺が帳簿も見る」
フィーネの表情が曇る。
「店を潰す気ですか?」
「一日くらい任せろ」
「不安ですねぇ」
「俺を何だと思ってる」
翌朝。
雨が弱くなるのを待ち、レンとフィーネは東門を出た。
荷車は使えない。
食料と道具を背負い、徒歩で村へ向かう。
街道の脇には水が溜まり、低い場所では膝近くまで泥へ沈んだ。
風が吹くたび、外套が大きく膨らむ。
フィーネは何度も足を取られた。
そのたびに、自分で体勢を戻す。
「荷物を持つ」
レンが言う。
「持てます」
「歩くのが遅い」
「誰かさんが速すぎるんですっ」
「日が暮れる」
「では、少しゆっくり歩いてください」
「荷物を渡せ」
「嫌です」
「なぜだ」
「全部持たせたら、私が役に立っていないように見えるからです」
「誰に見せるんだ」
「レンさんにですっ」
川へ近づくほど、水の流れは強くなった。
以前、赤実の蔓が広がっていた水路も溢れている。
岸の土が削られ、ところどころで崩れていた。
岸留め草が残っている場所は、根が土を抱え込んでいる。
赤実に覆われた場所ほど、崩れ方が大きかった。
「畑の外へ広がった影響が出ていますね」
フィーネが言う。
「ああ」
赤実の蔓そのものに、土を留める力がないわけではない。
だが、岸留め草ほど深く根を張らない。
表面を覆っていても、強い水が来れば、下の土ごと流される。
「店主へ見せるべきでしょうか」
「見せなくても話せば分かる」
「自分の目で見ないと納得しない人もいますから」
フィーネがレンを見る。
「誰の話だ」
「さあ?」
橋が落ちた場所へ着いた。
石造りの橋の中央が崩れ、濁った水が隙間を流れている。
人が渡るだけなら、残った石と渡された板を使える。
荷車は無理だった。
フィーネが板へ足を乗せる。
濡れた木が沈み、身体がわずかに傾いた。
レンが手を差し出す。
フィーネは何も言わず、その手を取った。
一歩ずつ進む。
中央を越え、反対側へ下りる。
安全な地面へ着いても、二人の手は繋がったままだった。
フィーネが先に気づく。
「もう大丈夫です」
「ああ」
レンが手を離す。
「最初なら、手を借りなかったな」
「最初なら、レンさんより先に渡ろうともしません」
「俺を後ろへ置きたくなかったからか」
「はい」
フィーネは外套の袖を整える。
「今は、後ろへいても大丈夫です」
村へ着いたのは、昼を過ぎたころだった。
バルトが倉庫の前で待っていた。
「よく来たな。街はどうなってる?」
「あと数日で、店の食材がなくなります」
フィーネが答える。
バルトの顔が強張る。
「こっちは逆だ。運び出せないせいで、赤実が傷み始めてる」
倉庫には、木箱が積み上げられていた。
赤実。
黄色根。
乾燥させた豆。
加工所へ送る予定だった赤実の保存煮。
量は十分にある。
だが、荷車が通れる道がない。
「橋を直すのに何日かかる」
レンが尋ねる。
「石工は五日と言ってる。雨が強くなれば、もっとだ」
「別の道は?」
「北の林を抜ける古い道がある。昔は荷車も通ったが、今は使ってない」
「なぜだ」
バルトが村の北を見る。
「灰牙猪が増えた」
林の入口には、赤実の蔓が伸びている。
森の中まで続いていた。
灰牙猪は、それを餌にして数を増やしている。
「何頭いる」
「分からん。十頭以上は見た。子連れもいる」
「道の幅は?」
「木を払えば、荷車一台は通れる」
「距離は」
「街道まで半日だ」
レンは地面へしゃがみ、バルトから周辺の形を聞いた。
川。
林。
古い道。
斜面。
猪が現れる場所。
村人が使っている罠。
「二日で通せる」
レンが言う。
「本気か?」
「木を切る人間が十二人。道へ土を入れる人間が八人。荷車を直せる奴が二人。猪は道から外へ寄せる」
「どうやって?」
「熟しすぎた赤実を使う。道の北へ餌場を作る」
「また戻ってくるぞ」
「道を通す間だけでいい。近づいた猪は罠へ入れる」
「罠に入りきらなかったら?」
「俺がやる」
バルトはレンの腰にある短刀を見る。
「料理人見習いじゃなかったのか?」
「地方による」
「便利な地方ですねぇ」
フィーネが横から言った。
人を集めることはできた。
問題は、食材を誰が買うかだった。
街の商人が、今までと同じ値段を払う保証はない。
道が閉ざされていることを理由に、値を下げようとする者もいる。
「《渡り鳥亭》が先に買います」
フィーネが言った。
「店だけで使える量じゃないぞ」
バルトが答える。
「残りは、街の食堂と商人組合へ回します。私から話します」
「金は?」
フィーネは持ってきた革袋を卓へ置いた。
祭りで得た利益が入っていた。
「これを前金にします」
レンが革袋を見る。
「全部使うのか」
「銅貨は食べられませんから」
「来年の祭りは?」
「来年までに、また稼ぎますっ」
「俺がいる前提か」
「嫌なら、今のうちに返してください」
レンは革袋から手を離した。
その日のうちに、古い道の整備が始まった。
村人が木を切る。
泥へ石と枝を入れ、荷車の車輪が沈まないよう固める。
レンは林へ入り、灰牙猪の足跡を確認した。
親。
若い個体。
子。
どの方向から来て、どこへ戻っているか。
村で捨てる予定だった赤実を、道から離れた場所へ運ばせる。
匂いを広げる。
猪が餌へ集まる位置へ、縄と木を組んだ罠を置く。
すべてを捕らえる必要はない。
荷車が通る二日間だけ、道から遠ざければいい。
フィーネは村の作業台を借り、街へ送る手紙を書いた。
料理人組合。
商人組合。
《渡り鳥亭》。
必要な荷車の数。
運べる食材の量。
値段。
到着予定。
書き終えると、一番足の速い若者へ渡した。
夜。
二人はバルトの家の納屋を借りた。
寝床は干し草の上。
毛布が二枚。
雨が屋根を叩いている。
「眠れますか?」
フィーネが尋ねた。
「どこでも眠れる」
「そう言う人ほど眠らないんですよねぇ」
「お前は寝ろ」
「明日の分を確認してからです」
フィーネは油灯の近くで帳簿を開く。
村の在庫。
荷車一台へ載せる量。
街へ着くまでに傷む可能性。
売値。
運送費。
細かな数字を、一つずつ書き込んでいく。
「眼が赤いぞ」
レンが言う。
「煙が入っただけです」
「昨日も同じことを言ってた」
「よく覚えていますね」
「寝てない人間の動きは分かる」
「暗殺者の知識ですか?」
「ああ」
「料理人として役に立たない知識ですねぇ」
「今は役に立ってる」
レンはフィーネの前から帳簿を取った。
閉じる。
「寝ろ」
「まだ途中です」
「明日の朝で間に合う」
「返してください」
フィーネが手を伸ばす。
レンは届かない場所へ帳簿を置いた。
「子供ですか、あなたは」
「寝ない方が悪い」
「では、レンさんも寝てください」
「分かった」
レンは壁へ背を預けた。
フィーネも毛布へ横になる。
しばらくして、雨の音へ小さな寝息が混じった。
翌朝。
フィーネは帳簿を抱えたまま眠っているレンを見つけた。
「返さないと言っただろ」
眼を閉じたまま、レンが言う。
「起きていたんですか?」
「今起きた」
「では、どうして分かったんです?」
「お前は動く前に息を止める」
フィーネが黙る。
「……本当に、嫌な人ですねぇ」
「褒めてるのか」
「いいえっ」
二日後。
古い道を、最初の荷車が通った。
荷台には黄色根と豆。
次の荷車には赤実。
その後ろには、罠へかかった灰牙猪の肉が積まれている。
すべての猪を捕らえたわけではない。
繁殖した群れの一部だけを狩り、残りは森の奥へ追い戻した。
赤実に覆われた水路では、蔓を一度にすべて抜かず、岸留め草の周囲だけを刈った。
崩れた場所へ土を入れ、岸留め草の株を移す。
元へ戻すことはできない。
それでも、これ以上崩れる場所を減らすことはできる。
レンとフィーネは、荷車より先に街へ戻った。
雨の中を歩き続け、東門へ着いたころには日が沈んでいた。
街の食料は、予想より早く減っていた。
商人組合の備蓄は、ほとんど残っていない。
領主の倉庫から放出された麦も、各区画へ分ければ一人分はわずかだった。
《渡り鳥亭》の地下に残っているのは、豆と黄色根が一日分。
従業員用の黒パンが数個。
塩漬けの魚も使い切っていた。
「荷車は?」
佐伯が尋ねる。
「明日の朝には着きます」
フィーネが答える。
「道が崩れなければな」
「補強しました」
「この雨だ」
「それでも来ます」
佐伯は何も言わなかった。
その日の煮込みは、開店から一時間でなくなった。
店の外には、まだ人が並んでいる。
フィーネが一人ずつ頭を下げた。
明日の朝、食材が届くこと。
今日は、もう出せるものがないこと。
客は怒鳴らなかった。
落胆した顔で帰っていく。
それが、怒鳴られるより苦しかった。
幼い兄妹を連れた女が、最後まで入口に立っていた。
「パンだけでもありませんか」
フィーネが厨房を見る。
従業員用に残していた黒パンがある。
佐伯は一つ取り、女へ渡した。
代金は受け取らなかった。
店を閉めたあと。
料理人たちは、何も食べずに部屋へ戻った。
「一晩くらい食わなくても死なない」
若い料理人は、そう言って笑った。
フィーネも笑った。
佐伯だけは笑わなかった。
夜が深くなる。
レンは屋根裏の寝台へ横になっていた。
雨。
風。
遠くの船鐘。
店の中は静かだった。
やがて、二階から足音がした。
重い。
一定の歩幅。
佐伯だった。
一階へ下りる。
厨房を抜ける。
地下へ続く扉が開いた。
レンは身体を起こした。
腰の短刀を取る。
屋根裏を出た。
地下室へ下りると、奥に灯りが見えた。
《異界厨房》へ続く扉。
その前に、佐伯が立っている。
扉の前へ張られていた糸は外されていた。
床の灰には、佐伯の足跡が残っている。
佐伯の右手が、取っ手の前で止まっていた。
触れてはいない。
触れれば、扉は開く。
「開けるのか」
レンが言う。
佐伯は振り返らなかった。
「まだ開けてない」
「質問に答えろ」
佐伯の手は動かない。
「七年前も、最初はまだ大丈夫だと思ってた」
低い声だった。
「倉庫に麦がある。ほかの街から荷車が来る。明日になれば船が入る。そう言って待った」
「今回は荷車が来る」
「道が崩れたら?」
「別の道を探す」
「それまで、何を食わせる」
「残ってるものを分ける」
「もう残ってねえ」
「俺たちの分はある」
「四つだけだ」
佐伯は取っ手を見る。
「さっきの兄妹に一つずつ渡せば、残りは二つだ。この店だけで、腹を空かせた人間が何十人もいる」
「扉を開けば増える」
「ああ」
「約束を破ることになる」
「ああ」
「俺がお前を殺す」
「分かってる」
佐伯の声に、迷いはなかった。
それでも、取っ手には触れない。
「殺されても出すのか」
レンが尋ねる。
「七年前と同じならな」
「同じじゃない」
「何が違う」
「今回は、お前一人じゃない」
階段から、別の足音が聞こえた。
フィーネが油灯を持って下りてくる。
寝間着の上へ外套だけを羽織っていた。
「二人とも、起こすなら声をかけてください」
「寝てろ」
佐伯が言う。
「この状況で眠れると思いますか?」
フィーネは扉の前まで来る。
佐伯の手を見る。
「店主。手を下ろしてください」
「明日、荷車が来なかったらどうする」
「来ます」
「絶対か?」
フィーネは答えなかった。
絶対とは言えない。
雨は降り続いている。
直した道が再び崩れる可能性もある。
荷車が灰牙猪に襲われることもある。
車輪が壊れるかもしれない。
「店主」
フィーネは佐伯を見上げる。
「祭りの料理を作るとき、レンさんは最初、一人で全部やろうとしました」
「今その話か?」
「硬くて、武器みたいなものができました」
「余計な話をするな」
レンが言う。
「次は、鍋の中で崩れました」
「それも言うな」
「一人で正しいものを作ろうとしたからです」
フィーネは続ける。
「魚を選んだ人。買った人。焼いた人。包んだ人。食べて、意見を言った人。全員がいたから、最後は二百個売れました」
佐伯の手がわずかに下がる。
「今回も同じです」
「料理と飢えを一緒にするな」
「食べてもらうためにしていることは同じです」
フィーネの声は震えていなかった。
「バルトさんたちが食材を用意しました。村の方々が道を直しました。レンさんが猪を追い、荷車を通しました。街では料理人組合が、食材を受け入れる場所を空けています」
「まだ届いてない」
「あと数時間です」
「届かなかったら」
「そのとき、もう一度考えます」
「遅いかもしれん」
「一人で今決めるよりは、ましです」
フィーネは佐伯の右手を取った。
取っ手から離す。
「七年前、店主は一人で食べ物を出しました」
「ほかに方法がなかった」
「はい。だから、今回は私たちにもやらせてください」
佐伯はフィーネを見る。
次に、レンを見る。
「本当に、明日の朝まで待てると思うか」
レンが答える。
「待たせる」
「力ずくでか?」
「ああ」
「お前らしいな」
佐伯は短く息を吐いた。
扉から一歩離れる。
白い光は出ない。
《異界厨房》は開かなかった。
三人は食堂へ戻った。
従業員用に残していた四つの黒パンを、一つの籠へ入れる。
薄く切る。
水へ豆を少量入れ、塩だけで煮た。
一人分にも足りないものを、三人で分ける。
「まずいな」
佐伯が言う。
「店主が作ったんでしょう?」
フィーネが答える。
「材料がない」
「言い訳ですねぇ」
「お前が作ればよかっただろ」
「扉を開けようとした人へ任せない方がよかったですか?」
佐伯が黙る。
レンは薄い豆の汁を飲んだ。
出汁はない。
豆も硬い。
塩気だけが舌に残る。
「朝になったら作り直す」
レンが言う。
佐伯が見る。
「食材が届いたらな」
「届く」
「絶対か?」
「俺が通した道だ」
「自信だけは料理人らしくなってきたな」
夜明け前。
東門から鐘の音が響いた。
一度。
二度。
続いて、荷車の車輪が石畳を進む音が聞こえてくる。
フィーネが椅子から立ち上がった。
三人は店の外へ出る。
雨は弱くなっていた。
通りの向こうから、灯りが近づいてくる。
一台。
二台。
三台。
泥に覆われた荷車が、列を作って進んでいた。
先頭の御者台には、バルトが座っている。
「遅くなった!」
大きな声が通りへ響く。
「途中で車輪が一つ外れた!」
「直したんですか?」
フィーネが駆け寄る。
「縄で縛った! 帰りまでは保たん!」
「帰りの心配は、あとでしますっ」
荷台の布が外される。
黄色根。
豆。
赤実。
灰牙猪の肉。
街の人間が、自分の家から出てきた。
料理人組合から来た者たちも集まる。
食材が、それぞれの食堂と市場へ分けられていく。
《渡り鳥亭》には、黄色根と豆。
灰牙猪の肉。
熟した赤実が運び込まれた。
佐伯は肉の状態を確認する。
レンは黄色根を洗う。
フィーネは数量を帳簿へ書き、代金を渡した。
言葉で決めなくても、三人は同時に動いていた。
大鍋へ、灰牙猪の肉を入れる。
表面を焼く。
強い脂の匂いが立つ。
刻んだ玉葱。
赤実。
豆。
水。
肉が柔らかくなるまで煮る。
黄色根を加える。
灰牙猪の脂を、赤実の酸味が軽くした。
肉と豆の出汁を黄色根が吸い、煮崩れた部分が汁へ溶けていく。
塩を入れる。
一度、レンが味を見る。
「薄い」
「煮詰めろ」
佐伯が答える。
「客が待ってる」
「水みたいなものを出すよりましだ」
「火を強くする」
「肉が硬くなる」
「では、鍋を分けますっ」
フィーネが別の鍋を運んでくる。
半分を移し、二つの鍋で煮詰める。
佐伯が片方を見る。
レンがもう片方を見る。
日が昇るころ。
店の前には、再び人が並んでいた。
最初の器は、昨日パンを求めた女と、その子供たちへ渡された。
赤い煮込み。
黄色根。
豆。
小さく切った灰牙猪の肉。
子供が匙ですくう。
息を吹きかけ、口へ入れた。
「熱い」
「昨日も同じことを言った子がいたな」
レンが呟く。
「祭りの女の子ですか?」
フィーネが尋ねる。
「ああ」
「覚えていたんですね」
「二回来たからな」
「一人半のお客様ですねっ」
次の器を出す。
その次。
店の前に並んだ人間へ、煮込みを渡していく。
祭りの料理ほど見た目は整っていない。
赤実の形も、黄色根の大きさも揃っていなかった。
それでも温かかった。
食べた者の腹へ残った。
昼を過ぎるころには、街のほかの食堂からも煙が上がっていた。
運ばれた食材が、料理へ変わっている。
雨は止み始めていた。
閉店後。
空になった鍋を洗いながら、佐伯が言った。
「昨日、お前らが来なければ開けてた」
レンは手を止めない。
「知ってる」
「開けてたら、殺したか」
「ああ」
「迷わず?」
レンの手が、わずかに止まる。
フィーネが二人を見る。
「昨日は、どちらも起きませんでした」
「ああ」
佐伯が答える。
「だが、また同じことが起きたら、俺は扉の前へ行く」
「その前に止めます」
フィーネが言う。
「次は間に合わんかもしれん」
「間に合わせます」
「簡単に言うな」
「店主にだけは言われたくありませんっ」
佐伯は笑わなかった。
レンも答えなかった。
今回は、扉を開かずに済んだ。
赤実が広がったことで崩れた道を、赤実を育てる村の人間が直した。
その赤実を食べて増えた灰牙猪が、街の人間の腹を満たした。
佐伯が持ち込んだものによって起きた問題を、佐伯が持ち込んだものを使って乗り越えた。
正しかったのかは分からない。
何もなかったころへ戻ったわけでもない。
ただ、この世界にすでにあるものを使い、人の手で朝まで繋いだ。
《異界厨房》の扉は開かなかった。
それでも。
佐伯が、あの扉の前へ立つ理由までは消えていなかった。




