↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/72

祭りを◯す


レンが《渡り鳥亭》の料理人見習いとして正式に雇われてから、ひと月が過ぎた。


最初の七日間。


フィーネは、レンが厨房へ入るたびに私物の刃物を預かった。


店の包丁も、営業前と営業後に一本ずつ数える。


レンが食材庫へ行けば、少し離れた場所から見張った。


地下へ下りるときは、必ず佐伯とフィーネが同行した。


奥の扉は、一度も開かなかった。


佐伯は約束どおり、《異界厨房》から何も持ち出していない。


地上へ届いた食材だけが帳簿へ記され、厨房へ運び込まれた。


二週目。


フィーネは、レンが普通の食材庫へ入るたびについてくることをやめた。


「見張らなくていいのか」


レンが尋ねると、


「往復する時間が無駄だと判断しただけですっ」


と答えた。


代わりに、持ち出した食材と数量を紙へ書くよう命じられた。


三週目。


レンが背後を通っても、フィーネは作業の手を止めなくなった。


最初のころは、包丁を握ったまま必ず振り返っていた。


今では、声だけで指示を飛ばしてくる。


「黄色根を二つ、玉葱を三つですっ」


「分かった」


「昨日みたいに、大きさだけ揃えて満足しないでくださいね」


「何が悪かった」


「用途が違うのに、全部同じ形へ切ったところです」


「大きさを揃えろと言っただろ」


「煮込み用と揚げ物用を同じ厚さにする人がいますかっ」


「先に言え」


「普通は見れば分かります」


「料理人の普通を、俺に求めるな」


「料理人見習いでしょう?」


そのやり取りを、ほかの料理人たちは聞き流すようになっていた。


レンが佐伯を殺そうとしたことは、知らされていない。


表向きには、試用期間を終えた少し変わった新人だった。


包丁の扱いだけは異様にうまい。


一度教えた手順は忘れない。


鍋の位置も、調味料の置き場所も、注文の順番も正確に覚える。


だが、料理をさせると何かが足りなかった。


塩を量れば、量った分の味にしかならない。


火を見ろと言われれば、炎だけを見る。


同じ材料と手順なら再現できる。


一つでも条件が変わると、途端に正解が分からなくなった。


「出汁が昨日より薄いです」


フィーネが鍋の味を見る。


「同じ量を使った」


「今日の魚は小さいでしょう?」


「骨の数は同じだ」


「大きさが違いますっ」


「骨一本分の味が違うのか」


「違いますよぉ」


「面倒だな」


「料理に向いていない人の感想ですねっ」


失敗した鍋を、佐伯は捨てなかった。


塩を足す。


香草を減らす。


別の食材を加える。


それでも駄目なら、ほかの料理へ作り替える。


何が足りないかを、食べながらレンへ説明した。


レンも、自分で作ったものはすべて食べた。


まずいから残す、という考えはなかった。


四週目に入るころには、簡単な汁物と焼いた野菜くらいなら、賄いへ出せるようになっていた。


客へ出す料理は、まだ任されない。


「いつまで見習いなんだ」


閉店後、鍋を洗いながらレンが尋ねる。


「自分で決めることじゃねえ」


佐伯が答えた。


「何ができれば終わる」


「客へ食わせられるものが作れたらだ」


「今日の汁物は全員食べた」


「身内は客じゃねえ」


「金を取れば客になる」


「先に金を取る方法を考えるな」


翌朝。


空が白み始める前に、フィーネが荷車を裏口へ回してきた。


御者台の隣には、空の籠が積まれている。


「今日は港の市場へ行きます」


「仕入れか」


「はい。白身魚と貝、それから塩漬け用の小魚です」


「佐伯は?」


「店主は仕込みです。レンさんが荷物持ちですっ」


「監視も兼ねてるのか」


「もちろんです」


レンは荷台へ乗ろうとして、フィーネの腰を見る。


いつも持っていた小さな鐘がなかった。


「鐘は?」


フィーネの手が止まる。


「店へ置いてきました」


「俺が何かしたらどうする」


「大声を出します」


「前と変わらないな」


「少しは変わっていますよ」


それ以上は説明せず、フィーネは手綱を引いた。


荷車が動き出す。


港の朝は早い。


沖から戻った漁船が次々と桟橋へつき、魚の入った箱が運び下ろされていた。


石畳は海水で濡れている。


魚の鱗。


砕けた氷。


千切れた海藻。


潮の匂いへ、魚の血と煙の臭いが混ざっていた。


市場には、すでに料理人や商人が集まっている。


威勢のよい声が飛び交い、木箱の蓋が次々と開けられていた。


「フィーネちゃん、今日は店主じゃないのか」


白い髭を生やした魚屋が声をかけてくる。


「店主に来られると、必要のない魚まで買いますのでっ」


「そっちの若いのは?」


「新しい料理人見習いです。料理はできませんが、荷物は持てますっ」


「まだその紹介を続けるのか」


レンが言う。


魚屋が笑う。


「仲がいいな。フィーネちゃんの婿か?」


「監視対象ですっ」


「紹介が悪化してるぞ」


「事実ですので」


魚屋は意味が分からないまま、再び笑った。


フィーネは木箱の前へしゃがむ。


中には銀色の魚が並んでいた。


どれもレンの腕ほどの長さがある。


「三尾選んでください」


フィーネが言う。


「俺が?」


「ひと月も厨房にいるんです。魚の見分け方くらい覚えましたよね?」


レンも木箱の前へしゃがんだ。


魚の目を見る。


白く濁ったものは避ける。


鰓を開き、内側の色を確かめる。


腹を指で押し、身の張りを見る。


鱗が剥がれず、表面に光沢が残っているもの。


佐伯から教わったとおりに選ぶ。


三尾を木箱の端へ寄せた。


フィーネが一尾ずつ確認する。


「二尾はいいですね」


「残りは?」


「新鮮ですが、腹が柔らかいです。帰るまでに崩れます」


「目も鰓も問題ない」


「昨日から餌を食べていなかった魚かもしれません。身が少し痩せています」


フィーネは別の一尾を持ち上げる。


大きさは少し小さい。


だが、背から腹まで身が厚く、指で押してもすぐに形が戻った。


「こちらにします」


「小さいぞ」


「大きさで値段が決まるなら、仕入れは簡単なんですけどねぇ」


魚屋が腕を組む。


「そいつは高いぞ。今朝上がった中じゃ一番だ」


「では、先ほどの三尾と同じ値段でお願いします」


「今の話を聞いてたか?」


「聞いていたから言っていますっ」


「無理だ」


「では、貝は隣のお店で買います」


フィーネが立ち上がる。


「待て待て。貝もまとめて買うなら少し引く」


「小魚も買いますよ?」


「分かった。全部まとめてなら、その魚を一割引く」


「二割」


「一割だ」


「では、一割と小魚を一籠おまけで」


「おまけが一割より高いだろ」


二人のやり取りを聞きながら、レンは木箱の奥を見る。


上に並べられた魚の下。


濡れた布の陰へ、さらに身の厚い一尾が隠されていた。


「それは?」


レンが指差す。


魚屋の顔がわずかに動いた。


フィーネが布を持ち上げる。


「ほぁ~」


今朝並んでいたものより、ひと回り大きな魚が現れた。


鱗には傷がなく、目も澄んでいる。


「これは、どちらのお客様用ですか?」


フィーネが笑顔で尋ねる。


「いや、それは……」


「私どもには売れない魚なんでしょうか?」


「そういうわけじゃねえが」


「では、先ほどのお値段でいただきますっ」


「勘弁してくれ」


最終的に、フィーネは隠されていた魚を含めた三尾と、貝二籠、小魚一籠を予定より安く買った。


荷物を荷車へ積みながら、魚屋がレンを見る。


「お前、もうくるな」


「俺が決めることじゃない」


「では、次回も連れてきますねっ」


「本当に仲がいいな、お前ら」


「よくありません」


フィーネは即答した。


だが、声には以前の冷たさがなかった。


ほかの仕入れを終え、店へ戻るころには、太陽が港の屋根を照らしていた。


佐伯は仕入れた魚を確認する。


隠されていた一尾を持ち上げ、腹と鰓を見る。


「いい魚だ」


「レンさんが見つけました」


フィーネが言う。


「珍しく役に立ったな」


「毎日働いてる」


「料理以外ではな」


佐伯は魚を作業台へ置いた。


「レン。これで今日の賄いを作れ」


「何を作る」


「自分で考えろ」


「またそれか」


「ひと月たったんだ。そろそろ材料を見て決めろ」


佐伯は厨房の奥を指差す。


「フィーネ、お前が見ろ」


「私がですか?」


「仕入れに連れていった責任だ」


「見つけたのはレンさんです」


「買ったのはお前だ」


佐伯はそれだけ言い、昼の仕込みへ戻っていった。


レンは魚を見る。


身が厚い。


脂もある。


煮れば崩れにくい。


だが、せっかく鮮度がいい。


長く火を入れるより、皮を焼いた方がいい。


「焼く」


「それだけですか?」


フィーネが尋ねる。


「黄色根を添える。玉葱でソースを作る」


「悪くありません」


「上からだな」


「指導役ですのでっ」


レンは魚の鱗を落とした。


腹を開き、内臓を取り除く。


頭を落とし、背骨に沿って包丁を入れた。


刃先は骨の形に沿い、ほとんど身を残さず進んでいく。


三枚に下ろしたあと、腹骨を薄くすき取る。


フィーネが隣から覗き込む。


「魚を下ろすのは、本当に上手ですね」


「人間より構造が単純だからな」


「比較対象を口にしないでください」


切り分けた身へ塩を振る。


黄色根は柔らかく茹で、木匙で潰した。


温めた乳と少量の油を加える。


白っぽい黄色根が滑らかになり、湯気とともに、穀物に似た甘い香りが立った。


玉葱は薄く切る。


油を引いた小鍋へ入れ、弱い火で炒めた。


最初は刺激の強かった香りが、時間とともに甘く変わっていく。


魚の出汁を加える。


さらに果実酢を少量。


煮詰めると、淡い褐色のソースになった。


「味見してください」


フィーネが小さな匙を差し出す。


レンはソースをすくい、口へ入れた。


玉葱の甘み。


魚の出汁。


最後に、酢の酸味が残る。


「酸っぱい」


「少し強いですね。黄色根と合わせるなら、このくらいでもいいと思いますけど」


「塩は?」


「まだ足さない方がいいです。魚にも振っていますから」


魚の皮から水分を拭き取る。


鍋へ油を引き、皮を下にして置いた。


高い音が鳴る。


白い身の縁が、少しずつ不透明へ変わっていく。


レンが魚を返そうとする。


「まだです」


フィーネの手が、レンの手首を押さえた。


レンの動きが止まる。


「皮が鍋へついています。無理に動かすと剥がれます」


「いつ返す」


「自然に離れるまでです」


フィーネは鍋を見る。


レンも、手首に置かれた手ではなく、魚へ視線を戻した。


しばらくすると、皮の端がわずかに浮く。


鍋を揺らす。


魚が油の上を滑った。


「今ですっ」


魚を返す。


焼けた皮は崩れていない。


細かな泡を残したまま固まり、濃いきつね色になっていた。


フィーネが手を離す。


「火を少し落としてください。身の方は短くて大丈夫です」


「分かった」


焼き上がった魚を皿へ置く。


黄色根を添え、玉葱のソースをかける。


最後に香草を取った。


三枚の皿のうち、一枚にだけ香草を乗せない。


フィーネがそれを見る。


「忘れていますよ」


「お前の分だ」


「どうして分かるんですか?」


「賄いに苦葉が入ってると、いつも皿の端へ避けてる」


フィーネが黙る。


「嫌いなんだろ」


「嫌いというほどではありません」


「なら乗せるか」


「なくても問題ありませんっ」


「どっちだ」


「……なくていいです」


レンは香草を元の籠へ戻した。


「よく見ていますね」


「見るのが仕事だったからな」


「今は料理人見習いです」


「お前も俺を見てるだろ」


「監視ですから」


「同じだ」


「違いますっ」


三枚の皿を食堂へ運ぶ。


佐伯も仕事の手を止め、卓へ座った。


焼いた魚。


黄色根。


玉葱のソース。


最初に香るのは、焼けた皮と油だった。


ナイフを入れると、皮が小さく音を立てて割れる。


内側の身は白く、わずかな水分を残していた。


口へ入れる。


皮には強い香ばしさがある。


身は柔らかく、噛むと魚の脂と甘みが出た。


玉葱のソースには酸味がある。


そのままでは少し強い。


だが、脂の乗った魚と合わせると、後味を軽くした。


黄色根は滑らかだった。


乳のまろやかさと、根そのものの甘みが残っている。


ソースを吸わせると、酸味が弱まり、玉葱の甘さがはっきりした。


フィーネは黙って二口目を食べる。


「どうだ」


レンが尋ねた。


「皮はきれいに焼けています」


「味は?」


「ソースの酸味が少し強いです。黄色根も、もう少し滑らかにできます」


「うまいのか」


フィーネは魚をもう一口食べた。


少し考える。


「……悔しいですが、おいしいです」


佐伯が笑う。


「ひと月で、ようやく一人からおいしいが出たな」


「こいつも役に立ってる」


レンが言う。


「ほとんど自分で作ったような言い方ですねぇ」


「そこまでは言ってない」


「半分くらいは私の料理ですっ」


「魚を選んだのは俺だ」


「買ったのは私です」


「焼いたのは俺だ」


「返す時期を教えたのは私です」


佐伯が二人を見る。


「面倒だから、二人の料理でいいだろ」


「よくありません」


フィーネは答えながら、皿に残っていた魚を食べ終えた。


黄色根も、ソースも残っていない。


「まだ食うか」


レンが尋ねる。


「余っているんですか?」


「魚はある」


「廃棄するくらいなら、いただきます」


「最初からそう言え」


「食材を無駄にしないためですっ」


レンは厨房へ戻り、残っていた魚をもう一切れ焼いた。


今度は、ソースへ出汁を少し足す。


酸味を弱める。


フィーネの皿へ置くと、彼女は何も言わずに受け取った。


佐伯はそれを見ながら、自分の皿を空にした。


「レン」


「何だ」


「ひと月後に、潮迎え祭がある」


港へ春の船が集まり、街中へ屋台が並ぶ祭りだという。


《渡り鳥亭》も、毎年店先で料理を売っている。


「今年は一品、お前に任せる」


レンの手が止まる。


「客へ出すのか」


「ああ」


「まだ早くありません?」


フィーネが尋ねる。


「だから、ひと月ある」


「何を作ればいい」


「自分で考えろ」


「そればかりだな」


「料理人だからな」


佐伯は立ち上がり、空いた皿を重ねた。


「フィーネ。面倒を見ろ」


「私が?」


「今のは二人の料理なんだろ」


自分で言った言葉を返され、フィーネが詰まる。


「……仕方ありませんねぇ」


彼女は残っていた魚を食べ終え、匙を置いた。


「明日から、祭りへ出す料理を考えます。朝の仕入れにも来てください」


「監視か」


「荷物持ちですっ」


フィーネは皿を重ね、厨房へ歩き出す。


レンへ背中を向けたまま。


ひと月前なら、最後までレンから目を逸らさなかった。


今は、振り返りもしない。


「何してるんですか。早く皿を持ってくださいっ」


「分かってる」


レンは残った皿を取り、そのあとを追った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。