祭りを◯す
レンが《渡り鳥亭》の料理人見習いとして正式に雇われてから、ひと月が過ぎた。
最初の七日間。
フィーネは、レンが厨房へ入るたびに私物の刃物を預かった。
店の包丁も、営業前と営業後に一本ずつ数える。
レンが食材庫へ行けば、少し離れた場所から見張った。
地下へ下りるときは、必ず佐伯とフィーネが同行した。
奥の扉は、一度も開かなかった。
佐伯は約束どおり、《異界厨房》から何も持ち出していない。
地上へ届いた食材だけが帳簿へ記され、厨房へ運び込まれた。
二週目。
フィーネは、レンが普通の食材庫へ入るたびについてくることをやめた。
「見張らなくていいのか」
レンが尋ねると、
「往復する時間が無駄だと判断しただけですっ」
と答えた。
代わりに、持ち出した食材と数量を紙へ書くよう命じられた。
三週目。
レンが背後を通っても、フィーネは作業の手を止めなくなった。
最初のころは、包丁を握ったまま必ず振り返っていた。
今では、声だけで指示を飛ばしてくる。
「黄色根を二つ、玉葱を三つですっ」
「分かった」
「昨日みたいに、大きさだけ揃えて満足しないでくださいね」
「何が悪かった」
「用途が違うのに、全部同じ形へ切ったところです」
「大きさを揃えろと言っただろ」
「煮込み用と揚げ物用を同じ厚さにする人がいますかっ」
「先に言え」
「普通は見れば分かります」
「料理人の普通を、俺に求めるな」
「料理人見習いでしょう?」
そのやり取りを、ほかの料理人たちは聞き流すようになっていた。
レンが佐伯を殺そうとしたことは、知らされていない。
表向きには、試用期間を終えた少し変わった新人だった。
包丁の扱いだけは異様にうまい。
一度教えた手順は忘れない。
鍋の位置も、調味料の置き場所も、注文の順番も正確に覚える。
だが、料理をさせると何かが足りなかった。
塩を量れば、量った分の味にしかならない。
火を見ろと言われれば、炎だけを見る。
同じ材料と手順なら再現できる。
一つでも条件が変わると、途端に正解が分からなくなった。
「出汁が昨日より薄いです」
フィーネが鍋の味を見る。
「同じ量を使った」
「今日の魚は小さいでしょう?」
「骨の数は同じだ」
「大きさが違いますっ」
「骨一本分の味が違うのか」
「違いますよぉ」
「面倒だな」
「料理に向いていない人の感想ですねっ」
失敗した鍋を、佐伯は捨てなかった。
塩を足す。
香草を減らす。
別の食材を加える。
それでも駄目なら、ほかの料理へ作り替える。
何が足りないかを、食べながらレンへ説明した。
レンも、自分で作ったものはすべて食べた。
まずいから残す、という考えはなかった。
四週目に入るころには、簡単な汁物と焼いた野菜くらいなら、賄いへ出せるようになっていた。
客へ出す料理は、まだ任されない。
「いつまで見習いなんだ」
閉店後、鍋を洗いながらレンが尋ねる。
「自分で決めることじゃねえ」
佐伯が答えた。
「何ができれば終わる」
「客へ食わせられるものが作れたらだ」
「今日の汁物は全員食べた」
「身内は客じゃねえ」
「金を取れば客になる」
「先に金を取る方法を考えるな」
翌朝。
空が白み始める前に、フィーネが荷車を裏口へ回してきた。
御者台の隣には、空の籠が積まれている。
「今日は港の市場へ行きます」
「仕入れか」
「はい。白身魚と貝、それから塩漬け用の小魚です」
「佐伯は?」
「店主は仕込みです。レンさんが荷物持ちですっ」
「監視も兼ねてるのか」
「もちろんです」
レンは荷台へ乗ろうとして、フィーネの腰を見る。
いつも持っていた小さな鐘がなかった。
「鐘は?」
フィーネの手が止まる。
「店へ置いてきました」
「俺が何かしたらどうする」
「大声を出します」
「前と変わらないな」
「少しは変わっていますよ」
それ以上は説明せず、フィーネは手綱を引いた。
荷車が動き出す。
港の朝は早い。
沖から戻った漁船が次々と桟橋へつき、魚の入った箱が運び下ろされていた。
石畳は海水で濡れている。
魚の鱗。
砕けた氷。
千切れた海藻。
潮の匂いへ、魚の血と煙の臭いが混ざっていた。
市場には、すでに料理人や商人が集まっている。
威勢のよい声が飛び交い、木箱の蓋が次々と開けられていた。
「フィーネちゃん、今日は店主じゃないのか」
白い髭を生やした魚屋が声をかけてくる。
「店主に来られると、必要のない魚まで買いますのでっ」
「そっちの若いのは?」
「新しい料理人見習いです。料理はできませんが、荷物は持てますっ」
「まだその紹介を続けるのか」
レンが言う。
魚屋が笑う。
「仲がいいな。フィーネちゃんの婿か?」
「監視対象ですっ」
「紹介が悪化してるぞ」
「事実ですので」
魚屋は意味が分からないまま、再び笑った。
フィーネは木箱の前へしゃがむ。
中には銀色の魚が並んでいた。
どれもレンの腕ほどの長さがある。
「三尾選んでください」
フィーネが言う。
「俺が?」
「ひと月も厨房にいるんです。魚の見分け方くらい覚えましたよね?」
レンも木箱の前へしゃがんだ。
魚の目を見る。
白く濁ったものは避ける。
鰓を開き、内側の色を確かめる。
腹を指で押し、身の張りを見る。
鱗が剥がれず、表面に光沢が残っているもの。
佐伯から教わったとおりに選ぶ。
三尾を木箱の端へ寄せた。
フィーネが一尾ずつ確認する。
「二尾はいいですね」
「残りは?」
「新鮮ですが、腹が柔らかいです。帰るまでに崩れます」
「目も鰓も問題ない」
「昨日から餌を食べていなかった魚かもしれません。身が少し痩せています」
フィーネは別の一尾を持ち上げる。
大きさは少し小さい。
だが、背から腹まで身が厚く、指で押してもすぐに形が戻った。
「こちらにします」
「小さいぞ」
「大きさで値段が決まるなら、仕入れは簡単なんですけどねぇ」
魚屋が腕を組む。
「そいつは高いぞ。今朝上がった中じゃ一番だ」
「では、先ほどの三尾と同じ値段でお願いします」
「今の話を聞いてたか?」
「聞いていたから言っていますっ」
「無理だ」
「では、貝は隣のお店で買います」
フィーネが立ち上がる。
「待て待て。貝もまとめて買うなら少し引く」
「小魚も買いますよ?」
「分かった。全部まとめてなら、その魚を一割引く」
「二割」
「一割だ」
「では、一割と小魚を一籠おまけで」
「おまけが一割より高いだろ」
二人のやり取りを聞きながら、レンは木箱の奥を見る。
上に並べられた魚の下。
濡れた布の陰へ、さらに身の厚い一尾が隠されていた。
「それは?」
レンが指差す。
魚屋の顔がわずかに動いた。
フィーネが布を持ち上げる。
「ほぁ~」
今朝並んでいたものより、ひと回り大きな魚が現れた。
鱗には傷がなく、目も澄んでいる。
「これは、どちらのお客様用ですか?」
フィーネが笑顔で尋ねる。
「いや、それは……」
「私どもには売れない魚なんでしょうか?」
「そういうわけじゃねえが」
「では、先ほどのお値段でいただきますっ」
「勘弁してくれ」
最終的に、フィーネは隠されていた魚を含めた三尾と、貝二籠、小魚一籠を予定より安く買った。
荷物を荷車へ積みながら、魚屋がレンを見る。
「お前、もうくるな」
「俺が決めることじゃない」
「では、次回も連れてきますねっ」
「本当に仲がいいな、お前ら」
「よくありません」
フィーネは即答した。
だが、声には以前の冷たさがなかった。
ほかの仕入れを終え、店へ戻るころには、太陽が港の屋根を照らしていた。
佐伯は仕入れた魚を確認する。
隠されていた一尾を持ち上げ、腹と鰓を見る。
「いい魚だ」
「レンさんが見つけました」
フィーネが言う。
「珍しく役に立ったな」
「毎日働いてる」
「料理以外ではな」
佐伯は魚を作業台へ置いた。
「レン。これで今日の賄いを作れ」
「何を作る」
「自分で考えろ」
「またそれか」
「ひと月たったんだ。そろそろ材料を見て決めろ」
佐伯は厨房の奥を指差す。
「フィーネ、お前が見ろ」
「私がですか?」
「仕入れに連れていった責任だ」
「見つけたのはレンさんです」
「買ったのはお前だ」
佐伯はそれだけ言い、昼の仕込みへ戻っていった。
レンは魚を見る。
身が厚い。
脂もある。
煮れば崩れにくい。
だが、せっかく鮮度がいい。
長く火を入れるより、皮を焼いた方がいい。
「焼く」
「それだけですか?」
フィーネが尋ねる。
「黄色根を添える。玉葱でソースを作る」
「悪くありません」
「上からだな」
「指導役ですのでっ」
レンは魚の鱗を落とした。
腹を開き、内臓を取り除く。
頭を落とし、背骨に沿って包丁を入れた。
刃先は骨の形に沿い、ほとんど身を残さず進んでいく。
三枚に下ろしたあと、腹骨を薄くすき取る。
フィーネが隣から覗き込む。
「魚を下ろすのは、本当に上手ですね」
「人間より構造が単純だからな」
「比較対象を口にしないでください」
切り分けた身へ塩を振る。
黄色根は柔らかく茹で、木匙で潰した。
温めた乳と少量の油を加える。
白っぽい黄色根が滑らかになり、湯気とともに、穀物に似た甘い香りが立った。
玉葱は薄く切る。
油を引いた小鍋へ入れ、弱い火で炒めた。
最初は刺激の強かった香りが、時間とともに甘く変わっていく。
魚の出汁を加える。
さらに果実酢を少量。
煮詰めると、淡い褐色のソースになった。
「味見してください」
フィーネが小さな匙を差し出す。
レンはソースをすくい、口へ入れた。
玉葱の甘み。
魚の出汁。
最後に、酢の酸味が残る。
「酸っぱい」
「少し強いですね。黄色根と合わせるなら、このくらいでもいいと思いますけど」
「塩は?」
「まだ足さない方がいいです。魚にも振っていますから」
魚の皮から水分を拭き取る。
鍋へ油を引き、皮を下にして置いた。
高い音が鳴る。
白い身の縁が、少しずつ不透明へ変わっていく。
レンが魚を返そうとする。
「まだです」
フィーネの手が、レンの手首を押さえた。
レンの動きが止まる。
「皮が鍋へついています。無理に動かすと剥がれます」
「いつ返す」
「自然に離れるまでです」
フィーネは鍋を見る。
レンも、手首に置かれた手ではなく、魚へ視線を戻した。
しばらくすると、皮の端がわずかに浮く。
鍋を揺らす。
魚が油の上を滑った。
「今ですっ」
魚を返す。
焼けた皮は崩れていない。
細かな泡を残したまま固まり、濃いきつね色になっていた。
フィーネが手を離す。
「火を少し落としてください。身の方は短くて大丈夫です」
「分かった」
焼き上がった魚を皿へ置く。
黄色根を添え、玉葱のソースをかける。
最後に香草を取った。
三枚の皿のうち、一枚にだけ香草を乗せない。
フィーネがそれを見る。
「忘れていますよ」
「お前の分だ」
「どうして分かるんですか?」
「賄いに苦葉が入ってると、いつも皿の端へ避けてる」
フィーネが黙る。
「嫌いなんだろ」
「嫌いというほどではありません」
「なら乗せるか」
「なくても問題ありませんっ」
「どっちだ」
「……なくていいです」
レンは香草を元の籠へ戻した。
「よく見ていますね」
「見るのが仕事だったからな」
「今は料理人見習いです」
「お前も俺を見てるだろ」
「監視ですから」
「同じだ」
「違いますっ」
三枚の皿を食堂へ運ぶ。
佐伯も仕事の手を止め、卓へ座った。
焼いた魚。
黄色根。
玉葱のソース。
最初に香るのは、焼けた皮と油だった。
ナイフを入れると、皮が小さく音を立てて割れる。
内側の身は白く、わずかな水分を残していた。
口へ入れる。
皮には強い香ばしさがある。
身は柔らかく、噛むと魚の脂と甘みが出た。
玉葱のソースには酸味がある。
そのままでは少し強い。
だが、脂の乗った魚と合わせると、後味を軽くした。
黄色根は滑らかだった。
乳のまろやかさと、根そのものの甘みが残っている。
ソースを吸わせると、酸味が弱まり、玉葱の甘さがはっきりした。
フィーネは黙って二口目を食べる。
「どうだ」
レンが尋ねた。
「皮はきれいに焼けています」
「味は?」
「ソースの酸味が少し強いです。黄色根も、もう少し滑らかにできます」
「うまいのか」
フィーネは魚をもう一口食べた。
少し考える。
「……悔しいですが、おいしいです」
佐伯が笑う。
「ひと月で、ようやく一人からおいしいが出たな」
「こいつも役に立ってる」
レンが言う。
「ほとんど自分で作ったような言い方ですねぇ」
「そこまでは言ってない」
「半分くらいは私の料理ですっ」
「魚を選んだのは俺だ」
「買ったのは私です」
「焼いたのは俺だ」
「返す時期を教えたのは私です」
佐伯が二人を見る。
「面倒だから、二人の料理でいいだろ」
「よくありません」
フィーネは答えながら、皿に残っていた魚を食べ終えた。
黄色根も、ソースも残っていない。
「まだ食うか」
レンが尋ねる。
「余っているんですか?」
「魚はある」
「廃棄するくらいなら、いただきます」
「最初からそう言え」
「食材を無駄にしないためですっ」
レンは厨房へ戻り、残っていた魚をもう一切れ焼いた。
今度は、ソースへ出汁を少し足す。
酸味を弱める。
フィーネの皿へ置くと、彼女は何も言わずに受け取った。
佐伯はそれを見ながら、自分の皿を空にした。
「レン」
「何だ」
「ひと月後に、潮迎え祭がある」
港へ春の船が集まり、街中へ屋台が並ぶ祭りだという。
《渡り鳥亭》も、毎年店先で料理を売っている。
「今年は一品、お前に任せる」
レンの手が止まる。
「客へ出すのか」
「ああ」
「まだ早くありません?」
フィーネが尋ねる。
「だから、ひと月ある」
「何を作ればいい」
「自分で考えろ」
「そればかりだな」
「料理人だからな」
佐伯は立ち上がり、空いた皿を重ねた。
「フィーネ。面倒を見ろ」
「私が?」
「今のは二人の料理なんだろ」
自分で言った言葉を返され、フィーネが詰まる。
「……仕方ありませんねぇ」
彼女は残っていた魚を食べ終え、匙を置いた。
「明日から、祭りへ出す料理を考えます。朝の仕入れにも来てください」
「監視か」
「荷物持ちですっ」
フィーネは皿を重ね、厨房へ歩き出す。
レンへ背中を向けたまま。
ひと月前なら、最後までレンから目を逸らさなかった。
今は、振り返りもしない。
「何してるんですか。早く皿を持ってくださいっ」
「分かってる」
レンは残った皿を取り、そのあとを追った。




