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厨房を◯す


「あなたは、佐伯店主に何をするつもりですか」


フィーネの声から、普段の軽さは消えていた。


港湾都市リューネの門前は、人と荷車で混み合っている。


門衛が二人。


少し離れた場所には、荷物を検める兵士が三人。


何かあれば、すぐに声が届く距離だった。


フィーネがここで足を止めたのは、偶然ではない。


「何かするように見えたか」


「見えたから聞いています」


笑顔も、語尾につく余計な調子もない。


「厨房へ入って最初に確認したのは出入口。食材を見るより先に、地下への階段を気にした。畑では、作物そのものより、どこまで広がっているかを調べていました」


フィーネはレンの腰へ視線を落とした。


「それに、あの猪を追い払った動き。狩人にしても出来すぎています」


「旅が長いと言っただろ」


「旅が長ければ、あんなふうに相手の急所を狙えるんですか?」


周囲を通る人々の声に紛れるほどの、小さな声だった。


それでも、一つひとつの言葉は明瞭だった。


「レンさん。あなたは料理人ではありません」


「見習いだ」


「そういう話をしていません」


フィーネはレンから目を逸らさない。


「誰に頼まれて、この街へ来たんですか」


「言えない」


「何を調べているんですか」


「佐伯がどこから食材を手に入れて、どこまで広げたか」


「それだけですか」


レンは答えなかった。


フィーネの表情が固くなる。


「店主を傷つけるつもりはありますか」


再び沈黙が落ちた。


門を抜けてきた荷車の車輪が、石畳の隙間で大きく跳ねた。


馬の鳴き声。


門衛の怒鳴り声。


行商人たちの話し声。


そのすべてが、二人の間だけを避けて通り過ぎていく。


「その沈黙は、答えとして受け取ります」


フィーネが言った。


「なら、なぜ今ここで騒がない」


「まだ、あなたは何もしていないからです」


「これからするかもしれない」


「だから聞いているんです」


「俺が正直に答えると思ったのか」


「思っていません。ただ、嘘をつくのか、黙るのかは知りたかった」


朝からレンの動きを見て、疑問を積み上げていた。


門衛の近くを選んだのも、レンがどれほど危険か判断できなかったからだ。


それでも、兵士に任せるだけではなく、自分で確かめることを選んだ。


「店主に話します」


フィーネが言う。


「今日、畑で見たことも、あなたのことも、すべて」


「好きにしろ」


「逃げないんですか?」


「ここで逃げたら、今の質問に答えたようなものだろ」


「もうかなり答えていますよ」


フィーネは荷車の持ち手を握り直した。


「店主や店の人たち、あの村の人たちを傷つけるつもりなら、私はあなたを止めます」


「お前では無理だ」


「分かっています」


返事に迷いはなかった。


「私一人では止められません。でも、大声を出すことも、人を集めることも、店主へ知らせることもできます」


「なら、そうしろ」


「言われなくてもします」


フィーネはレンの横を通り過ぎた。


いつもの歩調に見える。


だが、レンへ背中を向ける直前まで、逃げられる方向を一つも空けていなかった。


《渡り鳥亭》へ戻ると、佐伯は厨房にいた。


昼の営業を終え、夕方の仕込みへ入っている。


「遅かったな」


佐伯が二人へ声をかけた。


「畑の外まで確認していました」


フィーネが答える。


「何かあったか?」


「ありました。あとで、お話しします」


佐伯はフィーネの顔を見た。


次に、レンを見る。


「レン。畑はどうだった」


「予想より広がっていました」


佐伯に対しては、まだ敬語を崩さない。


「赤実の畑か?」


「それだけではありません。種も、育て方も、それを使った料理もです」


「そうか」


「畑の外にも生えていました。水路を伝って、川沿いまで」


佐伯の手が止まった。


ほんの一瞬だった。


「在来の草を押しのけています。猪も、捨てられた赤実を食べに来ていました」


「猪が?」


「村の近くまで来ています」


佐伯は少し考え、作業台へ置いていた布で手を拭いた。


「あとで詳しく聞く。フィーネ、帳簿を持って俺の部屋へ来い」


「はい」


フィーネが答える。


佐伯はレンへ向き直った。


「お前は作業に戻れ。黄色根を洗って、傷んだやつを分けろ」


それ以上は何も聞かなかった。


フィーネは帳簿を抱え、佐伯とともに厨房を出ていく。


今日あったことを、すべて話すのだろう。


レンは指示された籠を水場へ運んだ。


佐伯が何を考えているかは分からない。


フィーネの話を信じなかった可能性。


疑っていても、証拠がないと判断した可能性。


あるいは、最初から気づいていた可能性。


どれであっても、時間が減ったことに変わりはなかった。


夕方の営業が始まる前に、料理人組合の使いが訪れた。


「店主。北街道の支部からです」


若い男が、革紐でまとめられた紙束を佐伯へ渡す。


「赤実の保存煮と、魚へ使う揚げ衣の作り方を教えてほしいそうです。向こうで店を出した弟子の方々からも、同じ依頼が来ています」


佐伯は紙束へ目を通した。


「揚げ衣は湿気で配合を変えろ。向こうはこっちより乾いてる。そのまま教えたら固くなる」


「では、そのように返事を?」


「ああ。保存煮の方は、フィーネに去年の記録を写してもらえ」


「分かりました」


使いが去ったあと、今度は商人が地下から黄色い根の入った麻袋を運び出した。


袋の横には、小さな木箱が二つ置かれている。


「これは西の村へ?」


商人が確認する。


「北西だ。潮風が強い方の村」


佐伯が答える。


「中に種と育て方を書いた紙が入ってる。食用に回す分と混ぜるなよ」


「承知しました」


木箱が荷車へ積まれていく。


黄色い根は、レンがこの街へ来た朝から市場に並んでいた。


揚げる。


焼く。


煮る。


粉にして生地へ混ぜる。


すでに何通りもの料理が存在している。


その種が、今から別の村へ向かう。


赤い実は三つの村で育てられ、種は川を下って畑の外へ出ていた。


市場では、佐伯の甘辛だれが当たり前のものとして売られている。


港を出る船には、酢漬けの野菜や揚げた魚が積み込まれる。


弟子たちは別の街で店を持ち、そこからさらに新しい弟子が育っている。


一つの店を焼いて、消せる規模ではない。


佐伯が持ち込んだ種をすべて集めることもできない。


どの畑に何が植えられ、どの川へ種が落ち、どの動物がそれを食べたのか。


把握する方法すらない。


料理も同じだった。


紙へ書かれた作り方を燃やしても、人間が覚えた味までは消えない。


佐伯を知る人間を全員殺したところで、その人間から料理を教わった者が残る。


すでに広まった影響を消すことは不可能だった。


売る商人。


運ぶ御者。


調理する料理人。


その料理を目当てに街を訪れる客。


今では、あまりにも多くの人間が佐伯の作った流れの中で生きている。


畑を焼き、種を奪い、料理を禁じれば、異世界の影響より大きな混乱を自分で作ることになる。


赤い実を川辺から抜けば、押しのけられていた草がすぐに戻るとも限らない。


餌を覚えた猪が、再び森の奥だけで暮らす保証もない。


元に戻すことはできない。


もう、佐伯が来る前の世界は残っていなかった。


レンは水の中から黄色い根を取り出した。


泥を落とし、傷んだものだけを別の籠へ移す。


すでに、この世界の人間が育て、運び、料理しているもの。


それは、女神が決めた線引きでも、残す側に入る。


ならば止めるべきものは一つだった。


今も異世界と繋がり、新しい食材と作り方を流し続けている入口。


佐伯宗一郎。


影響の調査と回収は、もはや任務の中心ではない。


佐伯を殺し、これ以上の流入を止める。


それが最優先だった。


問題は、《異界厨房》が佐伯の死によって閉じるかどうか。


閉じなければ、別の方法で壊す。


佐伯が扉を開けている間に侵入し、その場で殺す。


直後に厨房の変化を確認する。


それが一番確実だった。


フィーネに疑われた以上、明日まで待てば地下へ近づけなくなる可能性がある。


今夜しかない。


閉店後、最後の客が帰った。


食器が洗われ、炉の火が落とされる。


料理人と給仕が順に二階へ上がっていく。


レンが水場の布を絞っていると、フィーネが近づいてきた。


「今日のことは、店主へすべて話しました」


声は小さい。


「そうか」


「店主は、レンさんを追い出さないと言いました」


「理由は?」


「教えてくれませんでした」


フィーネは洗い終えた皿を棚へ戻す。


一枚ずつ。


縁の欠けや油の残りがないかを確認しながら。


「でも、勘違いしないでください。私は、あなたを信用していません」


「信用されるために来たわけじゃない」


「何をしに来たのかも、まだ聞いていません」


「聞いても答えない」


「でしょうね」


最後の皿が棚へ収まる。


フィーネは扉を閉じた。


「店主は、あなたが考えているような人ではありません」


「それは関係ない」


「何をしたかではなく、何者かだけで判断するんですか?」


レンの手が止まった。


フィーネは答えを待っている。


「お前には関係ない」


「あります」


低く、冷たい声だった。


「ここは私の店です。店主も、働いている人たちも、私の大切な人です」


「お前の店?」


「店主一人に任せていたら、三日で潰れますから」


そこで初めて、普段のフィーネに近い響きが戻った。


だが、笑ってはいない。


「何もしないでくださいとは言いません。言っても聞かないでしょうから」


「分かってるな」


「代わりに、私が見ています」


フィーネはレンの横を通り過ぎた。


「おやすみなさい、レンさん」


「おやすみ」


「明日、起きてこなかったら屋根裏まで確認に行きます」


「好きにしろ」


フィーネの足音が階段の上へ消えていく。


レンも屋根裏へ戻った。


灯りを消す。


上着を脱ぎ、寝台へ横になる。


そのまま、店の音を聞いた。


風が屋根を鳴らす。


港の方角から、遠く船鐘の音が届く。


二階で誰かが水を使い、部屋の扉を閉める。


フィーネの足音は、一度だけ廊下を往復した。


それ以降は聞こえない。


夜が深くなる。


レンは目を閉じたまま待った。


やがて、別の足音がした。


重い。


歩幅が一定で、迷いがない。


佐伯の足音だった。


二階から一階へ。


厨房を抜け、地下への階段へ向かっている。


レンは起き上がった。


脱いでいた上着を着る。


腰の短刀。


袖の内側に隠した細身の刃。


革紐。


小さな煙玉。


音を立てず、屋根裏を出た。


佐伯の持つ灯りが、階段の下へ消える。


レンは一定の距離を保ち、そのあとを追った。


地下には酒樽や麻袋が並んでいる。


干し肉。


塩漬けの魚。


酢の瓶。


昼間、厨房で使っていた食材の多くはここにあった。


佐伯は奥へ進む。


地下室の突き当たりに、厚い木の扉がある。


鍵穴はない。


取っ手へ佐伯が触れると、扉の縁から白い光が漏れた。


扉が開く。


その向こうにあったのは、地下室ではなかった。


継ぎ目のない白い床。


銀色に光る作業台。


炎を使わずに室内を照らす、細長い灯り。


壁際では、四角い箱が低い音を立てている。


建物の幅より、明らかに広い。


奥がどこまで続いているのか見えない。


佐伯は木箱を一つ抱え、白い部屋へ入った。


扉が閉じ始める。


完全に閉じる直前、レンは身体を滑り込ませた。


冷たい空気が肌を刺す。


背後で扉が閉まった。


外の音が消える。


目の前には、見たことのない食材が並んでいた。


鮮やかな色の果実。


透明な容器へ密閉された香辛料。


水を満たした槽では、小さな魚が群れを作って泳いでいる。


土の入った箱には、若い苗が何列も植えられていた。


殻の薄い卵。


湿った布に包まれた菌床。


生きたまま、この世界へ持ち出せるものばかりだった。


食材庫ではない。


世界の外へ開いた穴。


《異界厨房》。


「入るなら、扉を閉めろ」


佐伯が言った。


背中を向けたままだった。


「冷気が逃げる」


レンは動かなかった。


扉はすでに閉じている。


「待っていたのか」


ここで敬語を使う意味はなかった。


佐伯が振り返る。


「ようやく、その喋り方をやめたな」


驚いた様子はない。


「最初から気づいてたのか」


「料理人になりたい人間は、厨房へ入って最初に逃げ道を数えたりしねえ」


佐伯は木箱を作業台へ置いた。


「包丁の握り方もそうだ。食材を見る目じゃない。どこを切れば早く死ぬか知ってる人間の手だった」


「なら、なぜ雇った」


「何をするか見たかった」


「フィーネから聞いたのか」


「ああ。畑で猪を追い払ったこともな」


佐伯は腕を組んだ。


「フィーネを脅しもせず、店へ戻ってきた。村の連中にも手を出してない。それでも、俺を殺しに来た」


問いかけではない。


確認だった。


レンは答えず、周囲を見る。


出入口は背後の扉だけ。


他にも扉はあるが、どこへ繋がっているか分からない。


銀色の作業台が四つ。


壁には大小の刃物。


天井には金属製の管。


火口が六つ。


水場が三つ。


床には、収納と思われる細い継ぎ目。


隠れられる場所は少ない。


「一つだけ答えろ」


レンが言った。


「お前が死ねば、ここは閉じるのか」


佐伯の目が細くなる。


「誰から、ここまで聞いた」


「答えろ」


「分からん」


佐伯は率直に言った。


「死んだことがないからな」


「そうか」


レンの右手が動いた。


初手で決まるとは考えていない。


剣を極めた者。


魔術で城全体を守っていた者。


傷を負っても死なない肉体を持つ者。


レンは幾つもの世界で、それぞれ違う切り札を持つ人間を倒してきた。


能力の分からない相手へ刃を向けるのも、最初の一撃を防がれるのも、これが初めてではない。


一つ手札を見せれば、次の一手へ利用する。


それを繰り返して、生き残ってきた。


五歩あった距離を、一息で詰める。


腰から抜いた短刀が、佐伯の首へ向かう。


刃先が皮膚へ触れる直前だった。


短刀だけが、強い力で横へ引かれた。


レンは抵抗しない。


引かれると理解した瞬間には柄を放し、その勢いを利用して身体をさらに前へ運んでいた。


短刀が空中を走り、壁の刃物台へ収まる。


金属の触れ合う、澄んだ音。


同時に、左の袖から細身の刃が落ちる。


逆手に掴み、佐伯の脇腹へ突き上げた。


今度は刃そのものが手の中で回った。


握り続ければ、自分の指が落ちる。


レンは即座に放す。


細身の刃が作業台へ落ち、そのまま佐伯から離れていった。


「この中では、刃物も火も水も、俺が許した使い方しかできない」


厨房全体が佐伯に従っている。


二度見せてもらえば十分だった。


刃物は使えない。


ならば、刃物を使わずに殺せばいい。


レンは短刀を放した体勢のまま床を蹴った。


右の拳を佐伯の喉へ打ち込む。


普通の料理人なら、それで終わっていた。


佐伯の重心が沈んだ。


半歩だけ横へずれ、左腕で拳の軌道を逸らす。


同時に、右の肘がレンの胸へ向かってくる。


防御だけではない。


受け流しと反撃が一つの動作になっていた。


レンは上体を捻り、肘を紙一重で外す。


佐伯の足が、逃げ道を塞ぐ位置へ踏み込んでくる。


型の整った動きではない。


だが、迷いがない。


何度も人間を相手に使い、生き残った者の動きだった。


戦闘歴はない。


武器を使った記録もない。


歩き方にも、正式な訓練を受けた形跡はなかった。


それでも佐伯は、戦えた。


「十四年も、剣と魔物のある世界で店を守ってきたんだ」


佐伯が言う。


「料理だけしてたと思うな」


予想外だった。


だが、予想外でいられたのは最初の一度だけだった。


レンにとって、相手の未知は敗因ではない。


一度見れば、次の動きへ組み込む情報に変わる。


佐伯が再び肘を出す。


レンは同じ位置へ拳を放ち、わざと受け流させた。


佐伯の重心が移る。


空いた脇腹へ膝を入れる。


鈍い音がした。


佐伯の身体が折れる。


首の後ろを掴み、作業台へ叩きつける。


佐伯は腕を差し込み、頭だけは守った。


それでも肩から銀色の台へ激突する。


息が漏れた。


レンは追撃する。


顎へ肘。


喉へ手刀。


佐伯も反応するが、遅い。


実戦には慣れている。


しかし、レンが潜り抜けてきた戦いの数とは比べられなかった。


喉へ手刀が届く寸前、横から銀色の作業台が動いた。


床を滑り、二人の間へ割り込む。


レンは即座に台へ手をつき、身体を跳ね上げた。


作業台を越える。


着地と同時に、佐伯の首へ革紐を回した。


背後から締め上げる。


佐伯の首へ紐が食い込む。


あと一息。


壁に掛かっていた白い布が、一斉に舞った。


一枚がレンの右手首へ巻きつく。


もう一枚が左肘を引く。


両腕が左右へ開かれ、革紐が緩む。


佐伯が咳き込みながら前へ逃れた。


レンは身体を捻り、布の端へ歯を立てる。


一枚を引き裂く。


残った布を腕へ巻きつけ、逆に引いた。


棚から布を吊っていた金具が外れ、床へ落ちる。


そのまま佐伯との距離を詰めようとした瞬間、床から水が噴き上がった。


足元を正確に打たれる。


体勢が崩れる。


背後から作業台が迫る。


レンは床へ手をつき、自分から前へ跳んだ。


台の角が背中をかすめる。


水に濡れた床を転がり、佐伯の足元へ入る。


下から踵を蹴り払う。


佐伯が倒れる。


レンはその胸へ乗り、首へ手を伸ばした。


今度は床そのものが動いた。


佐伯の身体を載せた一枚だけが横へ滑り、レンの手から逃れる。


入れ替わるように別の作業台が迫る。


レンは台へ足をかけて受け止めた。


重い。


それでも押し潰される前に身体を捻り、横へ抜ける。


佐伯が立ち上がる。


唇の端から血が流れ、右肩をかばっていた。


呼吸も乱れている。


対してレンは、まだ致命的な傷を負っていない。


佐伯にも、それは分かっていた。


「強いな、お前」


「喋る余裕があるのか」


レンは懐から煙玉を取り出し、床へ叩きつけた。


黒い煙が広がる。


直後、天井の管が低く鳴った。


煙が一本の筋となり、すべて天井へ吸い込まれていく。


視界を奪うことすらできない。


だが、それも予想の範囲だった。


煙を目隠しにすることが目的ではない。


佐伯の視線が天井へ動いた一瞬に、レンは別の方向から接近していた。


佐伯が壁から長い柄の道具を取る。


炉の奥へパンを出し入れするためのものらしい。


先端が、レンの喉へ突き出される。


狙いは正確だった。


レンは首を傾けてかわす。


続く横薙ぎを腕で受け、柄を掴んだ。


佐伯はすぐに道具を放した。


掴んだままなら、手首を折られると判断したのだろう。


空いた両手でレンの腕を取り、肩から体当たりを入れてくる。


レンは逆らわない。


佐伯の力を利用し、そのまま腰を落とした。


大柄な身体が宙へ浮く。


床へ叩きつける寸前、佐伯と床の間へ厚い布が何枚も滑り込んだ。


衝撃が吸収される。


それでも佐伯の息が詰まった。


レンはすぐに首へ手をかける。


親指を喉へ押し込む。


佐伯の顔が歪む。


近くの火口から青い炎が噴き上がった。


レンの横顔へ迫る。


佐伯の首を折る方が早い。


そう判断し、手に力を込める。


炎の速度が途中で変わった。


横からではない。


背後へ回り込み、レンの肩を焼く。


肉の焦げる臭い。


それでも手は放さない。


今度は水場から熱湯が噴き出した。


顔へ届く直前、レンは佐伯を盾にする位置へ身体を入れ替える。


熱湯の軌道が空中で曲がった。


佐伯だけを避け、レンの腕へ絡みつく。


皮膚が焼ける。


握力がわずかに緩む。


その隙に佐伯が顎を引き、レンの親指から喉を外した。


額がレンの鼻先へ打ち込まれる。


視界が揺れる。


続いて腹へ膝。


佐伯自身の技だった。


レンは膝を受けながら佐伯の脚を抱え、そのまま床へ倒す。


三度目。


佐伯の後頭部が床へ落ちる前に、銀色の扉が開いた。


中から冷たい空気が噴き出し、二人の身体を押し離す。


レンは床を滑りながら立ち上がった。


佐伯も作業台へ手をつき、どうにか立つ。


能力が佐伯を守る。


佐伯自身も、その隙を確実に利用して反撃する。


厨房と料理人が、別々に動いているのではない。


一つの生き物のように噛み合っていた。


それでも、純粋な戦闘技術ならレンが上だった。


佐伯が次に何をするかも、もう読める。


読めないのは、この厨房にあと何ができるかだけだった。


佐伯が作業台へ手を置く。


すべての火口に、青い炎が灯った。


熱が一気に膨れ上がる。


炎は真上へ昇らず、壁のようにレンの左右へ広がった。


背後では棚が動き、扉への道を塞ぐ。


床の継ぎ目が次々と開く。


布。


革帯。


水。


作業台。


厨房にあるすべてが、同時に動き始めた。


一つずつなら避けられる。


二つでも対処できる。


レンは炎の隙間へ踏み込み、足元から伸びる革帯をかわした。


迫る作業台へ手をつき、飛び越える。


空中で布が腕へ巻きつく。


身体を回転させ、その布を逆に棚へ絡めた。


着地地点の床が開く。


継ぎ目を見ていたレンは、片足だけで縁を蹴った。


落ちない。


そのまま佐伯へ向かう。


佐伯の顔に、初めて明確な驚きが浮かんだ。


「まだ来るのか」


「お前が生きてるからな」


レンは炎の間を抜けた。


袖が焼ける。


肩の皮膚が裂ける。


それでも距離を詰める。


佐伯が長い柄を拾う。


レンは突き出された先端をかわし、柄の内側へ入った。


佐伯の右手を取る。


関節を返す。


今度こそ、厨房が割り込むより早く首へ届く。


その瞬間、佐伯は抵抗をやめた。


自分からレンへ近づく。


肩をぶつけ、レンの身体を半歩だけ横へずらした。


そこには、床の収納が開いていた。


能力で落とすのではない。


佐伯自身が、レンの動きを読んで罠へ押し込んだ。


片足が落ちる。


完全には崩れない。


レンは縁へ手をつき、すぐに抜けようとする。


太い革帯が右肩へ巻きついた。


別の帯が左腕を引く。


白い布が胸と腰へ絡む。


一枚を引き裂く。


二枚目も途中まで裂く。


三枚目を歯で噛み切る。


それでも、次が来る。


炎が退路を塞ぐ。


水が足場を奪う。


作業台が正面から迫る。


逃げられる方向を一つずつ削られていく。


最後に銀色の作業台が動き、レンの背中を壁へ押しつけた。


濡れた布が両腕を締め上げる。


太い革帯が腰を固定する。


それでもレンは力を込めた。


作業台がわずかに軋む。


布が一本切れた。


佐伯の表情が引きつる。


だが、次の布がすぐに腕へ巻きついた。


完全に動きを封じられる。


佐伯は作業台へ手をついたまま、しばらく息を整えていた。


唇は切れ、右肩は下がっている。


首には革紐の赤い痕が残り、立っているだけでも苦しそうだった。


壁際まで歩き、刃物台からレンの短刀を取る。


レンの前へ戻り、刃先を首へ当てた。


冷たい感触が皮膚へ触れる。


「…やらないのか?」


レンが言う。


「ああ」


「なぜ殺さない」


佐伯は短刀を見た。


「負け惜しみを言わねえんだな」


「負けたのは事実だ」


レンはこれまでにも、未知の能力に追い詰められたことがある。


戦闘技術で勝っていることと、殺し合いに勝つことは同じではない。


相手の能力を読み切れなかった。


戦う場所も、佐伯に有利なまま選んだ。


その結果、殺せなかった。


ならば自分の敗北だった。


佐伯は短刀の刃先を首から離した。


「ここは料理を作る場所だ」


「何?」


「人を殺す場所じゃねえ」


佐伯は短刀を作業台へ置く。


「それに、お前は俺以外を殺そうとしなかった」


「関係ない」


「ある」


佐伯の声が低くなる。


「本当に目的のためなら何でもする人間なら、先にフィーネを黙らせてる。あいつに疑われた時点でな」


レンは答えなかった。


「畑でもそうだ。猪を追い払うだけなら、村の連中がどうなろうと放っておけばいい。だが、お前は助けた」


「任務と関係がなかっただけだ」


「そういう言い訳をする奴は面倒なんだよ」


佐伯は壁へ手を向けた。


レンを縛っていた布が緩む。


革帯が外れ、作業台が元の位置へ戻っていく。


自由になっても、レンはすぐには立ち上がらなかった。


肋骨が痛む。


右肩は焼け、腕にも力が入りにくい。


それでも動けないほどではない。


佐伯も片足を引きずっていた。


今ここが《異界厨房》でなければ、再び襲えば殺せる。


だが、同じことを繰り返しても結果は変わらない。


「次は外で殺す」


レンが言う。


「そうなるな」


佐伯は否定しなかった。


「外でお前と殴り合うほど、俺も馬鹿じゃねえが」


「逃げるのか」


「料理人が厨房を離れてどうする」


佐伯は短刀を拾い、柄をレンへ向けた。


「ただし、その前に話をしろ」


「何をだ」


「お前が俺を殺す理由だ」


「話すと思うか」


「話さないなら、明日聞く」


「明日?」


「試用期間は三日だろ」


佐伯は短刀をレンの手へ押しつけた。


「まだ一日残ってる」


「襲ってきた人間を、まだ厨房へ入れるつもりか」


「料理人見習いとしては雇ったからな」


「俺は料理人じゃない」


「知ってる」


「お前を殺しに来た」


「それも知ってる」


佐伯は白い部屋の奥へ向かい、倒れていた木箱を起こした。


中に入っていた果実を一つずつ拾い、傷がないか確かめて戻していく。


「明日の朝、一皿作れ」


「話が見えない」


「三日目の試験だ」


「断る」


「なら、聞きたいことには何も答えん」


レンの手が止まった。


佐伯が何を持ち込んだのか。


どのように《異界厨房》を開くのか。


佐伯の死後、ここがどうなるのか。


確認しなければならないことは残っている。


正面から力で押し切ることはできなかった。


少なくとも、この厨房の中では。


「何を作ればいい」


「それを考えるのも料理人の仕事だ」


佐伯は木箱を持ち上げた。


「朝四時だ。遅刻したら不採用にする」


「今さら、そこか」


「店の決まりだからな」


佐伯が扉へ向かう。


取っ手へ触れると、外の地下室へ続く道が開いた。


レンは返された短刀を見る。


刃は欠けていない。


血もついていない。


佐伯宗一郎は、ただの料理人ではない。


この世界で十四年間、店を守るための戦い方を身につけている。


そのうえで、自分の厨房では火も水も刃物も、すべてを支配する。


これまでに戦ってきた、どの異世界人とも違う相手だった。


「何してる。冷気が逃げる。早く出ろ」


佐伯の声が飛ぶ。


レンは短刀を鞘へ戻し、立ち上がった。


試用期間は、あと一日残っていた。

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