仕入れを◯す
日の出より早く、レンは店の裏口に立っていた。
空はまだ暗い。
港から吹く風には夜の冷たさが残り、通りを歩くのは市場へ向かう商人と、荷車を引く人間くらいだった。
やがて、馬の蹄と車輪の音が近づいてくる。
一頭立ての小さな荷車が、通りの角を曲がった。
御者台に座っているのはフィーネだった。
昨日と同じ前掛け姿ではない。長袖の服に厚手の外套を重ね、髪も白い布でまとめている。隣には帳簿と空の木箱が積まれていた。
「ほぁ~。本当に起きてますねっ」
「失礼だな」
「寝坊したレンさんに朝食を作らせる計画が無駄になりました」
「店を潰す気か」
フィーネは手綱を引き、荷車を止めた。
「乗ってください。最初の村まで二時間ほどですっ」
レンは荷台へ乗り込む。
空の木箱の数は十二。
それぞれに《渡り鳥亭》の印と、異なる数字が刻まれている。
「仕入れ先は一か所じゃないのか」
「今日は三か所です。赤実の農園、香草畑、それから芋の保管所。店主はまとめて農村と呼んでいましたけど、全部回ったら夕方になりますよぉ」
「試用中の人間を連れていく距離じゃないな」
「店主は思いつきで予定を決めますのでっ」
「断ればよかっただろ」
「仕入れを断ると、明日の営業が止まります」
荷車が動き出す。
石畳を抜け、港湾都市リューネの東門を通るころには、空が薄く白み始めていた。
街道の両側には麦畑が広がっている。
さらに進むと、畑の色が変わった。
背の低い緑の茎。
その間に、赤い実がいくつも見える。
昨日、店で使われていたものと同じ食材だった。
「ずいぶん多いな」
「この辺りは水はけがよくて、赤実の栽培に向いているそうです。店だけでなく、市場や加工所へも出荷しています」
「いつからだ」
「最初の畑ができたのは、九年ほど前ですね」
「佐伯が種を渡したのか」
「はい。最初は店で使う分だけを、農家に頼んで育ててもらったそうです」
一つの料理に使うための小さな畑。
それが九年で、街道から見渡せる範囲にまで広がっている。
荷車は街道を外れ、小さな村へ入った。
石造りの家が十数軒。
村の中央には井戸があり、その周囲には収穫した赤実を選別する作業台が並んでいた。
「フィーネちゃん、朝早いな!」
日に焼けた中年の男が、畑から歩いてくる。
農園主のバルトだった。
「おはようございます、バルトさん。本日は出荷分の確認に来ましたっ」
「そっちの若いのは?」
「新しい厨房補助です。料理はできませんが、荷物は持てますっ」
「紹介の仕方を考えろ」
バルトが声を上げて笑った。
「細いのに大丈夫か?」
「重さによる」
「言うじゃねえか。あとで一箱頼むぞ」
フィーネは帳簿を開き、バルトと出荷数を確認し始めた。
レンは周囲を見る。
収穫された実は大きさと色で分けられている。
傷のないものは店や市場へ。
熟しすぎたものはソースや保存食の加工所へ運ばれる。
割れたものや腐敗が始まったものは、畑の端にある穴へ捨てられていた。
無駄は少ない。
だが、完全になくすことはできない。
「この赤実を作る前は、何を育ててた」
レンはバルトへ尋ねた。
「麦と青豆だな。だが、ここは海風が強い。年によっちゃ半分も採れなかった」
バルトは赤い畑へ目を向ける。
「赤実は潮風にも強い。収穫も年に一度じゃない。佐伯さんが決まった値で買ってくれるから、村の暮らしはずいぶん楽になったよ」
村の家々は古い。
それでも屋根は修理され、井戸の周囲も新しい石で固められている。
荷車も農具も手入れされていた。
食堂で使う食材が、一つの村を支えている。
「種は毎年、佐伯から受け取るのか」
「いや。実から取れる。最初にもらったのは一袋だけだ」
「外でも育つ?」
「畑の外ってことか?」
バルトは苦笑する。
「そりゃ育つさ。鳥が食って、あちこちに種を落とすからな。昔は珍しかったが、今じゃ道端にも生えてる」
「どこにある」
「あっちの水路を見てみろ」
レンは畑の端へ向かった。
灌漑用の水路に沿って、赤実の蔓が伸びている。
畑のものより実は小さい。
誰かが手入れをした形跡もない。
それでも根を張り、石の隙間から茎を伸ばしていた。
水路の先は小川へ続いている。
レンはしゃがみ込み、地面を見る。
鳥の足跡。
小動物の糞。
潰れた赤い皮と、いくつもの種。
畑から落ちた実が、水と動物によって運ばれている。
フィーネが後ろから近づいてくる。
「何か見つかりました?」
「畑の外でも増えてる」
「バルトさんが言っていたでしょう?」
「どこまで広がってるか確認したい」
レンは水路に沿って歩いた。
村の外れまで進む。
そこでは赤実の蔓が、水辺に生えていた別の植物へ絡みついていた。
細い青色の葉を持つ草が、蔓の下で倒れている。
「この草は?」
「岸留め草ですね。根が深く張るので、水路や川岸が崩れるのを防ぐために残されています」
フィーネは蔓を持ち上げ、下にある草を見る。
「かなり減ってるな」
「ええ」
先ほどまでの軽い調子が、少しだけ消えた。
「赤実の方が成長が早いようです」
水路の土が一部崩れ、赤い種を含んだ泥が下流へ流れている。
この村だけの問題ではない。
水路が川へ繋がれば、種はさらに遠くへ運ばれる。
「処分した方がいいと思います?」
フィーネが尋ねた。
「まだ分からない」
「意外ですね。すぐ抜けと言うかと思いました」
「ここだけ抜いても、下流に残っていれば意味がない。それに、岸留め草まで一緒に傷つける」
「きちんと考えるんですねぇ」
「どういう意味だ」
「見つけたものを片端から切って歩く方かと」
「俺を何だと思ってる」
フィーネは答えず、蔓から手を離した。
そのとき、村の方から金属を叩く音が響いた。
一度。
二度。
続いて、男たちの叫び声が聞こえる。
「灰牙猪だ!」
フィーネの表情が変わる。
二人は水路から畑へ戻った。
赤実を捨てる穴の近くで、大きな獣が土を掘り返している。
灰色の硬い毛。
突き出した二本の牙。
四本の脚は太く、成獣の男の腰ほどの高さがあった。
灰牙猪。
村人たちは棒や農具を持って囲んでいるが、近づけずにいる。
「最近、多いんだ!」
バルトが叫ぶ。
「森に餌がない時期でもないのに、捨てた赤実を狙って来やがる!」
灰牙猪が顔を上げた。
鼻先は潰れた実の汁で赤く染まっている。
周囲を囲まれたことに気づき、低く唸る。
「フィーネ」
レンは荷車を指差した。
「空の麻袋を取れ。赤実を入れろ」
「何をするんです?」
「畑の外へ誘導する。早くしろ」
フィーネは一度だけ灰牙猪を見た。
すぐに動く。
荷台から麻袋を取り、選別台に残っていた熟した実を入れていく。
レンは近くにあった長い縄を取った。
片側へ輪を作る。
「西の柵を開けてくれ」
村人が柵へ走る。
灰牙猪が地面を蹴った。
狙いは、最も近くにいたレンだった。
真っすぐ突進してくる。
レンはその場から動かない。
十分に引きつける。
牙が届く直前、横へ踏み込んだ。
灰牙猪の頭が脇を抜ける。
レンは縄の輪を前脚へ落とし、そのまま近くの柵柱へ回した。
縄が張る。
灰牙猪の身体が大きく傾いた。
倒れはしない。
だが、突進の向きが西へ変わる。
「フィーネ!」
「はいっ!」
フィーネが麻袋を開いた。
熟した赤実の匂いが広がる。
灰牙猪の鼻が動く。
「こっちですよぉ! おいしい赤実ですっ!」
フィーネは袋を引きずり、西の柵へ走った。
灰牙猪が向きを変える。
レンは縄を緩め、前脚から外した。
獣はフィーネを追う。
正確には、彼女が持つ袋を追っていた。
「少し待ってくださいねっ。今、人生で最も猪に好かれていますので!」
「走れ」
「もう少し心配してくださいっ!」
フィーネは開いた柵を抜け、畑の外で袋を放り投げた。
灰牙猪は彼女には目もくれず、袋へ頭を突っ込む。
その隙に村人たちが柵を閉めた。
「助かった……」
バルトが息を吐いた。
柵の外では、灰牙猪が袋を引き裂き、赤実を食べ続けている。
人間を襲うために来たのではない。
明確に、この作物を求めていた。
「前から来てたのか」
レンが尋ねる。
「去年までは、たまに一頭見るくらいだった。今月だけでも三頭目だ」
「森の中にも赤実が広がってる可能性がある」
「鳥や小獣が種を運んでるなら、あるだろうな」
バルトは荒らされた土を見る。
「赤実だけならまだいい。こいつら、帰りに芋畑まで掘り返すんだ。罠を増やすしかないかもしれん」
新しい作物が増えた。
それを餌にする動物が、人里へ近づいた。
今は畑が荒らされる程度で済んでいる。
だが、灰牙猪がこの餌を前提に数を増やせば、森の中にいた頃とは別の影響が生まれる。
「赤実の栽培をやめることはできるか」
レンが尋ねると、バルトの顔から笑みが消えた。
「急に何を言う」
「仮の話だ」
「無理だ。今さら麦と青豆へ戻しても、昔みたいな暮らしに戻るだけじゃ済まん。加工所も、この村の荷運びも、赤実がある前提で動いてる」
バルトは村を見る。
「これで食ってる家が何軒あると思ってる」
「レンさん」
フィーネの声がした。
先ほどまでの甘い響きはなかった。
「この畑を突然なくせば、村の収入は半分以下になります。店への供給だけではありません。市場、加工所、運送業者も影響を受けます」
静かで、平坦な口調だった。
「作物に問題があるとしても、明日から栽培をやめるという判断はできません」
「やめろとは言ってない」
「では、なぜ聞いたんですか」
レンは赤い畑を見る。
「影響を確認したかった」
「誰のために?」
レンは答えなかった。
フィーネも、それ以上は尋ねなかった。
昼前まで、二人は出荷作業を手伝った。
フィーネは一箱ずつ品質を確認し、帳簿の数量と照らし合わせる。
熟しすぎた実が混ざっていれば、その場で取り除く。
農園側が数を間違えていれば、笑顔のまま正確に指摘した。
一方で、小さな傷しかないものは値を下げずに引き取った。
「形が悪いだけで味は同じです。ソースにするなら問題ありませんから」
農園にも店にも損が出ないよう、使い道まで考えている。
すべての箱を荷台へ積み終えたころ、太陽は頭上まで昇っていた。
次の香草畑と芋の保管所を回り、リューネへ戻る。
街の門が見えたときには、空が赤く染まり始めていた。
レンは荷台に座り、流れていく景色を見ていた。
赤実は、村の外にも生えていた。
街道脇。
水路の縁。
林の入口。
畑から離れるほど数は減る。
だが、なくなってはいない。
「料理人見習いは、猪の足に縄をかける練習もするんですか?」
御者台からフィーネが尋ねた。
いつもの調子へ戻っている。
「地方による」
「便利な地方ですねぇ。包丁で獣を解体して、出口を最初に数えて、突進する灰牙猪を縄一本で転ばせるんですかっ」
「転ばせてない」
「重要なのはそこではありません」
荷車が街の門へ近づく。
門番や商人の姿が増え、人通りも多くなった。
フィーネは手綱を引き、列の後ろで荷車を止めた。
それから振り返る。
笑っていなかった。
「レンさん」
声から、普段の甘さが消えている。
「あなた、料理人になるために来たんじゃありませんね」
レンはフィーネを見る。
「何を根拠に」
「店へ来て最初に見たのは、作業台ではなく出入口でした。地下から出てきた食材の印を確認していた。今日は畑より先に、水路と動物の痕跡を調べていた」
フィーネは淡々と並べる。
「料理を覚えたい人間の見方ではありません」
「用心深いだけだ」
「灰牙猪への動きも?」
「旅が長かった」
「それも嘘ではないのでしょう。でも、全部ではありません」
城門の向こうには人がいる。
門番も近い。
一人きりの場所ではなく、ここまで戻ってから問い詰めたのは意図的だった。
フィーネは、馬鹿ではない。
「店主の何を調べているんですか」
レンは答えなかった。
周囲を確認する。
声を落とせば、門番にまでは届かない。
フィーネは逃げ道を残している。
今すぐ騒ぐつもりもないらしい。
「料理を覚えに来たと言っても、信じないか」
「信じてほしいなら、もう少しましな料理を作ってください」
いつもの口調ではない。
冷たいほど静かな声だった。
「もう一度聞きます」
フィーネはレンから目を逸らさない。
「あなたは、佐伯店主に何をするつもりですか」




