雑用を◯す
自分で作った煮込みを空にするまで、かなりの時間がかかった。
フィーネは一口も手伝わなかった。
途中で水だけは置いていったが、
「味が薄まれば、少しは食べやすくなるかもしれませんねっ」
という余計な言葉も添えていった。
鍋を空にしたあと、レンは店の印が入った前掛けを渡された。
試用期間の一日目。
最初の仕事は、野菜の下処理だった。
「皮を剥いて、傷んだ部分を除いてください。大きさは揃えなくていいです。今のレンさんに、二つ以上のことを求めるのは危険なのでっ」
「皮を剥くだけだろ」
「自信に満ちた人ほど、よく失敗するんですよぉ?」
レンは返事をせず、籠から野菜を取った。
皮を薄く剥き、変色した部分だけを落とす。
食べられる箇所は可能な限り残す。
フィーネは隣で別の野菜を処理しながら、時折レンの手元を確認していた。
「包丁の使い方だけなら、本当にきれいなんですよねぇ」
「だけは余計だ」
「料理人に必要なのは、切ったあとの方ですからっ」
口は止まらない。
だが、フィーネ自身の手も止まっていなかった。
傷みの有無を一目で判断し、用途ごとに籠を分けていく。形の悪いものは煮込みへ。固いものは出汁へ。見栄えのよいものだけを、客へそのまま出す料理に回していた。
一つの食材も、簡単には捨てない。
その判断に迷いはなかった。
開店の鐘が鳴る。
正面扉が開いた途端、食堂へ客が流れ込んできた。
厨房の空気が一変する。
給仕から注文が飛び、料理人たちが一斉に動き始める。
鍋の蓋が鳴る。
油が弾ける。
包丁が作業台を叩く音が、途切れることなく続く。
「魚焼き三つ! 赤実煮込み二つ! 揚げ芋、大皿で一つ!」
注文を受けたフィーネが厨房へ声を飛ばす。
直後には食卓番号と注文の順番を紙へ記し、完成した皿を正確に振り分けていく。
朝、扉の段差へ足を取られた姿とは別人だった。
客と料理人の間を往復しながら、一つの注文も間違えない。
途中で給仕の一人が皿を取り違えようとすると、振り返りもせずに声をかけた。
「それは十二番です。九番のお客様は香草抜きですよっ」
「え、ああ! 悪い!」
「謝罪より確認をお願いしますっ。お客様に食べられないものを出したら、笑って済みませんので」
言葉は軽い。
しかし、間違いを見逃す様子はなかった。
厨房の中心には佐伯がいた。
一度に三つの鍋を見ながら、片手では魚の焼き加減を確認し、もう一方では肉へ香辛料を振っている。
「二番炉、火を落とせ!」
「はい!」
「その魚はあと十数えろ。今返したら皮が剥がれる!」
料理人が魚へ伸ばしかけた手を止める。
十を数えてから返すと、焼けた皮は崩れず、薄いきつね色のまま現れた。
別の鍋が吹きこぼれそうになる。
佐伯は見てもいなかった。
長い柄の匙を伸ばし、蓋をわずかにずらす。白い泡が縁で止まり、炉へ落ちる寸前で鍋の中へ戻った。
厨房にあるすべての火と音を、把握しているようだった。
固有能力によるものか。
長年の経験か。
今の段階では判断できない。
「レンさん!」
フィーネの声が飛ぶ。
見ると、空になった籠をこちらへ向けている。
「赤実をもう一籠! 奥の棚ですっ!」
レンは指示された棚へ向かった。
赤い実が積まれた籠を取り出し、フィーネへ渡す。
「洗って四つ切り! へたは取ってください!」
「分かった」
包丁を入れる。
薄い皮が弾け、中から水分と小さな種が現れた。
青い匂いのあとに、わずかな甘い香りが立つ。
昼を過ぎるころには、棚にあった赤い実がすべてなくなった。
「最後の一籠です」
在庫を確認していた料理人が、佐伯へ声をかける。
「分かった。少し待て」
佐伯は手を洗い、厨房の奥へ向かった。
地下へ続く階段。
レンは野菜を切りながら、その背中を目で追う。
四分後。
佐伯は大きな木箱を抱えて戻ってきた。
中には、赤い実が隙間なく詰まっている。
表面には水滴がつき、つい先ほどまで冷えた場所にあったことが分かる。
朝、レンが店の周囲を確認したあと、荷車が到着した形跡はない。
箱にも、この街で使われている農園印や商会印が見当たらなかった。
「店主、それはどこから?」
フィーネが尋ねる。
「下に残ってた」
「昨日の帳簿にはありませんでしたけど」
「書き忘れたんだろ」
「私が?」
「俺が」
「それなら納得ですっ」
フィーネはそれ以上追及せず、木箱を受け取った。
佐伯はすぐに持ち場へ戻る。
レンも作業へ視線を戻した。
地下。
出入りしたのは佐伯だけ。
依頼書にあった《異界厨房》が実在するなら、最も疑わしい場所だった。
昼の客が引いたあとも、仕事は終わらなかった。
食器を洗い、作業台を拭き、包丁を研ぐ。
夕刻には再び客が増え、厨房は昼と同じ熱気に包まれた。
レンは料理を任されなかった。
野菜を切る。
魚の鱗を落とす。
空いた鍋を洗う。
使い終わった食器を運ぶ。
指示された作業は、すべてこなした。
一度言われた場所と手順は忘れない。
夕食時の混雑が終わるころには、フィーネもそれを認めざるを得なくなっていた。
「料理をさせなければ、かなり優秀ですねぇ」
「褒めてるのか」
「心から褒めてますっ。明日からも料理をしなければ、長く働けると思いますよぉ?」
「料理人見習いの意味がない」
「お皿洗い見習いへ変更します?」
「断る」
最後の客が帰ったのは、外が完全に暗くなってからだった。
正面扉に鍵がかけられる。
炉の火が落とされ、騒がしかった厨房がようやく静かになった。
残った料理人と給仕が、食堂の長い卓を囲む。
一日の終わりの賄いだった。
佐伯が大皿を運んでくる。
皮目を焼いた白身魚。
赤い実と香草を煮込んだソース。
表面を濃いきつね色まで焼いた芋。
切り分けられた黒パン。
湯気とともに、焦がした油の香りが広がった。
「今日は新人がいる。少し多めに作った。好きなだけ食え」
「店主。昼間、鍋一つ分を食べた人ですよぉ?」
フィーネがレンを見る。
「まだ入るんですか?」
「さっきのは昼前だ」
「ほぁ~。胃だけは健康なんですねっ」
佐伯は魚を一切れずつ皿へ取り分け、その上から赤いソースをかけた。
レンの前にも皿が置かれる。
魚の皮は端がわずかに反り、細かな泡を残したまま焼き固められている。白い身へ赤いソースが流れ、刻まれた緑の香草が散っていた。
佐伯が木製の杯を並べる。
続いて、大きな陶器の瓶から琥珀色の酒を注いだ。
細かな泡が底から昇り、白い膜となって表面へ残る。
「麦酒だ。飲めないやつは水にしろ」
レンは杯を取った。
麦を炒ったような香ばしさ。
その奥に、わずかな果実の甘い香りがある。
一口飲む。
最初に軽い酸味が触れ、すぐに苦みが舌の上へ広がった。泡が喉を刺激し、最後には穀物のほのかな甘みだけが残る。
アルコールは強くない。
仕事のあとに飲むことを考えた、軽い酒だった。
「お酒は飲めるんですねぇ」
フィーネが意外そうに言った。
「飲める」
「煮込みと同じ顔で飲んでますけど」
「顔は関係ない」
レンは魚へナイフを入れた。
焼けた皮が小さく音を立てて割れる。
内側の身は白く、刃を入れただけで層に沿ってほどけた。ソースとともに口へ運ぶと、皮の香ばしさのあとから、柔らかな身の甘みが出る。
赤い実のソースには酸味があった。
ただ酸っぱいだけではない。
煮込むことで角が取れ、甘みが引き出されている。刻んだ香草の青い香りが魚の脂を軽くし、最後にわずかな辛みが残った。
そこで麦酒を飲む。
舌に残った魚の脂を泡が洗い、ソースの酸味を苦みが引き締める。次の一口では、最初よりも魚の甘さがはっきりと感じられた。
焼いた芋は、外側が固く、中は崩れるほど柔らかい。
表面には粗い塩が振られている。
噛むと芋の甘みと油が混ざり、塩気がその輪郭を強くした。
黒パンは少し固い。
そのままでは麦の香りと酸味が強いが、皿に残った赤いソースを吸わせると、魚の旨みまで一緒に拾い上げる。
レンはもう一度、魚を口へ運んだ。
「どうですか?」
向かいに座ったフィーネが尋ねる。
「うまい」
「それだけですか…語彙が少ないんですかっ?」
「魚の臭みが残ってない。皮は焼いてるが、身には火を入れすぎてない。赤い実の酸味で、脂が重くならないようにしてる」
フィーネが瞬きをする。
レンは麦酒を一口飲んだ。
「酒も、この魚に合う。苦みが口に残った油を消す」
「……分かるんですか?」
「食えば分かる」
「ご自分では、あの煮込みを作ったのに?」
「食うのと作るのは違う」
「ほぁ~。バカ舌ではなく、料理への努力だけが欠けていたんですねっ」
「悪化してないか」
佐伯が声を上げて笑った。
「舌が死んでないなら、まだ教えようがある」
「店主。教えるのは私なんですよね?」
「そうだ」
「急に責任が重くなった気がしますっ」
「三日だけだ。無理なら皿洗いに戻せ」
フィーネは不満そうに魚を切った。
それでも口へ入れた途端、表情が緩む。
「今日のソース、いつもより甘いですね」
「赤実がよく熟れてたからな。砂糖を減らした」
「香草も少し違いません?」
「港の西で採れたやつだ。魚にはこっちの方が合う」
フィーネは頷き、帳簿へ書くように二つの違いを口の中で繰り返した。
レンは佐伯を見る。
「この赤い実は、近くの農村で作ってるんですか?」
佐伯に対してだけは、まだ言葉を選ぶ。
「ああ。今じゃ三つの村で育ててる」
「最初の種は、店主が見つけたと聞きました」
「よく育つ土地を探すのには苦労したがな」
「この街の外で見つけたんですか」
佐伯は麦酒を飲み、杯を置いた。
「遠いところだ」
短い答えだった。
「どこです?」
「料理より先に、食材の仕入れが気になるのか?」
佐伯の視線がレンへ向く。
探るような強さはない。
だが、答えを待っている。
「見たことのない食材が多いので。料理を覚えるなら、何を使っているかも知りたいと思いました」
「それは正しい」
佐伯は疑う様子もなく頷いた。
「明日の朝、フィーネが農村へ仕入れの確認に行く。ついていけ」
「私、今初めて聞きましたけど」
「今言ったからな」
「店主が予定を共有しないせいで、帳簿が毎回ぎりぎりになるんですよぉ?」
「明日の予定には間に合っただろ」
「そういう問題ではありませんっ」
佐伯は気にせず、レンへ続ける。
「畑を見れば、食材が皿に乗るまでに何人の手を通るか分かる。厨房だけ見て料理を覚えた気になるな」
「分かりました」
レンは答え、残った魚を食べた。
食事が終わるころには、大皿は空になっていた。
料理人たちは順に席を立ち、食器を厨房へ運んでいく。
レンも自分の皿と杯を重ねた。
そのとき、厨房の奥で音がした。
重い扉が閉じるような、低い音。
振り返る。
佐伯が地下へ続く階段の前に立っていた。
手には、昼間見たものと同じ木箱を持っている。
「店主。まだ仕事ですか?」
フィーネが尋ねる。
「明日の分を確認してくる。先に休め」
佐伯は階段を下りていった。
やがて姿が見えなくなる。
地下から冷たい空気が上がってきた。
酒と焼いた魚の香りに混じり、覚えのない甘い匂いが一瞬だけ鼻をかすめる。
果実に似ている。
だが、市場でも厨房でも嗅いだことがない。
「地下には何がある」
レンはフィーネへ尋ねた。
「食材庫ですよ。干し肉や酒樽、店主が自分で管理している食材が置いてあります」
「店主しか入らないのか」
「奥の保管室はそうですね。温度の管理が難しいものがあるそうです」
「お前も入ったことは?」
「ありません」
フィーネは空いた皿を重ねながら答えた。
「必要な食材は店主が出してきますから。今まで困ったこともありません」
地上へ届いた荷物は、フィーネがすべて記録している。
それでも、彼女の知らない食材が地下から出てくる。
レンは誰もいなくなった階段を見る。
佐伯を殺すこと自体は難しくない。
寝込みを狙う。
食事へ毒を入れる。
店の外へ誘い出す。
方法はいくらでもある。
だが、先に地下を調べなければならない。
《異界厨房》の仕組みを知らないまま佐伯を殺せば、異世界と繋がった場所だけが残る可能性もある。
「レンさん」
フィーネが皿の山をこちらへ差し出した。
「持ってください」
「なぜ俺が」
「厨房補助だからですっ」
皿を受け取る。
フィーネは残った杯を盆へ並べた。
「明日は日の出前に出ます。寝坊したら置いていきますからねっ」
「起こす必要はない」
「ほぁ~。自信満々ですねぇ」
「寝過ごさない」
「では、遅れたら罰として朝食を作っていただきますっ」
「それはお前たちの罰だろ」
フィーネは少し考え、真顔で頷いた。
「絶対に起きてください」
「分かってる」
厨房へ向かいながら、レンはもう一度だけ地下への階段を見た。
明日は農村。
佐伯が広めた食材と、その影響を確かめる。
地下へ入るのは、そのあとでも遅くない。
試用期間は、残り二日。
時間は多くなかった




