味を◯す
白い光が消えるより先に、潮の匂いが鼻へ入った。
足元は濡れた石畳。
背後には古い煉瓦の壁があり、頭上では狭い空を海鳥が横切っている。
レンは周囲を確認した。
人影はない。
港湾都市リューネの外れ。大通りから一本入った裏路地らしい。
身体は再び十八歳前後へ戻っている。
暗色の上着に、使い込まれた革靴。腰には旅人が持っていても不自然ではない短刀が一本。懐には依頼書と推薦状、それに数日分の硬貨が入っていた。
料理人見習い。
その身分だけは、何度確認しても変わらない。
「……余計なことを」
レンは推薦状をしまい、路地を出た。
朝の港町は、すでに動き始めていた。
荷車が石畳を行き交い、港から届いた魚箱が市場へ運び込まれていく。建物の間には洗濯物が渡され、その下を職人や商人が忙しなく歩いていた。
通りを進むにつれて、潮とは違う匂いが増えていく。
油。
焼けた肉。
香辛料。
甘く煮詰めた果実。
市場の入口では、薄く切った芋を油で揚げている。隣の露店では、串に刺した肉へ褐色のたれを塗り、炭火で焼いていた。
朝食としては、どれも匂いが強い。
それでも店の前には人が並んでいる。
「兄ちゃん、一本どうだ?」
串焼きを売る男が声をかけてきた。
レンは足を止める。
肉そのものに珍しい点はない。
気になったのは、表面に塗られたたれだった。甘い香りの奥に、複数の香辛料が混ざっている。
「この味付けは、この辺りのものか」
「さては田舎から来たな?」
男は笑い、焼けた串を持ち上げた。
「《渡り鳥亭》の甘辛だれだよ。今じゃ、港のどこでも使ってる」
「渡り鳥亭が作り方を広めたのか」
「店主の佐伯がな。隠したって腐るだけだって、弟子にも近所の店にも聞かれりゃ何でも教えちまう」
レンは硬貨を一枚置き、串を受け取った。
一口だけ食べる。
甘みのあとに塩味が来る。焦げた部分にはわずかな苦みがあり、香辛料が肉の臭みを消していた。
野営で食べてきた、焼いただけの肉とは違う。
「どうだ?」
「うまい」
「だろ?」
男は満足そうに笑った。
レンは歩きながら残りを食べた。
腹は空いていなかった。
それでも、捨てる理由はなかった。
市場を抜けても、佐伯の影響は続いた。
油で揚げた魚。
酢に漬けた野菜。
白い生地へ肉と香草を挟んだもの。
同じ鳥の印が、いくつもの店先に掲げられている。
依頼書にあった一文を思い出す。
――対象者を起点とする食文化の急速な拡散を確認。
市場から港側へ進むと、やがて三階建ての建物が見えた。
木と煉瓦で造られた大きな食堂。
正面には、翼を広げた鳥と鍋を組み合わせた看板が下がっている。
《渡り鳥亭》。
開店前にもかかわらず、正面入口にはすでに十人以上が並んでいた。
レンは列を避け、建物の側面へ回る。
荷物の搬入口。
厨房へ続くと思われる従業員用の扉。
扉の位置、窓の数、二階へ伸びる外階段を確認する。
裏手には別の出入口が一つ。
地下へ荷物を運び込むための斜路もある。
レンが扉へ近づいた、そのときだった。
勢いよく扉が開く。
「ほぁ~っ!?」
甲高い声とともに、木の盆が飛び出してきた。
盆の上には、重ねられた皿が六枚。
それを持っていた少女の足が、扉の段差へ引っかかる。
身体が前へ傾き、皿が宙へ浮いた。
レンは一歩踏み込んだ。
右手で盆を受け、左手で皿を押さえる。
最後の一枚が滑り落ちる前に、膝で盆の端を持ち上げた。
少女は両手を前へ伸ばした姿勢のまま、何も持っていなかった。
割れた皿はない。
「怪我は」
レンが尋ねる。
少女は数回瞬きをした。
年齢はレンと同じか、わずかに上。
淡い蜂蜜色の髪を後ろで束ね、白い布を巻いている。薄い緑色のワンピースの上には、店の鳥印が縫われた前掛け。
大きな琥珀色の瞳が、盆とレンの間を往復する。
「ありませんっ。ありがとうございます」
少女は盆を受け取ると、皿が欠けていないか一枚ずつ素早く確認した。
それから、にこりと笑う。
「でも、人が出てくる気配に気づいていながら、扉の前から退かないなんて……なんというか、要領悪いですねっ!」
「退いたら皿が割れてた」
少女の笑顔が止まる。
手元の皿を見る。
「……それもそうですねっ」
「分かればいい」
「では、半分だけ撤回します」
「全部撤回しろ」
少女は聞かなかったことにして、扉の横にある板を示した。
従業員及び納入業者用。
「それで、こちらに何かご用ですか?」
「応募に来た。入口はここだと聞いている」
「応募?」
レンは推薦状を差し出した。
少女は受け取り、封に押された印と書面を順に確認する。紙の端を指でなぞり、透かしまで確かめてから内容へ目を通した。
「レン・クロードさん。十八歳。地方の料理人組合より紹介……料理人見習い?」
「そうだ」
少女はレンを見る。
推薦状へ戻る。
もう一度、レンを見る。
「採用される前から解雇されたみたいな辛気臭いお顔ですねぇ」
「元からだ」
「ほぁ~。お若いのに、ずいぶん人生に疲れていらっしゃるんですねっ」
「応募と関係あるか」
「店内が暗くなりそうなので、少しだけ」
少女は推薦状を丁寧に畳む。
「申し遅れました。私はフィーネですっ。佐伯店主の補佐として、給仕、仕入れ、帳簿、厨房の手伝い、それから応募者の確認を任されています」
「ずいぶん多いな」
「店主が料理以外をすぐ後回しにしますので。誰かが管理しないと、お店が三日で止まりますっ」
口調は軽いが、推薦状の扱いに隙はなかった。
封印も組合印も見慣れている。
ただの給仕ではなさそうだった。
フィーネは扉を押さえる。
「どうぞ。店主は仕込み中ですので、まずは私が確認します」
レンは店内へ入った。
厨房は、想像していたより広かった。
正面の食堂だけで四十人以上は入る。
その奥にある厨房では、十人を超える料理人が動いていた。
壁際には大小の鍋。中央には長い作業台が三つ。肉、魚、野菜を扱う場所が、それぞれ分けられている。
水場は二か所。
炉は四つ。
厨房から食堂へ出る扉とは別に、奥へ続く通路が一つ。
地下への階段も見える。
レンが視線を動かしていると、フィーネが横から声をかけた。
「出入口ばかり見ていますね」
「仕事場を覚えている」
「作業台や食材より先に、出口の数を確認する料理人は珍しいですっ」
「火が出たときに困る」
「なるほど。ずいぶん用心深いんですねぇ」
フィーネは笑っている。
だが、レンがどこを見ていたのか、正確に把握していた。
厨房の隅には、見慣れない野菜が積まれている。
赤く丸い実。
細長い黄色の根。
表面に無数のくぼみがある、拳ほどの塊。
レンは足を止めた。
「それが気になります?」
「見たことがない」
「佐伯店主が見つけた食材です。最初は店でしか使っていなかったんですが、今は近くの農村でも育ててもらってます」
「種も、ここからか」
「そう聞いてます。仕入れの記録には農村から届いた分しか残りませんので、最初の種をどこから手に入れたのかは店主しか知りません」
フィーネは赤い実を手に取り、傷や変色がないか確かめる。問題のある二つだけを別の籠へ移した。
「食べられないのか」
「傷んだ部分を取り除けば使えます。ただし、同じ籠に入れておくと他まで傷みますので」
仕入れを任されているという話は、誇張ではないらしい。
食材の状態を一目で見分け、何がどの料理に使われるのかも把握している。
「では、試験を始めますねっ」
フィーネは作業台の一つを示した。
その上には、肉の切れ端、数種類の野菜、塩、乾燥した香草が置かれている。
「試験?」
「料理人見習いの応募ですよ? 推薦状だけで採用されると思っていたんですか?」
思っていた。
少なくとも、女神は試験があるとは言わなかった。
「厨房補助と聞いている」
「補助でも食材を扱います。簡単なもので構いません。ここにある材料で一品、作ってください」
レンは材料を見る。
肉。
野菜。
塩。
水。
火。
食べられるものを作るだけなら、難しくない。
「分かった」
「自信がおありで?」
「食べられるものは作れる」
「料理人として、それ以上に不安な言葉も珍しいですねぇ」
レンは返事をせず、包丁を取った。
刃の重さを確かめる。
普段使う短刀より幅があり、先端の形も違う。それでも、刃物であることに変わりはない。
肉の筋へ刃を入れる。
硬い部分を外し、同じ厚さへ切り分ける。
次に野菜。
皮を剥き、大きさを揃える。
フィーネは口を挟まず、その手元を見ていた。
「包丁は使えるんですね」
「さっきも言った」
「ただ、料理人の切り方ではありません」
レンの手がわずかに止まる。
「分かるのか」
「肉の筋や骨を避けるときだけ、妙に速いので。見栄えよく切るというより、少ない動きで解体する手つきですっ」
「旅が長かった。獣をさばく機会もある」
「なるほど。野営料理の経験は豊富、と」
フィーネは推薦状の余白へ何かを書き込んだ。
冗談めいた口調とは違い、見るべきところは見ている。
レンは鍋へ水を入れ、肉と野菜を順に加えた。
灰汁を取り、火を弱める。
塩。
乾燥した香草。
長く歩き続けることを想定し、塩分は少し強めにした。身体を冷やさず、腹を壊さず、必要な栄養を取る。
それだけを考える。
やがて、鍋から湯気が上がった。
レンは器へよそい、フィーネの前へ置く。
「できた」
「見た目は普通ですね」
フィーネが匙を取る。
慎重に息を吹きかけ、一口食べた。
動きが止まる。
「どうだ」
「ほぁ~……」
フィーネはもう一度、口の中のものを確かめるように噛んだ。
「なんというか……食材に謝った方がいいですねっ」
「食べられるはずだ」
「食べられるかどうかは、料理の最低条件ですよぉ?」
「傷んだ材料は使ってない。火も通ってる」
「そういうところですっ」
フィーネは器を置いた。
「毒はありません。お腹も膨れます。身体も温まります。でも、おいしくしようという考えが、どこにもありません」
「必要なものは入ってる」
「食事を薬か何かだと思ってます?」
「生きるために食べるものだ」
「ほぁ~! なんというか……本当に料理人を志してるんですかっ?」
志していない。
厨房へ入るために、料理人見習いの身分を使っているだけだ。
だが、それを答えるわけにはいかなかった。
「地方では、こういうものを作ってた」
「どんな地方ですか。戦場ですか?」
近い。
レンが答えを選んでいると、背後から低い声がした。
「フィーネ。応募者を尋問するな」
厨房の空気が変わった。
料理人たちが一斉に声を返す。
「店主、おはようございます!」
奥の通路から、大柄な男が歩いてきた。
四十代半ば。
黒い髪には白いものが混じり、太い腕には細かな火傷の痕がいくつも残っている。白い上着の袖を肘までまくり、腰には濃紺の前掛け。
武器はない。
歩き方にも、戦闘の訓練を受けた形跡は見えなかった。
それでも、厨房にいる全員が男の動きを意識している。
対象者――佐伯宗一郎。
レンが探していた異世界人本人だった。
「店主。この方、厨房補助の応募者ですっ」
フィーネが推薦状を差し出す。
佐伯は受け取り、短く目を通した。
「レン・クロード。料理人見習いか」
「はい。よろしくお願いします」
レンは丁寧に頭を下げた。
佐伯は返事をせず、作業台へ置かれた鍋を見る。
「こいつが作ったのか?」
「はい。とても健康的で、安全で、二度と食べたくない煮込みですっ」
「そこまで言うか」
佐伯は匙を取り、煮込みを口へ運んだ。
目を閉じる。
肉を噛み、野菜を潰し、最後に汁を飲む。
レンはその動きを観察した。
佐伯の表情は変わらない。
やがて匙を置く。
「三日歩く人間に食わせる味だな」
レンの視線が、わずかに動いた。
佐伯は鍋の中身を見たまま続ける。
「塩が多いのは、汗をかくことを考えてる。肉と野菜の大きさは、同時に火が通るように揃えてある。腹を壊さず、身体を温め、動くための力を取る。そこだけなら悪くない」
フィーネが首を傾げる。
「褒めてます?」
「料理としては褒めてない」
「ですよねっ」
佐伯はレンを見る。
「誰かに、うまいと言わせるために料理を作ったことはあるか?」
「ありません」
レンは迷わず答えた。
嘘を重ねるより、その方が自然だった。
「自分で食うためだけか」
「生きるために必要だったので」
「なるほどな」
佐伯は腕を組む。
フィーネが口を挟んだ。
「包丁は使えます。ただ、料理人というより狩人の手つきですっ」
「旅が長かったのか?」
佐伯が尋ねる。
「はい。地方の宿や野営地で、必要なものを作っていました」
「人に食わせたことは?」
「あります。ただ、味を褒められたことはありません」
佐伯の口元が、わずかに緩んだ。
「正直だな」
フィーネは推薦状の余白を佐伯へ見せる。
「手際と衛生面には問題ありません。食材の扱いも丁寧です。味だけが致命的ですっ」
「一番大事なところじゃねえか」
「ですので、不採用が妥当かと」
佐伯は再び煮込みを見た。
「三日だ」
フィーネが瞬きをする。
「雇うんですか?」
「試用期間だ。仕込みと片づけをやらせる。料理は客に出すな」
「それなら、お客様の命は守られますねっ」
「フィーネ。お前が面倒を見ろ」
「ほぁ~! 私がですかっ?」
「味を見る目はある。人に教える練習にもなる」
「それは店主のお仕事では?」
「俺は忙しい」
「料理以外を後回しにする悪い癖が出ていますよぉ?」
「店が三日で止まってないなら問題ない」
フィーネは言い返そうとしたが、佐伯はすでにレンへ向き直っていた。
「寝る場所は屋根裏に空きがある。朝と夜の賄い付き。三日で使えないと判断したら追い出す。それでいいか」
店内へ入り込む。
佐伯の近くで働き、食材の出入りを調べる。
レンに断る理由はない。
「はい。お願いします」
「よし。なら、今日からだ」
佐伯は鍋を指差した。
「その前に、自分で作ったものは自分で食え。食材を無駄にするな」
鍋には、まだ五人分ほど残っている。
レンは黙って中を見た。
隣で、フィーネがにこりと笑う。
「よかったですね、レンさん。採用後、最初のお仕事ですっ」
「これを全部食べるのが?」
「はいっ。自分の料理に最後まで責任を持つ、とても立派なお仕事ですよぉ」
「手伝え」
「嫌ですっ」
即答だった。
「味を見るために一口いただきました。それ以上は、審査に必要ありませんので」
「十分だと?」
「食材の状態、火の通り、塩分、作った方の考えまで分かりました。二口目で得られる情報はありませんっ」
少なくとも、馬鹿ではない。
性格が悪いだけだった。
レンは鍋から自分の器へ煮込みをよそった。
生きるために必要なものは入っている。
味に問題はない。
そう考えて、口へ運ぶ。
向かい側では、フィーネが頬杖をつきながら見ていた。
「どうですか?」
「何がだ」
「ご自分で食べた感想ですっ」
レンは煮込みを飲み込んだ。
温かい。
塩気がある。
肉も野菜も、問題なく食べられる。
それ以外は、何もなかった。
「……食べられる」
「ほぁ~」
フィーネは、どこか憐れむように笑った。
「やっぱり、バカ舌なんですねっ」




