↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/73

味を◯す


白い光が消えるより先に、潮の匂いが鼻へ入った。


足元は濡れた石畳。


背後には古い煉瓦の壁があり、頭上では狭い空を海鳥が横切っている。


レンは周囲を確認した。


人影はない。


港湾都市リューネの外れ。大通りから一本入った裏路地らしい。


身体は再び十八歳前後へ戻っている。


暗色の上着に、使い込まれた革靴。腰には旅人が持っていても不自然ではない短刀が一本。懐には依頼書と推薦状、それに数日分の硬貨が入っていた。


料理人見習い。


その身分だけは、何度確認しても変わらない。


「……余計なことを」


レンは推薦状をしまい、路地を出た。


朝の港町は、すでに動き始めていた。


荷車が石畳を行き交い、港から届いた魚箱が市場へ運び込まれていく。建物の間には洗濯物が渡され、その下を職人や商人が忙しなく歩いていた。


通りを進むにつれて、潮とは違う匂いが増えていく。


油。


焼けた肉。


香辛料。


甘く煮詰めた果実。


市場の入口では、薄く切った芋を油で揚げている。隣の露店では、串に刺した肉へ褐色のたれを塗り、炭火で焼いていた。


朝食としては、どれも匂いが強い。


それでも店の前には人が並んでいる。


「兄ちゃん、一本どうだ?」


串焼きを売る男が声をかけてきた。


レンは足を止める。


肉そのものに珍しい点はない。


気になったのは、表面に塗られたたれだった。甘い香りの奥に、複数の香辛料が混ざっている。


「この味付けは、この辺りのものか」


「さては田舎から来たな?」


男は笑い、焼けた串を持ち上げた。


「《渡り鳥亭》の甘辛だれだよ。今じゃ、港のどこでも使ってる」


「渡り鳥亭が作り方を広めたのか」


「店主の佐伯がな。隠したって腐るだけだって、弟子にも近所の店にも聞かれりゃ何でも教えちまう」


レンは硬貨を一枚置き、串を受け取った。


一口だけ食べる。


甘みのあとに塩味が来る。焦げた部分にはわずかな苦みがあり、香辛料が肉の臭みを消していた。


野営で食べてきた、焼いただけの肉とは違う。


「どうだ?」


「うまい」


「だろ?」


男は満足そうに笑った。


レンは歩きながら残りを食べた。


腹は空いていなかった。


それでも、捨てる理由はなかった。


市場を抜けても、佐伯の影響は続いた。


油で揚げた魚。


酢に漬けた野菜。


白い生地へ肉と香草を挟んだもの。


同じ鳥の印が、いくつもの店先に掲げられている。


依頼書にあった一文を思い出す。


――対象者を起点とする食文化の急速な拡散を確認。


市場から港側へ進むと、やがて三階建ての建物が見えた。


木と煉瓦で造られた大きな食堂。


正面には、翼を広げた鳥と鍋を組み合わせた看板が下がっている。


《渡り鳥亭》。


開店前にもかかわらず、正面入口にはすでに十人以上が並んでいた。


レンは列を避け、建物の側面へ回る。


荷物の搬入口。


厨房へ続くと思われる従業員用の扉。


扉の位置、窓の数、二階へ伸びる外階段を確認する。


裏手には別の出入口が一つ。


地下へ荷物を運び込むための斜路もある。


レンが扉へ近づいた、そのときだった。


勢いよく扉が開く。


「ほぁ~っ!?」


甲高い声とともに、木の盆が飛び出してきた。


盆の上には、重ねられた皿が六枚。


それを持っていた少女の足が、扉の段差へ引っかかる。


身体が前へ傾き、皿が宙へ浮いた。


レンは一歩踏み込んだ。


右手で盆を受け、左手で皿を押さえる。


最後の一枚が滑り落ちる前に、膝で盆の端を持ち上げた。


少女は両手を前へ伸ばした姿勢のまま、何も持っていなかった。


割れた皿はない。


「怪我は」


レンが尋ねる。


少女は数回瞬きをした。


年齢はレンと同じか、わずかに上。


淡い蜂蜜色の髪を後ろで束ね、白い布を巻いている。薄い緑色のワンピースの上には、店の鳥印が縫われた前掛け。


大きな琥珀色の瞳が、盆とレンの間を往復する。


「ありませんっ。ありがとうございます」


少女は盆を受け取ると、皿が欠けていないか一枚ずつ素早く確認した。


それから、にこりと笑う。


「でも、人が出てくる気配に気づいていながら、扉の前から退かないなんて……なんというか、要領悪いですねっ!」


「退いたら皿が割れてた」


少女の笑顔が止まる。


手元の皿を見る。


「……それもそうですねっ」


「分かればいい」


「では、半分だけ撤回します」


「全部撤回しろ」


少女は聞かなかったことにして、扉の横にある板を示した。


従業員及び納入業者用。


「それで、こちらに何かご用ですか?」


「応募に来た。入口はここだと聞いている」


「応募?」


レンは推薦状を差し出した。


少女は受け取り、封に押された印と書面を順に確認する。紙の端を指でなぞり、透かしまで確かめてから内容へ目を通した。


「レン・クロードさん。十八歳。地方の料理人組合より紹介……料理人見習い?」


「そうだ」


少女はレンを見る。


推薦状へ戻る。


もう一度、レンを見る。


「採用される前から解雇されたみたいな辛気臭いお顔ですねぇ」


「元からだ」


「ほぁ~。お若いのに、ずいぶん人生に疲れていらっしゃるんですねっ」


「応募と関係あるか」


「店内が暗くなりそうなので、少しだけ」


少女は推薦状を丁寧に畳む。


「申し遅れました。私はフィーネですっ。佐伯店主の補佐として、給仕、仕入れ、帳簿、厨房の手伝い、それから応募者の確認を任されています」


「ずいぶん多いな」


「店主が料理以外をすぐ後回しにしますので。誰かが管理しないと、お店が三日で止まりますっ」


口調は軽いが、推薦状の扱いに隙はなかった。


封印も組合印も見慣れている。


ただの給仕ではなさそうだった。


フィーネは扉を押さえる。


「どうぞ。店主は仕込み中ですので、まずは私が確認します」


レンは店内へ入った。


厨房は、想像していたより広かった。


正面の食堂だけで四十人以上は入る。


その奥にある厨房では、十人を超える料理人が動いていた。


壁際には大小の鍋。中央には長い作業台が三つ。肉、魚、野菜を扱う場所が、それぞれ分けられている。


水場は二か所。


炉は四つ。


厨房から食堂へ出る扉とは別に、奥へ続く通路が一つ。


地下への階段も見える。


レンが視線を動かしていると、フィーネが横から声をかけた。


「出入口ばかり見ていますね」


「仕事場を覚えている」


「作業台や食材より先に、出口の数を確認する料理人は珍しいですっ」


「火が出たときに困る」


「なるほど。ずいぶん用心深いんですねぇ」


フィーネは笑っている。


だが、レンがどこを見ていたのか、正確に把握していた。


厨房の隅には、見慣れない野菜が積まれている。


赤く丸い実。


細長い黄色の根。


表面に無数のくぼみがある、拳ほどの塊。


レンは足を止めた。


「それが気になります?」


「見たことがない」


「佐伯店主が見つけた食材です。最初は店でしか使っていなかったんですが、今は近くの農村でも育ててもらってます」


「種も、ここからか」


「そう聞いてます。仕入れの記録には農村から届いた分しか残りませんので、最初の種をどこから手に入れたのかは店主しか知りません」


フィーネは赤い実を手に取り、傷や変色がないか確かめる。問題のある二つだけを別の籠へ移した。


「食べられないのか」


「傷んだ部分を取り除けば使えます。ただし、同じ籠に入れておくと他まで傷みますので」


仕入れを任されているという話は、誇張ではないらしい。


食材の状態を一目で見分け、何がどの料理に使われるのかも把握している。


「では、試験を始めますねっ」


フィーネは作業台の一つを示した。


その上には、肉の切れ端、数種類の野菜、塩、乾燥した香草が置かれている。


「試験?」


「料理人見習いの応募ですよ? 推薦状だけで採用されると思っていたんですか?」


思っていた。


少なくとも、女神は試験があるとは言わなかった。


「厨房補助と聞いている」


「補助でも食材を扱います。簡単なもので構いません。ここにある材料で一品、作ってください」


レンは材料を見る。


肉。


野菜。


塩。


水。


火。


食べられるものを作るだけなら、難しくない。


「分かった」


「自信がおありで?」


「食べられるものは作れる」


「料理人として、それ以上に不安な言葉も珍しいですねぇ」


レンは返事をせず、包丁を取った。


刃の重さを確かめる。


普段使う短刀より幅があり、先端の形も違う。それでも、刃物であることに変わりはない。


肉の筋へ刃を入れる。


硬い部分を外し、同じ厚さへ切り分ける。


次に野菜。


皮を剥き、大きさを揃える。


フィーネは口を挟まず、その手元を見ていた。


「包丁は使えるんですね」


「さっきも言った」


「ただ、料理人の切り方ではありません」


レンの手がわずかに止まる。


「分かるのか」


「肉の筋や骨を避けるときだけ、妙に速いので。見栄えよく切るというより、少ない動きで解体する手つきですっ」


「旅が長かった。獣をさばく機会もある」


「なるほど。野営料理の経験は豊富、と」


フィーネは推薦状の余白へ何かを書き込んだ。


冗談めいた口調とは違い、見るべきところは見ている。


レンは鍋へ水を入れ、肉と野菜を順に加えた。


灰汁を取り、火を弱める。


塩。


乾燥した香草。


長く歩き続けることを想定し、塩分は少し強めにした。身体を冷やさず、腹を壊さず、必要な栄養を取る。


それだけを考える。


やがて、鍋から湯気が上がった。


レンは器へよそい、フィーネの前へ置く。


「できた」


「見た目は普通ですね」


フィーネが匙を取る。


慎重に息を吹きかけ、一口食べた。


動きが止まる。


「どうだ」


「ほぁ~……」


フィーネはもう一度、口の中のものを確かめるように噛んだ。


「なんというか……食材に謝った方がいいですねっ」


「食べられるはずだ」


「食べられるかどうかは、料理の最低条件ですよぉ?」


「傷んだ材料は使ってない。火も通ってる」


「そういうところですっ」


フィーネは器を置いた。


「毒はありません。お腹も膨れます。身体も温まります。でも、おいしくしようという考えが、どこにもありません」


「必要なものは入ってる」


「食事を薬か何かだと思ってます?」


「生きるために食べるものだ」


「ほぁ~! なんというか……本当に料理人を志してるんですかっ?」


志していない。


厨房へ入るために、料理人見習いの身分を使っているだけだ。


だが、それを答えるわけにはいかなかった。


「地方では、こういうものを作ってた」


「どんな地方ですか。戦場ですか?」


近い。


レンが答えを選んでいると、背後から低い声がした。


「フィーネ。応募者を尋問するな」


厨房の空気が変わった。


料理人たちが一斉に声を返す。


「店主、おはようございます!」


奥の通路から、大柄な男が歩いてきた。


四十代半ば。


黒い髪には白いものが混じり、太い腕には細かな火傷の痕がいくつも残っている。白い上着の袖を肘までまくり、腰には濃紺の前掛け。


武器はない。


歩き方にも、戦闘の訓練を受けた形跡は見えなかった。


それでも、厨房にいる全員が男の動きを意識している。


対象者――佐伯宗一郎。


レンが探していた異世界人本人だった。


「店主。この方、厨房補助の応募者ですっ」


フィーネが推薦状を差し出す。


佐伯は受け取り、短く目を通した。


「レン・クロード。料理人見習いか」


「はい。よろしくお願いします」


レンは丁寧に頭を下げた。


佐伯は返事をせず、作業台へ置かれた鍋を見る。


「こいつが作ったのか?」


「はい。とても健康的で、安全で、二度と食べたくない煮込みですっ」


「そこまで言うか」


佐伯は匙を取り、煮込みを口へ運んだ。


目を閉じる。


肉を噛み、野菜を潰し、最後に汁を飲む。


レンはその動きを観察した。


佐伯の表情は変わらない。


やがて匙を置く。


「三日歩く人間に食わせる味だな」


レンの視線が、わずかに動いた。


佐伯は鍋の中身を見たまま続ける。


「塩が多いのは、汗をかくことを考えてる。肉と野菜の大きさは、同時に火が通るように揃えてある。腹を壊さず、身体を温め、動くための力を取る。そこだけなら悪くない」


フィーネが首を傾げる。


「褒めてます?」


「料理としては褒めてない」


「ですよねっ」


佐伯はレンを見る。


「誰かに、うまいと言わせるために料理を作ったことはあるか?」


「ありません」


レンは迷わず答えた。


嘘を重ねるより、その方が自然だった。


「自分で食うためだけか」


「生きるために必要だったので」


「なるほどな」


佐伯は腕を組む。


フィーネが口を挟んだ。


「包丁は使えます。ただ、料理人というより狩人の手つきですっ」


「旅が長かったのか?」


佐伯が尋ねる。


「はい。地方の宿や野営地で、必要なものを作っていました」


「人に食わせたことは?」


「あります。ただ、味を褒められたことはありません」


佐伯の口元が、わずかに緩んだ。


「正直だな」


フィーネは推薦状の余白を佐伯へ見せる。


「手際と衛生面には問題ありません。食材の扱いも丁寧です。味だけが致命的ですっ」


「一番大事なところじゃねえか」


「ですので、不採用が妥当かと」


佐伯は再び煮込みを見た。


「三日だ」


フィーネが瞬きをする。


「雇うんですか?」


「試用期間だ。仕込みと片づけをやらせる。料理は客に出すな」


「それなら、お客様の命は守られますねっ」


「フィーネ。お前が面倒を見ろ」


「ほぁ~! 私がですかっ?」


「味を見る目はある。人に教える練習にもなる」


「それは店主のお仕事では?」


「俺は忙しい」


「料理以外を後回しにする悪い癖が出ていますよぉ?」


「店が三日で止まってないなら問題ない」


フィーネは言い返そうとしたが、佐伯はすでにレンへ向き直っていた。


「寝る場所は屋根裏に空きがある。朝と夜の賄い付き。三日で使えないと判断したら追い出す。それでいいか」


店内へ入り込む。


佐伯の近くで働き、食材の出入りを調べる。


レンに断る理由はない。


「はい。お願いします」


「よし。なら、今日からだ」


佐伯は鍋を指差した。


「その前に、自分で作ったものは自分で食え。食材を無駄にするな」


鍋には、まだ五人分ほど残っている。


レンは黙って中を見た。


隣で、フィーネがにこりと笑う。


「よかったですね、レンさん。採用後、最初のお仕事ですっ」


「これを全部食べるのが?」


「はいっ。自分の料理に最後まで責任を持つ、とても立派なお仕事ですよぉ」


「手伝え」


「嫌ですっ」


即答だった。


「味を見るために一口いただきました。それ以上は、審査に必要ありませんので」


「十分だと?」


「食材の状態、火の通り、塩分、作った方の考えまで分かりました。二口目で得られる情報はありませんっ」


少なくとも、馬鹿ではない。


性格が悪いだけだった。


レンは鍋から自分の器へ煮込みをよそった。


生きるために必要なものは入っている。


味に問題はない。


そう考えて、口へ運ぶ。


向かい側では、フィーネが頬杖をつきながら見ていた。


「どうですか?」


「何がだ」


「ご自分で食べた感想ですっ」


レンは煮込みを飲み込んだ。


温かい。


塩気がある。


肉も野菜も、問題なく食べられる。


それ以外は、何もなかった。


「……食べられる」


「ほぁ~」


フィーネは、どこか憐れむように笑った。


「やっぱり、バカ舌なんですねっ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。