料理人を◯す
白い部屋には、時間の流れを示すものがない。
窓もなければ、空もない。壁と床の境目さえなく、どこまで見ても白だけが続いている。
レンは、その場に座っていた。
指の間にあった煙草は、もうない。
灰も、煙も、薄い臭いも消えている。それでも舌の奥には、あの安い煙草の苦みが残っているような気がした。
両手を見る。
傷はない。血もついていない。
ただ、腕の中にあった重みだけは、まだ消えていなかった。
「長いお休みだねぇ」
頭上から、場違いに明るい声が降ってきた。
顔を上げると、女神が宙に浮かんでいた。淡い金白色の髪を垂らし、上下逆さまのままレンを見下ろしている。
「この部屋、時間はほとんど関係ないんだけどさ。それにしたって、ずいぶん動かないね」
レンは答えなかった。
女神は身体を回転させ、床へ降りる。
「もう少し休む?」
「依頼があるなら出せ」
「あ、働く気になった?」
「ここにいても何もない」
「私がいるよ」
「何もない」
「ひどくない?」
女神は頬を膨らませたが、レンは見ていなかった。
少しして、彼女はいつもの笑顔に戻る。
「まあ、いいや。ちょうど次の依頼も届いてるし」
女神が指を鳴らした。
白い空間に、一冊の依頼書が現れる。
レンは受け取らなかった。
「調べたのか」
「うん?」
「対象を」
女神の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
前回の依頼書に記されていたのは、ヴァレイン王国の国王レオルド・ヴァルガスだった。
実際の異世界人は、別にいた。
「今回は大丈夫」
「何を確認した」
「この世界へ入ったときの痕跡と、今の対象者を照合した。名前や功績がそれらしく見える人じゃなくて、実際に世界を渡った本人まで確認してる」
「他は」
「他?」
「能力。持ち込んだもの。協力者。影響の範囲」
女神は目を逸らした。
「そこまでは、現地で調べて」
「念入りに調べたんじゃなかったのか」
「本人確認を念入りにしたの。何もかも分かるとは言ってないよ」
レンが黙って見つめると、女神は困ったように両手を広げた。
「世界の外から分かるのは、世界を渡った痕跡とか、急に生まれた大きな変化くらい。誰がどこで何を話したとか、店の中に何が隠されてるとか、そんなところまでずっと見ていられないよ」
「神だろう」
「神様だって忙しいんですー。見なきゃいけない世界は一つじゃないし、異世界へ直接手を入れるのにも限度があるの」
「都合のいい話だな」
「何でも分かって、何でもできるなら、最初から私が全部片づけてるよ」
女神は依頼書をレンの胸元へ押しつけた。
「それができないから、君に現地へ行ってもらってるの」
レンは少しの間、依頼書を見下ろしていた。
やがて受け取り、表紙を開く。
対象者――佐伯宗一郎。
四十五歳。
十四年前、この世界へ転移。
現在は港湾都市リューネにある大食堂《渡り鳥亭》の店主を務めている。
異世界人本人であることは確認済み。
詳細な能力、異世界由来の影響範囲は不明。
レンの視線が、一行の記述で止まる。
「職業、料理人」
「うん」
「料理人?」
「そう。お料理を作る人」
「それくらいは分かる」
「じゃあ、何が疑問なの?」
「なぜ料理人が処分対象になる」
女神は少し考えたあと、笑顔で答えた。
「料理が上手すぎたからかな」
レンが依頼書から目を上げる。
「ふざけてるのか」
「言い方はね」
女神は笑ったまま、依頼書の一部を指先で叩いた。
「でも、内容はそれほど冗談じゃないよ」
佐伯宗一郎は、この世界へ現れたあと、小さな食堂で働き始めた。
やがて自分の店を持ち、元の世界で覚えた料理を出すようになる。
焼く、煮る、揚げる、蒸す。
調味料の組み合わせ、肉や魚の保存、発酵、冷却、厨房の衛生管理。
依頼書に記されているのは、それだけだった。
具体的な料理名も、弟子の数も、広まった地域も書かれていない。
ただし、最後に短い一文が添えられている。
――対象者を起点とする食文化の急速な拡散を確認。
「レシピが普及しているのか」
「かなりね」
「どの程度だ」
「正確には分からない。少なくとも、もう一つの街だけで済む規模じゃないよ」
レンは頁をめくる。
しかし、詳しい一覧はなかった。
「もう手遅れなんじゃないか」
「うん。本人の拡散力をなめてたわ……」
女神は悪びれずに頷いた。
「最初は、小さな食堂で見慣れない料理を出しているだけだったんだよ。それが弟子を取って、作り方を教えて、その弟子が別の店で教えて……気づいたら、ずいぶん遠くまで広がってた」
「今さら店を一軒消しても、覚えた人間までは消せない」
「そうなんだよねぇ」
女神は腕を組む。
「すでに広まったものを、全部回収するのは現実的じゃない。だから最低限、これ以上新しい料理や作り方を増やさせないでほしい」
「料理を広めた。それだけか」
「…それだけじゃないんだよねぇ」
女神が、依頼書の次の項目を指差した。
対象者は、この世界に存在しない食材を継続的に入手している可能性が高い。
入手方法は不明。
推定固有能力――《異界厨房》。
「異世界から食材を持ち込んでいるのか」
「たぶんね」
「たぶん?」
「この世界に存在しなかった植物や調味料が、佐伯の店から出回り始めてる。種を取って育てた人もいるみたい」
「生き物もか」
「そこまでは確認できてない。でも、食材として持ち込めるなら、植物や小さな生き物が混ざる可能性はある」
女神は、そこで初めて笑顔を少し曇らせた。
「それに、食材そのものが問題になるとは限らないんだよ」
「どういう意味だ」
「この世界に天敵がいない植物が広がれば、在来種を押しのけるかもしれない。異世界の虫や微生物が混ざっていたら、作物や家畜に病気を広げる可能性もある。逆に、こちらの生き物が異世界の食材を食べて、想定外に増えることだってある」
レンは依頼書へ視線を落とした。
「生態系の変化か」
「うん。料理の流行だって長い目で見れば、需要の変化によって生態系の変化につながるし、種や菌や小さな生き物が定着したら、森や畑、川の中身まで変わるかもしれない」
「どの程度進んでいる」
「分からない」
「またか」
「外から見えるのは、異世界の痕跡がどこまで広がっているかくらい。どの種が根づいて、何を食べて、何に食べられているかまでは見えない」
女神は依頼書を指でなぞった。
「だから、すでに広まった食材や種を見つけたら、安易に捨てたり燃やしたりしないで。処分の仕方を間違えると、かえって別の場所へ広がるかもしれない」
「調べてから処分しろということか」
「そう。必要なら、畑や水路、周辺の森まで確認して。佐伯の店だけで止まっているのか、それとも野外へ出ているのかで、対応は変わるから」
異世界の食材が、一度持ち込まれただけなら影響は限られる。
だが、佐伯は十四年間にわたって料理を作り続けている。
店は今も営業し、新しい料理も増え続けている。
異世界から何が、どれほど流れ込んでいるのか。
すでに外へ出たものが、この世界でどのような影響を及ぼしているのか。
それが人間の食文化だけでなく、生態系そのものを変え始めているのか。
依頼書には、詳しいことは書かれていない。
「一番の問題は、本人が外から食材を調達し続けてること」
女神は言った。
「新しいレシピは、佐伯を処分すれば増えなくなる。でも、異世界と繋がった能力を放置すれば、これから何が入ってくるか分からない。新しい生物が入り込めば、今まで保たれていた食物連鎖や農作物の分布まで崩れる可能性があるいやまぁ崩れるのは最悪いいよ別に?…変化量が大きいのが問題」
「能力は本人に付随しているのか」
「その可能性が高い。外から見える異世界の痕跡は、佐伯を中心に動いてる」
「なら、本人を殺せば新しい流入は止まる」
「その可能性が高い、まずはそれが今回の任務」
女神の声は軽い。
それでも、告げる内容はこれまでと変わらなかった。
「佐伯宗一郎を殺して、《異界厨房》を止める。そのあと、残っている異世界の食材や種、佐伯が作った記録を調べて、可能な限り処分する。もし生態系への影響が出ているなら、広がった範囲を確認して、これ以上拡大しないようにする」
「処分範囲は」
「現地で判断して」
「またそれか」
「だから、そこまでは外から見えないんだってば」
レンは依頼書を閉じた。
対象が異世界人本人であることだけは確実。
それ以外は、現地で調べるしかない。
いつもと同じだった。
ただ、今回殺すのは勇者でも、天才研究者でも、国を操る少女でもない。
料理人。
その言葉だけが、依頼書の中で妙に浮いて見えた。
「身分は」
「もう用意してあるよ」
女神は嬉しそうに指を鳴らした。
レンの手の中に、一枚の推薦状が現れる。
港湾都市リューネで料理を学ぶため、地方から出てきた料理人見習い。
《渡り鳥亭》が募集している厨房補助へ応募するため、地方の料理人組合が発行した紹介状。
レンは無言で読み終えた。
「変えろ」
「どうして?」
「料理はできない」
「刃物は得意でしょ?」
「人間と野菜は違う」
「お肉なら似たようなものじゃない?」
「違う」
「火も扱えるよね」
「野営で使う程度だ」
「食べられるものは作れる?」
「生きるためのものなら」
「じゃあ大丈夫」
「何がだ」
女神は満足そうに頷いた。
「現地で教わればいいよ」
「別の身分にしろ」
「でも、《渡り鳥亭》の中を調べるなら、厨房へ入るのが一番早いでしょ?」
「給仕でもいい」
「愛想が必要だよ」
「演じられる、今までもそうしてきた」
「大丈夫大丈夫、料理人の方が向いてるからっ」
レンの足元へ、淡い光の線が走る。
次の世界へ向かうための魔法陣。
レンは推薦状を握ったまま、女神を見る。
「待て。佐伯の戦闘能力は」
「不明」
「店の構造は」
「不明」
「能力を使う条件は」
「それも不明」
「持ち込まれた生物の種類と、拡散範囲は」
「それも現地で調べて」
「分かっているのは、料理人だということだけか」
「異世界人本人だってことも、今回は確実だよ」
女神は胸を張った。
誇るところではない。
光が強くなる。
レンの身体が、足元から白へ溶け始めた。
「待て。まだ確認がある」
「続きは向こうで調べてね」
「身分を変えろ」
「その辛気臭い顔で給仕は無理だって」
「余計なお世話だ」
女神は笑顔で大きく手を振った。
「今度の世界では、少しくらいおいしいものを食べておいでよ」
「遊びに行くんじゃない」
「分かってるよ」
分かっている顔ではなかった。
レンの姿が、光の中へ沈んでいく。
最後まで残っていた指先が消える直前、女神の明るい声が白い部屋へ響いた。
「それじゃあ、いってらっしゃーい!」




