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エピローグ 残り香


視界が白く染まった。


次に目を開けたとき、灰晶石の通路は消えていた。


壁も。


床も。


天井も。


境目のない、真っ白な部屋。


レンの両腕は、誰かを抱く形のまま止まっていた。


だが。


そこにはもう、何もなかった。


腕を下ろす。


服に残っていた血も、傷の痛みも消えていく。


左脚に力を入れる。


深く刺されたはずの傷は、跡すら残っていなかった。


帰還後に義務づけられている報告書も、既に提出していた。


それから、どれほど時間が経ったのか。


レンには分からなかった。


白い部屋には、朝も夜もない。


ただ、何もない時間だけが過ぎていった。


「おっつかれー!」


明るい声が響く。


女神が片手を上げながら、レンへ近づいてきた。


「報告書、読んだよ。いやあ、今回は大変だったね。王様は強いし、お城は広いし、最後にはまさかの――」


「対象者が違った」


女神の足が止まる。


「……戻ってきて最初に言うこと、それ?」


「依頼書には、レオルド・ヴァルガスが異世界人である疑いがあると書いてあった」


「うん。あくまで疑い、ってね」


「実際はニナだった」


「そこは……ごめん」


女神は目を逸らした。


「なぜ間違えた」


「外から見えるものが、全部レオルドのものだったから」


「どういう意味だ」


「街道を整えて、井戸を作って、軍を変えて、何でも知っていて、底の見えない魔力を使う。外から見れば、レオルドが異世界の知識と力を持ち込んだように見えたの」


「実際には、ニナが後ろから与えていた」


「うん。本人は表に出ずにね」


女神が両手の指先を合わせる。


「だから、疑う相手を間違えました」


「俺がレオルドを殺していたら、ニナは残っていた」


「返す言葉もありません」


女神が深く頭を下げる。


「次からは、疑いの根拠も依頼書へ書け」


「善処します」


「書け」


「……書きます」


レンは外套の内側へ手を入れた。


指先に、細長いものが触れる。


一本の煙草。


人材管理所へ入った夜。


巡回兵から奪った小箱に入っていたものだった。


鍵と小箱は元の場所へ戻した。


だが、その一本だけは外套に残っていた。


戦いで潰れ、紙には皺が寄っている。


それでも、折れてはいなかった。


女神が煙草をのぞき込む。


「それ、どこで手に入れたの?」


「借りた」


「誰から?」


「兵士だ」


「許可は?」


「取っていない」


「それは盗んだって言うんじゃない?」


「箱は返した」


「一本抜いたあとでね」


レンは答えず、煙草を口へくわえた。


女神が呆れたように息を吐く。


「そんな潰れたの、本当に吸うの?」


「ああ」


「いつもみたいに、もっといい煙草を用意しようか? それよりずっと上等なやつ」


「いらない」


女神は少しだけ首を傾げた。


それ以上は何も言わず、指先へ小さな火を灯す。


「火は?」


「ああ」


先端を近づける。


息を吸うと、葉が赤く燃えた。


煙が肺へ入る。


安い煙草だった。


味は薄く、ひどく苦い。


『身体に悪いよ』


屋根の上で聞いた声が、頭に浮かぶ。


レンは煙を吐いた。


白い部屋へ、さらに白い煙が昇っていく。


「おいしい?」


女神が尋ねる。


「まずい」


「やっぱり。だから、もっといいのを出すって――」


「いらない」


「でも、それ、おいしくないんでしょ?」


「ああ」


レンは、不格好に潰れた煙草を見た。


「これがいい」


女神は何かを言いかけた。


だが、口を閉じた。


レンはもう一度、煙を吸った。


今度は、ゆっくりと。


苦い味を、確かめるように。


袖から指先が出ないほど大きかった外套。


肩へ掛かった、軽い重み。


八十三まで数えたときに聞こえた足音。


最後に腕の中から失われていった熱。


どれも。


もう、どこにも存在しない。


それでも、レンの中には残っていた。


ニナが差し出した手を、レンは取らなかった。


目も。


耳も。


魔力も。


最後まで、共有しなかった。


ニナとは、繋がらなかった。


それでも。


二人の間には、確かに繋がりがあった。

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