↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/71

繋がりを◯す

「黒幕って、ひどい言い方だね」


ニナは笑った。


驚きはない。


否定する様子もなかった。


「違うのか」


レンが尋ねる。


「違うって言ったら、信じてくれる?」


「信じない」


「だよね」


ニナの笑みが、少しだけ深くなる。


今まで何度も見てきた表情だった。


だが。


もう、何も知らない少女を装う必要はない。


その目は笑っていなかった。


「いつから気づいてたの?」


「疑ったのは南門だ」


「早いなあ」


「都合よく命令が届きすぎた」


偽造された通行証が照会される直前。


レオルドの命令で、検査が緩められた。


青鷺堂から監視が消えた。


王城東門でも、認証済みの人間を通すよう命令が出た。


すべて、レンとニナが先へ進むために必要な瞬間だった。


「レオルドが俺たちを招いているのは分かった。だが、あいつが必要としていたのは俺じゃない」


レンが言う。


「お前を城へ戻すことだった」


「それだけじゃ、私が黒幕だとは分からないでしょ?」


「ああ」


レンはニナを見る。


「確信したのは、倉庫で情報の流れを線にしたときだ」


南門。


青鷺堂。


人材管理所。


王城。


すべての場所を繋ぐ線。


その中心には、レオルドではなくニナがいた。


「情報が集まっていたのは、レオルドじゃない」


レンが言う。


「お前だ」


ニナは黙っていた。


「街の人間が見たもの。兵士が聞いたもの。役人が読んだもの。それを、お前がレオルドへ渡していた」


「正解」


ニナは、あっさり認めた。


「王様が何でも知ってたんじゃない。みんなが知ってることを、王様へ繋いでただけ」


「レオルド一人の魔力が、無限だったわけじゃない」


「王都にいる魔導師。兵士。魔石。使われずに余っている魔力を、少しずつ借りてたの」


一人から取る量は少ない。


本人にも気づかれないほど。


だが、何千人。


何万人と繋がれば。


一人の王へ、尽きることのない魔力を集められる。


ニナが壁へ触れる。


「ここでは、私の力も使えない」


「だから中へ入らなかった」


「レンに任せたかったからだよ」


「レオルドを殺させるためだろ」


ニナは首を傾げる。


「殺したんでしょ?」


「生きている」


笑みが止まった。


一瞬だけ。


ニナの視線が、静寂庫へ続く扉へ向く。


「嘘」


「急所を外した。気を失わせて、血をつけただけだ」


「どうして?」


「レオルドは依頼対象じゃない」


「あの人が暴君だよ?」


「変えるための知識と力を与えたのは、お前だ」


レンが一歩進む。


「異世界から来て、今もこの世界へ影響を与え続けているのもな」


ニナの表情から、笑みが消える。


「やっぱり」


小さく呟く。


「レンも、この世界の人じゃないんだね」


「俺のことは関係ない」


「関係あるよ」


ニナが胸元へ手を置く。


「初めて会ったときから変だと思ってた。レンだけ、どこにも繋がってなかったから」


村人。


兵士。


商人。


反乱者。


この国に生きる多くの人間が、直接か間接かの違いはあっても、ニナの繋がりへ触れている。


だが、レンだけは違った。


誰の目を通しても見えない。


誰の耳を借りても聞こえない。


ニナが隣にいなければ、行動を知ることができない。


「だから、ついてきたのか」


「最初はね」


「途中からは?」


「レンが、次に何をするのか見たくなった」


ニナは再び笑った。


今度の笑みは、これまでより自然だった。


「思ったとおりに動かないんだもん」


「切り通しの兵士も、お前が用意したのか」


「用意したのは王様。私は、レンたちがそこを通るって教えただけ」


「徴兵命令を盗んだのは」


「私」


「橋へ偽物を向かわせたのも」


「私が王様へ提案した」


「ダリオたちが生き残るかどうかは」


「どちらでもよかった」


迷いのない答えだった。


「レンが負けたら、その程度だったってこと。勝ったら、もっと先を見てみたかった」


「村の人間が死んでもか」


「必要な犠牲なら」


罪悪感はなかった。


言い訳をしている様子もない。


ニナは、それを正しいことだと信じている。


「お前は、何を作ろうとしていた」


レンが尋ねる。


ニナは少しだけ考えた。


言葉を選ぶためではない。


どこから話すべきか、迷っているようだった。


「私がいた世界では、遠く離れた人が持っている知識を、簡単に知ることができた」


ニナが言う。


「病気の治し方。食べ物の作り方。道具の作り方。誰かが知っていることを、たくさんの人が使えた」


「それを、この世界でもやろうとしたのか」


「それだけじゃないよ」


ニナの指が、灰晶石の壁をなぞる。


「この世界では、全部がばらばらだった」


ある村では、食料が余って腐る。


別の村では、子供が飢えて死ぬ。


一つの街には病気を治せる人間がいる。


その隣町では、治し方を知らないまま何十人も死ぬ。


魔力を使い切れずに余らせる人間がいる。


一方では、あと少し魔力があれば助けられた命が失われる。


「持っている人が、持っていない人へ渡せばいい」


ニナが言う。


「知っている人が、知らない人へ教えればいい。でも、人は自分のものを手放さない」


「だから、無理に繋いだ」


「うん」


「本人が望んでいなくてもか」


「望むのを待っていたら、また誰かが死ぬから」


ニナはレンを見る。


「私が作りたかったのは、便利な国じゃない」


声に、初めて強い感情が混じった。


「誰かが見たものを、ほかの人も知る。誰かに余っている力を、必要な人へ渡す。一人ではできないことを、全員でできるようにする」


ニナの目が、まっすぐレンへ向けられる。


「国そのものを、一つの身体にしたかった」


街道は血管。


人間は手足。


集められた情報は感覚。


魔力は血液。


そして。


そのすべてを判断する頭脳が必要になる。


「レオルドが、その頭だったのか」


「最初はね」


ニナが答える。


「王族で、力もあった。古い制度を壊す覚悟もあった。私が教えたことを、一番早く理解した」


レオルドは街道を整備した。


井戸を作った。


軍の補給制度を変えた。


農地と収穫量を管理し、必要な場所へ食料を運んだ。


ニナの繋がりを使い。


国の隅々まで見渡した。


「うまくいっていたよ」


ニナが言う。


「少なくとも、最初は」


「何が変わった」


「レオルドは、見えるものを怖がるようになった」


誰が不満を持っているか。


誰が王を嫌っているか。


誰が裏切ろうとしているか。


何も知らなければ、気づかずに済んだ小さな悪意まで。


レオルドには見えるようになった。


「そのうち、国を良くするためじゃなく、自分を守るために繋がりを使い始めた」


「お前が力を与え続けた」


「次の中心がいなかったから」


「それで俺を選んだのか」


「うん」


ニナは迷わなかった。


「レンなら、見たものすべてに怯えない。人を信用しなくても、何をするかは見てる。必要なものと、いらないものを分けられる」


「俺を王にするつもりだったのか」


「王様じゃなくていい」


ニナが首を横へ振る。


「私が欲しかったのは、命令する人じゃない。集まったものを、正しく使える人」


「正しいかどうかは、誰が決める」


「結果が決めるよ」


「その途中で何人死んでもか」


「最後に、今より多くの人が生きられるなら」


ニナは本気だった。


犠牲を楽しんでいるわけではない。


憎しみで人を殺しているわけでもない。


目的のために必要なら。


数の少ない側を、迷わず切り捨てる。


「人は、一人分の知識と力だけで生きる必要なんてない」


ニナが言う。


「全部を繋げれば、もっと遠くまで行ける。飢える人も、治せずに死ぬ人も減らせる」


「逆らう人間も減らせる」


「同じ身体の手と足が、勝手に殺し合ったりしないでしょ?」


「人間は手足じゃない」


「だから失敗するんだよ」


ニナの声は静かだった。


「みんなが自分だけは特別だと思って、持っているものを守ろうとする。違う考えを持つ人を敵にする。繋がっていないから、何度も同じ間違いを繰り返す」


「繋がれば、間違わないのか」


「今よりはね」


「レオルドは間違えた」


「だから、代える」


ニナはレオルドを見限った。


王が間違ったからではない。


自分の作ろうとする世界の中心に、適さなくなったから。


国王ですら。


ニナにとっては、交換できる部品だった。


「レン」


ニナが右手を差し出す。


「私と繋がって」


細い指。


何度もレンの腕をつかんだ手。


荷車を越えるとき。


人混みを走るとき。


洗濯場を抜けるとき。


「手を取って、受け入れてくれればいい」


「断る」


「王都にいる治癒術師の魔力を借りれば、その傷も治せる」


レンの衣服には、血が広がっていた。


レオルドとの戦いで受けた傷。


立っているだけで、左脚が細かく震えている。


「兵士の力も。魔導師の知識も。王様が集めた情報も、全部レンが使えるようになる」


「必要ない」


「レオルドより、うまく使えるよ」


「使うつもりはない」


「どうして?」


「人間を道具にするつもりはない」


ニナが目を丸くする。


「レンが、それを言うんだ」


「必要なら利用する。だが、繋いで自分の一部にはしない」


「何が違うの?」


「切り離せるかどうかだ」


利用した人間は、レンから離れられる。


裏切ることも。


逃げることも。


命令を拒むこともできる。


ニナの繋がりには、それがない。


「お前が生きている限り、繋がりは増え続ける」


レンが言う。


「だから、お前は死ぬ必要がある」


「私を殺しても、元には戻らないよ」


「ああ」


「レオルドが作った制度は残る。道も。井戸も。軍も。私が教えた知識だって、もういろんな人が覚えてる」


「それでいい」


ニナの眉が、わずかに動く。


「いいの?」


以前、カナタの資料まで破壊したのは、本人が死んでも、読んだ者が研究を再現し、その先へ進める可能性が高かった。


だが、ニナの繋がりは本人にしか使えず、死ねば消える。残る街道や制度は、既にこの世界の人間が自分たちで維持するものだった。


「変わった世界を元へ戻すのが、俺の仕事じゃない」


レンが言う。


「俺が止めるのは、異世界人を源にして、これからも続いてく影響だ」


レンはニナを見る。


「お前を殺せば、繋がりは終わる」


ニナは差し出していた手を見る。


「そっか」


短く呟いた。


「レンなら、分かってくれると思ったんだけどな」


「理解はした」


「なら――」


「理解したうえで、止める」


「頑固だね」


「ああ」


ニナが手を下ろす。


「じゃあ、聞いてもいい?」


「何だ」


「屋根の上で、外套を貸してくれたのは?」


「寒そうだったからだ」


「私、寒いって言ってないよ」


「腕を抱えていた」


「肩で寝てたとき、起こさなかったのは?」


「見張りの邪魔にならなかった」


「途中から起きてたんだけど」


「知っている」


ニナが目を瞬く。


「知ってたの?」


「呼吸が変わった」


「それでも、どかさなかったんだ」


「ああ」


ニナは少しだけ笑った。


先ほどまでの、目的を語る黒幕の顔ではなかった。


王都まで、レンの隣を歩いていた少女の笑みだった。


「そういうところが、好きだったよ」


ニナの視線が、レンの左脇腹へ落ちる。


呼吸が変わる。


レンは、その瞬間に身体を沈めた。


ニナの袖から、細い刃が滑り出す。


銀色の光。


切っ先が、レンの首があった場所を通り過ぎた。


ニナが手首を返す。


横薙ぎ。


レンは腕で受けた。


刃が皮膚を裂く。


熱い血が流れる。


そのままニナの手首をつかもうとする。


だが、指が届く前に引かれた。


ニナが後ろへ跳ぶ。


軽い動き。


弓を射るときと同じ足運びだった。


「避けると思った」


「話しながら、傷ばかり見ていたからな」


「気づいてたんだ」


ニナは短剣を構え直す。


刃渡りは短い。


正面から斬り合うための武器ではない。


狭い場所で、急所へ突き込むための刃。


「本当に戦うのか」


レンが尋ねる。


「ここで死んだら、私の作ろうとしたものが全部終わるからね」


「レオルドは生きている」


「だから、まだ取り戻せる」


ニナの目に迷いはなかった。


最後まで。


自分の信じた世界を作ろうとしている。


「レンを殺してでも、外へ出るよ」


「そうか」


ニナが踏み込む。


速い。


切っ先が胸元へ伸びる。


レンは身体をずらした。


完全には避けきれない。


刃が肋骨の上を滑る。


衣服が裂けた。


レンは痛みを無視し、ニナの肘へ掌を当てる。


押し上げる。


短剣が頭上へ逸れた。


空いた脇腹へ膝を入れようとする。


ニナは身体を捻り、腿で受けた。


鈍い音。


二人の身体がぶつかる。


ニナが額をレンの顎へ当てた。


視界が揺れる。


続けて、傷のある左脇腹へ拳が入った。


息が止まった。


レンの背中が、灰晶石の壁へぶつかる。


「ちゃんと痛いんだね」


「当たり前だ」


「少し安心した」


短剣が、再び首へ向かう。


レンは左腕を上げる。


刃が前腕へ刺さった。


肉を裂く感触。


痛みより先に、冷たさを感じる。


ニナが刃を引こうとする。


レンは腕へ力を入れた。


刺さったまま、刃を挟む。


「離して」


「断る」


右手でニナの手首をつかむ。


強く捻った。


骨が軋む。


ニナの顔が歪む。


それでも、短剣を放さない。


ニナの足が、レンの膝へ入った。


脚から力が抜ける。


レンの身体が沈む。


その隙に、ニナが手首を引き抜いた。


前腕から刃が抜ける。


血が床へ散った。


ニナはすぐに後ろへ下がる。


逃げる方向。


通路の出口。


古い鉄扉まで、十歩もない。


ニナが服の内側から、真鍮の鍵を取り出した。


「返してもらっておけばよかったね」


「お前の鍵だ」


「レンにあげたつもりだったんだけどな」


ニナが扉へ走る。


レンも追う。


左脚が思うように動かない。


距離が開く。


ニナが鍵を錠前へ差し込んだ。


回す。


錆びた金属音。


扉が外側へ開く。


細い隙間から、城内の空気が流れ込んだ。


人の声。


魔力。


無数の繋がり。


ニナが片足を外へ出す。


その瞬間。


青白い光が、指先へ宿った。


細い糸のような魔力が、城のあちこちから集まってくる。


ニナの瞳が光る。


振り返る動きが変わった。


先ほどより速い。


短剣が一直線に伸びる。


レンは首を狙われると読んでいた。


だが、刃は下へ向かった。


左の腿。


深く刺さる。


「ぐっ――」


脚が崩れる。


ニナが短剣を引く。


身体強化を使った腕。


止められない。


レンは床へ片膝をついた。


「外へ出れば、私の勝ちだよ」


ニナが言う。


声が重なって聞こえる。


一人の声ではない。


遠くにいる何人もの声が、同時に響いていた。


「今なら、まだ選べる」


ニナが左手を差し出す。


右手には、血に濡れた短剣。


「私と繋がって」


「断る」


「やっぱり頑固だね」


ニナが扉の外へ身体を向ける。


レンは床を蹴った。


動かない左脚を引きずりながら、前へ飛ぶ。


指先が、ニナの腰帯へ掛かった。


そのまま全体重を後ろへ投げる。


「離して!」


ニナの身体が止まる。


上半身は扉の外。


片脚は灰晶石の内側。


青白い魔力が明滅する。


ニナが短剣を逆手に持ち替えた。


背後にいるレンへ振り下ろす。


一度。


肩へ刺さる。


二度。


背中を浅く裂く。


それでも、レンは手を離さない。


腰帯を両腕でつかみ、後ろへ引く。


ニナが扉の縁へ手を掛ける。


指が白くなる。


外から流れ込む魔力が、ニナの身体を強化していた。


力では負ける。


レンは立とうとしなかった。


床へ倒れたまま、右足を扉へ当てる。


蹴る。


重い鉄扉が動いた。


扉が、ニナの右腕を挟む。


短剣が床へ落ちた。


乾いた音。


青白い光が大きく揺らぐ。


レンはもう一度、扉を蹴った。


ニナが腕を引き戻す。


その瞬間、レンは腰帯を引いた。


ニナの身体が、灰晶石の内側へ倒れ込む。


肩から床へ落ちた。


同時に、鉄扉が閉じる。


城内の音が消えた。


魔力の糸が切れる。


ニナの瞳から、青白い光が失われた。


ニナが起き上がろうとする。


レンは背後から覆いかぶさった。


右腕を首へ回す。


ニナが顎を引く。


腕が喉へ入ることを防ぐ。


レンは力任せに引かなかった。


左手でニナの手首を押さえる。


身体を横へ倒す。


脚を腰へ絡め、逃げる方向を塞ぐ。


ニナが肘を振る。


レンの傷へ当たった。


肩から血が噴き出す。


腕の力が緩む。


ニナはその隙に身体を回した。


床へ落ちた短剣へ手を伸ばす。


指先が柄へ触れる。


レンはニナの手の甲を踏んだ。


「痛い!」


「放せ」


「嫌だよ!」


ニナが初めて、声を荒らげた。


空いた手で、レンの腿へ指を入れる。


刃が刺さった傷。


肉の中へ指先が沈む。


激痛が頭まで突き抜けた。


レンの視界が白くなる。


それでも、足を退けない。


ニナの手から力が抜けるまで踏み続ける。


短剣を蹴ろうとする。


その前に、ニナが柄を握った。


刃が持ち上がる。


レンの腹へ向く。


レンは両手でニナの手首をつかんだ。


切っ先が衣服へ触れる。


ニナが身体ごと押し込む。


レンは手首を外側へ捻った。


刃先の向きが変わる。


互いの腕が震える。


ニナが傷ついた右腕へ力を込める。


切っ先が再びレンへ向く。


レンは左脚をニナの腰へ掛けた。


身体を押す。


二人の位置が入れ替わる。


短剣の切っ先が、ニナへ向いた。


ニナの目が見開かれる。


それでも、力を緩めなかった。


刃が、脇腹へ入る。


布を裂く。


肉を貫く。


レンは止めなかった。


短剣を、深く押し込む。


ニナの口から息が漏れる。


身体から力が抜けた。


レンが手を離す。


ニナは壁へ背を預け、そのまま床へ座り込んだ。


脇腹へ刺さった短剣の周囲から、血が広がる。


ニナが柄へ触れる。


「抜くな」


レンが言った。


「抜いたら、早く死ぬ?」


「ああ」


「抜かなくても?」


「助からない」


ニナは自分の傷を見る。


「そっか」


声に、恐怖はなかった。


悔しさはある。


自分の作ろうとしたものを、完成させられないこと。


それだけを惜しんでいるようだった。


「負けちゃった」


「ああ」


「レオルドにも。レンにも」


「レオルドは、お前に勝っていない」


「生き残ったなら、勝ちでいいよ」


ニナは壁へ頭を預ける。


呼吸のたび、血が増えていく。


「レン」


「何だ」


「最後に、一つだけお願いしてもいい?」


レンは答えなかった。


「逃げないよ」


「もう逃げられない」


「そうだね」


ニナが小さく笑う。


「抱きしめてほしい」


レンの目が、わずかに動く。


「今さらか」


「今まで、一度もしてくれなかったでしょ?」


「する理由がなかった」


「今はあるよ」


「何だ」


「死ぬ人の、最後のお願い」


レンはしばらく動かなかった。


やがて、ニナの前へ片膝をつく。


身体へ腕を回した。


傷へ触れないように引き寄せる。


ニナの頭が、レンの胸元へ当たった。


「固い」


「我慢しろ」


「もう少し優しくできない?」


レンは腕の位置を変えた。


ニナの身体を、先ほどより深く抱える。


「これでいいか」


「うん」


ニナは目を閉じた。


「荷車を越えられなかったとき」


「何だ」


「レン、戻ってきてくれたよね」


職人街から逃げる途中。


野菜を積んだ荷車の前で、ニナだけが止まった。


レンは一度飛び越えた道を戻り、手を伸ばした。


「あのまま置いていくと思ってた」


「灰蛇に捕まれば、面倒だった」


「そういうことにしておく」


弱い声で笑う。


「屋根の上で、外套を貸してくれたのも嬉しかった」


「寒そうだったからだ」


「袖から指が出なかったけどね」


「あれは、お前が小さいからだ」


「レンのが大きすぎるんだよ」


ニナの声が、少しずつ細くなる。


「肩で寝たときも」


「起きていただろ」


「途中からね」


「知っている」


「それでも、動かなかった」


「ああ」


「あのとき、本当は嬉しくて起きてたんだよ」


ニナの指が、レンの服を弱くつかむ。


「認証印を見つけたとき、任せて正解だったって言ってくれた」


「あれは事実だ」


「名簿も任せてくれた」


「ああ」


「倉庫で、八十三まで数えて待ってた」


「百まで待つと言った」


「ちゃんと数えてるとは思わなかった」


ニナが顔を少しだけ上げる。


もう、焦点が合っていない。


それでも、レンを見ようとしていた。


「お兄ちゃんって呼ぶたび、嫌そうな顔をするのも面白かった」


「嫌だったからな」


「でも、最後まで否定するだけだった。置いていかなかった」


ニナは再び、レンの胸元へ顔を預ける。


「この旅で、嬉しかったこと。思ってたより、たくさんあった」


呼吸が浅くなる。


一度吸うたびに。


次の息までの間が、長くなっていく。


「利用するためだったとしても、私は嬉しかったよ」


ニナが言う。


「私が嬉しかったことは、変わらないから」


レンは何も言わなかった。


「レンは?」


「何だ」


「私と旅をして、楽しかった?」


「騒がしかった」


「それは聞いてないよ」


「面倒も増えた」


「それも」


レンは、少しだけ腕へ力を込めた。


「悪くなかった」


ニナが笑う。


力のない、小さな笑みだった。


「そっか」


ニナの指から、力が抜ける。


「それなら、よかった」


目が閉じる。


胸が、わずかに上下する。


一度。


もう一度。


それきり。


次の息はなかった。


レンは、それでも腕を緩めなかった。


頭の中で数える。


十。


二十。


三十。


ニナの頭は、レンの胸元へ預けられたまま。


返事はない。


五十。


六十。


七十。


八十三。


以前。


倉庫でニナを待ったときは、そこで足音が聞こえた。


二度、短く扉を叩き。


一度、間を空けて、もう一度。


今は。


何も聞こえない。


百。


腕の中の身体は動かない。


呼吸も戻らない。


それでも、レンは数え続けた。


百五十。


二百。


抱いている身体から、少しずつ熱が失われていく。


二百五十。


三百。


そこで、ようやく数えるのをやめた。


片手をニナの首筋へ当てる。


脈はない。


ニナは死んだ。


          ◇


その瞬間。


王都を覆っていた、見えない糸が切れた。


城壁に立つ兵士が、突然頭を押さえる。


遠くの仲間が見ていた景色が消える。


宮廷魔導師の杖から、青白い光が失われた。


王城地下の魔石が、一斉に暗くなる。


灰蛇の監察官たちは、耳元から消えた声を探して周囲を見回した。


王都の住民は、何が起きたのか分からない。


ただ。


長い間、頭の奥へ掛かっていた薄い重みが消えたことだけを感じた。


静寂庫の中。


床へ倒れていたレオルドの指が動く。


目を開ける。


肩と脇腹に痛みが走った。


レンに刺された傷。


死なない場所を、正確に貫かれている。


レオルドは身体を起こそうとした。


だが、魔力が集まらない。


城中から流れ込んでいた力。


兵士の目。


役人の耳。


民衆の声。


何も届かなかった。


残っているのは、自分の魔力だけ。


自分の目と。


自分の耳だけだった。


「ニナ」


名前を呼ぶ。


返事はない。


二度目は呼ばなかった。


静寂庫の扉が開く。


近衛兵たちが駆け込んでくる。


「陛下!」


「治癒術師を!」


「侵入者を追え!」


レオルドが片手を上げた。


声が止まる。


「追うな」


「しかし――」


「余の命令だ」


近衛兵たちが動きを止める。


レオルドは、レンが消えた通路を見る。


「南部への討伐隊を止めろ」


「陛下?」


「捕らえた反乱者の処刑も、すべて保留にしろ」


「理由を、お聞きしても」


「これから調べる」


これまでは。


調べる前から知っていた。


誰が何を見たのか。


何を考えたのか。


誰が嘘をついたのか。


だが、もう分からない。


ならば。


一人ずつ話を聞くしかなかった。


「各部隊から、書面で報告を出させろ」


レオルドが言う。


「余が読む」


「はっ」


兵士が頭を下げる。


ニナは、レオルドへ知識と力を与えた。


選択肢を見せた。


だが。


どれを選ぶか決めたのは、レオルド自身だった。


その結果も。


これから起きることも。


王であるレオルドが引き受けるしかない。


レオルドは壁へ手をつき、自分の足で立ち上がった。


          ◇


灰晶石の通路。


レンは、ニナの身体を抱いていた。


もう。


ニナの身体から魔力は感じない。


誰かの目も。


誰かの声も。


誰かから借りた力も残っていない。


ただ一人の少女の身体だけが、腕の中にある。


以前。


ニナは尋ねた。


自分が役に立たなくなったら、本当に置いていくのか。


今。


ニナはもう、何の役にも立たない。


それでも。


レンは抱きしめた腕を、すぐには離さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。