繋がりを◯す
「黒幕って、ひどい言い方だね」
ニナは笑った。
驚きはない。
否定する様子もなかった。
「違うのか」
レンが尋ねる。
「違うって言ったら、信じてくれる?」
「信じない」
「だよね」
ニナの笑みが、少しだけ深くなる。
今まで何度も見てきた表情だった。
だが。
もう、何も知らない少女を装う必要はない。
その目は笑っていなかった。
「いつから気づいてたの?」
「疑ったのは南門だ」
「早いなあ」
「都合よく命令が届きすぎた」
偽造された通行証が照会される直前。
レオルドの命令で、検査が緩められた。
青鷺堂から監視が消えた。
王城東門でも、認証済みの人間を通すよう命令が出た。
すべて、レンとニナが先へ進むために必要な瞬間だった。
「レオルドが俺たちを招いているのは分かった。だが、あいつが必要としていたのは俺じゃない」
レンが言う。
「お前を城へ戻すことだった」
「それだけじゃ、私が黒幕だとは分からないでしょ?」
「ああ」
レンはニナを見る。
「確信したのは、倉庫で情報の流れを線にしたときだ」
南門。
青鷺堂。
人材管理所。
王城。
すべての場所を繋ぐ線。
その中心には、レオルドではなくニナがいた。
「情報が集まっていたのは、レオルドじゃない」
レンが言う。
「お前だ」
ニナは黙っていた。
「街の人間が見たもの。兵士が聞いたもの。役人が読んだもの。それを、お前がレオルドへ渡していた」
「正解」
ニナは、あっさり認めた。
「王様が何でも知ってたんじゃない。みんなが知ってることを、王様へ繋いでただけ」
「レオルド一人の魔力が、無限だったわけじゃない」
「王都にいる魔導師。兵士。魔石。使われずに余っている魔力を、少しずつ借りてたの」
一人から取る量は少ない。
本人にも気づかれないほど。
だが、何千人。
何万人と繋がれば。
一人の王へ、尽きることのない魔力を集められる。
ニナが壁へ触れる。
「ここでは、私の力も使えない」
「だから中へ入らなかった」
「レンに任せたかったからだよ」
「レオルドを殺させるためだろ」
ニナは首を傾げる。
「殺したんでしょ?」
「生きている」
笑みが止まった。
一瞬だけ。
ニナの視線が、静寂庫へ続く扉へ向く。
「嘘」
「急所を外した。気を失わせて、血をつけただけだ」
「どうして?」
「レオルドは依頼対象じゃない」
「あの人が暴君だよ?」
「変えるための知識と力を与えたのは、お前だ」
レンが一歩進む。
「異世界から来て、今もこの世界へ影響を与え続けているのもな」
ニナの表情から、笑みが消える。
「やっぱり」
小さく呟く。
「レンも、この世界の人じゃないんだね」
「俺のことは関係ない」
「関係あるよ」
ニナが胸元へ手を置く。
「初めて会ったときから変だと思ってた。レンだけ、どこにも繋がってなかったから」
村人。
兵士。
商人。
反乱者。
この国に生きる多くの人間が、直接か間接かの違いはあっても、ニナの繋がりへ触れている。
だが、レンだけは違った。
誰の目を通しても見えない。
誰の耳を借りても聞こえない。
ニナが隣にいなければ、行動を知ることができない。
「だから、ついてきたのか」
「最初はね」
「途中からは?」
「レンが、次に何をするのか見たくなった」
ニナは再び笑った。
今度の笑みは、これまでより自然だった。
「思ったとおりに動かないんだもん」
「切り通しの兵士も、お前が用意したのか」
「用意したのは王様。私は、レンたちがそこを通るって教えただけ」
「徴兵命令を盗んだのは」
「私」
「橋へ偽物を向かわせたのも」
「私が王様へ提案した」
「ダリオたちが生き残るかどうかは」
「どちらでもよかった」
迷いのない答えだった。
「レンが負けたら、その程度だったってこと。勝ったら、もっと先を見てみたかった」
「村の人間が死んでもか」
「必要な犠牲なら」
罪悪感はなかった。
言い訳をしている様子もない。
ニナは、それを正しいことだと信じている。
「お前は、何を作ろうとしていた」
レンが尋ねる。
ニナは少しだけ考えた。
言葉を選ぶためではない。
どこから話すべきか、迷っているようだった。
「私がいた世界では、遠く離れた人が持っている知識を、簡単に知ることができた」
ニナが言う。
「病気の治し方。食べ物の作り方。道具の作り方。誰かが知っていることを、たくさんの人が使えた」
「それを、この世界でもやろうとしたのか」
「それだけじゃないよ」
ニナの指が、灰晶石の壁をなぞる。
「この世界では、全部がばらばらだった」
ある村では、食料が余って腐る。
別の村では、子供が飢えて死ぬ。
一つの街には病気を治せる人間がいる。
その隣町では、治し方を知らないまま何十人も死ぬ。
魔力を使い切れずに余らせる人間がいる。
一方では、あと少し魔力があれば助けられた命が失われる。
「持っている人が、持っていない人へ渡せばいい」
ニナが言う。
「知っている人が、知らない人へ教えればいい。でも、人は自分のものを手放さない」
「だから、無理に繋いだ」
「うん」
「本人が望んでいなくてもか」
「望むのを待っていたら、また誰かが死ぬから」
ニナはレンを見る。
「私が作りたかったのは、便利な国じゃない」
声に、初めて強い感情が混じった。
「誰かが見たものを、ほかの人も知る。誰かに余っている力を、必要な人へ渡す。一人ではできないことを、全員でできるようにする」
ニナの目が、まっすぐレンへ向けられる。
「国そのものを、一つの身体にしたかった」
街道は血管。
人間は手足。
集められた情報は感覚。
魔力は血液。
そして。
そのすべてを判断する頭脳が必要になる。
「レオルドが、その頭だったのか」
「最初はね」
ニナが答える。
「王族で、力もあった。古い制度を壊す覚悟もあった。私が教えたことを、一番早く理解した」
レオルドは街道を整備した。
井戸を作った。
軍の補給制度を変えた。
農地と収穫量を管理し、必要な場所へ食料を運んだ。
ニナの繋がりを使い。
国の隅々まで見渡した。
「うまくいっていたよ」
ニナが言う。
「少なくとも、最初は」
「何が変わった」
「レオルドは、見えるものを怖がるようになった」
誰が不満を持っているか。
誰が王を嫌っているか。
誰が裏切ろうとしているか。
何も知らなければ、気づかずに済んだ小さな悪意まで。
レオルドには見えるようになった。
「そのうち、国を良くするためじゃなく、自分を守るために繋がりを使い始めた」
「お前が力を与え続けた」
「次の中心がいなかったから」
「それで俺を選んだのか」
「うん」
ニナは迷わなかった。
「レンなら、見たものすべてに怯えない。人を信用しなくても、何をするかは見てる。必要なものと、いらないものを分けられる」
「俺を王にするつもりだったのか」
「王様じゃなくていい」
ニナが首を横へ振る。
「私が欲しかったのは、命令する人じゃない。集まったものを、正しく使える人」
「正しいかどうかは、誰が決める」
「結果が決めるよ」
「その途中で何人死んでもか」
「最後に、今より多くの人が生きられるなら」
ニナは本気だった。
犠牲を楽しんでいるわけではない。
憎しみで人を殺しているわけでもない。
目的のために必要なら。
数の少ない側を、迷わず切り捨てる。
「人は、一人分の知識と力だけで生きる必要なんてない」
ニナが言う。
「全部を繋げれば、もっと遠くまで行ける。飢える人も、治せずに死ぬ人も減らせる」
「逆らう人間も減らせる」
「同じ身体の手と足が、勝手に殺し合ったりしないでしょ?」
「人間は手足じゃない」
「だから失敗するんだよ」
ニナの声は静かだった。
「みんなが自分だけは特別だと思って、持っているものを守ろうとする。違う考えを持つ人を敵にする。繋がっていないから、何度も同じ間違いを繰り返す」
「繋がれば、間違わないのか」
「今よりはね」
「レオルドは間違えた」
「だから、代える」
ニナはレオルドを見限った。
王が間違ったからではない。
自分の作ろうとする世界の中心に、適さなくなったから。
国王ですら。
ニナにとっては、交換できる部品だった。
「レン」
ニナが右手を差し出す。
「私と繋がって」
細い指。
何度もレンの腕をつかんだ手。
荷車を越えるとき。
人混みを走るとき。
洗濯場を抜けるとき。
「手を取って、受け入れてくれればいい」
「断る」
「王都にいる治癒術師の魔力を借りれば、その傷も治せる」
レンの衣服には、血が広がっていた。
レオルドとの戦いで受けた傷。
立っているだけで、左脚が細かく震えている。
「兵士の力も。魔導師の知識も。王様が集めた情報も、全部レンが使えるようになる」
「必要ない」
「レオルドより、うまく使えるよ」
「使うつもりはない」
「どうして?」
「人間を道具にするつもりはない」
ニナが目を丸くする。
「レンが、それを言うんだ」
「必要なら利用する。だが、繋いで自分の一部にはしない」
「何が違うの?」
「切り離せるかどうかだ」
利用した人間は、レンから離れられる。
裏切ることも。
逃げることも。
命令を拒むこともできる。
ニナの繋がりには、それがない。
「お前が生きている限り、繋がりは増え続ける」
レンが言う。
「だから、お前は死ぬ必要がある」
「私を殺しても、元には戻らないよ」
「ああ」
「レオルドが作った制度は残る。道も。井戸も。軍も。私が教えた知識だって、もういろんな人が覚えてる」
「それでいい」
ニナの眉が、わずかに動く。
「いいの?」
以前、カナタの資料まで破壊したのは、本人が死んでも、読んだ者が研究を再現し、その先へ進める可能性が高かった。
だが、ニナの繋がりは本人にしか使えず、死ねば消える。残る街道や制度は、既にこの世界の人間が自分たちで維持するものだった。
「変わった世界を元へ戻すのが、俺の仕事じゃない」
レンが言う。
「俺が止めるのは、異世界人を源にして、これからも続いてく影響だ」
レンはニナを見る。
「お前を殺せば、繋がりは終わる」
ニナは差し出していた手を見る。
「そっか」
短く呟いた。
「レンなら、分かってくれると思ったんだけどな」
「理解はした」
「なら――」
「理解したうえで、止める」
「頑固だね」
「ああ」
ニナが手を下ろす。
「じゃあ、聞いてもいい?」
「何だ」
「屋根の上で、外套を貸してくれたのは?」
「寒そうだったからだ」
「私、寒いって言ってないよ」
「腕を抱えていた」
「肩で寝てたとき、起こさなかったのは?」
「見張りの邪魔にならなかった」
「途中から起きてたんだけど」
「知っている」
ニナが目を瞬く。
「知ってたの?」
「呼吸が変わった」
「それでも、どかさなかったんだ」
「ああ」
ニナは少しだけ笑った。
先ほどまでの、目的を語る黒幕の顔ではなかった。
王都まで、レンの隣を歩いていた少女の笑みだった。
「そういうところが、好きだったよ」
ニナの視線が、レンの左脇腹へ落ちる。
呼吸が変わる。
レンは、その瞬間に身体を沈めた。
ニナの袖から、細い刃が滑り出す。
銀色の光。
切っ先が、レンの首があった場所を通り過ぎた。
ニナが手首を返す。
横薙ぎ。
レンは腕で受けた。
刃が皮膚を裂く。
熱い血が流れる。
そのままニナの手首をつかもうとする。
だが、指が届く前に引かれた。
ニナが後ろへ跳ぶ。
軽い動き。
弓を射るときと同じ足運びだった。
「避けると思った」
「話しながら、傷ばかり見ていたからな」
「気づいてたんだ」
ニナは短剣を構え直す。
刃渡りは短い。
正面から斬り合うための武器ではない。
狭い場所で、急所へ突き込むための刃。
「本当に戦うのか」
レンが尋ねる。
「ここで死んだら、私の作ろうとしたものが全部終わるからね」
「レオルドは生きている」
「だから、まだ取り戻せる」
ニナの目に迷いはなかった。
最後まで。
自分の信じた世界を作ろうとしている。
「レンを殺してでも、外へ出るよ」
「そうか」
ニナが踏み込む。
速い。
切っ先が胸元へ伸びる。
レンは身体をずらした。
完全には避けきれない。
刃が肋骨の上を滑る。
衣服が裂けた。
レンは痛みを無視し、ニナの肘へ掌を当てる。
押し上げる。
短剣が頭上へ逸れた。
空いた脇腹へ膝を入れようとする。
ニナは身体を捻り、腿で受けた。
鈍い音。
二人の身体がぶつかる。
ニナが額をレンの顎へ当てた。
視界が揺れる。
続けて、傷のある左脇腹へ拳が入った。
息が止まった。
レンの背中が、灰晶石の壁へぶつかる。
「ちゃんと痛いんだね」
「当たり前だ」
「少し安心した」
短剣が、再び首へ向かう。
レンは左腕を上げる。
刃が前腕へ刺さった。
肉を裂く感触。
痛みより先に、冷たさを感じる。
ニナが刃を引こうとする。
レンは腕へ力を入れた。
刺さったまま、刃を挟む。
「離して」
「断る」
右手でニナの手首をつかむ。
強く捻った。
骨が軋む。
ニナの顔が歪む。
それでも、短剣を放さない。
ニナの足が、レンの膝へ入った。
脚から力が抜ける。
レンの身体が沈む。
その隙に、ニナが手首を引き抜いた。
前腕から刃が抜ける。
血が床へ散った。
ニナはすぐに後ろへ下がる。
逃げる方向。
通路の出口。
古い鉄扉まで、十歩もない。
ニナが服の内側から、真鍮の鍵を取り出した。
「返してもらっておけばよかったね」
「お前の鍵だ」
「レンにあげたつもりだったんだけどな」
ニナが扉へ走る。
レンも追う。
左脚が思うように動かない。
距離が開く。
ニナが鍵を錠前へ差し込んだ。
回す。
錆びた金属音。
扉が外側へ開く。
細い隙間から、城内の空気が流れ込んだ。
人の声。
魔力。
無数の繋がり。
ニナが片足を外へ出す。
その瞬間。
青白い光が、指先へ宿った。
細い糸のような魔力が、城のあちこちから集まってくる。
ニナの瞳が光る。
振り返る動きが変わった。
先ほどより速い。
短剣が一直線に伸びる。
レンは首を狙われると読んでいた。
だが、刃は下へ向かった。
左の腿。
深く刺さる。
「ぐっ――」
脚が崩れる。
ニナが短剣を引く。
身体強化を使った腕。
止められない。
レンは床へ片膝をついた。
「外へ出れば、私の勝ちだよ」
ニナが言う。
声が重なって聞こえる。
一人の声ではない。
遠くにいる何人もの声が、同時に響いていた。
「今なら、まだ選べる」
ニナが左手を差し出す。
右手には、血に濡れた短剣。
「私と繋がって」
「断る」
「やっぱり頑固だね」
ニナが扉の外へ身体を向ける。
レンは床を蹴った。
動かない左脚を引きずりながら、前へ飛ぶ。
指先が、ニナの腰帯へ掛かった。
そのまま全体重を後ろへ投げる。
「離して!」
ニナの身体が止まる。
上半身は扉の外。
片脚は灰晶石の内側。
青白い魔力が明滅する。
ニナが短剣を逆手に持ち替えた。
背後にいるレンへ振り下ろす。
一度。
肩へ刺さる。
二度。
背中を浅く裂く。
それでも、レンは手を離さない。
腰帯を両腕でつかみ、後ろへ引く。
ニナが扉の縁へ手を掛ける。
指が白くなる。
外から流れ込む魔力が、ニナの身体を強化していた。
力では負ける。
レンは立とうとしなかった。
床へ倒れたまま、右足を扉へ当てる。
蹴る。
重い鉄扉が動いた。
扉が、ニナの右腕を挟む。
短剣が床へ落ちた。
乾いた音。
青白い光が大きく揺らぐ。
レンはもう一度、扉を蹴った。
ニナが腕を引き戻す。
その瞬間、レンは腰帯を引いた。
ニナの身体が、灰晶石の内側へ倒れ込む。
肩から床へ落ちた。
同時に、鉄扉が閉じる。
城内の音が消えた。
魔力の糸が切れる。
ニナの瞳から、青白い光が失われた。
ニナが起き上がろうとする。
レンは背後から覆いかぶさった。
右腕を首へ回す。
ニナが顎を引く。
腕が喉へ入ることを防ぐ。
レンは力任せに引かなかった。
左手でニナの手首を押さえる。
身体を横へ倒す。
脚を腰へ絡め、逃げる方向を塞ぐ。
ニナが肘を振る。
レンの傷へ当たった。
肩から血が噴き出す。
腕の力が緩む。
ニナはその隙に身体を回した。
床へ落ちた短剣へ手を伸ばす。
指先が柄へ触れる。
レンはニナの手の甲を踏んだ。
「痛い!」
「放せ」
「嫌だよ!」
ニナが初めて、声を荒らげた。
空いた手で、レンの腿へ指を入れる。
刃が刺さった傷。
肉の中へ指先が沈む。
激痛が頭まで突き抜けた。
レンの視界が白くなる。
それでも、足を退けない。
ニナの手から力が抜けるまで踏み続ける。
短剣を蹴ろうとする。
その前に、ニナが柄を握った。
刃が持ち上がる。
レンの腹へ向く。
レンは両手でニナの手首をつかんだ。
切っ先が衣服へ触れる。
ニナが身体ごと押し込む。
レンは手首を外側へ捻った。
刃先の向きが変わる。
互いの腕が震える。
ニナが傷ついた右腕へ力を込める。
切っ先が再びレンへ向く。
レンは左脚をニナの腰へ掛けた。
身体を押す。
二人の位置が入れ替わる。
短剣の切っ先が、ニナへ向いた。
ニナの目が見開かれる。
それでも、力を緩めなかった。
刃が、脇腹へ入る。
布を裂く。
肉を貫く。
レンは止めなかった。
短剣を、深く押し込む。
ニナの口から息が漏れる。
身体から力が抜けた。
レンが手を離す。
ニナは壁へ背を預け、そのまま床へ座り込んだ。
脇腹へ刺さった短剣の周囲から、血が広がる。
ニナが柄へ触れる。
「抜くな」
レンが言った。
「抜いたら、早く死ぬ?」
「ああ」
「抜かなくても?」
「助からない」
ニナは自分の傷を見る。
「そっか」
声に、恐怖はなかった。
悔しさはある。
自分の作ろうとしたものを、完成させられないこと。
それだけを惜しんでいるようだった。
「負けちゃった」
「ああ」
「レオルドにも。レンにも」
「レオルドは、お前に勝っていない」
「生き残ったなら、勝ちでいいよ」
ニナは壁へ頭を預ける。
呼吸のたび、血が増えていく。
「レン」
「何だ」
「最後に、一つだけお願いしてもいい?」
レンは答えなかった。
「逃げないよ」
「もう逃げられない」
「そうだね」
ニナが小さく笑う。
「抱きしめてほしい」
レンの目が、わずかに動く。
「今さらか」
「今まで、一度もしてくれなかったでしょ?」
「する理由がなかった」
「今はあるよ」
「何だ」
「死ぬ人の、最後のお願い」
レンはしばらく動かなかった。
やがて、ニナの前へ片膝をつく。
身体へ腕を回した。
傷へ触れないように引き寄せる。
ニナの頭が、レンの胸元へ当たった。
「固い」
「我慢しろ」
「もう少し優しくできない?」
レンは腕の位置を変えた。
ニナの身体を、先ほどより深く抱える。
「これでいいか」
「うん」
ニナは目を閉じた。
「荷車を越えられなかったとき」
「何だ」
「レン、戻ってきてくれたよね」
職人街から逃げる途中。
野菜を積んだ荷車の前で、ニナだけが止まった。
レンは一度飛び越えた道を戻り、手を伸ばした。
「あのまま置いていくと思ってた」
「灰蛇に捕まれば、面倒だった」
「そういうことにしておく」
弱い声で笑う。
「屋根の上で、外套を貸してくれたのも嬉しかった」
「寒そうだったからだ」
「袖から指が出なかったけどね」
「あれは、お前が小さいからだ」
「レンのが大きすぎるんだよ」
ニナの声が、少しずつ細くなる。
「肩で寝たときも」
「起きていただろ」
「途中からね」
「知っている」
「それでも、動かなかった」
「ああ」
「あのとき、本当は嬉しくて起きてたんだよ」
ニナの指が、レンの服を弱くつかむ。
「認証印を見つけたとき、任せて正解だったって言ってくれた」
「あれは事実だ」
「名簿も任せてくれた」
「ああ」
「倉庫で、八十三まで数えて待ってた」
「百まで待つと言った」
「ちゃんと数えてるとは思わなかった」
ニナが顔を少しだけ上げる。
もう、焦点が合っていない。
それでも、レンを見ようとしていた。
「お兄ちゃんって呼ぶたび、嫌そうな顔をするのも面白かった」
「嫌だったからな」
「でも、最後まで否定するだけだった。置いていかなかった」
ニナは再び、レンの胸元へ顔を預ける。
「この旅で、嬉しかったこと。思ってたより、たくさんあった」
呼吸が浅くなる。
一度吸うたびに。
次の息までの間が、長くなっていく。
「利用するためだったとしても、私は嬉しかったよ」
ニナが言う。
「私が嬉しかったことは、変わらないから」
レンは何も言わなかった。
「レンは?」
「何だ」
「私と旅をして、楽しかった?」
「騒がしかった」
「それは聞いてないよ」
「面倒も増えた」
「それも」
レンは、少しだけ腕へ力を込めた。
「悪くなかった」
ニナが笑う。
力のない、小さな笑みだった。
「そっか」
ニナの指から、力が抜ける。
「それなら、よかった」
目が閉じる。
胸が、わずかに上下する。
一度。
もう一度。
それきり。
次の息はなかった。
レンは、それでも腕を緩めなかった。
頭の中で数える。
十。
二十。
三十。
ニナの頭は、レンの胸元へ預けられたまま。
返事はない。
五十。
六十。
七十。
八十三。
以前。
倉庫でニナを待ったときは、そこで足音が聞こえた。
二度、短く扉を叩き。
一度、間を空けて、もう一度。
今は。
何も聞こえない。
百。
腕の中の身体は動かない。
呼吸も戻らない。
それでも、レンは数え続けた。
百五十。
二百。
抱いている身体から、少しずつ熱が失われていく。
二百五十。
三百。
そこで、ようやく数えるのをやめた。
片手をニナの首筋へ当てる。
脈はない。
ニナは死んだ。
◇
その瞬間。
王都を覆っていた、見えない糸が切れた。
城壁に立つ兵士が、突然頭を押さえる。
遠くの仲間が見ていた景色が消える。
宮廷魔導師の杖から、青白い光が失われた。
王城地下の魔石が、一斉に暗くなる。
灰蛇の監察官たちは、耳元から消えた声を探して周囲を見回した。
王都の住民は、何が起きたのか分からない。
ただ。
長い間、頭の奥へ掛かっていた薄い重みが消えたことだけを感じた。
静寂庫の中。
床へ倒れていたレオルドの指が動く。
目を開ける。
肩と脇腹に痛みが走った。
レンに刺された傷。
死なない場所を、正確に貫かれている。
レオルドは身体を起こそうとした。
だが、魔力が集まらない。
城中から流れ込んでいた力。
兵士の目。
役人の耳。
民衆の声。
何も届かなかった。
残っているのは、自分の魔力だけ。
自分の目と。
自分の耳だけだった。
「ニナ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
二度目は呼ばなかった。
静寂庫の扉が開く。
近衛兵たちが駆け込んでくる。
「陛下!」
「治癒術師を!」
「侵入者を追え!」
レオルドが片手を上げた。
声が止まる。
「追うな」
「しかし――」
「余の命令だ」
近衛兵たちが動きを止める。
レオルドは、レンが消えた通路を見る。
「南部への討伐隊を止めろ」
「陛下?」
「捕らえた反乱者の処刑も、すべて保留にしろ」
「理由を、お聞きしても」
「これから調べる」
これまでは。
調べる前から知っていた。
誰が何を見たのか。
何を考えたのか。
誰が嘘をついたのか。
だが、もう分からない。
ならば。
一人ずつ話を聞くしかなかった。
「各部隊から、書面で報告を出させろ」
レオルドが言う。
「余が読む」
「はっ」
兵士が頭を下げる。
ニナは、レオルドへ知識と力を与えた。
選択肢を見せた。
だが。
どれを選ぶか決めたのは、レオルド自身だった。
その結果も。
これから起きることも。
王であるレオルドが引き受けるしかない。
レオルドは壁へ手をつき、自分の足で立ち上がった。
◇
灰晶石の通路。
レンは、ニナの身体を抱いていた。
もう。
ニナの身体から魔力は感じない。
誰かの目も。
誰かの声も。
誰かから借りた力も残っていない。
ただ一人の少女の身体だけが、腕の中にある。
以前。
ニナは尋ねた。
自分が役に立たなくなったら、本当に置いていくのか。
今。
ニナはもう、何の役にも立たない。
それでも。
レンは抱きしめた腕を、すぐには離さなかった。




