信用を◯す
「拒否は認められていない」
青い上着の役人が繰り返す。
家具の陰で、レンは刃物を握ったまま動かなかった。
役人が一人。
近衛兵が二人。
倒すことはできる。
だが、戦闘になれば式典を警備している兵士が集まる。
王城の内部で、逃げ道も確保していない。
ここで動くべきではなかった。
レンは刃物を袖へ戻した。
「出るぞ」
ニナへ小声で告げる。
先に家具の陰から出た。
近衛兵が剣へ手を掛ける。
「武器を捨てろ」
レンは厨房から持ち出した刃物を床へ落とした。
乾いた音が、倉庫へ響く。
「それだけか」
「荷運びに、ほかの武器が必要なのか」
近衛兵がレンの身体を調べる。
肩。
腰。
外套の内側。
袖口。
もう一人が、ニナへ近づいた。
その直前。
レンはニナの手首をつかんだ。
引き寄せるふりをして、指の間へ真鍮の鍵を滑らせる。
ニナはレンを見なかった。
鍵を握った手で髪へ触れ、後ろでまとめた束の中へ差し込む。
「何をしている」
近衛兵が言う。
「逃げないようにしただけだ」
「手を離せ」
レンは従った。
ニナの身体も調べられる。
外套。
腰。
靴。
髪までは触れなかった。
「問題ありません」
近衛兵が役人へ告げる。
「ついてこい」
役人が倉庫を出る。
レンとニナは、二人の近衛兵に挟まれて歩き出した。
◇
連れていかれたのは、式典が行われていた大広間ではなかった。
中央棟のさらに奥。
王族と、一部の貴族しか使わない区画。
床には赤い絨毯が敷かれている。
壁際には、黒い鎧を着た兵士が並んでいた。
角を曲がる。
巨大な両開きの扉。
左右には宮廷魔導師が一人ずつ立っている。
役人が扉の前で膝をついた。
「陛下。二人をお連れしました」
内側から、短い返事が聞こえる。
「入れ」
扉が開いた。
玉座の間。
式典の大広間より狭い。
それでも、地方の屋敷なら建物ごと入るほどの広さがあった。
正面に玉座。
その後ろには、剣へ巻きつく翼蛇の紋章。
レオルドが一人で座っている。
近衛兵がレンの背中を押した。
「進め」
玉座から十歩ほどの位置で止められる。
「膝をつけ」
レンは動かなかった。
背後で剣が抜かれる。
ニナは先に膝をついた。
レンの服の裾を引く。
「今は、したほうがいいんじゃない?」
「必要ない」
「私まで怒られるよ」
「もう怒られているだろ」
玉座から、低い声が聞こえた。
「構わぬ」
近衛兵の剣が止まる。
「下がれ」
「しかし、陛下」
「扉の外で待て」
近衛兵たちは不満を残したまま、玉座の間から出ていく。
青い上着の役人も続いた。
扉が閉まる。
残ったのは、レンとニナ。
玉座に座るレオルド。
壁際の宮廷魔導師が二人。
黒い鎧を着た近衛兵が四人。
人数は減ったが、レンたちを殺すには十分だった。
「顔を上げろ」
レオルドが言う。
ニナが立ち上がった。
レンは最初から頭を下げていない。
「レン・クロード」
国王が、その名を呼ぶ。
「南部を渡り歩く傭兵。仕事を選ばず、特定の雇い主を持たない。使う武器は剣と短剣。魔法は使えない」
「よく調べたな」
「調べる必要はなかった」
レオルドの視線が、ニナへ移る。
「久しいな」
ニナが少し首を傾ける。
「覚えてたんだ」
「忘れられると思ったか」
玉座の肘掛けに置かれたレオルドの指が、わずかに動いた。
青白い魔力が、一瞬だけ指先へ集まる。
すぐに消えた。
「王城から逃げた使用人は、ほかにもいるでしょ?」
「お前は違う」
「何が?」
レオルドは答えなかった。
ただ、ニナを見ている。
強い怒り。
そう見える視線だった。
「その男を連れてきたのは、お前か」
「違うよ」
ニナは笑う。
「私が勝手についてきたの」
以前、レンへ言ったのと同じ言葉。
肘掛けを握るレオルドの指へ、力が入った。
「そうか」
短い返事だった。
「俺たちを呼んだ理由は何だ」
レンが尋ねる。
「分かっているはずだ」
「聞いている」
レオルドの目が、レンへ戻る。
「南部の徴兵部隊を襲ったのは、お前だな」
「ああ」
近衛兵たちが剣へ手を掛ける。
レンはレオルドから目を逸らさなかった。
「二十六人の兵士。宮廷魔導師が二人。連絡用の魔道具もあった」
「足りなかったな」
「余が用意したのは、一人だ」
レオルドが言う。
「もう一人を加えたのは、南部軍の指揮官だ。余の命令を慎重に解釈した結果らしい」
依頼書と実際の人数が違った理由。
レオルド自身が、すべてを決めていたわけではない。
「余は、反乱者が石橋で待つと考えた」
「だから囮を向かわせた」
「ああ」
「本隊を旧道へ回した」
「ああ」
「だが、俺は切り通しで待った」
レオルドの口元が、わずかに上がる。
笑みには見えなかった。
「余の読みを外した」
「それだけか」
「それだけで十分だ」
レオルドが玉座へ深く座る。
「余の軍を破った人間はいる。魔法で防壁を壊した者。数で押し切った者。地形を利用した者」
玉座の間へ、国王の声だけが響く。
「だが、余が動かす前に、その意図を読んだ人間は少ない」
「褒めるために呼んだのか」
「使うためだ」
レンの眉がわずかに動く。
レオルドは近衛兵の一人へ手を向けた。
兵士が小さな巻物を持ってくる。
赤い紐。
王家の封印。
「灰蛇の遊撃隊を一つ、お前へ与える」
「いらない」
「最後まで聞け」
「必要ない」
壁際にいた宮廷魔導師の魔力が膨らむ。
レオルドが片手を上げる。
魔導師は何もせず、力を収めた。
「南部の件は不問にする。反乱組織へ協力した罪もだ」
レオルドはニナを見る。
「その娘が王城から逃げたことも許す」
「随分、安いんだな」
レンが言う。
「何がだ」
「お前が殺した兵士の命だ」
近衛兵の表情が険しくなる。
「兵士は国のために死ぬ。それが役目だ」
「なら、俺も同じことをするだけだ」
「何だと」
「俺は、お前を殺しに来た」
空気が変わった。
近衛兵が一斉に剣を抜く。
宮廷魔導師の周囲へ、青い魔法陣が広がった。
床。
壁。
天井。
いくつもの光がレンへ向く。
レオルドだけは動かなかった。
「余の前で、それを言うか」
「知っていたんだろ」
「知っていることと、口に出すことは違う」
「なら、これで確認できた」
レンは周囲の魔法陣を見る。
一つでも放たれれば、避けられない。
それでも、レオルドが命令しない限り攻撃は来ない。
今のところは。
「王様を前にして、よく言えるね」
ニナが隣から口を挟む。
「お前も同じ目的で来たんだろ」
「私は案内役だよ」
「今さら逃げるな」
「逃げてないよ」
ニナは楽しそうに笑った。
緊張しているようには見えない。
レオルドが指を動かす。
展開されていた魔法陣が消えた。
兵士たちも剣を下ろす。
「余を殺したあと、どうなると思う」
「知らない」
「考えていないとは言わせぬ」
レオルドの声に、初めて苛立ちが混じる。
「南門から王城まで、お前も見ただろう。整えられた街道。管理された水路。増えた食料。減った盗賊」
「見た」
「余が王になる前、この国は腐っていた。役人は税を盗み、貴族は兵の食料を売り、地方では飢えた民が互いを殺していた」
「それも聞いた」
「余を殺せば、元へ戻る」
「戻らないかもしれない」
「誰が、この国を維持する」
「お前以外の人間だ」
「できぬから、余がやっている」
「できないようにしたのも、お前だろ」
レオルドの目が細くなる。
レンは玉座の後ろにある翼蛇の紋章を見る。
「兵士。役人。灰蛇。宮廷魔導師。全部の情報を自分へ集めて、自分の命令だけで動かしている」
王城へ入ってから見た仕組み。
荷物一つ。
使用人一人。
誰がどこへ行くのか、すべて記録されていた。
「強い仕組みに見える」
レンが続ける。
「だが、お前一人が倒れれば、全部止まる」
玉座の間が静まり返る。
ニナが短く声を漏らした。
「ふーん」
レンが横を見る。
「何だ」
「別に」
「またそれか」
「納得しただけだよ」
ニナは少しだけ目を細める。
いつもと同じ笑み。
だが、その視線はレンだけへ向いていた。
「自分だけで国を支えているつもりなら」
レンはレオルドを見る。
「お前自身が、この国で一番大きな弱点だ」
レオルドは、しばらく何も言わなかった。
怒鳴りもしない。
魔法も使わない。
ただ、レンを見ている。
やがて、玉座から立ち上がった。
それだけで、周囲へ魔力の重圧が広がる。
近衛兵の鎧が鳴った。
床の絨毯が、見えない風に押される。
ニナの髪もわずかに揺れた。
「やはり、お前は使える」
レオルドが言う。
「話を聞いていたのか」
「聞いたうえで言っている」
国王が玉座から一段下りる。
「余へ従え、レン・クロード」
距離が九歩になる。
常時展開されている防壁。
周囲にいる近衛兵と魔導師。
今は届かない。
「お前なら、余が見落とす場所を見つけられる」
「俺が断ることは、見落としたのか」
「今は断っているだけだ」
「夜になっても変わらない」
「変わるかどうかは、余が決める」
「無理だと思うよ」
ニナが言った。
レオルドの足が止まる。
「お前に聞いていない」
「でも、レンのことなら少し分かるから」
「黙れ」
低い声だった。
玉座の間にある魔石の灯りが、同時に明滅する。
窓枠へ細い亀裂が走った。
ニナは肩をすくめる。
「怖いなあ」
そう言いながらも、笑みは消えていない。
レオルドの呼吸が、わずかに乱れていた。
怒りを抑えている。
レンには、そう見えた。
国王はニナから視線を外す。
「日が沈むまで時間を与える」
「必要ない」
「静寂庫へ入れておけ」
近衛兵の一人が顔を上げる。
「陛下。あそこは現在、使われておりません」
「だから使えと言っている」
「ですが、灰晶石の一部が古くなっていると――」
「王城へ侵入した人間を、通常の牢へ入れるつもりか」
「失礼いたしました」
レオルドはレンを見る。
「夜、余が答えを聞きに行く」
「自分で来るのか」
「ああ」
「護衛を連れて?」
「お前が望むなら、一人で行ってやる」
「陛下」
近衛兵が止めようとする。
レオルドは聞かなかった。
「静寂庫では外から魔力を取り込めない」
レンが言う。
「知っていたか」
「さっき聞いた」
レオルドの視線がニナへ動く。
ニナが笑顔で手を上げた。
「私です」
「それでも一人で来る?」
「外から取り込めぬだけだ」
レオルドの身体から、青白い光が漏れる。
広間全体が、魔力の重さに軋んだ。
「余が持つ魔力だけで、お前を百回殺せる」
誇張には聞こえなかった。
レオルドはレンの横を通り過ぎる。
防壁へ触れる前に、空気が押し返してくる。
見えない壁が、確かにそこにあった。
「夜までに答えを決めろ」
国王が玉座の間を出ていく。
扉が閉まった。
残された近衛兵たちが、レンとニナを取り囲む。
「歩け」
レンは抵抗しなかった。
◇
静寂庫は、西棟の地下にあった。
石の階段を三つ下りる。
王城の音が遠ざかっていく。
窓はない。
壁へ掛けられた魔石灯だけが、青い光を放っている。
廊下の突き当たり。
灰色の扉。
金属ではなかった。
石を削り出したように見える。
表面には、魔法陣も紋章も刻まれていない。
近衛兵が扉を開く。
内側は、円形の部屋だった。
壁も。
床も。
天井も。
すべて灰色の石で覆われている。
「入れ」
レンとニナが中へ進む。
境目を越えた瞬間。
耳の奥へ感じていた微かな振動が消えた。
廊下にある魔石灯。
兵士の身体強化。
王城全体へ流れていた魔力。
何も感じない。
空気まで動きを止めたようだった。
「これが灰晶石か」
レンが壁へ触れる。
冷たい。
表面は細かな粒が重なり、光をほとんど反射しない。
「昔は、危ない魔道具をここに入れてたんだよ」
ニナが言う。
「喋るな」
近衛兵が扉の外から怒鳴る。
ニナは素直に口を閉じた。
灰色の扉が閉まる。
重い音。
外側から錠前が掛けられた。
足音が遠ざかっていく。
ニナは扉へ耳を当てた。
しばらく待つ。
「行ったよ」
「二人残っている」
「分かるの?」
「扉の向こうで、鎧が擦れた」
「聞こえないけど」
「お前が喋っているからだ」
「はいはい」
ニナは後ろでまとめていた髪を解いた。
赤みのある茶色の髪が、肩へ落ちる。
その中から、真鍮の鍵を取り出した。
「見つからなかった」
「髪飾りに見えたんだろ」
「似合ってた?」
「見ていない」
「見てよ」
「今さらだ」
ニナは鍵を指先で回す。
円形の部屋には、空になった棚が並んでいる。
壊れた木箱。
錆びた拘束具。
布をかけられた大きな台。
危険な魔道具が保管されていた痕跡だけが残っていた。
「搬入路は?」
レンが尋ねる。
「この辺りのはず」
ニナは壁沿いを歩く。
灰晶石の継ぎ目へ指を当てていく。
一か所。
ほかよりわずかに溝が深い場所で止まった。
目の高さには何もない。
しゃがみ込み、床と壁の境目を探る。
「鍵穴がある」
埃を払う。
指一本分の小さな穴が現れた。
ニナが真鍮の鍵を差し込む。
回らない。
「違った?」
「古いだけ」
両手で鍵をつかむ。
力を入れる。
金属が軋んだ。
「折るなよ」
「分かってる」
「貸せ」
「レンが折ったら怒るよ」
「お前が折るよりましだ」
鍵を受け取る。
奥へ押し込みながら、ゆっくり右へ回す。
途中で何かが引っかかった。
少し戻す。
もう一度。
内部で、乾いた音がした。
壁の一部が手前へ浮く。
ニナが目を輝かせた。
「開いた」
「声を落とせ」
二人で灰晶石の板を動かす。
人一人が通れる隙間。
奥には、狭い通路が続いていた。
壁と壁の間。
風が流れている。
「外へ繋がっているな」
「古い搬入口まで行けるはずだよ」
「確認する」
レンが先に身体を入れる。
肩が両側の壁へ触れるほど狭い。
十歩ほど進んだところで、通路が二つに分かれていた。
一方は暗闇の奥へ続いている。
もう一方には、古い金属の輪が壁へ埋め込まれていた。
輪から鎖が伸び、天井の中へ入っている。
ニナが後ろからのぞき込む。
「これ、静寂庫の隔壁だと思う」
「動かせるのか」
「たぶん」
「引いてみろ」
「急に扉が開いたら、外の兵士に見つかるよ」
「なら、少しだけだ」
「どっち?」
「少しだけ引け」
ニナが輪を両手でつかむ。
身体を後ろへ倒す。
鎖が張る。
静寂庫の中から、石が擦れる音がした。
レンは通路を戻る。
円形の部屋。
入口から二歩ほど内側。
床へ細い線が走っている。
天井から、灰晶石の板がわずかに下りていた。
「止めろ」
鎖が戻る音。
板が天井へ収まる。
入口と部屋を分ける、二枚目の扉。
外側の扉が破られても、隔壁を下ろせば静寂庫は閉じる。
「使えるね」
ニナが言う。
「ああ」
レンは床の線を見る。
レオルドを、この線より奥へ入れる。
ニナは通路へ移動。
鎖を引き、隔壁を下ろす。
国王とレンだけが、灰晶石に囲まれた空間へ残る。
外部から魔力は入らない。
レオルドが持つ魔力を、使い切らせる。
簡単ではない。
本人が言ったとおり、内部に蓄えた魔力だけでもレンを殺すには十分だろう。
それでも。
尽きないものを、尽きるものへ変えることはできる。
「王様、本当に一人で来るかな」
「来る」
「どうして?」
「来なければ、俺が従う可能性はなくなる」
「もうないけどね」
「レオルドは、まだそう思っていない」
「自信家だなあ」
「それだけの力はある」
レンは灰晶石の棚へ目を向ける。
武器になるものを探す。
錆びた拘束具。
壊れた木材。
底の抜けた箱。
棚の奥に、細長い灰晶石の棒が落ちていた。
先端が斜めに欠けている。
以前、棚を固定していた留め具らしい。
レンは拾い上げる。
長さは短剣より少し長い。
刃はない。
それでも、欠けた先端は鋭かった。
「それで刺すの?」
「防壁へ触れればな」
「灰晶石だから、魔力を通しにくいと思う」
「壊れないか」
「壁より薄いから、たぶん壊れる」
「役に立たないな」
「一回は使えるかも」
「十分だ」
レンは古い布を裂き、灰晶石の棒へ巻きつける。
握りを作る。
ニナが、その手元を見ていた。
「レン」
「何だ」
「本当に一人で戦うの?」
「お前が中に残れば、隔壁を閉じられない」
「閉じたあと、通路から戻る」
「必要ない」
「弓はないけど、何か投げるくらいならできるよ」
「伯爵の炎を見ただろ」
「あれより強い?」
「あれを簡単に止めた人間だ」
「じゃあ、レンも危ないよ」
「知っている」
「私だけ逃げるみたいで、嫌なんだけど」
「逃げろとは言っていない」
レンは灰晶石の棒を腰へ差し込む。
「外を任せる」
ニナが黙る。
「兵士が隔壁を開けようとしたら止めろ。別の通路があれば塞げ。俺が戦っている間、誰も中へ入れるな」
「一人で、できるかな」
「できる」
「どうして?」
「お前なら、何をするか分かる」
以前。
ニナは信用について尋ねた。
善人かどうかではなく、何をするのか分かっていればいい。
そのときと同じ答えだった。
ニナが小さく笑う。
「また計算?」
「違う」
「違うの?」
「ああ」
「じゃあ、何?」
レンは巻きつけた布を強く締める。
「任せると言った」
ニナの笑みが止まる。
ほんの一瞬。
すぐに、いつもの表情へ戻った。
「分かった」
今度は冗談を言わなかった。
「レンが勝つまで、開けなければいいんだね」
「ああ」
「負けたら?」
「そのまま逃げろ」
「嫌だ」
「なら、勝つまで待て」
「ずっと?」
「好きにしろ」
ニナは考えるように、灰晶石の壁へ目を向ける。
「合図は?」
「二回、短く叩く」
「少し待って、もう一回?」
「ああ」
倉庫で使ったものと同じ合図。
「別の音だったら開けない」
「分かった」
「俺の声がしても、合図がなければ開けるな」
「王様が真似するかもしれないから?」
「ああ」
「レンの声も?」
「魔法ならあり得る」
「面倒だね」
「だから決めた」
ニナは壁を指先で二回叩く。
間を置く。
もう一度。
灰晶石が、低い音を返した。
「これで開ける」
「ああ」
「約束だよ」
「分かった」
◇
日が沈んだかどうか、地下からは分からない。
灰晶石に囲まれた部屋には、外の鐘も届かなかった。
レンは壁へ背を預け、目を閉じていた。
眠ってはいない。
呼吸を整える。
身体に残った疲労。
人材管理所で監察官と戦ったときの痛み。
肩。
背中。
口の中。
動きに影響するほどではない。
ニナは通路の入口へ座っていた。
真鍮の鍵を指で回している。
「煙草、吸わないの?」
「持ってきていない」
「管理所で盗んだやつ」
「服を替えたとき、置いてきた」
「残念だね」
「別に」
「吸いたそうだったのに」
「今はいらない」
「緊張してる?」
「していない」
「嘘」
レンが目を開く。
「お前は、怖くないのか」
「怖いよ」
ニナは鍵を止める。
「でも、レンがいるからね」
「俺は守らないぞ」
「知ってる」
「中へ残れば、巻き込まれる」
「だから外へ行くんでしょ?」
「ああ」
「なら、守られてるのと同じじゃない?」
「勝手に解釈するな」
「前にも言われたね」
ニナが笑う。
遠くから、何かが響いた。
扉の外。
兵士の声。
二人は同時に立ち上がる。
「来たね」
「ああ」
ニナが真鍮の鍵をレンへ差し出す。
「持ってて」
「お前が使う」
「もう開いてるよ」
「戻るときに必要だ」
「レンが戻らなかったら、いらない」
「縁起でもないことを言うな」
「勝てってこと」
レンは鍵を見た。
受け取らない。
ニナの手を押し返す。
「お前が持っていろ」
「どうして?」
「俺が負けても、逃げられる」
ニナは何か言おうとした。
外側の錠前へ、鍵が差し込まれる。
時間がない。
「行け」
ニナが通路へ入る。
壁板を閉める直前。
レンを見る。
「あとでね」
「ああ」
灰晶石の板が戻る。
継ぎ目が閉じ、ニナの姿が消えた。
直後。
静寂庫の扉が開く。
廊下から青い光が差し込む。
近衛兵が二人。
青い上着の役人。
その後ろに、赤い外套。
レオルドが立っていた。
「娘はどこだ」
役人が部屋を見回す。
「逃げた」
レンが答える。
「逃げた?」
近衛兵たちが静寂庫へ入ろうとする。
レオルドが腕を上げ、止めた。
国王の視線が、空になった棚を順番に動く。
搬入路を隠した壁で、わずかに止まった。
「通路が残っていたか」
「陛下。すぐに追わせます」
「探せ」
レオルドが命じる。
「西棟の出口を封鎖しろ」
「はっ」
近衛兵たちが走り去る。
青い上着の役人は残った。
「陛下。一度お戻りください。ここは魔力が遮断されます」
「知っている」
「ですが、娘が何か企んでいる可能性が」
レオルドが役人を見る。
それだけで、男の言葉が止まった。
「外で待て」
「陛下」
「一人で来ると約束した」
役人は反論できなかった。
深く頭を下げる。
レオルドが静寂庫へ入った。
境目を越える。
国王の身体を覆っていた青白い魔力が、わずかに揺れた。
消えてはいない。
防壁も残っている。
だが。
王城で見たときとは違う。
周囲から集まり続けていた魔力の流れが、灰晶石の境目で途切れた。
レオルドが、部屋の中央まで進む。
役人が外側の扉を閉じた。
重い音が響く。
レンとレオルド。
二人だけが、灰色の部屋へ残った。
「答えは決まったか」
レオルドが尋ねる。
「ああ」
「余へ従うか」
「断る」
同時に。
壁の奥で、鎖が動いた。
レオルドが振り返る。
天井から、灰晶石の隔壁が落ち始める。
国王が右手を上げた。
青白い光が膨らむ。
レンは床を蹴った。
隔壁が地面へ激突する。
轟音。
静寂庫が完全に閉ざされた。
レオルドの防壁が、一度だけ大きく明滅する。
外から流れ込む魔力は、もうない。
レンは灰晶石の棒を引き抜いた。
「今度は、こちらが先回りする番だ」




