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17/73

服を◯す

翌朝。


青鷺堂の裏口から外を確認したレンは、すぐに扉を閉めた。


「どうだった?」


地下室で地図を見ていたニナが尋ねる。


「いない」


「灰蛇が?」


「ああ」


昨日まで、店の周辺を監察官が何度も通っていた。


それが今朝は、一人も見当たらない。


向かいの建物の窓。


路地へ積まれた木箱の陰。


周囲の屋根。


レンが確認した範囲に、人の気配はなかった。


「諦めたんじゃない?」


「早すぎる」


「うまく巻けたから、別の場所を探してるのかも」


「それなら、店の監視は残す」


灰蛇は、レンたちが青鷺堂へ入ったところまで確認していない。


だが、この区画で姿を消したことは分かっている。


近くに反乱組織の協力者がいると考えるはずだった。


それにもかかわらず、監視が消えている。


見失ったのではない。


意図的に外された可能性が高い。


「監視されているほうが、相手の位置が分かる」


レンが言った。


「いなくなったなら、喜んでもいいと思うけどなあ」


「お前は、都合のいいことが続いても気にしないのか」


「日頃の行いがいいからね」


「昨日も聞いた」


「大事なことだから」


ニナは笑い、地図へ視線を戻した。


机には、人材管理所の周辺を描いた地図が広げられている。


管理所は二階建ての石造り。


正面と裏に出入口が一つずつ。


日中は十二人の兵士と、六人の役人がいる。


夜になると役人は全員帰り、兵士は二人だけになる。


認証印が保管されているのは、二階の記録室。


扉には鍵だけでなく、魔法による封印も施されていた。


「式典は三日後」


マルタが地下室へ下りてくる。


手には、固いパンと薄いスープが載った盆。


「盗むなら、式典の前夜だ。早く動けば、それだけ向こうに準備する時間を与える」


「三日間、何もしないの?」


ニナがパンを受け取る。


「場所を見て、兵士の動きを覚える。逃げ道も三つは用意しな」


マルタがレンへスープを渡す。


「それから、あんたは少し寝ることだね」


「寝た」


「二時間だけでしょ?」


ニナが言った。


「眠れと言ったのはお前だ」


「だから、もっと寝ればよかったのに」


「お前が起こした」


「二時間で起こせって言ったのもレンだよ」


レンは答えず、スープを口へ運んだ。


薄い塩味。


具は、ほとんど入っていない。


ニナが自分のパンを半分に割る。


片方をレンのスープへ入れた。


「いらない」


「昨日から、ちゃんと食べてないでしょ」


「お前が食べろ」


「私はマルタさんから、もう一個もらうから」


マルタが眉を上げる。


「誰がやると言ったんだい」


「育ち盛りなんだけど」


「反乱組織は食堂じゃないよ」


「けち」


そう言いながらも、ニナはパンを戻そうとしなかった。


レンも、それ以上は何も言わなかった。


          ◇


人材管理所は、王都北区にあった。


元は貴族の屋敷だったらしい。


高い石塀に囲まれ、正門の両側には兵士が立っている。


庭には、職を求める人間が列を作っていた。


料理人。


給仕。


厩務員。


荷運び。


身元を証明できる者だけが敷地へ入り、役人の面接を受けている。


レンとニナは、通りを挟んだ食堂の二階から建物を見ていた。


窓際の席。


机には、ほとんど手をつけていない料理が置かれている。


「右側の兵士、さっきから三回あくびしてる」


ニナが匙で煮豆を混ぜながら言った。


「昨夜も勤務していた」


「分かるの?」


「鎧が汚れたままだ。交代していない」


「じゃあ、今夜はいないかな」


「おそらくな」


正門の兵士が交代する。


鐘が鳴ってから、きっちり百を数えたあとだった。


裏口では、食料を運ぶ荷車が止められている。


荷台。


車輪の下。


御者の外套。


すべて確認してから、ようやく門が開かれた。


「裏口から入るのは無理そうだね」


「普通に入るならな」


「屋根は?」


「隣の建物から距離がある。飛べても、戻れない」


「地下」


「地図に水路はない」


「壁を壊す」


「音で兵士が集まる」


ニナが匙を置く。


「何でも駄目って言うね」


「できない方法を消している」


「一個くらい、できそうって言ってよ」


「なら、お前が正門から入り、認証印を貸してくれと頼め」


「できそう」


「行ってこい」


「一緒に来てくれる?」


「断る」


ニナが笑う。


そのまま窓枠へ頬杖をつき、管理所を眺めた。


「レンって、人を信用しないよね」


「必要ならする」


「昨夜も、私のことを信用してるって言わなかったし」


「裏切らないと判断した」


「やっぱり計算なんだ」


「信用と何が違う」


ニナは少し考える。


「普通は、相手をいい人だと思うことじゃない?」


「善人でも、追い詰められれば裏切る。悪人でも、利益がある限り約束を守る」


「じゃあ、悪い人でも大丈夫なんだ」


「何をするか分かっていればな」


「ふーん」


ニナは窓の外を見たまま、短く返した。


「何だ」


「別に」


「何か言いたそうだな」


「レンらしいと思っただけ」


ニナは再び、煮豆を混ぜ始めた。


先ほどより、少しだけ機嫌がよさそうに見えた。


「冷めるぞ」


「もう冷めてるよ」


「五時間も混ぜるつもりか」


「まずいから、食べたくない」


「注文するな」


「レンが食べる?」


「いらない」


          ◇


二人は、夕方まで管理所を観察した。


兵士の交代時刻。


役人が帰る順番。


荷車の出入り。


裏口の兵士が便所へ行く時間。


レンが紙へ書き留める。


ニナは一度見た配置を覚え、地図へ書き込んでいく。


日が傾く頃。


二階の窓が閉められた。


そこから出てきた役人は、大量の書類を抱えている。


「記録室は、あそこだね」


ニナが言う。


「ああ」


「今のは褒めてもいいよ」


「誰を」


「最初に気づいた私」


「窓を見れば分かる」


「レンは分かってなかったでしょ?」


「可能性の一つだ」


「素直じゃないなあ」


          ◇


翌日も、二人は管理所を見張った。


初日とは別の建物。


屋根の修理を請け負う職人へ金を払い、その足場を借りている。


管理所の裏庭まで見渡せる場所だった。


日中の兵士は、情報どおり十二人。


役人は六人。


夕方になると、全員が順番に帰っていった。


夜間の兵士も二人。


一人は正面の受付。


もう一人は、一定の間隔で建物の内外を巡回している。


「情報どおりだ」


レンが言った。


「いいことじゃない?」


「正確すぎる」


「間違ってても疑うくせに」


「当然だ」


日が落ちる。


風が冷たくなってきた。


屋根の上には、身を隠せる場所がほとんどない。


ニナが両腕を抱える。


「寒いのか」


「少しだけ」


「先に戻れ」


「一人で?」


「ああ」


「途中で灰蛇に捕まったら?」


「自分で逃げろ」


「無責任だなあ」


そう言いながら、ニナは帰ろうとしなかった。


レンは外套を脱ぐ。


丸めて、ニナの頭へ落とした。


「わっ」


「着ていろ」


ニナが外套から顔を出す。


「レンは寒くないの?」


「平気だ」


「嘘」


「うるさい」


ニナは少しだけ笑い、外套へ腕を通した。


大きさが合っていない。


袖から指先がほとんど出ていなかった。


「似合う?」


「盗人にしか見えない」


「レンの服だから?」


「お前が着ているからだ」


「ひどいなあ」


ニナは口では不満を言いながら、外套の前をしっかり閉じた。


夜間の巡回兵が、裏口から出てくる。


細い煙草を口にくわえていた。


壁際に立ち、火をつける。


白い煙が、夜の空気へ溶けていく。


レンの目が止まる。


「どうしたの?」


「煙草」


「ああ。吸うの?」


「今は持っていない」


「身体に悪いよ」


「人を殺す相談をしながら、健康を気にするな」


ニナが声を抑えて笑う。


巡回兵は煙草を一本吸い終えると、裏口から建物へ戻った。


外にいた時間は、およそ五分。


一晩に三回。


毎回、同じ鐘のあとだった。


「裏口の鍵は、あの人が持ってるね」


ニナが言う。


「ああ」


「借りる?」


「返す前提ならな」


「優しいね」


「騒ぎが起きる時間を遅らせるだけだ」


夜が深くなる。


ニナの返事が、少しずつ遅くなっていった。


やがて、レンの肩へ重みが掛かる。


ニナが目を閉じている。


規則的な寝息。


「おい」


呼んでも反応しない。


レンは管理所へ視線を戻した。


巡回兵が次に外へ出てくるまで、まだ一時間近くある。


ニナの頭を押し返す必要もなかった。


そのまま見張りを続けた。


          ◇


「肩が痛い」


青鷺堂へ戻る途中。


レンが言った。


「戦闘の怪我?」


「違う」


「何だろうね」


ニナはとぼけた顔で歩いている。


「起きていたのか」


「途中から」


「なら離れろ」


「外套のお礼」


「余計に疲れた」


「でも、起こさなかったよね」


「騒がれるほうが面倒だった」


「そういうことにしておく」


ニナが笑う。


レンはそれ以上、何も言わなかった。


          ◇


式典前夜。


レンはマルタから預かった名簿を、ニナへ差し出した。


「お前が持て」


「私が?」


「記録室へ入ったら、俺は周囲を見る。認証印を探して、名簿へ押すのはお前だ」


「私が名簿を持って逃げたら?」


「逃げない」


「どうして?」


「王城へ入れなくなる。お前にとっても困るだろ」


「また計算」


「嫌なら、俺が持つ」


ニナはすぐに名簿を受け取った。


外套の内側へしまう。


「嫌とは言ってないよ」


次に、ニナは服の下から細い紐を引き出した。


先端には、小さな真鍮の鍵がついている。


「これ、持ってて」


レンが受け取る。


「何の鍵だ」


「王城の古い倉庫」


「塞がれた搬入口か」


「うん。内側からなら、まだ開くかもしれない」


鍵の表面は黒ずみ、長く使われていなかった。


「お前が持っていろ」


「認証印を探すのは私でしょ。捕まったら、鍵まで取られる」


「俺が持ち逃げするかもしれないぞ」


ニナが笑う。


「しないでしょ」


レンは鍵を見る。


ニナが王城から逃げ出したときから持っていたもの。


彼女にとっては、過去と王城を繋ぐ唯一の物かもしれない。


レンは鍵を外套の内側へしまった。


「預かる」


「なくさないでね」


「ああ」


二人は互いに必要なものを預けた。


どちらか一人が欠ければ、王城へ入る計画は成立しない。


          ◇


王都へ、細い雨が降っていた。


人材管理所の裏手。


レンとニナは、向かいの建物の陰に身を潜めている。


予定の鐘が鳴ってから、十分近く経っていた。


いつもなら、巡回兵が煙草を吸いに出てくる時間。


だが、裏口は開かない。


「雨だから、やめたのかな」


「二日前も降っていた」


「あのときは?」


「軒下で吸っていた」


「じゃあ、禁煙の日?」


「そんな日はない」


何かが変わっている。


中止するなら、今だった。


だが、式典は翌朝。


これを逃せば、王城へ入る手段は失われる。


「別の方法を探す?」


ニナが尋ねる。


「時間がない」


「なら、正面から借りに行こうか」


「まだ言っているのか」


「案外、貸してくれるかも」


「お前一人で行け」


「鍵を渡しちゃったから、一人じゃ帰れないよ」


そのとき。


裏口の扉が、わずかに開いた。


巡回兵が顔を出す。


周囲を確認してから、軒下へ入った。


口には、いつもの煙草。


「いたね」


「ああ」


兵士が火打ち石を取り出す。


火をつけることに意識が向いた瞬間、レンが動いた。


雨の中へ出る。


足音は雨音に消えた。


背後から口を塞ぐ。


兵士が目を見開く。


肘を振り上げようとする。


その腕を脇へ挟み、首へ力を掛けた。


兵士の踵が石畳を蹴る。


水が跳ねた。


レンの腕を爪で引っかく。


それでも声は出させない。


数秒後。


兵士の身体から力が抜けた。


レンは倒れかけた身体を支え、物陰へ引きずる。


ニナが周囲を見張っていた。


「死んでない?」


「気を失っただけだ」


レンは兵士の腰から鍵を外す。


胸元に、細長い煙草が数本入った小箱を見つけた。


一瞬だけ見る。


そのまま、自分の外套へしまった。


ニナが目を細める。


「盗んだ」


「鍵を返すついでに返す」


「本当に?」


「黙っていろ」


レンは鍵を使い、裏口を開けた。


          ◇


建物の中は暗かった。


裏口の先は厨房。


使われていない竈。


洗われた食器。


壁には、役人用の外套が掛けられている。


二人は靴についた水を布で拭い、足音を消した。


正面受付には、もう一人の兵士がいる。


机の上には、青く光る警報石。


兵士が石へ触れれば、近くの詰所へ異常が伝わる。


二人は厨房から、使用人用の階段へ向かった。


古い木の階段。


体重を掛けるたび、板がわずかに軋む。


レンが足を置く場所を選ぶ。


ニナも、同じ場所を踏んでついてきた。


二階へ上がる。


廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。


記録室。


レンは巡回兵から奪った鍵束を取り出す。


五本。


三本目で鍵が回った。


だが、扉は開かない。


表面に刻まれた文字が、淡い赤色に光っている。


魔法による封印だった。


「分かるか」


レンが尋ねる。


ニナが扉へ顔を近づける。


指先で、刻まれた線をなぞった。


「王城で使ってたものと似てる」


「解除できるのか」


「たぶん」


「失敗したら」


「警報が鳴る」


「確実にやれ」


「急に無茶言うなあ」


ニナは短剣を抜いた。


刃先を、一つ目の文字へ差し込む。


慎重に線を削る。


金属同士が擦れ、かすかな音がした。


赤い光が強くなる。


レンは階段へ視線を向ける。


下にいる兵士は動いていない。


ニナが二つ目の文字へ刃を移す。


「これ、順番があるんだよ」


「知っているのか」


「昔、同じ扉を開けようとして怒られたから」


「盗みに入ったのか」


「お菓子が入ってると思っただけ」


「十分、盗みだ」


「子供だったからね」


「今も変わっていない」


「今はお菓子じゃないよ」


最後の線を削る。


赤い光が一度だけ点滅した。


そのまま消える。


「開いた」


レンが扉へ手を掛ける。


動かす前に止まった。


扉の下から、空気が流れている。


記録室の中に、窓が開いていた。


雨の夜。


紙を保管する部屋で、窓を開ける理由はない。


「下がれ」


ニナが一歩退く。


レンは扉を少しだけ開いた。


暗い室内。


書棚。


机。


窓から吹き込んだ雨で、床が濡れている。


人影は見えない。


それでも、誰かいる。


呼吸を殺している気配。


レンは扉を閉めようとした。


同時に、内側から強い力で引かれる。


扉が開いた。


暗闇から、剣が突き出された。


レンは上体を反らす。


切っ先が顎の下を通り過ぎた。


冷たい風が皮膚を撫でる。


レンは後ろへ跳び、剣を抜いた。


記録室から、一人の男が現れる。


灰色の外套。


右頬に、古い火傷の痕。


南門でレンの通行証を調べた監察官だった。


「やはり来たか」


男の左手には、警報石が握られている。


「動くな。武器を捨てろ」


「なぜ、ここにいる」


レンが尋ねる。


「陛下は南門の検査を緩め、青鷺堂からも監視を外した」


監察官の声に怒りが混じる。


「理由は知らん。だが、王都へ入り込んだ敵を、命令だからと放置するほど忠誠心を失ってはいない」


「俺たちが、ここへ来ると?」


「城へ潜り込むなら、認証印が必要だ。反乱組織に残された経路は、それしかない」


監察官は自分で考え、待っていた。


レオルドの命令ではない。


だからこそ、男は警報石を使っていない。


敵を一人で捕らえ、自分の判断が正しかったと証明するつもりなのだろう。


「そちらの娘」


監察官の目が、ニナへ向く。


「顔を見せろ」


ニナは動かなかった。


「どこかで見た覚えがある」


「よくある顔だからね」


「王城か」


監察官の視線が鋭くなる。


「お前、以前――」


レンが踏み込んだ。


監察官の意識がニナへ向いた一瞬。


剣を横から振る。


監察官が受け止めた。


金属音が廊下へ響く。


監察官の腕に、青白い光が走る。


身体強化。


剣ごと、レンの身体が押し返された。


背中が壁へぶつかる。


肺から空気が抜けた。


監察官の剣が、胸元へ伸びる。


レンは壁を蹴る。


身体を横へ逃がす。


刃が外套を裂き、肩を浅くかすめた。


熱い痛み。


遅れて、血が流れ始める。


レンは監察官の手首を狙う。


一撃。


二撃。


どちらも受け止められた。


男は速い。


それ以上に、重い。


正面から力を競えば、身体強化を使う相手には勝てない。


「ニナ」


レンが名前を呼ぶ。


それだけで、ニナは動いた。


記録室へ走る。


認証印を探し始める。


監察官が左手を振った。


警報石が、ニナへ向かって飛ぶ。


「伏せろ!」


ニナは迷わず身体を沈めた。


石が頭上を通り、書棚へ激突する。


「余所を見るな」


監察官の剣が、レンの脇腹へ迫る。


避けきれない。


レンは自分の剣を捨てた。


両手で相手の腕をつかむ。


切っ先が胸当てへ当たった。


革を裂く。


金属板が軋む。


力を緩めれば、刃が身体へ入る。


レンの靴が、濡れた床を滑った。


監察官が身体ごと押し込んでくる。


刃先が、胸当てを少しずつ沈ませる。


「灯りを消せ!」


ニナが机の燭台を払った。


蝋燭が床へ落ちる。


火が消え、室内が暗闇に包まれた。


監察官の力が、一瞬だけ緩む。


レンは刃を横へ逸らした。


身体を入れ替え、監察官を机へ押しつける。


だが、男は倒れない。


肘がレンの顔へ飛んでくる。


頬へ当たった。


頭の奥で音が鳴る。


口の中に、血の味が広がった。


レンは後ろへ下がる。


暗闇の中。


互いの位置は、足音でしか分からない。


監察官の身体から漏れる青白い魔力が、わずかに輪郭を浮かび上がらせていた。


男が向きを変える。


ニナを探している。


レンは床に落ちた書類を蹴った。


紙が舞う。


監察官が反応し、そちらへ剣を振る。


空振り。


レンは背後へ回る。


首へ腕を回そうとする。


監察官が頭を下げた。


レンの身体を背負い、そのまま前へ投げる。


視界が回転した。


背中から机へ落ちる。


木板が割れた。


衝撃が背骨を走る。


息が止まった。


監察官が剣を振り上げる。


青白い光に照らされ、刃が見えた。


避けるには遅い。


「右へ!」


ニナの声。


レンは理由を確かめず、右へ身体を転がした。


直後。


監察官の足元で、黒い液体が弾ける。


インク壺。


靴が滑る。


振り下ろされた剣が、レンの顔の横へ落ちた。


割れた机へ刃が食い込む。


レンは監察官の膝を蹴った。


身体が傾く。


机から起き上がり、顎へ拳を入れる。


一度。


監察官は倒れない。


レンの襟元をつかむ。


強く引かれ、額同士がぶつかった。


視界が白く揺れた。


その横から。


木製の箱が、監察官の側頭部へ直撃した。


鈍い音。


認証印が入っていた箱だった。


男の身体がよろめく。


ニナは箱を両手で持ち、もう一度振り上げた。


監察官が剣を向ける。


「待――」


箱が顔面へ入った。


監察官が仰向けに倒れる。


剣が床へ落ちた。


レンはすぐに近づき、男の首筋へ手を当てる。


脈はある。


意識はない。


「死んだ?」


「生きている」


「よかった」


「二回目は必要なかった」


「起きそうだったから」


「『待て』と言っていたぞ」


「敵の言うことを聞いちゃ駄目でしょ?」


正論のように言い、ニナは箱を床へ置いた。


「それより、見つけたよ」


箱の中には、三本の印が並んでいた。


王都管理局。


軍務局。


人材管理局。


ニナは迷わず、中央の印を取る。


「なぜ分かる」


「持ち手の減り方。一番使われてる」


「任せて正解だった」


ニナの手が止まる。


「今の、褒めた?」


「事実を言った」


「もう一回言って」


「時間がない」


「残念」


階下から、椅子が動く音がした。


戦闘の音に気づいたらしい。


受付の兵士が立ち上がっている。


ニナは預かっていた名簿を机へ広げる。


最後に残された二つの空欄。


一つ目へ、レン・クロード。


二つ目へ、ニナ。


書き終え、認証印を押す。


青い光が紙面を走った。


二人の名前を囲むように、細い紋様が浮かび上がる。


成功だった。


ニナが名簿を丸め、外套の内側へ戻す。


レンは監察官を引きずり、記録室の奥へ入れた。


「名簿は、そのまま持っていろ」


「レンが持たなくていいの?」


「お前へ任せた」


ニナは一度だけ目を瞬く。


すぐにうなずいた。


「分かった」


廊下へ出た瞬間、階段の上に兵士が現れた。


「何者だ!」


兵士が腰の剣へ手を伸ばす。


レンは床へ落ちていた警報石を投げた。


兵士が反射的に受け取る。


その一瞬で距離を詰めた。


拳を腹へ入れる。


鎧の隙間。


兵士の身体が折れる。


顎へ掌底を当てる。


兵士は声を上げる前に、階段へ崩れた。


レンは身体を支え、床へ静かに寝かせる。


「今の人も生きてる?」


「ああ」


「今日は優しいね」


「殺せば、発見が早くなる」


「そういうことにしておく」


二人は階段を下りる。


裏口の外に倒した兵士を厨房まで運び、受付の兵士と並べて縛った。


鍵を戻す。


レンは外套から煙草の小箱を取り出した。


少し考える。


一本だけ抜き、残りを兵士の胸元へ返した。


ニナが見ている。


「一本、盗んだ」


「借りただけだ」


「返すの?」


「次に会ったらな」


「会わないと思うよ」


レンは煙草を外套へしまった。


「なら、もらっておく」


          ◇


青鷺堂へ戻った頃には、東の空が白み始めていた。


マルタは二人の姿を見るなり、顔をしかめた。


「随分、派手にやったね」


「予定外の人間がいた」


ニナが名簿を渡す。


マルタは青く光る認証印を確認した。


「本物だ。これなら城門を通れる」


「管理所の交代はいつだ」


「日の出と同時」


残り、一時間もない。


マルタは二人分の服を取り出した。


レンには、荷運び用の灰色の服。


ニナには、給仕補助が着る白い服。


「オルガ商会の荷車が、東の広場で待ってる」


マルタが言う。


「管理所の騒ぎが伝わる前に、城へ入るんだ」


ニナが白い服を受け取る。


「似合うかな」


「今、気にすることか」


「大事でしょ」


「城へ遊びに行くわけじゃない」


「分かってるよ」


ニナは笑った。


だが、服を持つ指には力が入っていた。


自分が逃げ出した場所へ、再び戻ろうとしている。


「行けるか」


レンが尋ねる。


ニナは一度だけ目を伏せた。


すぐに顔を上げる。


「行けるよ」


「無理なら残れ」


「置いていかないでって言ったでしょ」


「今なら、まだ間に合う」


「レンこそ、私がいないと城の中で迷うよ」


いつもの笑みだった。


レンは、それ以上言わなかった。


外套の内側には、ニナから預かった真鍮の鍵がある。


ニナの手元には、レンから預かった名簿がある。


二人とも、相手がいなければ王城へ入れない。


それでよかった。


          ◇


夜が明ける。


オルガ商会の荷車が、王城の東門へ向かっていた。


荷台には、式典で使う食器と酒。


その隙間に、レンとニナが座っている。


王城が近づく。


白い石を積み上げた外壁。


門の上には、王家の旗が並んでいた。


剣へ巻きつく、翼の生えた蛇。


東門の前には、臨時使用人が列を作っている。


兵士が一人ずつ名簿を確認していた。


偽造した者が捕まり、その場で連行されていく。


男の叫び声が、列の中へ響いた。


誰も動かない。


「次」


レンとニナの番が来る。


ニナが名簿を兵士へ渡した。


青く光る印を確認。


レンの顔。


ニナの顔。


もう一度、名簿へ視線を落とす。


「レン・クロード。搬入係」


「ああ」


「ニナ。給仕補助」


「はい」


兵士は認証用の板へ、名簿を当てた。


板の表面へ、青い文字が浮かび上がる。


二人の名前。


登録された役割。


異常を示す反応はない。


「通れ」


兵士が名簿を返す。


ニナは受け取り、レンを見る。


レンがうなずく。


二人は東門をくぐった。


厚い石壁の下。


頭上には、完全武装の兵士たちが並んでいる。


門の向こうに、王城の中庭が広がっていた。


整えられた庭木。


噴水。


何十台もの荷車。


忙しく行き交う使用人たち。


レンは足を止めない。


ニナも、隣を歩いている。


背後で、王城の門が閉じ始めた。


そのとき。


遠く離れた北区から、警鐘が鳴った。


一度。


二度。


続けて、三度。


人材管理所で異常が発見された合図だった。


東門の兵士たちが振り返る。


「何だ?」


「北区からだ!」


門を閉じる速度が上がる。


巨大な扉が重い音を立て、地面を震わせた。


最後の隙間から見えていた王都の街並みが、少しずつ細くなる。


やがて、完全に消えた。


レンとニナは、王城の内側へ入った。


同時に。


外へ逃げるための道が、一つ閉じた。

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