服を◯す
翌朝。
青鷺堂の裏口から外を確認したレンは、すぐに扉を閉めた。
「どうだった?」
地下室で地図を見ていたニナが尋ねる。
「いない」
「灰蛇が?」
「ああ」
昨日まで、店の周辺を監察官が何度も通っていた。
それが今朝は、一人も見当たらない。
向かいの建物の窓。
路地へ積まれた木箱の陰。
周囲の屋根。
レンが確認した範囲に、人の気配はなかった。
「諦めたんじゃない?」
「早すぎる」
「うまく巻けたから、別の場所を探してるのかも」
「それなら、店の監視は残す」
灰蛇は、レンたちが青鷺堂へ入ったところまで確認していない。
だが、この区画で姿を消したことは分かっている。
近くに反乱組織の協力者がいると考えるはずだった。
それにもかかわらず、監視が消えている。
見失ったのではない。
意図的に外された可能性が高い。
「監視されているほうが、相手の位置が分かる」
レンが言った。
「いなくなったなら、喜んでもいいと思うけどなあ」
「お前は、都合のいいことが続いても気にしないのか」
「日頃の行いがいいからね」
「昨日も聞いた」
「大事なことだから」
ニナは笑い、地図へ視線を戻した。
机には、人材管理所の周辺を描いた地図が広げられている。
管理所は二階建ての石造り。
正面と裏に出入口が一つずつ。
日中は十二人の兵士と、六人の役人がいる。
夜になると役人は全員帰り、兵士は二人だけになる。
認証印が保管されているのは、二階の記録室。
扉には鍵だけでなく、魔法による封印も施されていた。
「式典は三日後」
マルタが地下室へ下りてくる。
手には、固いパンと薄いスープが載った盆。
「盗むなら、式典の前夜だ。早く動けば、それだけ向こうに準備する時間を与える」
「三日間、何もしないの?」
ニナがパンを受け取る。
「場所を見て、兵士の動きを覚える。逃げ道も三つは用意しな」
マルタがレンへスープを渡す。
「それから、あんたは少し寝ることだね」
「寝た」
「二時間だけでしょ?」
ニナが言った。
「眠れと言ったのはお前だ」
「だから、もっと寝ればよかったのに」
「お前が起こした」
「二時間で起こせって言ったのもレンだよ」
レンは答えず、スープを口へ運んだ。
薄い塩味。
具は、ほとんど入っていない。
ニナが自分のパンを半分に割る。
片方をレンのスープへ入れた。
「いらない」
「昨日から、ちゃんと食べてないでしょ」
「お前が食べろ」
「私はマルタさんから、もう一個もらうから」
マルタが眉を上げる。
「誰がやると言ったんだい」
「育ち盛りなんだけど」
「反乱組織は食堂じゃないよ」
「けち」
そう言いながらも、ニナはパンを戻そうとしなかった。
レンも、それ以上は何も言わなかった。
◇
人材管理所は、王都北区にあった。
元は貴族の屋敷だったらしい。
高い石塀に囲まれ、正門の両側には兵士が立っている。
庭には、職を求める人間が列を作っていた。
料理人。
給仕。
厩務員。
荷運び。
身元を証明できる者だけが敷地へ入り、役人の面接を受けている。
レンとニナは、通りを挟んだ食堂の二階から建物を見ていた。
窓際の席。
机には、ほとんど手をつけていない料理が置かれている。
「右側の兵士、さっきから三回あくびしてる」
ニナが匙で煮豆を混ぜながら言った。
「昨夜も勤務していた」
「分かるの?」
「鎧が汚れたままだ。交代していない」
「じゃあ、今夜はいないかな」
「おそらくな」
正門の兵士が交代する。
鐘が鳴ってから、きっちり百を数えたあとだった。
裏口では、食料を運ぶ荷車が止められている。
荷台。
車輪の下。
御者の外套。
すべて確認してから、ようやく門が開かれた。
「裏口から入るのは無理そうだね」
「普通に入るならな」
「屋根は?」
「隣の建物から距離がある。飛べても、戻れない」
「地下」
「地図に水路はない」
「壁を壊す」
「音で兵士が集まる」
ニナが匙を置く。
「何でも駄目って言うね」
「できない方法を消している」
「一個くらい、できそうって言ってよ」
「なら、お前が正門から入り、認証印を貸してくれと頼め」
「できそう」
「行ってこい」
「一緒に来てくれる?」
「断る」
ニナが笑う。
そのまま窓枠へ頬杖をつき、管理所を眺めた。
「レンって、人を信用しないよね」
「必要ならする」
「昨夜も、私のことを信用してるって言わなかったし」
「裏切らないと判断した」
「やっぱり計算なんだ」
「信用と何が違う」
ニナは少し考える。
「普通は、相手をいい人だと思うことじゃない?」
「善人でも、追い詰められれば裏切る。悪人でも、利益がある限り約束を守る」
「じゃあ、悪い人でも大丈夫なんだ」
「何をするか分かっていればな」
「ふーん」
ニナは窓の外を見たまま、短く返した。
「何だ」
「別に」
「何か言いたそうだな」
「レンらしいと思っただけ」
ニナは再び、煮豆を混ぜ始めた。
先ほどより、少しだけ機嫌がよさそうに見えた。
「冷めるぞ」
「もう冷めてるよ」
「五時間も混ぜるつもりか」
「まずいから、食べたくない」
「注文するな」
「レンが食べる?」
「いらない」
◇
二人は、夕方まで管理所を観察した。
兵士の交代時刻。
役人が帰る順番。
荷車の出入り。
裏口の兵士が便所へ行く時間。
レンが紙へ書き留める。
ニナは一度見た配置を覚え、地図へ書き込んでいく。
日が傾く頃。
二階の窓が閉められた。
そこから出てきた役人は、大量の書類を抱えている。
「記録室は、あそこだね」
ニナが言う。
「ああ」
「今のは褒めてもいいよ」
「誰を」
「最初に気づいた私」
「窓を見れば分かる」
「レンは分かってなかったでしょ?」
「可能性の一つだ」
「素直じゃないなあ」
◇
翌日も、二人は管理所を見張った。
初日とは別の建物。
屋根の修理を請け負う職人へ金を払い、その足場を借りている。
管理所の裏庭まで見渡せる場所だった。
日中の兵士は、情報どおり十二人。
役人は六人。
夕方になると、全員が順番に帰っていった。
夜間の兵士も二人。
一人は正面の受付。
もう一人は、一定の間隔で建物の内外を巡回している。
「情報どおりだ」
レンが言った。
「いいことじゃない?」
「正確すぎる」
「間違ってても疑うくせに」
「当然だ」
日が落ちる。
風が冷たくなってきた。
屋根の上には、身を隠せる場所がほとんどない。
ニナが両腕を抱える。
「寒いのか」
「少しだけ」
「先に戻れ」
「一人で?」
「ああ」
「途中で灰蛇に捕まったら?」
「自分で逃げろ」
「無責任だなあ」
そう言いながら、ニナは帰ろうとしなかった。
レンは外套を脱ぐ。
丸めて、ニナの頭へ落とした。
「わっ」
「着ていろ」
ニナが外套から顔を出す。
「レンは寒くないの?」
「平気だ」
「嘘」
「うるさい」
ニナは少しだけ笑い、外套へ腕を通した。
大きさが合っていない。
袖から指先がほとんど出ていなかった。
「似合う?」
「盗人にしか見えない」
「レンの服だから?」
「お前が着ているからだ」
「ひどいなあ」
ニナは口では不満を言いながら、外套の前をしっかり閉じた。
夜間の巡回兵が、裏口から出てくる。
細い煙草を口にくわえていた。
壁際に立ち、火をつける。
白い煙が、夜の空気へ溶けていく。
レンの目が止まる。
「どうしたの?」
「煙草」
「ああ。吸うの?」
「今は持っていない」
「身体に悪いよ」
「人を殺す相談をしながら、健康を気にするな」
ニナが声を抑えて笑う。
巡回兵は煙草を一本吸い終えると、裏口から建物へ戻った。
外にいた時間は、およそ五分。
一晩に三回。
毎回、同じ鐘のあとだった。
「裏口の鍵は、あの人が持ってるね」
ニナが言う。
「ああ」
「借りる?」
「返す前提ならな」
「優しいね」
「騒ぎが起きる時間を遅らせるだけだ」
夜が深くなる。
ニナの返事が、少しずつ遅くなっていった。
やがて、レンの肩へ重みが掛かる。
ニナが目を閉じている。
規則的な寝息。
「おい」
呼んでも反応しない。
レンは管理所へ視線を戻した。
巡回兵が次に外へ出てくるまで、まだ一時間近くある。
ニナの頭を押し返す必要もなかった。
そのまま見張りを続けた。
◇
「肩が痛い」
青鷺堂へ戻る途中。
レンが言った。
「戦闘の怪我?」
「違う」
「何だろうね」
ニナはとぼけた顔で歩いている。
「起きていたのか」
「途中から」
「なら離れろ」
「外套のお礼」
「余計に疲れた」
「でも、起こさなかったよね」
「騒がれるほうが面倒だった」
「そういうことにしておく」
ニナが笑う。
レンはそれ以上、何も言わなかった。
◇
式典前夜。
レンはマルタから預かった名簿を、ニナへ差し出した。
「お前が持て」
「私が?」
「記録室へ入ったら、俺は周囲を見る。認証印を探して、名簿へ押すのはお前だ」
「私が名簿を持って逃げたら?」
「逃げない」
「どうして?」
「王城へ入れなくなる。お前にとっても困るだろ」
「また計算」
「嫌なら、俺が持つ」
ニナはすぐに名簿を受け取った。
外套の内側へしまう。
「嫌とは言ってないよ」
次に、ニナは服の下から細い紐を引き出した。
先端には、小さな真鍮の鍵がついている。
「これ、持ってて」
レンが受け取る。
「何の鍵だ」
「王城の古い倉庫」
「塞がれた搬入口か」
「うん。内側からなら、まだ開くかもしれない」
鍵の表面は黒ずみ、長く使われていなかった。
「お前が持っていろ」
「認証印を探すのは私でしょ。捕まったら、鍵まで取られる」
「俺が持ち逃げするかもしれないぞ」
ニナが笑う。
「しないでしょ」
レンは鍵を見る。
ニナが王城から逃げ出したときから持っていたもの。
彼女にとっては、過去と王城を繋ぐ唯一の物かもしれない。
レンは鍵を外套の内側へしまった。
「預かる」
「なくさないでね」
「ああ」
二人は互いに必要なものを預けた。
どちらか一人が欠ければ、王城へ入る計画は成立しない。
◇
王都へ、細い雨が降っていた。
人材管理所の裏手。
レンとニナは、向かいの建物の陰に身を潜めている。
予定の鐘が鳴ってから、十分近く経っていた。
いつもなら、巡回兵が煙草を吸いに出てくる時間。
だが、裏口は開かない。
「雨だから、やめたのかな」
「二日前も降っていた」
「あのときは?」
「軒下で吸っていた」
「じゃあ、禁煙の日?」
「そんな日はない」
何かが変わっている。
中止するなら、今だった。
だが、式典は翌朝。
これを逃せば、王城へ入る手段は失われる。
「別の方法を探す?」
ニナが尋ねる。
「時間がない」
「なら、正面から借りに行こうか」
「まだ言っているのか」
「案外、貸してくれるかも」
「お前一人で行け」
「鍵を渡しちゃったから、一人じゃ帰れないよ」
そのとき。
裏口の扉が、わずかに開いた。
巡回兵が顔を出す。
周囲を確認してから、軒下へ入った。
口には、いつもの煙草。
「いたね」
「ああ」
兵士が火打ち石を取り出す。
火をつけることに意識が向いた瞬間、レンが動いた。
雨の中へ出る。
足音は雨音に消えた。
背後から口を塞ぐ。
兵士が目を見開く。
肘を振り上げようとする。
その腕を脇へ挟み、首へ力を掛けた。
兵士の踵が石畳を蹴る。
水が跳ねた。
レンの腕を爪で引っかく。
それでも声は出させない。
数秒後。
兵士の身体から力が抜けた。
レンは倒れかけた身体を支え、物陰へ引きずる。
ニナが周囲を見張っていた。
「死んでない?」
「気を失っただけだ」
レンは兵士の腰から鍵を外す。
胸元に、細長い煙草が数本入った小箱を見つけた。
一瞬だけ見る。
そのまま、自分の外套へしまった。
ニナが目を細める。
「盗んだ」
「鍵を返すついでに返す」
「本当に?」
「黙っていろ」
レンは鍵を使い、裏口を開けた。
◇
建物の中は暗かった。
裏口の先は厨房。
使われていない竈。
洗われた食器。
壁には、役人用の外套が掛けられている。
二人は靴についた水を布で拭い、足音を消した。
正面受付には、もう一人の兵士がいる。
机の上には、青く光る警報石。
兵士が石へ触れれば、近くの詰所へ異常が伝わる。
二人は厨房から、使用人用の階段へ向かった。
古い木の階段。
体重を掛けるたび、板がわずかに軋む。
レンが足を置く場所を選ぶ。
ニナも、同じ場所を踏んでついてきた。
二階へ上がる。
廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。
記録室。
レンは巡回兵から奪った鍵束を取り出す。
五本。
三本目で鍵が回った。
だが、扉は開かない。
表面に刻まれた文字が、淡い赤色に光っている。
魔法による封印だった。
「分かるか」
レンが尋ねる。
ニナが扉へ顔を近づける。
指先で、刻まれた線をなぞった。
「王城で使ってたものと似てる」
「解除できるのか」
「たぶん」
「失敗したら」
「警報が鳴る」
「確実にやれ」
「急に無茶言うなあ」
ニナは短剣を抜いた。
刃先を、一つ目の文字へ差し込む。
慎重に線を削る。
金属同士が擦れ、かすかな音がした。
赤い光が強くなる。
レンは階段へ視線を向ける。
下にいる兵士は動いていない。
ニナが二つ目の文字へ刃を移す。
「これ、順番があるんだよ」
「知っているのか」
「昔、同じ扉を開けようとして怒られたから」
「盗みに入ったのか」
「お菓子が入ってると思っただけ」
「十分、盗みだ」
「子供だったからね」
「今も変わっていない」
「今はお菓子じゃないよ」
最後の線を削る。
赤い光が一度だけ点滅した。
そのまま消える。
「開いた」
レンが扉へ手を掛ける。
動かす前に止まった。
扉の下から、空気が流れている。
記録室の中に、窓が開いていた。
雨の夜。
紙を保管する部屋で、窓を開ける理由はない。
「下がれ」
ニナが一歩退く。
レンは扉を少しだけ開いた。
暗い室内。
書棚。
机。
窓から吹き込んだ雨で、床が濡れている。
人影は見えない。
それでも、誰かいる。
呼吸を殺している気配。
レンは扉を閉めようとした。
同時に、内側から強い力で引かれる。
扉が開いた。
暗闇から、剣が突き出された。
レンは上体を反らす。
切っ先が顎の下を通り過ぎた。
冷たい風が皮膚を撫でる。
レンは後ろへ跳び、剣を抜いた。
記録室から、一人の男が現れる。
灰色の外套。
右頬に、古い火傷の痕。
南門でレンの通行証を調べた監察官だった。
「やはり来たか」
男の左手には、警報石が握られている。
「動くな。武器を捨てろ」
「なぜ、ここにいる」
レンが尋ねる。
「陛下は南門の検査を緩め、青鷺堂からも監視を外した」
監察官の声に怒りが混じる。
「理由は知らん。だが、王都へ入り込んだ敵を、命令だからと放置するほど忠誠心を失ってはいない」
「俺たちが、ここへ来ると?」
「城へ潜り込むなら、認証印が必要だ。反乱組織に残された経路は、それしかない」
監察官は自分で考え、待っていた。
レオルドの命令ではない。
だからこそ、男は警報石を使っていない。
敵を一人で捕らえ、自分の判断が正しかったと証明するつもりなのだろう。
「そちらの娘」
監察官の目が、ニナへ向く。
「顔を見せろ」
ニナは動かなかった。
「どこかで見た覚えがある」
「よくある顔だからね」
「王城か」
監察官の視線が鋭くなる。
「お前、以前――」
レンが踏み込んだ。
監察官の意識がニナへ向いた一瞬。
剣を横から振る。
監察官が受け止めた。
金属音が廊下へ響く。
監察官の腕に、青白い光が走る。
身体強化。
剣ごと、レンの身体が押し返された。
背中が壁へぶつかる。
肺から空気が抜けた。
監察官の剣が、胸元へ伸びる。
レンは壁を蹴る。
身体を横へ逃がす。
刃が外套を裂き、肩を浅くかすめた。
熱い痛み。
遅れて、血が流れ始める。
レンは監察官の手首を狙う。
一撃。
二撃。
どちらも受け止められた。
男は速い。
それ以上に、重い。
正面から力を競えば、身体強化を使う相手には勝てない。
「ニナ」
レンが名前を呼ぶ。
それだけで、ニナは動いた。
記録室へ走る。
認証印を探し始める。
監察官が左手を振った。
警報石が、ニナへ向かって飛ぶ。
「伏せろ!」
ニナは迷わず身体を沈めた。
石が頭上を通り、書棚へ激突する。
「余所を見るな」
監察官の剣が、レンの脇腹へ迫る。
避けきれない。
レンは自分の剣を捨てた。
両手で相手の腕をつかむ。
切っ先が胸当てへ当たった。
革を裂く。
金属板が軋む。
力を緩めれば、刃が身体へ入る。
レンの靴が、濡れた床を滑った。
監察官が身体ごと押し込んでくる。
刃先が、胸当てを少しずつ沈ませる。
「灯りを消せ!」
ニナが机の燭台を払った。
蝋燭が床へ落ちる。
火が消え、室内が暗闇に包まれた。
監察官の力が、一瞬だけ緩む。
レンは刃を横へ逸らした。
身体を入れ替え、監察官を机へ押しつける。
だが、男は倒れない。
肘がレンの顔へ飛んでくる。
頬へ当たった。
頭の奥で音が鳴る。
口の中に、血の味が広がった。
レンは後ろへ下がる。
暗闇の中。
互いの位置は、足音でしか分からない。
監察官の身体から漏れる青白い魔力が、わずかに輪郭を浮かび上がらせていた。
男が向きを変える。
ニナを探している。
レンは床に落ちた書類を蹴った。
紙が舞う。
監察官が反応し、そちらへ剣を振る。
空振り。
レンは背後へ回る。
首へ腕を回そうとする。
監察官が頭を下げた。
レンの身体を背負い、そのまま前へ投げる。
視界が回転した。
背中から机へ落ちる。
木板が割れた。
衝撃が背骨を走る。
息が止まった。
監察官が剣を振り上げる。
青白い光に照らされ、刃が見えた。
避けるには遅い。
「右へ!」
ニナの声。
レンは理由を確かめず、右へ身体を転がした。
直後。
監察官の足元で、黒い液体が弾ける。
インク壺。
靴が滑る。
振り下ろされた剣が、レンの顔の横へ落ちた。
割れた机へ刃が食い込む。
レンは監察官の膝を蹴った。
身体が傾く。
机から起き上がり、顎へ拳を入れる。
一度。
監察官は倒れない。
レンの襟元をつかむ。
強く引かれ、額同士がぶつかった。
視界が白く揺れた。
その横から。
木製の箱が、監察官の側頭部へ直撃した。
鈍い音。
認証印が入っていた箱だった。
男の身体がよろめく。
ニナは箱を両手で持ち、もう一度振り上げた。
監察官が剣を向ける。
「待――」
箱が顔面へ入った。
監察官が仰向けに倒れる。
剣が床へ落ちた。
レンはすぐに近づき、男の首筋へ手を当てる。
脈はある。
意識はない。
「死んだ?」
「生きている」
「よかった」
「二回目は必要なかった」
「起きそうだったから」
「『待て』と言っていたぞ」
「敵の言うことを聞いちゃ駄目でしょ?」
正論のように言い、ニナは箱を床へ置いた。
「それより、見つけたよ」
箱の中には、三本の印が並んでいた。
王都管理局。
軍務局。
人材管理局。
ニナは迷わず、中央の印を取る。
「なぜ分かる」
「持ち手の減り方。一番使われてる」
「任せて正解だった」
ニナの手が止まる。
「今の、褒めた?」
「事実を言った」
「もう一回言って」
「時間がない」
「残念」
階下から、椅子が動く音がした。
戦闘の音に気づいたらしい。
受付の兵士が立ち上がっている。
ニナは預かっていた名簿を机へ広げる。
最後に残された二つの空欄。
一つ目へ、レン・クロード。
二つ目へ、ニナ。
書き終え、認証印を押す。
青い光が紙面を走った。
二人の名前を囲むように、細い紋様が浮かび上がる。
成功だった。
ニナが名簿を丸め、外套の内側へ戻す。
レンは監察官を引きずり、記録室の奥へ入れた。
「名簿は、そのまま持っていろ」
「レンが持たなくていいの?」
「お前へ任せた」
ニナは一度だけ目を瞬く。
すぐにうなずいた。
「分かった」
廊下へ出た瞬間、階段の上に兵士が現れた。
「何者だ!」
兵士が腰の剣へ手を伸ばす。
レンは床へ落ちていた警報石を投げた。
兵士が反射的に受け取る。
その一瞬で距離を詰めた。
拳を腹へ入れる。
鎧の隙間。
兵士の身体が折れる。
顎へ掌底を当てる。
兵士は声を上げる前に、階段へ崩れた。
レンは身体を支え、床へ静かに寝かせる。
「今の人も生きてる?」
「ああ」
「今日は優しいね」
「殺せば、発見が早くなる」
「そういうことにしておく」
二人は階段を下りる。
裏口の外に倒した兵士を厨房まで運び、受付の兵士と並べて縛った。
鍵を戻す。
レンは外套から煙草の小箱を取り出した。
少し考える。
一本だけ抜き、残りを兵士の胸元へ返した。
ニナが見ている。
「一本、盗んだ」
「借りただけだ」
「返すの?」
「次に会ったらな」
「会わないと思うよ」
レンは煙草を外套へしまった。
「なら、もらっておく」
◇
青鷺堂へ戻った頃には、東の空が白み始めていた。
マルタは二人の姿を見るなり、顔をしかめた。
「随分、派手にやったね」
「予定外の人間がいた」
ニナが名簿を渡す。
マルタは青く光る認証印を確認した。
「本物だ。これなら城門を通れる」
「管理所の交代はいつだ」
「日の出と同時」
残り、一時間もない。
マルタは二人分の服を取り出した。
レンには、荷運び用の灰色の服。
ニナには、給仕補助が着る白い服。
「オルガ商会の荷車が、東の広場で待ってる」
マルタが言う。
「管理所の騒ぎが伝わる前に、城へ入るんだ」
ニナが白い服を受け取る。
「似合うかな」
「今、気にすることか」
「大事でしょ」
「城へ遊びに行くわけじゃない」
「分かってるよ」
ニナは笑った。
だが、服を持つ指には力が入っていた。
自分が逃げ出した場所へ、再び戻ろうとしている。
「行けるか」
レンが尋ねる。
ニナは一度だけ目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「行けるよ」
「無理なら残れ」
「置いていかないでって言ったでしょ」
「今なら、まだ間に合う」
「レンこそ、私がいないと城の中で迷うよ」
いつもの笑みだった。
レンは、それ以上言わなかった。
外套の内側には、ニナから預かった真鍮の鍵がある。
ニナの手元には、レンから預かった名簿がある。
二人とも、相手がいなければ王城へ入れない。
それでよかった。
◇
夜が明ける。
オルガ商会の荷車が、王城の東門へ向かっていた。
荷台には、式典で使う食器と酒。
その隙間に、レンとニナが座っている。
王城が近づく。
白い石を積み上げた外壁。
門の上には、王家の旗が並んでいた。
剣へ巻きつく、翼の生えた蛇。
東門の前には、臨時使用人が列を作っている。
兵士が一人ずつ名簿を確認していた。
偽造した者が捕まり、その場で連行されていく。
男の叫び声が、列の中へ響いた。
誰も動かない。
「次」
レンとニナの番が来る。
ニナが名簿を兵士へ渡した。
青く光る印を確認。
レンの顔。
ニナの顔。
もう一度、名簿へ視線を落とす。
「レン・クロード。搬入係」
「ああ」
「ニナ。給仕補助」
「はい」
兵士は認証用の板へ、名簿を当てた。
板の表面へ、青い文字が浮かび上がる。
二人の名前。
登録された役割。
異常を示す反応はない。
「通れ」
兵士が名簿を返す。
ニナは受け取り、レンを見る。
レンがうなずく。
二人は東門をくぐった。
厚い石壁の下。
頭上には、完全武装の兵士たちが並んでいる。
門の向こうに、王城の中庭が広がっていた。
整えられた庭木。
噴水。
何十台もの荷車。
忙しく行き交う使用人たち。
レンは足を止めない。
ニナも、隣を歩いている。
背後で、王城の門が閉じ始めた。
そのとき。
遠く離れた北区から、警鐘が鳴った。
一度。
二度。
続けて、三度。
人材管理所で異常が発見された合図だった。
東門の兵士たちが振り返る。
「何だ?」
「北区からだ!」
門を閉じる速度が上がる。
巨大な扉が重い音を立て、地面を震わせた。
最後の隙間から見えていた王都の街並みが、少しずつ細くなる。
やがて、完全に消えた。
レンとニナは、王城の内側へ入った。
同時に。
外へ逃げるための道が、一つ閉じた。




