その名は天災 -後編-
刹那、大通りの空気が透き通った。美しく、どこまでも冷ややかに空間を包み、染めたのは、絶えず流れる水を魔力の根源とするグレイの結界魔法である。
これだけの広域をこれだけの緻密さで閉じられる者は、そうはいない。さすがは元水天使副長と吸血女王の息子だけはあると言ったところか。あわせてこの自分の血を取り込んでいるのだから、彼の能力に疑う余地などない。
しかし、これから抑えるのはリュシエールの力だ。属性の有利性はグレイにあるが、上級天使である自分のほうが根本的に強い。大きな結界を維持するだけでも相当の労力を必要とするのに己より強い力を抑え込まなくてはならないのだから、その負担はかなりのものとなる。できる限り短期決戦で終わらせてやらなくては。
リュシエールは息を吐き、そうして静かに十字を切った。
(神様、天使長様。どうか愚かな私をお赦しください。そして願わくは、無垢な幼子にご加護を……)
天へ懺悔と祈りを捧げると、杖を立てた。
胸に宿るのは愛と怒り。その熱で全身を満たす。否、解き放つ。
「世界よ。大地よ。ひれ伏してあがめよ。我が名はリュシエール。地天使軍が副長。獄底の長。氷炎の誉れを戴く者なり」
変わる。己が。存在そのものが。
ダークカラーのスーツは、大地に広がって緩やかな流れを作る純白のシルクドレスへ。
髪は肩を過ぎ、背中を流れ、腰を覆う長さへ。
そして人の姿をしていたときには存在しなかった体の感覚——両翼の感覚。背に負う重みを宙に広げ、羽ばたきを一回。
(何年ぶりかな……。うまく飛べるといいが)
嬉しさと懐かしさでわずかに頬が緩む。が、それを瞬時に引き締めてリュシエールは、右手の杖へと集中し直した。
「永久なる凍土よ。死と嘆きの棺を開き、現世へ至る道を照らせ」
杖が形を失い、光の粒に変わって魔力へと還る。
直後、足元から極寒の冷気が噴き出した。そこへと次の魔法を唱える。
「我が涙、我が片腕、我が盟友。慈悲なき断罪の刃となりて、地獄の底より顕現せよ」
目前のアスファルトを内から砕き、突き出て現れたのは、一振りの大剣。幅も長さもリュシエールの体と大差ない、巨大な青白く光る剣だ。その柄を掴み、掌のみならず全身の延長かのように馴染むのを感じながら、大地という名の鞘から抜き放つ。
「——前線に立つ人間たちよ、聞け!」
これが最後の準備だ。声を張り、告げる。
「無事に帰還したくば即時撤退しろ! これは命令だ!」
左手も柄に添えて、
「私は手加減がとてつもなく苦手だからなっ。逆らい、その場にとどまるならば、手足の一、二本は覚悟してもらうぞッ!」
地を蹴った。
前へ。
敵めがけて。
飛ぶ!
長い髪が、ドレスが、風にたなびく。リュシエールをその場につなぎ止めようとする枷に似ていて、だからこそ抵抗を振り切り、置き去りにして空を飛ぶ快感は、何物にも代えがたい。
ゆったりと翼を一回羽ばたかせただけで、仲間たちの傍から慌てふためく軍人たちの頭上へ。
さらに一回。さらに先へ。
氷槍で地に縫い付けた魔族たちの上へ。巨大スライムの前へ。
「行くぞ、盟友」
ともに戦ってきた大剣に囁けば、魔力の律動が掌に伝わってきた。リュシエールの嘆きから生まれた刃が、リュシエールの感情を映して極寒の怒りに包まれる。
賛同と同調。
絶対的な勝利への確信。
胸を満たす感情を手に乗せ、柄を堅く握った。切っ先を前へ。肩口で水平に構える。
ひゅわり、と冷気が渦巻いた。
リュシエールの周囲数センチの空間に無数の氷粒が形成される。
と同時に強く虚空を蹴った。
たった一歩の踏み込み。それだけで推進力は生まれ、加速する。さながらスケートリンクで滑るように。絹のドレススカートをさばき、翻し、鋭く前へ。剣を刃に、自身を槍と化す。
切っ先がスライムの表皮に当たった。
柄を伝って抵抗感が。
しかし力ずくで突き破る!
勢いを殺さずスライムの体内へ直進した途端、体液が津波となって押し寄せてきた。が、所詮は弱者だ。身にまとった氷粒が液体を打ち、砕き、凍らせ、削り、リュシエールに霞ほども触れさせない。
まっすぐに。一直線に。
突き抜ける寸前、赤子に手が届いた。深く抱きしめてしまえばこちらのものだ。
——シュワリッ!
突き抜けて外に滑り出たリュシエールは、空中を舞う氷に乗ってスライムから充分な距離を取た。そうして地に降り立つと、大剣を右手に、赤子を左腕に。息をひとつ吐き、子に治癒魔法をかける。
「神の光よ。欠けたる形を癒し、内より蝕む魔を退けたまえ」
ワンテンポ遅れ、赤子が声を上げて泣いた。
傷は癒やした。喉を詰まらせるスライムの体液もない。痛みも苦しみも今はない。この泣き声は、幼子が己の命を誇るための歌だ。
もう大丈夫。
確信とともに、命を救えた歓喜が胸を埋め尽くした。温かい熱に包まれる。安堵で涙腺が熱い。
「あぁ……、ご加護に感謝いたします……」
刹那。
憎悪が。
揺らめいた。
小さくも深い憎しみが。
どこかで。……近くで!
リュシエールは赤子を腕にかばい、頭を跳ね上げた。
スライム——ではない。違う。憎悪の主は、
「っ!」
氷槍で地に縫いつけられながらも、こちらに掌を向けて魔法を唱えようとしている小型魔族がいる。
——タターンッ!
敵を確認するのとほぼ同時に銃声が鳴った。道の両端に連なる高い建物に反響したそれは二発。そして直後と言っていいタイムラグを経て、リュシエールと小型魔族の間、しかもその空中に、小さな津波が発生した。
何がどうしてこうなったのか、とっさにはわからなかったがひとつだけ確定している。
(これは人工魔法——エレメント弾か!)
察すると同時にリュシエールは、小型魔族へと被さるように降りかかる分厚い水を見据えて魔力を練った。
「冷たき炎よ! 霊峰の昏き息吹に乗りて、熱き血潮の輪を止めよ!」
世界最高峰の頂——最も天界に近く、ゆえに最も地獄に近しい人界で数多くの命を奪ってきた風が、津波を一瞬にして吹雪へと変えた。リュシエールに魔法を放とうとしていた魔族を襲う。
あっという間だ。体の末端が凍り、腐り、崩れたのは。それでも死なない。体を貫いている魔法の氷槍が死なせない。
さらなる苦悶に襲われ、しかし体を拘束されているためのたうち回ることさえ許されない魔族が、喉がちぎれるのではないかと思う悲鳴を上げた。攻撃しようとした魔族だけでなく、その周囲にいただけの魔族たちも同じように苦しんでいるが、ここで成したことを思えば心を痛めてやる道理もない。そんなことよりも気がかりなことがある。
リュシエールはすぐさま視線を魔族たちの向こう側へと上げた。町並みを視界に入れる。
魔法の進行方向にあった道路と建物が見事に凍っていた。が、どうやら外壁だけで、建物自体に損傷は見当たらない。グレイが張っている結界のおかげだ。結界がなければ通り沿いの建物どころかさらに向こうの一帯がすべて氷漬けになっていただろう。
次いで高機動車の傍を振り返れば、狙撃銃を持ったローディとジオラルドがハイタッチしているところだ。対して軍人たちは総じて口を半開きにして固まっている。どうやらあの二人は、また常識外れなことを平然とやらかしたらしい。
「やれやれ。本当に頼もしすぎるなぁ」
わずかに声を出して笑うとリュシエールは、改めて気を引きしめた。スライムの動向に注意しつつ反対側の街路樹へと近寄る。
車道と歩道を隔てている樹木たちは、どれも大地に深く根ざし、伸びた枝葉も力強く、立派なものたちばかりだ。内に蓄えている魔力もその強さも申し分ない。これならば充分に頼れる。
中でも特に太い幹を持つ樹に、リュシエールは敬意を持って向かい合った。
「大地の正しき眷属にして、親愛なる同胞よ。千の刃をも弾く篤き衣で、天使の卵を護り愛せ」
魔法を注ぐと、太い枝が急速に伸びた。リュシエールの視線の高さで柔らかに編まれたのはゆりかごだ。そこに赤子を預ける。
そうして、樹が再び動き出し、濃密に育った枝葉のいちばん奥へと赤子を包んで隠してくれたのを見届けると、
「……さて」
戦うべき相手へと、向き直った。
スライムを突き破ってトンネル状の穴を開け、赤子を救出してから、たいした時間は経っていない。にもかかわらず、巨体はほぼ復元を終えていた。周囲に飛び散った破片もほとんど残っておらず、数個の小さなかたまりが本体へと這っているのみだ。
(思ったより回復速度が速いな)
が、所詮は『その程度』。危機感とはなり得ない。
リュシエールは柄を握り直すと翼を開いた。羽ばたき、上空へ。スライムの頭部を見据え、迫り、魔力を乗せて剣を振るう。
——ザシュッ!
やはり手応えは水のかたまりだ。いちばん近いのはゼリーにスプーンを刺したときだろうか。えぐり取ったスライムの切り口も似ている。
と、その断面が波打った。
復元するつもりらしい。
「愚か者め」
リュシエールは、大剣をひぃらりとさばいて中空に静止した。切り落としたスライムの一部を切っ先で指してみせる。
道に落ちたスライムの断片は、切り口を中心に凍っていた。否、凍結は遅くない速さで進行している。おそらくは断片に意思はない。ゆえに何も考えず本体に戻ろうと動いている。結果、動くほどに凍りついた部分から脆い細工のように砕け落ちていっていた。数分もたたないうちに断片はすべてただの氷の破片に変わり、活動停止するだろう。
「あきらめろ。貴様に勝ち目はない」
スライムの体内で唯一形を保っている球体が、揺れるように位置を変えた。中心部から、断片が落ちている側へ。しばしその場で不規則に回転したあと、急速に表皮から遠い場所へと移動した。
(あれが核か。視たところ、ひとつだけのようだな)
核を斬ればこのスライムは形状を保てず消えるのだろう。しかし思ったよりも動きが速い。巨体の中を自由に動き回れるとなると、こちらは小回りが利かない大剣だ、捉えるのに骨が折れそうである。
が、本当に、『所詮はその程度』だ。
地属性は水属性と相性が悪い。対すれば常に劣勢となる。だがそれはあくまで同レベルに近しい場合の話だ。歴然とした力の差を前にすれば相性など無意味で無価値である。
スライムの巨体が障害となるならば削ればいい。核が逃げられる場所を奪えばいい。自分にはそれが可能である。
「畏れよ、低脳」
リュシエールは剣を構える。まっすぐに、切っ先を敵に合わせて。
「我が魔力の根源は絶対氷壁。すべての世界から隔絶する、地獄を覆う壁。そして我が剣は、その化身だ」
どこかでこちらを視ているのだろう首領を脳裏で睨み据え、深淵の冷気を放つ愛剣にして相棒を誇る。世界を愛し、命を守り、未来を祈る役目を負う天使族であることを誇る。
「我らに逆らうことが許されると思うなど高慢っ。勝てると思うことこそが不遜っ。水たまりごときに、永久凍土が削れると思うなッ!」
宣し、両翼で風を叩いた。
空を駆け、リュシエールの怒りを受けてさらに強い冷気をまとった剣を振り上げる。剣筋の空気が凍って陽光にきらめいた。それを視界の端に流し、深く迫ったスライムめがけて斜めに振り下ろす。
一撃。軟体の一部を斬り落とすと返す刃でさらに一撃。またひとかたまりを斬り飛ばす。
氷混じりの水が、アスファルトにぶつかり音を立てた。
断片は本体に戻らない。戻れない。ひとまわり小さくなったスライムは、しかし後ずさらなかった。表皮をうごめかせ変形する。不規則に飛び出た数本の突起が意思を持って伸びた。触手だ。
触手を伸ばすほどに体長が縮むスライム本体の様子を確認するとリュシエールは、
「ははは。斬りやすくて助かる」
口端だけで笑い、鞭のようにしなって襲い来る一本切り捨てた。
二本目が足を絡め取ろうとしてくるのをターンで返せば、シルクスカートは滑らかに触手から抜け、翼を掴もうとした三本目は触れた瞬間に表面が凍りつく。
拘束すればどうにかなると思ったのだろう。馬鹿だ。
凍った箇所ならば斬るまでもない。叩き折り、道に落とし、さらに踏み砕いた。
リュシエールの足が触れた道は氷に包まれ、剣筋には氷が舞い、剣風の先には氷がそびえる。リュシエールが戦うほどに氷の世界が広がっていく。世界が凍りついていく。スライムの足元はすでに氷漬けだ。凍結現象はじわじわとスライムを浸食し、巨体を揺らすたびにアスファルトとの接地面がぱきぱきと鳴っている。砕けて壊れていく。
空を舞いながら振るう剣技と、あふれて止まらず大地を覆う氷の魔力。二方向から責め立て、巨体を削り捨て、そして——
下半分は白く凍り、上部のわずかな空間に逃げ込んだ核は身動きがとれなくなって、まるで雪だるまのような姿となったスライムの前に、リュシエールは降り立ったのだった。
見上げる大きさだった異形は、今は自分の身長とさほど変わらない。まだ生きている部分だけで言えば手に乗せられるサイズだ。この町にOWBstが来てからですら一時間近く経って、ようやくである。
「やれやれ。スライムごときに、ずいぶんと手こずったものだ。さすがは『アウター』……ということにしておこうか」
足を肩幅に開くと、大剣を地面と水平に構えた。スライムの核と体液の境目ギリギリを見定めて、振り抜く。
斬り飛ばした核入りのスライム玉が跳ね、一気に凍結する。強制コールドスリープさせたスライムは、体勢を起こしたリュシエールの左手に過たず落ちたのだった。
(……と、ここまでは良いとして……。こいつをどうしたものかな)
リュシエールは眠らせたアウター・スライムを見下ろし、うーむとうなる。
人間界の摂理、いや、倫理でいけば、この場で斬って捨てるのが無難なのだろう。しかし気乗りしないというのが個人的な感情だ。
今後、首領が同じ手を使ってくる可能性を考え、このまま連盟本部に持ち帰って研究材料にするという考えもある。解析して対応策を導き出せれば、またアウター・スライムが送り込まれてもリュシエールが戦わなくとも解決できるようになるかもしれない。
とはいえ、これは『アウター』だ。この世界外の常識下で生まれた生命である。地上に未来永劫もたらされることのない智ですべてが構成されていたら、何年研究しようとも解析不能という結果しか待っていない。
(ならば、いっそのこと天界に送るか? 風天使長様なら関心がおありになるかもしれないし。……そうか。そうだな。あの方にお任せするのがいちばん安全かもしれないな)
智の神殿の管理者でもある上級天使の顔がよぎったのは、とっさの思いつきだ。しかしとっさにしては良い案かもしれない。風天使長の能力面はもちろんのことだが、彼は地天使長の友人でもある。師を介すれば話も通しやすいはずだ。
決断するとリュシエールは、その場に跪いた。剣を脇に横たえて天に祈る。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……。いと高き門よ——」
《リュシエールっ!》
グレイが脳裏で警鐘を鳴らすと同時に、清らかな空気が濁った。否、割れた。結界が破られたのだ。
——と理解するより前に、手にあったアウター・スライムの核が消えた。消滅した。誰かに殺されたのではない。溶けたのでもない。盗んだのだ。天使リュシエールの手の上から!
何者の仕業かという疑問は考えるだけ無駄だ。わかりきっている。今、この場で、高度な結界を破ることのできる、そして核を欲する者など一人しかいない。
「貴様かっ、首領っ!」
虚空に向かって放った威嚇は、驚くほど簡単に流された。——流すことができるなどという考えられない現実に、プライドを傷つけられる。苛立ちで指先が冷える。
敵は姿を現さない。見せないまま笑い声だけを響かせる。まるでこちらの内心を読み取れているとでも言うかのように、嘲りを浴びせかけてくる。これが首領なのだろう。ローディから聞いていた特徴と一致する上に、ここまで腹立たしい印象を与えてくる人物がほかに存在するとは思いたくもない。
「いちおう、初めましてかな」
強者の気配をばらまきながら、男の声が慇懃に笑った。
「僕の造ったスライムが、短時間でここまで削りきられるとはね。さすがはこの世界の最高位種族……ということにしておこうか」
わかりやすい揶揄を受け、リュシエールもまた口端に力を込める。
「認めてもらえて光栄だ。部下が世話になった件も含めて、ぜひ礼をしたいものだな」
「必要ないよ。そのぶん、すぐにまた遊び相手になってもらうから」
「暇なのだな」
「その通りさ」
うそぶいて高笑し、そして余韻も何もなく突然消えた。テレビのチャンネルを変える気軽さで退場した首領は、何から何まで神経を逆なでするのが好きな男のようだ。
(本当に心底から一刻も早くディアムの前に突き出してやりたいッ)
が、完全に逃げられた相手を追いかける手段などなく——。
リュシエールは息を吐き捨てた。
苛立ちをそのままに、氷槍で捕らえた魔族たちに向き直る。
「そもそもは、お前たちが先に私を怒らせたのが悪いのだ……。もはや八つ当たりだが、文句は受け付けんぞ」
そして、剣を道に突き立てた。
「我が領地よ。硬き門を開き、新たなる民を迎え入れよ」
刹那、剣から魔族たちへ一直線に亀裂が走った。亀裂は大きく広く深く割れ、漆黒の底を見せる。
「生きたまま地獄送りにするのは、大戦以来だな……。私が言うのも何だが、殺してほしくなるほど苦しいぞ。だが通常よりも早く浄化されて輪廻の輪に戻れるだろうから、ひたすらに耐えるといい。まぁそれも、お前たちが今までに犯した罪の重さ次第だが」
口にした言葉は、奈落へ落ちていった魔族たちの耳に届いたのか否か。
確かめる気も起きないことから早々に気持ちを離すとリュシエールは、愛剣へと目を戻した。微笑み、感謝の念を向け、手を離す。
「ありがとう。またいつか」
大剣は蒼くきらめき、星屑の川を思わせる光へと変わり、そうしてアスファルトに開いた地獄へ通じる穴を閉じるとともに、獄底へと帰っていったのだった。
「……ふぅぅ……」
深く深く、息を吐く。
正直に言えば、まだむしゃくしゃしている。苛立ちが残ってしまった。だがそれをぶつけられる相手がいなくなってしまったのだから、仕方がない。
衝動をどうにか身の裡へと抑えると、リュシエールはゆったりと翼を羽ばたかせた。つま先で、とん、と地面を押して宙に浮かび上がる。シルクドレスが風を含んで柔らかく広がり、揺れて、肌をくすぐる感触に、少しだけ心を慰めてもらいながら身を翻した。預けていた赤子を樹から受け取り、そうして空を飛んで道を戻る。
ずいぶんと空気が冷たくなってしまった。水属性のグレイとアンドロイドのジオラルドはともかく、生身の人間であるローディは大丈夫だろうか。深い古傷が痛んでいなければいいのだけれど……。
思いながら地上を見やれば、多くの軍人たちがリュシエールを見上げていた。その目からこぼれている感情は大きく分ければふたつである。
ひとつは強さに対する純粋な感動と、スライムを排除したことへの感謝。
ひとつは恐怖。強大な化け物に遭遇し、怯える者の目。
当然だ。こういう態度を見せるべきなのだ。自分は天使。この世界の最高位種族。その中でも軍の副長を務める者なのだから。人間ごときが天使を軽んじようなどと考えるほうがあり得ない。
中佐の表情が恐怖に震える弱者のそれへと変わっているのを見たリュシエールは、一瞬だけで男から視線を外して、仲間たちの傍へと降り立った。
「ただいま。皆、ご苦労だっ——」
「リュウさんッ!」
「うわぁっ。いきなりどうしたローディっ?」
着地するなり両肩をむんずと掴まれ、思わずのけぞってしまう。すると、いつだったかにも感じた心の温度でローディが握力を強めた。
「怪我してるならしてるって最初に教えといてくださいっ! いつからそんな大怪我してたんですかっ! 知ってたら止めたのに……っ!」
「え?」
ローディの弁に対する不理解は、しかし一瞬だけだった。
天使への敬意を捨てているわけではなく、畏怖を感じていないわけでもなく、しかしそれらを超えて親愛の情を向けてくれる人間の、なんと美しいことだろう。その温かさに癒される。
リュシエールは体勢を戻し、微笑んだ。
「お前は本当に良い魂の持ち主だな。聖者として天界に推薦したいくらいだ」
「……はい?」
首を傾げたローディの反応が面白くてまた笑うと、リュシエールは己の髪を一房、前へとたぐり寄せ、見せた。
「驚かせてすまなかった。これは……契りの跡なんだ」
本来は純白だった翼と肩より長く伸びた金髪は、赤いまだら模様に染まっている。おそらく彼の目には『見るも無惨な』という表現が似合う様に映っているのだろう。
これは、自分の血と、グレイの血。相反する魔力ゆえに反発してしまい、流した血。それでも交わり、契った、その証。
洗っても消えなかった、罪の証。
決意の証。
「傷はもう何年も前に塞がっているし、痛みもない。ただどうしても血の色が消えなくてな。無理に消そうとも思わなかったから、変化の魔法で翼を隠すついでに、髪も短くしているんだ。それだけだよ」
ローディが半眼になった。
「……本当なんですね?」
疑う目に、大きく頷いてみせる。
「当然だ。私は虚偽が大嫌いな地天使だぞ」
「じゃあどうして、自分を戦力扱いするななんて言ったんですか。こんなに強いのに」
「見ればわかるだろう? 強いからだよ」
肩を掴む手を解かせ、戦場であった大通りを振り返った。
道も建物も、あちらこちらが分厚い氷で覆われている。見える範囲はほぼすべてと言っていい。この氷が自然に溶けるのを待つとしたら、復旧に軽く一ヶ月はかかるだろう。重機を用いて削るにしても何週間かかるやら。
「私が戦うと必ずこうなるから、極力前線には出るなとエイムズに釘を刺されているんだ。それがなくとも、地上界の事象に干渉してはならないというのが天界の掟だしな」
同じ景色を見ながら、ローディがしみじみとこぼした。
「何というか……もうこれ自然災害の一種ですよねぇ」
「天使の力はそういうものだからな」
さらりと笑い飛ばして赤子をローディに手渡す。と、そのまま流れるようにジオラルドへ押しつけた。予想通りな彼の行動を微笑ましく思いながらリュシエールは、再度己に変化の魔法をかけた。服を人間の物に変え、翼と長髪と過分な魔力を身の内に封じると、アスファルトの上へと視線を落とす。
「お疲れ様。大丈夫か?」
いつも凜としたたたずまいを崩さないグレイが、珍しく地面に尻をつき、両手を後ろに回して倒れそうな体を支えている。うなだれ、大量の汗でシャツを濡らして、荒い呼吸を繰り返している恋人に、リュシエールはそっと寄り添った。
「グレイのおかげで被害は最小限だよ。今回の結界は特に質が良かった。今まででいちばんの出来ではないか?」
いつもなら強引に抱きしめてくる腕が動かず、代わりにもたれかかってきた。
「ローディを凍死させるわけにはいかないでしょう? ですから、頑張りました」
意地っ張りなグレイが隠しきれないほど体力を消耗してまで、仲間のために結界の質を高めた事実。その気持ちが嬉しい。
「ふふっ、ありがとう。愛しているよ」
するとグレイがすり寄ってきた。頬ずりをして耳元で微笑む。
「帰ったら、ご褒美をくださいね」
甘い。
声も言葉も温度も甘い。
求められる快感は甘く優しく強いから、あぁやはり天には戻れない。
リュシエールは心の内で翼を羽ばたかせて、恋人におもいきり抱きついた。そして愛しい唇に口づけを——
「はいはいっ撤収ーッ!」
すかさず頭上でパンパンっと手を叩いたローディから飛んできた「人前でくらい自重してよバカップル!」という心の声が、ちょっとだけ面白かった。




