その名は天災 -前編-
本編では活躍の機会がなかったリュシエールが、能力発揮するお話。
この人は戦わせたらいかんのです(笑)
ここは首都ニンデルセンの郊外。居住区となっている地区のひとつ。初夏の日差しの中、休日の穏やかな空気で満ちているはずの町は今、災禍に襲われ騒然となっていた。
子供たちの遊び場であるはずの公園は戦闘服を着た大人たちが占領し、笑みなど微塵も見当たらない険しい顔をつきあわせている。作戦会議はこれで何回目になるのか。数えるのも面倒な回数になってきたのだろうことは、表情から察せられる。距離があるため言葉は聞き取れないが、顔つきを見るに今回も良案は出なさそうだ。
何台もの軍用車で埋まっている道は、それ以上に多くの軍人たちがひっきりなしに行き来している。のんびりと歩いている者は一人もいない。引き締まった顔つきで武器を手に戦場へ向かう彼らからは、民間人を襲った敵への怒りと、休日を潰された苛立ちと、作戦開始から三時間以上が経とうとしているのに、鎮静化するどころか最初は一キロメートル以上離れた場所に設置したはずの作戦本部へ順調に迫ってきたことへの、動揺と焦りの感情が漏れている。
(……悪い風向きになってきたな……)
応援要請を受けて出動し、地区の中心を縦断する大通りの端に停めた、OWBst専用高機動車。その開け放っている後部ドアから、リュシエールは車外へと降りた。補給部隊が前線へ戻っていくのを見送り、彼らの背中越しに道の先を睨む。
距離にして五百メートル程度だろうか。もう少し遠いかもしれない。あるいはもっと近いのかもしれない。大通りの先に、町を脅かす災いがいる。
半透明の軟体生物——スライムである。
スライムは大通りを町の中心部めがけて進みながら、動物、植物、昆虫など、種を問わずあらゆる生命を取り込み、消化して養分とし、肥大化した。その大きさは、四車線の道をほぼ埋め尽くし、高さ七階建てビルに相当する。
これほどまでの、距離感を狂わせるまでの巨体に育ったスライムなど、見たことも聞いたこともない。人間世界のデータベースの話ではなく、天使リュシエールが持つ知識での話である。
智の神殿で確かめたわけではないが、おそらく間違ってはいないだろう。あのスライムは『アウター』だ。だから地上界最強の軍事力を誇る世界平和連盟公安軍が、たかが一匹のスライム相手に苦戦することとなり、こうしてOWBstに緊急要請が来たのだ。
さらにうっとうしいことに、人間界で起きた混乱を嗅ぎつけて低級有翼魔族たちが集まってきてしまった。面白がってちょっかいを出しにきたのだ。
奴らは地天使副長がここに立っていることに気づきもしていないのだろう。さすがは低級。無能なことだ。呆れの感情しか湧かない。だが人間にとっては有効な邪魔者である。おかげでスライム退治の作戦は妨害され放題だ。
戦況は、はっきりいって悪い。
今はまだ冷静さが勝っているから良い。軍の統制が取れている。しかし負の感情に支配される者が現れたら局面は一気に変わるだろう。そしてその時は近づいている。
スライムを倒すのが先か、心の魔に負けるのが先か。あるいは意固地な司令官があきらめて指揮権をOWBstに渡すのが先か。いっそ強引に奪ってやろうかとすら思うが、そんなことをすればエイムズの説教は目に見えている。彼の小言は長いのだ。できればあまり受けたくはない。
リュシエールは上空を不規則に行き交う低級魔族たちを一睨みし、そうしてため息をついた。『アウター』を放り込んできた元凶への苛立ちを胸中で吐く。
(首領とやらは本当に余計なことをしてくれる……。早く捕らえてディアムに突き出してやりたいものだなっ)
——サディストな元同僚の美貌を思い浮かべたからではあるまい——突如、傍らの空間に歪みが生じた。
岩に割かれる清流のようなラインを描く空間の裂け目から現れたのは、黒いスーツに身を包む恋人だ。アイスブルーの双眸を機嫌良く細めた吸血鬼は、リュシエールの前に音もなく降り立った。
「ただいま戻りました。俺が離れている間、何もありませんでしたか?」
対してリュシエールは、半眼にならずにはいられない。
「あるわけないだろう。そう言うお前は何をして遊んできたんだ?」
「遊ぶだなんてそんな……。俺はいつでも本気ですよ」
グレイの笑みは微動だにしなかった。確信犯、確定である。もっとも、本人は隠す気すらないに違いない。その点も含めて『無垢な悪意の固まり』の態度に、リュシエールは息を吐く。
「本気で遊ぶなと言っているんだっ。通常時ならばともかく、戦場ではやめろっ。ローディたちに迷惑をかけるんじゃないっ」
たしなめると、グレイが横抱きにしている青年へと視線を向けた。
数分でボロボロになって戻ってきたローディは、体を縮めてぷるぷると震えていた。服はもちろん、高いところで結っている長髪まで湿っていて、まるで雨に濡れた犬の様相である。狙撃銃はかろうじて腕に引っかけているが、戦意喪失していることは心を読まなくともわかる。
親が親なら子も子、とはよく言ったものだ。気に入った者をいじめるのが大好きなグレイに、状況も考えずオモチャにされたのだろう。
心から同情しつつリュシエールは、グレイにローディを下ろすようゼスチャーで命令した。彼はほんの少しつまらなさそうな表情をしたが、逆らってもメリットはないと判断したらしい。すぐに配慮の行き届いた所作で彼を地面に座らせた。
ローディは相当のダメージを受けたらしく固まったままだ。リュシエールはローディの前に膝をつき、魔法で彼の周囲に温風を発生させた。ヘアーゴムをほどいて濡れた長髪を優しく梳き、撫でる。
「大丈夫か? 私がいるからもう心配いらないぞ。ここは安全だからな」
すると、髪の間から半泣きの目がこちらを向いた。ぎしぎしと。
「り……リュウさぁ〜ん……っ。うう……うぅ……うにょうにょで……ねちょねちょで……うううううう気持ち悪かったですぅぅぅっ」
——ローディは、戦場においては狙撃手である。最前線で敵と直接相対するのではなく、後方から銃口と引き金で駆け引きをする人間である。それがなぜ、スライムがうにょうにょだのねちょねちょだのとびしょ濡れの体で言うことになったのかといえば、元凶は絶対に決まっているわけで、
「グレイっ」
キッと睨みやれば、元凶は案の定楽しそうに微笑んでいた。
「ローディがもっと近くで観察したいと言ったから、近くに転移させてあげただけですよ?」
ようやく緊張が解けてきたのだろう。ローディがくにゃりと肩を落とした。
「できればスライムの鼻先じゃなくて、二、三メートルは離れたところが良かったですぅ……。即行で捕まって、触手でグルグル巻きにされるなんて思わなかったんですけどぉ」
「ふふふっ。締めつけられて苦しみ悶えるあなたは可愛かったです」
ローディが絶句した。
本当に申し訳ないと思う。
リュシエールは眉間を揉んで気を取り直し、グレイを睨み上げた。
「グレイ。仕事は」
「しましたよ」
厄介な悪魔の笑顔は崩れない。
「あれだけの巨体に育っておいて、分裂増殖する気配もありませんね。ローディを助ける際に切断系の魔法で攻撃しましたが、分断したパーツはすぐ本体に吸収されて戻っただけです。それなら、ほかの生物に寄生、あるいは母体にして繁殖するのかと思ったら、ローディを放り込んでも殺そうとしただけで性器を露出することもなくて——」
「ちょっと待ったーっ!」
乾いてきた髪を乱して、ローディが振り返った。
「僕、命の危機の前に貞操の危機だったんですかっ?」
「そんなわけがないでしょう?」
微笑に真摯さを混ぜて、首を振るグレイ。
「あなたはスライムごときが食っていい人間ではありません。敬意を持ち、尊重し、ローディという魂を心から愛する者のみが触れていい。そういう人です。俺の手が届く限り、髪の毛一本たりとも損わせはしませんよ」
「グレイさん……」
感動で震えたローディを見つめ、色ボケ吸血鬼はニコニコと嗤った。
「ただ、いたってプラトニックなローディが、触手に蹂躙されて快楽に目覚める瞬間を見られるのではないかと期待してた部分もあったので、少し残念ではありますね」
「やっぱり危機だったんじゃないですかぁぁぁーっ! ジオーっ! 助けてーっ! 戻ってきてーっ!」
——ピピピッ。
《了解》
OWBst全員のイヤフォン型通信機から、相互に繋がった合図である電子音が聞こえた直後、簡潔な言葉だけを流し、切れた。
リュシエールは思わず周囲へと視線を投げ、耳を澄ませる。しかしジオラルドが愛用しているバイクの音は聞こえない。やはり今も最前線周辺で、命じた通りに同種のスライムなどの敵が隠れていないか偵察任務をこなしている、のだろうか?
「……なぁ。ジオはまだ向こうに残っているんだよな? まさかもう戻ってきたというわけではないんだよな?」
さすがのグレイも驚嘆を禁じ得ないらしい。
「ちょっと驚く耳の良さですね……。ローディ、ジオを改造しました?」
「してませんよ。そんなことしたら面白くないじゃないですか」
返事した声の調子がすっかりいつものそれだ。冷静な青年に戻ったローディが、何とも言えない表情でうなる。
「僕のコンディション管理をかなり上位に設定してるっぽいのは感じてたけど、ここまでだとは思わなかったなぁ。……相棒の優秀さが、ちょっと怖い。ふへへ」
楽しそうで何よりである。そして世界屈指の頭脳が復活してくれたようで助かる。リュシエールは早速ローディに向き直った。
「話を戻すが、ほかに手に入れられた情報はあるか?」
すると即座に、ピーコックブルーの双眸が智の光できらめいた。
「通常の銃撃では弾が体内に吸収されて無効。四属性のエレメント弾で一回ずつ攻撃してみたら、水属性以外は効果がありましたけど微妙です」
「ということは、弾丸の魔法自体は発動したんだな」
「はい。でもダメージを与えるよりスライムが押し潰して消すほうが速い感じです。いちばん効力の弱い弾を使ったから、鎮火されるまであっという間でしたよ。最大効力の弾なら……、それでも何発かを一度にヒットさせないと、まともなダメージは入らないかもなぁ……。何しろ大きいからなぁ……」
「ふむ……。奴の体を構成する成分は何だと思った?」
「水っぽかったです。表面はねちょねちょしてましたけど、中身は粘り気がなくて、さらさらでした。目立った臭いもなし。不純物はかなり少なそうですね」
ぐったりするほどのダメージを負いながらもこれだけの情報を持ち帰ってくるのだから、知識欲が服を着て歩いている人間はすごいものだ。
優秀な部下の優秀な働きに満足するとリュシエールは、次に傍らへと目を振る。
「グレイ。切断魔法を使った感想は?」
「表皮は意外と丈夫でしたね。生半可な魔法や剣技では受け止められるのがオチだと思います。スライムの反応速度を上回れば効果があるでしょう。ですが先ほども言った通り、切断したあと本体に吸収されたら意味がありませんね」
「では、スライムの核は見つけられたか?」
問うと、ローディがグレイと目を見合わせて無言のまま確認し合い、そして大きく頷いた。
「直径三十センチくらいの、球形の物体が一個ありました。動いてます。一箇所にとどまってません。揺れに乗って流されてるだけにも見えますけど、意志を持って移動してますね。あれはたぶん知能を持ってますよ。目かそれに似た感覚機能も備えてる可能性があります」
「わかった。ありがとう」
ローディがすっかり乾いたのを見て、リュシエールは魔法を終了させた。ヘアーゴムを彼の手に返し、そうして改めて通りの向こうで暴れているスライムを見やる。
(厄介なのは図体の大きさと回復速度だけで、あとは問題ないか。となると……)
軍には低級魔族の相手を頼み、自分とグレイが切断魔法で細切れにしてすぐにローディが火のエレメント弾で焼却する、というのを繰り返せば弱体化できそうだ。そうしてスライムの核が露出したところで捕獲あるいは消滅させるのが妥当だろう。切断と焼却に関しては本部に応援を要請できるかもしれない。どちらにしろ時間はかかるだろうが、作戦が何もなく手をこまねいている今の状況が変わると思えるだけでも、軍人たちの士気は上がるはずだ。
「よし。作戦本部に話を通してくる。戻ったら出るぞ。ローディはエレメント弾の準備をしておけ」
「はいっ」
そうして一歩、踏み出したそのときだった。
「——ッ!!」
不快なモノに嘲笑いながら急所を撫でられたような——そんな悪寒で引きつった。足が固まり、止まってしまう。
この感覚は、知っている。この自分が存在するすぐ近くで『愛』が蹂躙されたのだ。加害者の愉悦と、被害者の恐怖と嘆きを感じ取ったのだ。
「住民はすべて避難させたのではなかったのかっ?」
苛立ちを吐き、振り返り、見上げる。負の感情を拡散させている空気を読む。
視えた。
商店街のビルに遮られた向こう側だ。
引き裂かれる絶望が、ふたつ。
「リュシエール! あそこです!」
グレイが指差した先、ビルの上空に、数匹の低級魔族が現れた。
飛び方がおかしい。速度も高度も不規則だ。奴らは何かを持っている。自身とさほど大きさの変わらない、動く何かを。そのせいでバランスを保てず、うまく飛べないのだ。
息を吐き、空間を越えて視線を伸ばす。
視える。感じる。
あれは——魔の悪意にさらされて激しく恐怖しているのは——
「人間の赤子だ……!」
瞬間、ローディが動いた。小型鞄からPPCを出して操作すると、
「call!」
四人全員の通信機に発信、接続した。
「ジオっ、どこまで把握してるっ?」
端的な問いに返る答えも簡潔だ。
《女性と思われる人物の悲鳴を捕捉。現場と思われる方角へ進路を変更、急行中だ。何が起きた?》
「空を飛んでる魔物が、どっかから人間の赤ちゃんをさらってきたんだっ。——次の区画! 魔物の予測飛行ルートと一致する!」
《了解。保護者を発見し次第、救助する》
リュシエールたちの会話が偶然耳に入ったのだろう、数人の軍人たちが近くで足を止めている。彼らに作戦本部へ報告するよう指示を飛ばすとリュシエールは、駆け足で本部へ戻っていく背中を視界から外してイヤフォン型通信機に意識を向けた。
「ジオ。周囲にこちらの隙を窺う者は見つかったか?」
《索敵範囲を目視および生体反応レーダーを用いて探索した結果、何も発見しなかった。九十六パーセントの確率で伏兵は存在しないと判断する》
「わかった。では偵察任務は終了。民間人を保護したら、避難場所まで誘導したあと帰還しろ」
《——小型の有翼魔族に襲われている、母親とおぼしき人物を発見。これより救出活動を開始する》
ジオラルドの報告に、ローディが最速で反応する。
「そこから最短距離の避難場所を送信したよっ。頼むねっ」
《了解》
ジオラルドとの通信が終わり、気づけば、銃撃音のほとんどがやんでいた。
リュシエールへと流れ込んでくる、空間に広がる動揺。戸惑い。それがなくとも、数人の空を指差す身振りで、前線にも赤子がさらわれてきたことが伝わったのだとわかる。
同時に、下級魔族たちにも知れ渡ったらしい。人間が空を飛べないのをいいことに、軍人たちへのちょっかいが回数と質を増した。赤子という人質がいる意味を理解しているのだ。我慢しきれず撃った銃弾が空振り、消えていくのを嘲笑って、耳障りな声を上げている。
「ローディ」
傍らへと呼びかけ、リュシエールは邪悪な者を視線で指した。
「ここからあの魔族どもの羽を撃ち落とすことはできるか?」
「できます。でも、頑張っても二匹……三匹かな。あいつらの最高飛行速度にもよりますけど、それが限界だと思います。っていうか、一匹を撃墜したところで赤ちゃんに何をされるかわからないでしょ? できれば確実に赤ちゃんを手放す状況を狙いたいです」
「そうか……。どうにかして赤子にまとわりついている奴を絞りたいな……」
「リュウさんかグレイさんが、魔法で赤ちゃんを助けるのは無理なんですか? たとえば赤ちゃんだけをこっちに転移させるとか」
なるほど。聡明なローディがこの問いを口にするくらいだ。人間にとって魔法はまだまだ未知の分野なのだろう。研究と理解が進んでくれることを願いながらリュシエールは、肩をすくめてみせた。
「できなくはないが、赤子の負担を考えると、できれば最後の手段にしたい」
泣きじゃくる幼子を弄ぶ魔族に対する怒りが、腹の底で沸騰しつつある。それを深い呼吸でなだめながら、リュシエールは部下へと情報を提供する。
「転移魔法は、転移対象者の許可を得ていないと負荷がかかる。無理矢理転移させるのは、強引に腕を引っ張って放り投げるようなものなんだ」
「う、う〜ん……」
「それに低級魔族とはいえ、いちおうは魔力持ちだ。こちらが赤子を転移させようとすれば気づいて、奪われまいと抵抗してくるだろう。私へ攻撃を試みるならば良いが、もしも赤子を掴む手に力を入れたら……。無垢な子を傷だらけにしてしまうのは、あまりに痛ましい」
「じゃあ攻撃魔法で魔物たちを一気にずばっと、は?」
言いたいことはわかる。気持ちもわかる。だが、
「攻撃系魔法はどれもいまいちなのが、グレイの唯一の難点だからなぁ」
魔法も自分たちも万能ではない。おまけに苦い自覚があるからつらい。リュシエールはぐぬりと眉を寄せた。
「私は私で、大雑把になりがちだから……。敵をまとめて蹴散らすのは得意だが、捕まっている者にだけ害を与えないようにするとなるとなぁ……。大変だなぁ……」
すると、横から笑みを漏らす音が。
「リュシエールはことさら、手加減するのが下手ですしね」
恋人のいじめっ子な性質がつらい。
「やかましいっ。知っているっ。今までに何回、天使長様に説教されたと思っているんだっ。あの方だって似たようなものなのに……あぁもうっ!」
叫んで苛立ちを少し晴らして、リュシエールは息を整えた。
(——……まずいな)
整えるつもりが、整いきらない。冷静になるのが難しくなってきた。この場に広く渦巻く、苛立ちと、焦りと、嘆きと、恐怖が、重く痛い。空を飛び交う悪意どもが腹立たしい。力ずくで自身を抑えなければ、心が荒れ狂うままに魔力を吐き出してしまいそうだ。
暴走の気配を察したのだろう。グレイがそっと寄り添いにきた。心配してくれる心のぬくもりを感じながらもう一度、より慎重に深呼吸をしてリュシエールは、大地をしっかりと踏みしめ直す。
「グレイの攻撃系魔法は制御面でレベルが低い。私は威力が強大すぎる。どちらも精密さには欠けるんだ。無駄に被害を拡大しないためにも、戦力として計算しないでくれ」
「——そうやってまた言い訳ばかりをして、ろくに貢献もせず手柄を持って帰る気か?」
唐突に背後から投げつけられたのは、安っぽい悪意。
哀れみと苛立ちを感じながら振り返れば、そこにいたのは数人の部下を引き連れた指揮官だった。
「これだからお荷物部隊は困る。局長も局長だ。ここは我々だけで充分だと——」
「ダナル中佐」
名を呼び、声を遮り、睨みやり、聞く価値のない言葉を止めさせる。
「無駄口を叩いていないで本題を話せ」
男は不快げに口元を震わせたが、一度だけだった。すぐに余裕を繕い、続ける。
「民間人の子供が魔族に捕縛されていると報告が入った。早急に救出せねばならん。だがスライムの動きを警戒する必要があるため、人員を割くわけにはいかん。そこでだ。そちらの狙撃手を貸したまえ。子供を捕まえている親玉を撃ち落と——」
「断る」
動物を追い払うように手をぴっぴと振って拒絶の意志を明確に示してやると、相手もわかりやすく顔色を変えた。しかし相手にせずリュシエールは、男から目を背ける。
「心配せずとも赤子は私たちが助け出す。だからさっさとスライムを排除しろ。……ローディ。ジオは今どの辺りだ?」
するとローディは、一瞬だけ中佐の表情を観察したあとで答えた。
「もうすぐこっちに到着します」
「ではジオの狙撃銃も準備してくれ。どの弾丸を使うかはお前に任せる」
「はい」
「私が奴らに障壁を張って行動を妨害する。ローディとジオが撃ち落としていく混乱の隙に、グレイ、赤子をかっさらってこい」
「わかりました」
恋人が見せた優雅な一礼の美しさで目が癒やされたその瞬間、
「貴様っ! 指揮官は私だぞっ! 勝手な行動をするなっ!」
耳を穢された気分だ。
いらり、と熱が沸く。
「……この状況で……この私に向かって、よくも傲慢な口がきけたものだな、人間」
無抵抗な幼子が、親の手から引き離され、危険にさらされ、助けを呼んでいるのに。魔に捕らえられてから何分も経過しているというのに。この男は、己の陳腐なプライドを優先することをやめない。なんと無能なことか。愚かなことか。低俗なことか。
「リュシエール」
グレイの大きな手が、肩を抱いてきた。
「落ち着いて。魔力が溢れてます」
断りなく鎮静魔法をかけ始めたことからも、自分の精神状態がよろしくないほうへと向かっているのは明白だ。自覚もある。だが空気のうねりが強すぎる。様々な感情が渦巻いて大きな竜巻になりつつあるこの場では、リュシエールの理性などちっぽけだ。抵抗しきれない。
苛立ちで腹の底がぐらぐらと煮える。
心が地の底へ落ちていく。
世界が醜く眼に映る——
「あっ、馬鹿……ッ!」
突如ローディが悲鳴を上げた。狙撃銃を構える。が、引き金に指を置いた直後、前線——違う、上空だ。遠く数発の銃声のあとで絶叫が響いた。
爆発したのは強烈な恐怖の感情。
赤子だ。
赤子が血を流している。
痛みに身悶え、泣いている。母を呼んで泣いている。
そして下級魔族たちが目に見えて苛立ちだした。暴れているのは自身とほとんど変わらない大きさの赤子だ。バランスが保てないのだろう。何度も墜落しそうになり、その怒りを赤子に向かって耳障りな鳴き声でわめき散らしている。さらに、周囲を飛んでいる仲間たちが、軍人たちへ明確な攻撃意志を持って爪と牙を振るいだした。
それらを見てローディが、撃てなかった銃口を下げるなり髪を乱して振り返った。
「中佐さん!」
男を睨み、中空を鋭く指差す。
「さっきの射線! 魔物を撃つとき赤ちゃんに当ててもいいって指示を出したでしょっ!」
勢いに押されたか、中佐の表情から焦りが噴き出した。
「あ、当ててもいいとは言っとらん! ただあんなに小さい的だっ。不慮の事故はありえるからと——」
「そーゆー台詞は赤ちゃんに当たる確率がいちばん低いところに狙撃班を配置してから言ってくださいよねっ! ていうか小さい的に当てるのが狙撃手の仕事だってのっ! できないなら銃を持つなっ! 持たせるなッ! ——あっ、ジオおかえりっ。早速で悪いけど、この辺の人たちが邪魔してきそうになったら止めてくれるっ? ムカついたから作戦本部の通信網をジャックしてやるっ。僕が狙撃班の配置をきゃえれられるらるっ?」
苛立つに任せてまくし立てるローディの舌が唐突に回らなくなり、続けざまに大きく身震いをした。突如見知らぬ土地に放り出されたかのように周りを見やる。
「な……なんかっ、きゅうに、さ、さささむくなってませんっ?」
自身を抱きしめて背中を丸め、歯をかたかたと鳴らしている彼に、グレイが冷静に——いや、開き直って頷いた。
「でしょうね」
次いで、ジオラルドが生真面目に頷く。
「現在の外気温、二度。……マイナス一度。マイナス三度。なおも低下中」
「いつの間に真冬の北国に来ちゃったのッ!?」
ローディの悲鳴のようなツッコミを横目に、リュシエールはグレイの手を外して前へと進み出た。
音がする。
キリリキリリと。パキリパキリと。
リュシエールの魔力を受けた大地が音を奏で始める。
肌感覚のみならず、物理的な音として耳に響く。
白く。青く。
細かな氷が陽光を含み、反射しながら、急速に大地と空気を染めていく。
地上の変化に——否、リュシエールという魂の存在にようやく気づいた下級魔族が声を上げた。動揺と恐怖。そして混乱。だが同情はない。容赦もない。この自分を怒らせた、その事実だけが真実だ。
仲間たちの先頭で足を止め、大地に立つ。敵とはまだ離れているが、この程度の距離、天使にとっては無に等しい。
「魔族どもよ。私の声が、聞こえるな?」
まっすぐに魔を睨み据えて宣する、最後通告。
「これ以上の傷をひとつたりともつけることなく、その赤子を返せ。そしてこの場から失せろ。即刻だ。そうすれば、今ならば目こぼしをしてやろう」
小型魔族たちが互いを窺い合い、どうするべきか、どう反応したら得かと探り合っていたのは、わずかな時間だ。醜く歪め吊り上げた口角は悪意の発露。間髪入れず、一斉に飛びかい始めた。
その動きは不規則、身勝手に見えて、はっきりとした意思が読み取れる。軍人たちを嘲笑いながら近づいては離れるのを繰り返すのは牽制目的だ。そうして仲間たちが動く壁となった向こうで、赤子を抱えた三匹が離れていく。
逃げる——にしては様子がおかしい。
こちらから仕掛けるべきか? だがローディの狙撃ではほかの魔族が邪魔になる。自分だとこの距離では魔法攻撃だ。赤子に当てず命中させられるだろうか?
その逡巡が失策。
赤子が、落ちた。
魔族が放り投げたのだ。
人間たちの悲鳴と指示の声が上がる中、動いたのは巨大スライム。表皮が蠢き、うねるように膨らむ。瞬間、伏せたボウル型の体型が伸びた。腕のように。鞭のように。極太の蔦のように。そして巨体に見合わぬ素早さで落ちていく赤子の体を絡め取り、体内へと飲み込んだのだった。
幼子の悲痛な泣き声が消えた。
前線から軍人たちの絶望が、目に見えない波となって打ち寄せてくる。
そんな地上を見下ろし、小型魔族たちがけたたましく嗤っている。落胆する様を面白がって嗤っている。
──ぴきっ。
と、どこかで音がした。気がする。あぁ、もうどうでもいい。腹立たしい。腹立たしいっ。腹立たしいっ!
「……本当に、この私に、よくも刃向かおうなどと思えるものだな……。ふ、ふふふ……愚か者どもめ……ッ」
リュシエールは右手を振るった。魔力の一端を解放し、身の内に封じている天使の力、その源に集中し、喚ぶ。
現れたのは杖だ。己の身長と変わらない大きな杖。繊細な彫刻と銀の飾りで彩られた、華麗な木製の杖だ。それをしっかと握り、魔力を込める。杖を媒体にした魔力は、持たないときとは比べものにならないほど精緻な構成を描き出す。
「我が名はリュシエール! 我が魂を疑うなかれ! 我が命に背くなかれ!」
放つは、この世界に存在する者すべてに逆らうことを許さない、天上の力。
「厳酷なる聖氷よ! 不滅の弾雨となりて、矮小なる背徳者を終わりなき罰へと堕とせ!」
中空に現れたのは十数本の矢。否、粗く削った氷のそれは、長さ、太さ、ともに大きく、もはや槍だ。空の青を映した美しい氷槍たちが一斉に閃いたその瞬間、弾かれたように飛び出した。
勝負は一瞬。
魔族のほとんどは一撃で胴体を刺し貫かれ、槍の中央に捕らえられた。かろうじて避けることに成功した者も、即座に進路を変えて襲いかかった槍に屈し、悲鳴を上げる。
「やった!」
魔族を串刺しにしたまま落ち、道に突き立った槍たちを見て、軍人たちが歓喜するのが伝わってきた。
甘い。
すばらしく甘い。
この自分が、天使の力を振るっておいて、この程度で終わるわけがない。終わらせてやるわけがない。
「——ッ!」
地を伝い、走ったリュシエールの魔力を受け、槍が破裂した。放射状に。無数の長い棘が、魔を体内からも刺し貫く。
激痛に上げる魔族の絶叫はいつまで経っても止まない。当然だ。あの氷の矢は、傷つけては癒やし、また傷つけ、何度も何度も何度も何度も罪人を痛めつける地獄の氷だ。捕らえられたが最後、罪が消えるそのときまで責め苦を続けるのだから。
まずはひとつ、愚者を断罪したことでほんのわずかに満足したリュシエールは、
「あのぅ、リュウさん……」
話しかけられて振り返ると、後ろでローディが笑顔のまま頬を強張らせていた。
「魔物たち、めっちゃくちゃ串刺し状態ですけど、一匹も死んでない、ですよ、ね……?」
「当然だろう。死んだら苦痛から解放されてしまうではないか」
あっ、このリュウさんはヤバい。
と声ならざる声を上げてぴったりと口を閉じたローディに「私のどこがヤバいというんだ?」とはあえて問いたださず、道の脇に停めてある高機動車を指差してみせる。
「そんなことよりも、車に積んである毛布とカイロをすべて出して、体に巻き付けておけ。これからもっと寒くなる」
「え」
「リュシエール」
今度はグレイが、すでにほとんどあきらめた色の声をかけてきた。
「あなたが出る気ですか?」
「一刻も早く赤子を助け出さなければならないんだ。ほかに選択肢がないだろう?」
「…………、怒られますよ。エイムズさんはもちろんですが、地天使長殿にも」
その名を出されるとつらい。が、微笑みは自然と浮かんだ。
「天使長様なら、きっとわかってくださる……。エイムズの説教も、幼子を救えるなら甘んじて受けるさ」
グレイの顔にも、笑みが。
「わかりました。俺も一緒にお説教を受けましょう」
「すまんな。……結界を頼む。この大通りの中だけで抑えろ」
「また無茶なことを……」
「お前ならばできるだろう? 何せ、最悪の相性だ」
「最高と言ってくださいよ」
一度だけ頬を膨らませ、しかしすぐに不敵な微笑に戻り、歩み寄ってきた。
「あなたの願いなら、叶えないわけにはいきませんね」
跪いてリュシエールの左手を取り、甲に優しい口づけを捧げる。
「どうぞ存分に。俺の天使」
愛を込めて微笑み返し、そうして視線を周囲へ向けた。
中佐たちの表情は困惑と苛立ちのふたつ。どちらも、好意的とも従順とも言えない顔だ。信用できない。安心して離れられない。これでは出撃できない。自分が出るには、何よりこの場の安全が必須条件なのだ。でなければ町がひとつ——最悪、町の周辺数キロまで滅びることになる。
リュシエールは、ローディを毛布でグルグル巻きにしているジオラルドを見やった。
「ジオ。司令を出す」
即座に向けられた赤の目は、信頼に足る実直な色。
「グレイを護れ。こいつに触れることを許すな。ベッドに数日縛り付けられる程度の怪我までならば与えてもいい。私が許可する」
「了解」
即時即答。
その頼もしさにひとつ笑い、リュシエールは耳からイヤフォン型通信機を外した。ローディに放り投げて、預ける。
「では、行ってくる」
再び仲間たちを背に、立った。




