最初の一歩-10
ヴィクスとサニーが帰り、一人に戻った病室で、ローディは深々と息をつく。
静かだ。サニーの明るくて大きな声が消えた直後だから、なおさらだ。
視線を上げ、天井を見やる。
真っ白な天井は、室内照明と、しきり用のカーテンレール以外は何もない。自室や研究室と比べても、そこにさほどの差はないはずである。だが、やはり味気ない。つまらない。病室全体もそうだ。ここには物足りなさしか存在しない。
なぜか。
答えならばもう見つかっている。
ここには話し相手がいない。
ジオラルドがいない。
目を覚ましてから、たったの一週間である。しかも頻繁に医師や看護士、見舞い客が来る環境だ。研究室も自室も尋ねてくる人などほとんどいないことを思えば、明らかに人と接している回数は多い。それなのに慣れてしまった気配がないことだけが、ローディに強い違和感と不安定感を与えてくる。
(……うん、つまんないや)
サニーの言葉に貫かれて、やっとわかった。
ジオラルドのためを思うならば、暴走の危険を少しでもなくすために離れるべきだ。しかし彼と離れたら、このつまらない状態を延々と続けなければならなくなる。学生時代は大半の時間を独りで過ごすのが当たり前だったのに、今は想像しただけで不快で、落ち着かない。
(ジオは、どうなんだろう)
彼も、ローディといる時間を有意義に思ってくれていたのだろうか。離れた場所にいることに違和感はあるのだろうか。今、何を思いながら、何を感じながら、廊下に立っているのだろうか。
(――……知りたいな)
初めて、アンドロイドの『意志』を、知りたくなった。
(ちょっとだけなら、大丈夫かな)
少しならば、AIを暴走させたりしないだろうか。少しだけならば、タブーを犯す行為とはならないだろうか。
二の腕に、寒気が走る。
怖い。
ジオラルドが暴走してしまう可能性が怖い。
それでも。
(ここで逃げちゃ、駄目なんだよね)
ヴィクスが言いたかったのはそういうことなのだと、今はわかる。
(……うん。逃げるなんて、やっぱり僕らしくないや)
見て見ぬ振りも、なかったことにするのも、一時的に気持ちが楽なだけで何も進まない。何も変わらない。それどころかいずれ自分の望みも願いも周囲に流され、押し潰され、消されてしまう。
逃亡とは放棄行為だ。自分の意見を発する権利を放棄することだ。『常識』という名の偏見を持つ人々に向かって「ここに意志を持って存在しているのだ」と主張する権利を自ら手放すのは、あまりに愚かだ。
そう。逃げてはならない。悲劇の主人公になってはならない。すべての圧力、恐怖、不安に、自信を持って立ち向かわなければならない。今こそ左利きとして生きてきた中で悟り、掴み取った意志を、実行に移すべきときだ。
ローディは、目蓋を下ろして、深呼吸を。そうして、目を開けた。廊下に続く扉を見やる。
「ジオ」
大きな声を出さなくとも、きっと届く。知っている。
「話があるんだ。入ってきてよ」
静寂は、わずか。
ドアが開き、ダークネイビーブルーの戦闘服を来たアンドロイドが現れた。一週間ぶりに姿を見せた彼は、あのときとまったく変わらない無表情で、左袖を揺らしながら入ってきた。
閉めた扉の前で止まったジオラルドを手招きする。それを許可と取って近寄り、椅子に腰掛けた彼を見つめ、ローディは笑みを浮かべた。不安のせいか、恐怖のせいか、どうしても頬の端が引きつる。それでも笑みは意地でも崩さない。
「ひさしぶりだね」
頷いたジオラルドは、しばしローディの顔を窺ったあとでもう一度頷いた。
「心拍数がやや高く、呼吸にわずかな乱れが見られる。しかし顔色は良く、体温も正常値のようだ。問題ないと判断する」
「きみはお医者さんかいッ?」
思わずツッコミを入れて――気が抜けた。先ほどまであった緊張と躊躇は、いったい何だったのだろう。吹くように息を吐いて、枕にどっぷりともたれかかる。
「いいや、もう。理屈っぽいようで何が何だかよくわかんない感じが、ジオらしくて安心するよ」
「そうか」
会話が途切れた。部屋に静寂が満ちる。沈黙がもたらす、ゆったりとした時間の流れが心地いい。頑張って話を続けなくとも落ち着いていられる貴重な相手だが、今はこの空気に甘えてはいけない。
ローディは逸れてしまった視線をジオラルドに戻した。
「ねぇ、ジオ」
彼の赤い目に、感情の揺れは見つからない。機械的な正確さでローディを捉えている。
「きみは……」
――どうしてOWBstに入ることにしたの?
口から出かけた質問は、寸前でかき消えた。
この問いでは駄目だ。返る答えは『リュシエールに入るよう言われたから』に決まっている。
――僕とコンビを組んでいる理由は? 意義は?
違う。自分が訊きたいことは、そんなことではない。ジオラルドから理屈ではない言葉を引き出したいのだ。情報ではなく事実でもなく、彼個人の思いを聞きたいのだ。
考えて、
悩んで、
そして、ローディは決意した。胸に浮かんだ言葉を声に乗せる。
「ジオ。……きみは今、幸せかい?」
ジオラルドが瞬きをした。AIがフル回転で情報処理したときの癖だ。
「幸せの意味は『運が良いこと』であると辞書に記載されている。その観点から考えると、答えは是だ。リュウと出逢わなければ、自分は廃棄処分され、ここに存在することはありえなかった。自分の能力をOWBstという組織で活用しようと思われなかった場合も結果は同じだろう。そしてローディと出逢い、指導を受ける立場にならなければ、自分のAIは現在と比べ遙かに未熟であったと推測できる。自分の現状は限りなく多くのプラスに働く運による結果であることは明白だ。よって、自分は幸せであると判断する」
「そ、そぉ」
考えて、悩んで、勇気を出して訊いてはみたが、求めていた回答とは微妙に違うものであるような気がするのはなぜだろう。質問の仕方が悪かったのだろうか。それともジオラルドに求めること自体が時期尚早だったのだろうか。ローディは眉間に力を入れて頭を働かせる。
と、
「自分も、ローディに話しておきたい事案がある」
ジオラルドが自分から話題を発展させたのは、出逢ってから何回目だろうか。
「報告しておく。自分はこの数ヶ月間、答えの出ない問題を抱えていた。人間の言う悩みに近いものだと認識している」
息が詰まった。いつの間にか逸れていた視線が、吸い寄せられるようにジオラルドへと向く。
「自分は人工物だ。思考は常に数値、記号化されたデータからアウトプットされる。そこに人間的感情は含まれないはずだ。だが、そのありえないことが起きている。つまり自分のAIはどこかに異常があるのだと推察した」
アンドロイドの視線は、常にまっすぐだ。難なく目が合う。
「ローディが拉致された頃だろう。ジュネ課長に、何度も処理を試みている問題について説明した上で、自分のAIは正常に動作しているのだろうかと質問した。結果、叱責を受けた。人工物の領分を正しく認識し、わきまえるようにとのことだ。そしてそれとともに、ローディには不可能で、機械である自分のみに可能な、最大の特権を活用せよとのアドバイスをいただいた」
ジオラルドが姿勢を正した。顔だけをローディに向けるのではなく、体ごと正面に据えるように。
「聞いたときは理解できなかった。だが、今回の事件によってひとつの答えが見つかったと思う」
どことなく曖昧な言葉運びだ。しかし彼の口調と態度には、決然とした意志が見えた。
「ローディが昏睡状態にあるとき、『ジオラルド』の代わりはどこにもいないのだから死ぬなとリュウに言われた。自ら死を選ぶことは罪のひとつだと。仮に罪ではなくとも、OWBstの関係者全員が悲しむからやめてくれと願われた」
まっすぐにローディを見て、はっきりと言い放つ。
「リュウの話は自分がまったく想定していないものだった。だが、理解できた。自分は、OWBstの皆に必要とされているのだな」
そうして、ひとつ強く頷いた。
「自分は、自分のAIが起こしているかもしれない不具合についてはもう考えない。OWBstに登録されている限り、自分は有効活用されているだのと断定することに決めた」
それは盲目的で、短絡的で、AIの成長をストップさせるという決断に聞こえる。しかし、
「ローディを始めとして、自分に搭載された機能を最高レベルで活かせる者ばかりだ。ゆえに、自分は悩まず、迷わず、考え得る最大限の力を出す。行動に対する善悪の判断はすべて仲間たちに任せる。問題ない」
これは信頼という感情的土台を持つことができなければ、けっして出せない結論だ。
面白い。あぁ、やはりジオラルドは興味深く、好奇心をかき立ててくれるアンドロイドだ。
「ジオ」
何の苦労もなく頬が緩んでいく。嬉しさと楽しさで、口が軽い。
「現状に満足して感謝してることを、幸せって言うんだよ」
「理解した。発言を訂正、追加する。人に必要とされ、使われることは、機械にとって絶対的な喜びであり望みだ。それが叶っている自分は幸せなのだと断言する」
「そっか」
――人工知能の性能が脳の領域に踏み込むこと、それを望むことは、紛れもなく危険思考だ。技術者のタブーである。だから自分は、禁忌に触れてしまうことをずっと恐れてきた。だが、本当にそうなのだろうか? 頭にこびりついて離れないこの暗い感情は、本当にタブーへの恐怖なのだろうか?
何かが違う気がする。でなければ、今まさに感じている喜びの説明がつかない。幸福を理解したアンドロイドを面白いなどと思うはずがない。
では、自分が本当に恐れているものは何だ?
本当に怖いのは、何だ?
「ローディ、自分も質問していいだろうか」
「……何だい?」
「ローディは幸せか?」
即答はしない。ローディは顔の向きを正面へ戻した。そして中空を見上げ、考える。
研究するのに充分な時間、施設、機材。こんな恵まれた場所へと引き抜いてくれたエイムズ。理解ある優しい上司であるリュシエール。扱いづらいが頼もしいグレイ。優れた先輩研究者であるヴィクスとジュネ。サニーとアスカも、まだ知り合って日は浅いが好きな人たちだ。そして、ジオラルド。少しうっとうしくて、しかし傍にいないとつまらない。生真面目で融通が利かず、そのくせに飲み込みが早くて、いつの間にやら世話焼きになったアンドロイドと過ごす日々は確かに、生きてきた中で最も充実している。
やはり考えるまでもない。自分は恵まれている。不満を持つほうがありえない。
「うん」
叶うなら、ジオラルドと今まで通りに話をしたい。いろいろなことを教えてあげたい。手伝いをしてもらい、手助けをしてあげたい。
「幸せだよ」
ジオラルドが暴走しなければいい。この時間が少しでも長く続けばいい。彼のいない生活は、きっと味気なくてつまらないから。
(……。あぁ、なんだ。簡単なことじゃないか)
怖かったのは、ジオラルドが暴走すること、そのものではない。タブーに触れることでもない。単に、暴走したアンドロイドは必ず処分されてしまうからだ。ジオラルドと一緒にいられなくなることが――孤独でつまらない生活に引きずり戻されることが、怖かったのか。
気づいてしまえば、あまりの単純さに笑える。
(僕、深刻に考えすぎてたみたいだ)
ローディは胸の奥で詰まっていた物を吐くように、強く息をついた。その視界の端で、アンドロイドが首を傾げるのが見える。
「何か問題が見つかったのだろうか?」
「ううん、逆。答えが見つかったんだ。……ほんと、僕は幸せ者だったんだねぇ。なんでこんな簡単なことがわからなかったんだろう。数秒前までの自分を殴ってやりたいよ」
「そうか」
何の感情も感じ取れない声で、ジオラルドが頷く。
「ならば現状が保持、強化できるよう、バディとしてサポートする」
いまさら気づくことというものは、不思議と芋の蔓のように繋がっているものらしい。
「あぁ、そっか」
アスカに『友達』と言われてしっくりこなかった理由が、やっとわかった。もっとふさわしい言葉が、自分たちにはあるではないか。
「そうだよね。うん。友達より、こっちがいいや」
ジオラルドが瞬きをする。
「一連の発言を理解できない。説明を頼む」
「今のは独り言。気にしなくていいよ」
半強制的に納得させるとローディは、ずいぶん長い間避け続けていた気がするジオラルドに顔を向けた。
笑みではなく、ふくれ面で。
「そんなことより、聞いてよー。みんなしてじっとしてろ、テレビ番組でも見てろって言って遊び道具取り上げるから、何もすることがないんだけどっ。もぅすっごく暇だよっ。というわけで、ジオ。マーガレットをこっそり持ってきてくれない?」
ジオラルドがわずかに止まり、そしてローディの腕を見下ろしてきた。
「右手はもう動かせるのか?」
ぎくり。
「……無理だねぇ」
おそるおそる正直に言ったら、案の定返ってきたのは力強い首肯だ。
「ならば却下する」
「でも左手は動くんだよ? 点滴を外してもらえたから、もう普通に使えるしさっ」
「左手のみを使って作業するつもりでも、ほぼ確実にローディは無意識のうちに右手を動かそうとするはずだ。さらに付け加えるならば、興奮するほど頭から足まで頻繁に動かす癖がある。安静にしていなければならない状態で研究に没頭したならば、致命傷となる可能性が相当高いと推測する。よって、厳しく禁止していきたい」
「なんかヒドイ!」
「自覚がないのだろうか?」
「あるからツライ!」
「ならば看護士の指示に従い、体力回復に努めるべきだ。おとなしくしていろ。今後は自分が徹底して監視するからそのつもりでいてほしい」
「うわーんっ、ジオのケチーっ!」
「ケチなのではない。ローディのバディとしての義務だ」
「うぅぅ……。ほんと、優秀すぎて涙が出るよ」
「光栄だ」
「褒めてないっての」
戻ってきた日常は、思い通りに行かないことが多くて、少し不条理で、ほんの少し不公平で、そしてとても楽しいものだった。
失いたくない。
守りたい。
だから――――
ローディは、覚悟を決めた。




