最初の一歩-8
――あれは天井か。しかし知らない天井だ。
クリーム色のつるりとした天井は、自宅のそれではない。実家のとも違う。もちろん研究室もだ。掛かっているカーテンの色。その位置。どれも見覚えがない。いったいどこで寝落ちしてしまったのだろうか。
それにしても、体が重い。指先ひとつ動かしたくない。自然と目蓋が落ちてくる。眠い。考えるのが面倒くさい。あぁ、いっそのこともう一度寝てしまおうか。
だが、周囲がうるさいのが気になる。いったい何事が起きたというのだろう。ここがどこで、今が何時なのかわからないが、もう少し落ち着いて行動すればいいのに。
ローディは息をつき、そして、奇妙な息苦しさを覚えた。呼吸がしにくい。しかも顔を締め付けられている感覚もする。
全身くまなくだるくて重いが、左手なら動かすことができそうだ。
なんとか移動させ、口元を触る。そこにあったのは鼻と口を覆う半円状の何かだった。締め付けられているのはこれを固定するためなのだろう。ローディは柔らかいチューブらしきものが繋がっているそれを、深い呼吸で疲労をやり過ごしながら持ち上げる。
と、
「医師の許可が出るまで、酸素マスクはつけているべきだ」
右側から、手と声で止められた。
(――――……、手?)
ローディの左手を掴んでマスクから離し、体の横に誘導するのは、五本に分かれた金属棒とコードの固まりである。滑らかに動く関節を持つそれは、人間の右手に酷似していた。
金属の手は、ダークネイビーブルーの長袖服を着ている。その色をなぞるように、指から手首、肘、腕、と視線でたどった先にいたのは、黒髪と赤眼を持つ男性。ローディの腕を離して体勢を戻した彼が、無表情にこちらを見下ろしてくる。
「ローディの意識回復を確認した看護士が担当医を呼びにいった。まもなく到着するはずだ」
なぜか、落ち着かない。怖い。なぜだ。
「……ジオ……?」
思わず名を呼んだローディをいぶかしんだか、ジオラルドがわずかに口を止め、向き直る。
「他にも問題点があるのだろうか。ローディの身体損傷レベルは深刻だ。早期治療のために、不具合があるならば早めに自己申告することを提案する」
彼の、左袖が、肩からぺらりと揺れていた。
「あ……っ」
埃まみれの床に散った金属部品。
弾けてちぎれて壊れていった左腕。
そして、魔法の刃で真っ二つにされた体。
思い出した。全部思い出した。誘拐されたことも、敵の存在も、足を切り飛ばされて階段から落ち、腕を折り、死にかけたことも、そしてジオラルドが助けに来てくれたことも彼がローディにしたことも全部!
「なん、でっ」
声がかすれる。うまく出せない。それが悔しさと腹立たしさを倍増させた。
呑気に寝ていられない。動かずにはいられない。ジオラルドに詰め寄らずにはいられない。思うように動かない体を、意地になって引きずり、体勢を変える。体中から伸びているチューブの先で、たくさんの医療器具が音を立てた。
「なんでだよ……ねぇ、なんでなんだよっ」
「ローディ、動くな。傷が悪化する」
押し戻そうとしてくるジオラルドの片腕を、震えが止まらない手で払いのけてローディは、酸素マスクを剥ぎ取った。人差し指についている大型クリップのようなものがひどく邪魔だ。噛んで外し、マスクとともに投げ捨ててジオラルドの服を掴む。
ベッド脇の装置が出すアラート音がうるさい。
「ねぇ、なんで?」
力が入らない。握力も腕力もだ。悔しい。
「なんで、盾になるなんてこと、したんだよぉ……なんでだよぉッ!」
入り口の扉が開き、何人もの医療スタッフが駆け込んできた。口々に動くなと言いながら駆け寄り、ローディの体を両側から押さえつけてくる。邪魔だ。心底邪魔だ。ローディは懸命に戦闘服を掴んで看護士たちに抗いながら、ジオラルドを睨む。
「自分の体、盾にしてさぁっ。ぼろぼろになってさぁっ。そんなことして、僕が喜ぶとでも、思ったのっ?」
視界がかすんで歪みだす。頬が濡れて生ぬるい。
「あんなふうにかばわれたって、嬉しく、ないんだよっ。僕のせいで、きみが犠牲になるなんて、悔しいし痛いに、決まってるじゃないかっ! 痛いんだよ、馬鹿ぁぁぁっ!」
「理解できない」
まるで、ナイフで切り捨てるかのようだ。
「自分の損傷とローディの身体ダメージは関係がない。自分が損傷したとしてもローディの痛覚が刺激されることは――」
「うるさいっ! 痛いんだよっ、わかれッ!」
「了解」
彼の返事が心に落ちたのは、数秒後。
――受け入れた。
ジオが。
ただの感情論でしかない意見を。
アンドロイドが、承認した。
「…………」
体感温度が、急降下する。これは錯覚だ。それでもローディには、冷水を頭からかぶせられたのにも似た衝撃に違いなかった。
周囲の力に負け、ジオラルドから手が離れる。掴むものを失った左手は、あっけなくベッドに落ちた。針がずれたのだろう。点滴とおぼしきチューブを固定しているテープに血がにじんでいる。――痛い。
「……っ」
ぼたりと、寝具に大きな染みができた。染みはじわりじわりと浸食し、広がっていく。
(僕、馬鹿だ)
ずっと怖かった。人の手で作られた知能が自我を持ち、人の手に負えなくなる日が来るのではないかと。社会に害を為す存在になってしまうのではないかと。処分しなければならなくなるのではないかと。ジオラルドが、本当に暴走アンドロイドになってしまうのではないかと。ずっと、怖かった。だが、
(ジオに人間を理解することを求めたのは、僕じゃないか。感情を教えたのは、僕じゃないか……)
アスカに言われた言葉が、いまさらのしかかってくる。
『あんなふうにアンドロイドと仲良くお話される方を、今まで見たことがありませんでしたから』
――悪いのは、ジオラルドではない。自分のほうだ。
看護士たちにベッドの中へ押し戻されながら、ローディは目をきつく閉じた。震える唇を噛む。
(もしジオが暴走したら、僕のせいだ。ジオが壊れてしまったら、それは全部、僕が……っ)
涙が止まらない。
悔しくて、恐ろしくて、切なくて、止まらない。
「ごめん、ジオ」
アンドロイドの目を見て話す勇気は、ない。
「しばらく、きみの顔、見たくない」
珍しく間が開いた返事は、
「了解」
いつもと同じ落ち着いた声音で残して、部屋から出ていった。




