最初の一歩-6
体が痛い。しかしさほど不快なものではない。どちらかというと慣れた痛みである。自身に対する呆れとあきらめが真っ先に出てくるようなそれだ。つまりは、また作業の途中で耐えきれず床で寝てしまったらしい。
一度はそう考えたものの、ローディは寝ぼけた頭でもわかる違和感に気づき、はて、と首をひねった。
固さを感じる体の部位に、冷気がじわじわと染み込んでくる。コンピュータ機器の廃熱によって冬場でも暖かい自室にしては変だ。機器類を何も動かさずに寝落ちするまで作業するなど、できるわけがないのに。
おかしい。
ローディは今度こそしっかりと疑問を認識した。と同時に思考がクリアになっていく。
そうだ。ここは自室ではない。研究室でもない。駅前であのメイドに出逢い、襲われ、意識を失ったのだ。
「わぁっ!?」
思わず飛び起きて――飛び起きることができて、手も足も拘束されていないと気づいた。遅れて周囲の暗さに意識が回る。
窓から入ってくる夜の弱い光によって、ぼんやりと景色が浮かび上がっている。屋内だ。しかし家具の類は何もない。平坦な白い壁には飾り気もない。どこかの事務所か町工場の跡地といったところだろう。頬に残るざらりとした感触からして、長い間放置されていた場所のようだ。
どこかでかいだ記憶のある、湿度が高く密度の濃い空気。窓の外、雑居ビルが並んでいる向こうからかすかに聞こえてくるのは、おそらく大型車の走行音だ。そして、遠くで響く太い音。
ここはどこなのか。
あれからどれくらいの時間が経過したのか。
なぜ自分が襲われたのか。
立て続けに湧いてくる疑問は重要だが、それ以上に苛立ちのほうが優勢だ。アスカとの楽しい会話を邪魔するだけでは飽き足らず、拉致しておきながらいっさいの拘束がないとは。侮り、馬鹿にするにもほどがある。
ローディは中途半端な体勢になっている体を起こし直した。転がされていた部屋の中央で、埃だらけの床に腰を落ち着け、四方を取り囲んでいる人影を順に睨みやる。
「拉致して監禁して四人がかりで監視? ずいぶんな歓迎ぶりだねぇ」
ローディは最後に、体の正面を部屋の奥へと向けた。距離にして四メートル弱だろうか。事務所然とした空間には不似合いなメイド姿の女性を見据える。
「言っとくけど、僕の実家はごく普通の一般家庭だからね。身代金なんてたいした額は出ないよ。そりゃあ交渉相手が平和連盟本部なら、どうか知らないけどさ」
「なぜわたしが人間ごときから金銭を要求しなければならないのですか」
相変わらず平坦な声だ。
ローディは肩をすくめ、薄く笑う。
「だろうねー。言ってみただけー」
――営利目的ではないらしい。これでひとつ、誘拐された理由が消えた。続けて絞り込みを試みる。
「お姉さんの目的って、グレイさんを家に連れて帰ることじゃなかったの? 僕、関係なくない?」
「別件です」
「……ふぅん」
グレイが説得に応じないことを受けて、彼が親しくしている人の安全を交換条件に帰省を強要するつもりかと考えたが、まったく違うらしい。もっとも、彼女がグレイを迎えに来てから何ヶ月も経過している。実行するにしてはいまさら感が漂うため、可能性は低いと思っていたが。
ともあれ、これで誘拐の理由が営利目的でも脅迫材料目的でもなく、ローディ自身にあることが判明したわけだ。人質扱いなら一定の安全が約束されるため気楽でいられたのだが、彼女の目的がローディにある以上はそういうわけにはいかない。最悪のケースまで想定する必要がある。
ならば、少しでも有利な状況を作り出すためにもまずは情報だ。会話を引き延ばして、敵の言葉から状況を読み解くのだ。
腹を据えた途端、三方を取り囲んだまま微動だにしない男たちの存在が不気味に思えてきたのだから困る。ローディは彼らの気配に集中力を削られながらも、改めてメイドに相対した。
「そういえば言ってたね。僕に用があるんだっけ?」
「はい」
メイドの水色の目が、夜光塗料のように光る。
「とあるお方が、あなたの頭脳を欲しておいでです」
それだけを言うと、彼女は唇をぴったりと閉じた。そしてすべての動きを停止させること、一秒。
《初めまして、ローディ・ワイズ博士》
メイドの口が再び動き出したとき、その声は聞き覚えのないものに変わっていた。
《少しばかり訳があってね。悪いけど、操り人形の口を借りて話をさせてもらうよ》
男の声だ。リュシエールやグレイと張れるほどの美声である。加工音声特有のべったり感がないから、十中八九肉声だろう。そして、おそらく声の主は若い。年齢は二十代から三十代といったところか。
《強引な招待になってしまったけど、気分を害さないでくれるかな。これでも、こちらができる最大限の配慮はしてあげたつもりだからね》
そして、美しいが嫌味な声である。言葉のひとつひとつに含み笑いが紛れているせいだ。この男からも、メイドとは違うタイプの不快な臭いがする。
ローディは軽く息を吐き、メイドの口を使って話す男を睨みつけた。
「言ってもいいかな」
《何?》
「まずひとつ目。顔を見せないどころか名乗りもしない人と話をする気はないよ。僕のこと、馬鹿にしてる? ふたつ目。僕は博士号を持ってないから、博士呼ばわりされるいわれはないんだよね。リップサービスのつもりなら取り消してよ。不愉快だ」
愚弄と取られてもおかしくない言葉を言い放ったにも関わらず、周囲の男たちは微動だにしない。それどころか、いっさい動かず無表情なままのメイドから、笑い声がこぼれ聞こえてきた。
《ふふふっ。どこかもわからない場所に拉致監禁されて、武器もなく、一対四で多勢に無勢。そんな状況下でも強気な言葉を吐けるとはね。ますますもって面白いよ、君》
これは完全に格下に対する態度だ。
ますますもって面白くない。
「それはどーもォ」
嫌味を混ぜて返すと、男の声が笑みを強めた。不本意だがお気に召したらしい。その証拠に、男が切り出したのは思いのほかすぐだった。
《さっきも言ったけど、訳ありなんだ。名乗ったが最後、僕を追ってる駄犬たちにかぎつけられかねないからね。勘弁してもらうしかないな》
「駄犬~?」
《詳細は、秘密》
くすくす、くすくす。
(うわぁ、むっかつくぅ)
そう思ったのが顔に出たのかどうかはわからないが、話の軌道修正は速かった。
《僕はある組織の首領だ。必要なら、肩書きを呼び名として使えばいい》
「あっそう。ひとまず、あなたがどこぞのお偉いさんだってことは理解したよ」
《それは結構なことだね。あとは……君を博士と呼ぶ理由か。別にお世辞でもなんでもないよ。社会から与えられる地位は関係ない。そういう肩書きを君に与えたいという、僕の意志表示だ》
話が急にきな臭くなったと感じるのは、気のせいなのか真実なのか。
ローディはわざと口端を吊り上げてみせる。
「僕の頭脳が欲しいとかいう話のこと?」
《そう》
笑みと余裕をまったく失わない声が腹立たしい。そして、女性の口から男性の声が聞こえてくるのが心底気持ち悪い。
《最初は単なる好奇心だったんだけど、観察すればするほど君のことが面白くなってきてね。気に入ったんだ。ぜひ僕の下で働いてもらいたい》
これはつまり、噂に聞くヘッドハンティングらしい。
理解してしまえば対応は易い。ローディは笑いまじりに問うた。
「時給はいくらですかー?」
《ふふっ。もちろん臨時だの派遣だの、そんな中途半端なことをさせるつもりはないよ。君には幹部の椅子を用意する》
「幹部とはまた、大きく出たねぇ」
《君の個性と才能には、それだけの価値がある。謙遜することはないよ》
いつから観察され、ローディのどこに興味を持つに至ったのかはわからないが、どうやら一組織のトップだというこの男にずいぶんと気に入られているらしい。幹部と言うからには、最低でも局長クラスの権限が与えられるのだろう。彼が話した以上の好待遇も待っていそうだ。
ローディは口元を緩めて、メイドの向こう側を見据える。
「僕に何をさせるつもり?」
《何でも。実験でも開発でも、好奇心の赴くままに手を出せばいい》
なぜだろう。メイドには表情がないのに、笑っているように見える。
《ねぇ博士。社会の仕組みに息苦しさを感じたことはないかい? 何かをしようとするたびに、申請書類だ確認だ許可だと回りくどいことを強要されて、雑事に貴重な時間を奪われることに苛立ったことはないかい?》
――ないと言えば嘘になる。面倒な上に時間もかかる許可申請に、苛立つところまでは行かなくとも嫌気が差すのはいつものことだ。
同意の気配を察したか、首領の声が熱を帯びる。
《才能は、自由であってこそ伸びるものだよ。常識だの形式だのというつまらない固定観念は、足枷でしかない》
「そうだね。斬新な発想は、初めは一般人には理解されずに異端扱いされるものって、相場が決まってるしね。頭の固い連中のせいで、先人たちの偉大なアイディアがどれだけ犠牲になってきたか……。想像しただけで涙が出るよ」
《でも僕は、そんな無駄なことはしない。絶対にね》
くすくすと、声が響く。
《ローディ・ワイズ博士。君は真の天才だ。この僕が断言しよう。だからこそ、これ以上低レベルな人間たちと関わるべきじゃない。君は自分の才能を発揮することだけに集中すべきだ》
熱心な説得はひどく魅力的で、なるほど、カリスマとはこういうことを指して言うのだろうかと、そんな気持ちが湧いてくる。
《僕の元へ来るといい。自由をあげよう。常識も、ルールも、倫理観も、すべてが無用だ。ありとあらゆることをさせてあげるよ。それが自然破壊や人体実験であっても、存分にね。さぁ、一緒にくだらない世界をぶち壊そうじゃないか》
好待遇と強力で魅力ある上司。転職先としては最高の話だ。
が、
「やめとくよ」
結論は決まっていた。
この男はいかにも気持ちがわかるふうを装って説得を試みているが、実際は何もわかっていない。ローディが世界平和連盟に入った真意も、そこに賭けた希望も、まるでわかっていない。ならば首を縦に振る価値はない。
ローディは微笑み、肩をすくめた。
「僕の実力を買ってくれてるのは嬉しいけどね、あなたの言う『自由』とやらには興味ないんだ。だから、この話はなかったことにしてくれない?」
《……ふぅん。それは残念だね》
台詞に反して、首領の声には驚きも落胆もまったく見当たらなかった。むしろ笑い声が増した気さえする。
《あぁ、気にしなくていいよ。そういう返事が来ることも予想していたからね。君は本当に面白いから、僕の話相手になれるんじゃないかと期待してたぶん、残念ではあるけど》
くつくつと喉を鳴らす音がする。
本当に、なぜなのだろう。メイドは相変わらずの無表情だというのに、舌なめずりをしているように見える。
《それが君の選択なら仕方ないね。じゃあ頭だけ連れて帰るとしよう》
首領の言った言葉の意味が、まったく理解できなかった。しかし意味はわからないままに、どこかで血の気が下がる音がした。
「な、何を言ってるのさ……?」
《言葉のままだよ。僕がいちばん欲しいのは、君の天才的な頭脳だ。おまけで君の自我もついてくればいいなと思ったけど、それが叶わないならしょうがない。あまり贅沢を言ってはいけないよね。ふふっ》
次の瞬間、周囲で三人の男たちが動いた。まったく同じ動作で、同じスピードで、懐から出したのは拳銃だ。この状況下でまさか玩具だなどということはあるまい。
《僕が作った人形に君の脳を埋め込めば問題ない。陶器ではなくて、君好みの機械の体を与えてあげてもいいね。あぁ、首に魔法をかけて『叡智を喋る生首』にするのも楽しそうだ。そうして自分の首をすげる体を君自身に作らせるのはどうだい? ふふふっ》
三つの銃口を向けられ、具体的な例を挙げられては、理解するなと言うほうが逆に無理な話である。
(えっ、えげつない! なんかこの人すっごくえげつなーいっ!)
言葉の端々から漏れているのは感じていたが、これほどまでの危険思考の持ち主だとは思わなかった。もはや『危険嗜好』だ。怖すぎる。
「ちょっと待ってよ! どっちを選んでも僕は損するって、どーいうことなのさっ!」
《君と交渉をするつもりはないって、この女が伝えなかったか? むしろ選択の余地を与えてやっただけ感謝してほしいね。君の意志を聞かずに、さっさと生首にしてあげても良かったんだよ?》
「うっ……」
無理だ。完全に飲まれているのがわかる。背筋が汗で冷たい。指先にしびれが根付いている。こんな状態では勝てるわけがない。
思わず怯えたローディは、しかし呑気に震えている場合ではないと気づいたのもすぐだった。
武器を所持していない上に近接で一対四の状況である。戦って相手を倒すのは不可能だ。ならば逃げるしかない。まずはどうにかして相手の隙を突き、外に出るのだ。大通りまで出ればきっと目撃者が出ることを恐れて派手な犯罪行為は控える――――
(駄目だ。そんなことしたら被害者が出るっ)
ローディをさらうときにメイドが言っていたではないか。目撃者をいちいち殺すのは面倒だと。むやみに人がいる場所に出たら目撃者潰しと称して虐殺されかねない。それだけでなく、一般人を人質に取られてしまえば逆らうすべが完全になくなってしまう。
(どうしようっ。どうしたらいいっ?)
ざらつく埃を握りしめ、考える。しかし思考がちぎれてまとまらない。焦燥感が先走って止まらない。天才だ何だと好き勝手褒められる頭を持っているくせに、肝心なときに限ってまったく使い物にならないのだからたまらない。それでも、あきらめたら終わりだ。ローディは奥歯を噛みしめ、突破口を探して周囲に視線を走らせる。
とそのとき、不意に黒い影が視界をよぎった。反射的に動揺したものの、それが窓の外にぶら下がっているコウモリだと気づいてしまうまでだ。正体がわかれば逆に冷静になれる。いや、この場合はむしろ、状況も忘れて呆然としたと言うべきかもしれないが。
(なんでコウモリ?)
住処になるような森や山が近い場所なのかもしれない。あるいは、人家の屋根裏などを住処にするタイプのコウモリであるという可能性もある。ローディが街中で目撃したのはこれが初めてだが、世界的に見ればさほど珍しいことではない。しかし、違和感があった。具体的な理由までは認識できない。それでも、ここにコウモリが現れたという事実が引っかかった。何か、些細な現象に見えて、とてつもない布石のような。
(――布石?)
《じゃあね、博士》
ぐるりと巡った思考が、首領の声によって現実に引き戻された。慌ててメイドに目を移す。
《バイバイ。さっさとあきらめて首を差し出すといい。それが嫌なら、せいぜい無様にあがいて僕を楽しませてよ》
首領の嘲笑が音量を落とすようにフェードアウトしていった。完全に男の声が消えるのと入れ替わりに、口以外は微動だにしなかったメイドが動き出す。エプロンから出したのは掌サイズの拳銃だ。
「ちょーっと待って! 待ってったらー!」
大声で手を振りつつ制止する。するとメイドが、右手で握った銃を無遠慮なほど適当に腰のあたりで構えてから、目蓋をわずかに下ろした。
「命乞いですか。見苦しいですね。ご主人様はさぞお喜びでしょう」
「あっそう! 良かったね! って、そうじゃなくてっ」
ローディは身を乗り出した。その流れで床から腰を上げ、膝をつく。
「僕の首を切って持ち帰るつもりなんじゃないの~っ? なのになんでそこで出すのがナイフでも斧でものこぎりでもなくて銃なのさ! しかもきみは魔法を使えるのに! あぁもう、合理的じゃなーいっ! 許せなーいっ!」
床を叩きながら大声で指摘するとさすがの無表情メイドもひるんだのか、銃口がわずかに逸れた。
「魔法を使うと、魔力によって坊ちゃまがたに居場所を悟られるからです。それ以外に意味はありません」
「だったらね、せめて道具は選ぼうよっ。フォークでスープを飲もうとは思わないでしょっ? きみはスプーンでステーキを食べるのっ? いーいっ? 道具には機能美ってものがあるんだよっ! なのにそれを一切合切無視してしっちゃかめっちゃかな使い方をするなっ! 一技術開発者として涙が出るよっ! もーっ!」
言いたいだけ言い放ってローディは、両手で顔を覆った。
――これは勘だ。同時に、確信でもあった。思考にわずかばかり染みついている確信は、条件反射や無意識の行動という言葉に置き換えられる『約束事』に似ている。そう感じることもまた、ただの勘に過ぎない。それでも。
(ここで素直に殺されてやるくらいなら、僕は賭けるッ!)
コウモリの飛び立つ音が合図。
ローディは息を止めて床を蹴った。




