最小の太陽-1
それはヴィクスがOWBstと契約してから初めての、緊急出動要請だった。
普段は公安軍に帯同している軍属の医療班が対処するが、彼らの手に負えない事態が発生した場合に限り、ヴィクスに要請がかかる。よって、エイムズから電話がかかってきた時点で難解な仕事であることは確定済みだ。しかしさすがのヴィクスも、最初の患者がまさか密猟団に傷つけられたドラゴンになるとは予想だにしていなかった。
世界平和連盟本部内に設置された魔法転移ターミナルを使い、跳んだ先は、メイフォリア大陸支部。
「遅いですよ!」
到着と同時に開口一番でそう言い放ったグレイのダークスーツは土埃で汚れていた。苛立ちの表情を向けられることが多い相手だが、通常とは違う真剣さがある。何より、他の誰でもなくグレイがここまで出向いたことが『最悪』の証拠だ。
ヴィクスは医療道具が入ったアタッシュケースを強く握り直し、小走りでターミナルを出る。
「これでもできる限りの最速だ。それで、ドラゴンの容態は? 毒の進行は早いのか?」
「ええ」
端正な顔にしわが浮かんだ。彼もまた大股で近づいてくる。
「素人目にも衰弱スピードが異常です。しかもドラゴンに威嚇されて近づけないせいで、毒の種類が特定できてません」
「ったく……何やってんだ、医療スタッフはっ」
毒づいたところで、グレイがヴィクスの腕を掴んだ。
目が合う。
瞬間、アイスブルーの瞳が一度だけ揺れた。
それとともに察する。最悪な状態に陥っているのはドラゴンだけではないのだと。
ヴィクスは腹に力を入れた。『敵』にすがりつきたくなっている馬鹿を睨みつける。
「とっとと連れてけ! 何のためにお前が出てきたんだっ!」
グレイが一瞬息を止め、眉を吊り上げた。
「言われなくても!」
直後、視界が消えた。照明を切ったかのような暗転は一秒もない。明るさが戻ったとき、景色は浅緑色の灌木と草の中に立つ、白木の森林と岩壁に囲まれた広いスペースになっていた。フェウドーという名の森だ。
同じ初夏でもバーゼル大陸と比べて気温が低い。そんなメイフォリア独特の気候の中、岩壁を背にしてうずくまるドラゴンの巨体と、現場を遠巻きにして立ち尽くす医療班の男たちがいる。ローディとジオラルド、そして医療班の護衛で残ったのだろう軍人二人以外の姿がないのが気にかかるが、自分のすべきことは軍の動きを把握することではない。ヴィクスは腹を据えて『患者たち』を見据えた。
ヴィクスから手を離したグレイが駆け寄る先には、土の上に両膝をつき、両手で耳を塞いだ格好でうずくまるリュシエールがいる。その体は遠目でもわかるほど震えていた。ハンディキャップを背負っている彼女をこのまま放置したら、行き着く先に待っているのは精神崩壊だ。
一方で、小山ほどの大きさがある灰色のドラゴンは、見た目は穏やかなものだった。しかし、急速に体内をむしばまれる苦痛は相当なもののはずだ。それでも、ドラゴンは幻獣の中でも特に高いプライドを持つ生き物である。居並ぶ人間たちに無様な姿をさらすまいと耐えているのだろう。
(ほんとにどいつもこいつも時間がねえな)
ヴィクスは息をひとつ吐いて心を整え、岩壁に向き直った。ゆっくりとドラゴンに近づき、長い首を伸ばしても届かない距離を取って足を止める。
「俺はヴィクス・ブランドナー。医者をやってる」
鱗に艶がなく、爪がところどころ茶色く欠けているところからして、おそらくは老竜だ。うっすらと開いたドラゴンの目からは迫力と深い威厳が感じられる。
数千年もの長い時間を生きてきた経験に合わせ、ドラゴンは人間以上の知能を持つ。虚偽は必ず見破られるだろう。ヴィクスはひとことずつ慎重に選び、話しかけた。
「人間の勝手で迷惑をかけた。本当に申し訳ない。俺は人間だが、幻獣のことも勉強してる。だから俺に治療させてくれないか。騒がせた詫びに、あんたを助けたい」
ドラゴンはしばし熟考するようにヴィクスを窺っていたが、ふと、目元から力を抜いた。表情と気配が穏やかになったドラゴンは、目を伏せ、首を振る。
この老ドラゴンは、ヴィクスのことを受け入れた上で何かを拒絶している。
――違う。
何か、ではない。自分はその答えを心の奥底で察している。絶対に認めたくない、気づきたくないことであることもだ。
焦りで心がじわりと焦げる。
痛い。
時間がない。
ヴィクスは思わず、一歩前へ――――
「じいちゃんに触るなぁぁぁっ!」
明後日の方向から甲高い怒鳴り声が飛んできた。遅れて声と足音が聞こえたほうへと顔を振ったヴィクスの目に入ってきたのは、ドラゴンの陰から飛び出してきた人影だ。
それは、明るいオレンジ色の髪をした少年だった。
何歳だろうか。少なくとも一桁ではあるだろう。伸び放題の髪も、身につけているのは薄汚れた大きめのTシャツのみという格好も、おおよそ人里でまっとうに暮らしている様子ではない。いや、そもそも人間だろうか。人にしては髪の色が鮮やかすぎる。
不意打ちと疑問とで言葉を失ったヴィクスから目を逸らさず、少年がドラゴンとの間に割って入ってきた。両腕を横に広げ、一生懸命に睨みつけてくる。
「じいちゃんに触るなッ!」
護ろうというのか。瀕死のドラゴンを。小さな体で。
気づくとともに、少年が発した言葉を理解する。少年がこんな場所にいる理由はわからないがそれでも、『じいちゃん』と呼んだ少年にとってドラゴンが親しい存在であることは確定だ。ならば自分が取るべき行動はひとつである。
「ちび、よく聞け。爺さんは体に毒を入れられた。早く治療しねえと死んじまうんだ」
少年の眼差しが揺らいだ。しかし警戒心が解けない。
構わずヴィクスは続けた。
「俺は医者だ。怪我してる奴や病気になってる奴を治すために来たんだ。頼む、治療させてくれ。爺さんを助けたいんだ」
少年の口がへの字に歪む。泣き出す寸前の顔で、しかし首を横に振ってしまう。
「やだっ! じいちゃんに触るなっ!」
「お前っ、爺さんが死んでもいいのかっ?」
「やだよっ! でもっ、でもじいちゃんのこといじめたくせに! みんなでいじめたくせに助けたいとか言うなぁッ!」
――あぁ、そうか。こいつは人間が全員同じに見えてるのか。
すとん、と納得が胸に落ちる。
間違いない。この少年は同族社会からはぐれ、ドラゴンに育てられたのだ。語弊なく、このドラゴンは家族なのだ。
(だったらなおさら譲れねえよ!)
ヴィクスは拳を握った。一歩前へ。
「俺は爺さんとお前の敵じゃねえ! あんな雑魚連中と同レベル扱いすんなっ!」
少年の体がびくついた。後ずさったその体を、ドラゴンの鼻先が撫でる。なだめるような仕草は、しかし次の瞬間、乱暴に子供を地面に押しつけ倒していた。突然のことに驚く間もない。ドラゴンが鎌首を上げ、左側の森を向いた。口端を震わせてうなる。
何かがいるのだ。おそらくは敵が。
ヴィクスはドラゴンの視線の先を追った。
「誰だっ!」
誰何するなり銃声が鳴った。二メートルほど離れた地面が小さく弾ける。
動揺してか悲鳴を上げる医療班の前に、軍人二人が銃を構えて出る。しかしそれをドラゴンがまたもうなって威嚇した。彼も少年と同じように敵味方の区別がついていないのか。
「爺さん! こいつらは敵じゃねえ!」
ドラゴンが首を下げて少年を抱き込んだ。そして、ヴィクスへと視線を合わせる。
潤んだ黒い瞳は、優しい。
「?」
疑問で硬直したヴィクスの足元を、新たな銃弾が穿った。それによって我に返るのと、反対側の森から人影が飛び出てきたのは同時だ。
「ジオっ?」
「伏せろ!」
駆け寄るなり突き飛ばされ、転倒した。
――タァーンッ!
右で響いた高い銃声。
空気が鳴り、過ぎる。
ヴィクスの胸を押さえ、姿勢を極限まで低くしていたジオラルドが、すばやく上体を起こした。左側の森を見、口早に告げる。
「被弾を確認。これより逃走者を捕縛する」
問う間もなく走り去ったジオラルドと入れ替わりに、右側の森から姿を現したのはローディだ。ジオラルドと同じダークネイビーブルーの戦闘服に身を包み、いつもは首の後ろでまとめている長髪を頭の高いところで結った彼が駆け寄ってくる。
「よ、良かった、間に合った。的、外しちゃったけどっ、ぜぇ、ぜぇ、げほげほっ。……軌道が安定しないのも、問題だけど、やっぱりターゲッティングが遅すぎて腹立つぅっ」
ライフルタイプの麻酔銃を両手で持ったままヴィクスの横に膝をつき、肩で息をしている彼の言い草に、片眉を上げる。
「ジオは被弾したって言ってたぞ?」
「あぁ、いや、当てたいところに、当てられなかったってだけなんで……気にしないで、ください。げほっ、げほっ」
ローディが銃身を支えていた手を離し、横を指差す。
「それより早く、ドラゴンをっ」
言われ、我に返って急いで振り返ったヴィクスは、状況を見定め、奥歯をぎりりと鳴らした。
ドラゴンの呼吸が荒く不規則になっている。痙攣も始まっている。毒が中枢神経に達したのだ。
ヴィクスはアタッシュケースを開いた。症状からある程度は毒の種類が予想できる。ならば、解毒は無理でも進行を遅らせることが可能だ。中から迷うことなくひとつの薬剤を引っ掴み、注射器を取った。薬を移すとすぐさま空の容器を放り投げ、ドラゴンに駆け寄る。
と、ドラゴンと目が合った。歯を剥いて吠えかかられ、思わず足が止まる。その隙に、少年が注射器を持った右腕に飛びついてきた。
「じいちゃんに触るなぁっ!」
「どけっ! 本当に死なせたいのかっ?」
「やだよ! じいちゃんに逢えなくなるなんてやだ! でも、でもじいちゃんが嫌だって……じいちゃんがぁっ!」
泣きながらの訴えが、容赦なくヴィクスが目を逸らしたかった事実を突きつけてきた。
やはり彼は治療を拒否している。ドラゴン種族に比べれば下等な生き物である人間に助けられるのは我慢ならないのだろうか。戦って死ぬことをよしとする思想を持つとも聞く。そのためか。
どちらにしろ患者が何を望んでいるのかを知った以上、意志を無視した治療を続けるなど赦されない。強制的に続けたら、それはただの傲慢だ。わかっている。それでも、自分は医者なのだ。命を救うのが仕事なのだ。一人でも多く苦しんでいる者たちを助けるために存在しているのだ。
「爺さん!」
ヴィクスは少年を引きずりながらドラゴンに近寄った。
「治療させろ! あんたはそれでいいかもしれねえが、こいつはどうなる!」
空いている手で老竜の体を叩く。
「親代わりだったんじゃねえのか! あんたがいなくなったらこいつは独りだぞっ! わかってんのかよっ! それとも、子供を残して逝くことよりプライドのほうが大事だってのかっ? なぁっ!」
ありえない体温の高さが掌に伝わる。痙攣も激しくなっている。
「なぁ、頼むから治療させてくれっ」
右腕が湿っていく。もうずぶ濡れだ。
「爺さん、頼むっ。頼むから! ……っまた患者を死なせるのはごめんだっ!」
ドラゴンが、震えながら動き出した。
首を天高く伸ばし、力を振り絞って、吠える。
長く長く、遠く遠く、力強く、どこか優しい声――。
ゆっくりと声は細くなり、小さくなり、そして、ドラゴンは静かに、地へと倒れ伏した。
「じいちゃん……?」
少年が、腕から離れる。
「じいちゃんっ」
突っ立ったまま、天を仰ぐ。
「じいちゃん……じいちゃぁんっ。う、うぁあぁぁぁーっ、ぅあああああぁーんっ! じいちゃああああんっ!」
「…………」
ドラゴンの身に起こったことは、きっとこの場にいる誰もがわかっている。それでも、事実を確かめなければならない。これは医者の責務だ。
ヴィクスは、離れた手をドラゴンに置き直した。鱗をなぞり、脈を探す。そして鼓動と呼吸が止まっていることを、確認した。
患者は、死んだ。
「リュシエール!」
背後で悲鳴じみた声が。
振り返り、見ると、力なくグレイの胸に体を預けるリュシエールがいた。暗くよどんだエメラルドグリーンの目がドラゴンを見ている。いつも表情豊かな顔が、今はまるで白い仮面だ。周囲を突き放す冷淡さは、天使の傲慢で冷酷な一面を端的に表している。しかしそんな表情で、リュシエールは涙を流していた。スーツが濡れるほど、泣いていた。
(限界が来たか)
鎮静剤を――用意しようと思った直後、ヴィクスは自身で自身の判断に首を振った。リュシエールは地属性の天使だ。他者の心を受け取って肩代わりしまう体質を持つ。こんな荒れた感情のままでは、彼女の『毒』になる。近づくわけにはいかない。
「グレイ」
その場から声を上げ、振り返った友人の伴侶を促す。
「早くここから離れろ」
するとグレイは、悔しげに唇噛んでからローディに目を振った。
「リュシエールを休ませてきます。軍の方と一緒に撤収して、先に本部へ戻ってください」
「わかりました」
グレイがリュシエールを抱き上げ、転移すると、ローディもまたふらつく体で立ち上がった。袖で目元を拭き、森を見やりながら話し始める。相手はおそらく通信を繋げたジオラルドだろう。医療スタッフと軍人たちも、本隊と合流するため準備を始めた。
複数の人間が動いている。なのに、静かだ。物音と小声と子供の嗚咽しか聞こえない。
ヴィクスは一人、死なせてしまった患者に向き直る。目を伏せ、顔を伏せ、奥歯を噛みしめる。
(……すまねえ)
患者の死にいちいち付き合っていたら身が持たないことくらいわかっている。世話になった先輩医師にも、何度説教されたことか。それでも――頭ではわかっていても、感情は割り切れない。
(すまねえ)
懸命に働いてきた。人間以外の種族も診てあげられるよう勉強と研究に明け暮れてきた。しかし助けられなければ意味がない。救えなければ意味がない。知識があり、技術があって、それでも死なせてしまったのなら、それは殺したも同然だ。
(すまねえ)
涙はない。
あるのはいつも、無力な自分に対する怒りだけ。
(爺さん。あんたの家族を泣かせて、すまねえ)
ふと。
右腕を下に引っ張られた。
見れば、一生懸命嗚咽を止めようとしている子供が、ヴィクスの手首を力いっぱい握っている。
「どうした?」
「じっ、じいちゃんっ、ついてけってっ。おっちゃんにっ、ついていけって!」
「え?」
いったいいつ、どうやって、ドラゴンがそんな話をしたというのか。
生じた疑問はしかし、親代わりをなくしたばかりの子供を、人の住んでいる気配がない森の中に置き去りにするわけにはいかないという結論でうやむやになる。ヴィクスは体ごと彼に向き直った。その場に膝をついて目線を合わせ、意識して口端を上げる。
「俺の名前は、ヴィクスだ。ヴィクス・ブランドナー。お前は?」
問うと、オレンジ色の髪が揺れた。両手で涙をぐしゃぐしゃと拭き、明るい栗色の双眸でヴィクスをまっすぐに見る。誇らしげに、胸を張って。
「サニー」
横一文字になった口元から伝わる気丈さは『祖父』譲り、といったところか。
ヴィクスは頬を緩めてサニーの頭を撫で叩き、立ち上がった。転がったままのアタッシュケースを閉じて持ち、立ち尽くしている子供にもう片方の手を差し出す。
「ほら、行くぞ」
するとサニーは一度だけ養い親を振り返り、
「うんっ!」
いまだ涙を流しながらも、太陽の名に恥じない笑顔で駆け寄ってきた。




