その5 筆跡は本物?
──ビレット邸を後にしたソフィーとスコットは、グレイストン病院を訪ねた。
スコットが係の者に話すと、医師の立ち会いのもと、病室に案内される。
あらためて、ベッドで横たわる父の姿に、ソフィーは息を呑んだ。
ソフィーは父の手を握り、包帯が巻かれた頭にふるえる手をかざす。
「先生、父の具合はどうなのでしょうか?」
「一命はとりとめましたが、後のことは何とも言えません。主の御心しだいでしょう」
「そうですか……」
ソフィーは横たわる父の手を握り、じっと見つめる。
「スコット様、父の手をご覧ください」
「なんです?」
スコットが覗き込んだ。
「指輪に、まだインクが乾かずに残っています。判を押してから1日も経っていないようですね」
「インクなんか付いてますか?」
「指輪の溝の部分をよく見てください。わずかに、乾いていないインクが残っているでしょう?」
「なるほど。でも、それがどうかしたんですか? 何かの手がかりなのですか?」
「いえ、何も。今は事実を覚えておくだけです。スコット様、父は先生たちに任せて、私たちはもう参りましょうか」
──
──病院を出ようとしたソフィーとスコットの前に、ペンとメモをもった男が立ちはだかった。街報紙の記者だ。
「ソフィー・ビレットさんですね? ロバート・ビレット氏の容態は悪いのでしょうか?」
スコットは記者のずけずけとした態度に、眉をひそめた。
「君ね、もう少し言い方というものを……」
「父の容態はよくありませんわ」
ソフィーがスコットをさえぎって説明する。
「ほんとに!? それで、ドクターはなんと?」
「1週間もつかどうかわからないそうです……。ましてや、意識を取り戻すことはないでしょう、と……」
ソフィーは顔を伏せ、目に手を当てた。
「そうですか! それでは、私はこれで」
記者は、喜びを抑えるようにして、小走りで去って行った。
──記者がいなくなると、スコットが驚いたようにたずねた。
「……ソフィー、なぜビレット氏が危篤であるかのように言ったのです?」
「……念のため、ですわ」
◇ ◇ ◇
──ソフィーとスコットが屋敷に戻ると、執事のブラントが出迎えた。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。旦那さまの具合はいかがでしたか……?」
心配そうにたずねるブラントに、ソフィーは答えず、逆に質問した。
「ガルウッドさんはどちらに?」
「家にお帰りになったようですよ」
「婚姻届けを持って?」
「さあ……。存じませんが」
「そう……ありがとう」
──ブラントがいなくなってから、ソフィーが口を開いた。
「スコット様、私はこれからガルウッドさんのお宅を訪ねます。……父のサインが入った書類を持って」
「はあ……。でもどうして?」
「あの婚姻届けのサインの筆跡を確認します」
「筆跡を? それじゃあ、あの婚姻届けは偽造だというのですか?」
「わかりません。ですから、それを確かめます。もし筆跡が違っていれば、婚姻届けは無効ですし、それどころか偽造自体が犯罪です。そうなれば、父を襲った犯人が彼女なのも明らかですしね」
「では、ソフィー、もしや、ガルウッドさんが犯人だと言うのですか……?」
「ここまでの状況から考えて、いちばん怪しいのは彼女ですからね。……スコット様、私が彼女を疑っていること、誰にも言わないでくださいますか?」
「も、もちろんです」
スコットは胸を叩いた。
「父は言っていたのです。『あの女は財産目当てだ』と」
「なるほど。それなら、ビレット氏が婚姻届けにサインするはずがありませんね」
「はい。でも現にサインはあります。もし、あれが受理されたら、法律上は、私はガルウッドさんの娘になります」
「確かにそうですね」
「しかし、もし父が意識を取り戻せば、話は別です。ですから、ガルウッドさんは、どうしても父を……」
「……亡き者にしなければいけない、と……?」
「……はい」
「それで、さっき記者にうそをついたのですね」
「父が快復するかどうかはわかりませんが、危篤だと知れば、ガルウッドさんは安心するでしょう」
「……なるほど。ソフィーはそこまで考えて……。いや、私は、まったく考えが及びませんでした」
「スコット様、私の気持ちをお察しください。父が重体なうえ、私とそう歳の変わらない女性が、私の義母になるなどと、考えたくもありませんわ」
ソフィーの口調は意外なほど冷静だった。危機が訪れると却って平静になることもある。スコットは経験でそれを知っていた。
「わかりました。私も同行しましょう」
◇ ◇ ◇
──ソフィーたちはアンナ・ガルウッドの屋敷を訪ねた。
通りに面した立派な屋敷は、アンナの亡夫の資産をうかがわせるが、それが今の彼女にとっての負担になっていた。
呼び鈴を引いて待つあいだ、スコットはソフィーが玄関のドアマットをじっと見ていることに気づいた。
「ソフィー、何を見ているんです?」
「いえ、ちょっと……」
ソフィーは屈むと、なにかゴミのようなものを拾った。
「なんです? それは」
「種ですね。花の種です」
ソフィーは種を懐紙に包むと、懐にしまった。
「そんなものを拾ってどうするんです?」
ソフィーが答えようとすると、使用人が現れ2人を中に通した。玄関を通るとホールでアンナが迎え出た。
「あら、ソフィー。あなたがこの屋敷に来るなんて初めてね。スコット様もご一緒で」
中に進むと、ソフィーは応接間を素早くぐるりと見まわした。
「暖炉に火を入れているんですか、ガルウッドさん。今日は温かいですよ」
「ええ、ちょっと湿気があるようなのでね。それに、あなたたちにお茶をお淹れしようかと」
「それはどうも。暖炉で何かの書類を燃やしたのですか?」
「どうして?」
「いえ、紙の燃え残りが見えるので」
「え、ええ。処分する書類があったのよ」
「ところで、例の婚姻届けですけど、ガルウッドさん、あなたが保管しているのですか?」
「そうよ、ソフィー。だって、また泥棒が入ってはまずいでしょう?」
「そうですわね。『一度あることは二度ある』って言いますし。ちょっと見せていただけますか?」
「婚姻届けを? また? そんなに見てどうするの」
「見せられないわけでもおありですか?」
「とんでもない。いいわ、ちょっと待って」
アンナは寝室に向かい、1枚の書類を手に戻ってきた。例の婚姻届けだ。
「どうぞ」
アンナが差し出した婚姻届けを、ソフィーは受け取り、じっと見つめる。
「……これは普通の書類より小さいですね。こう言うと何ですが、こんな紙で婚姻届けを出そうとしたんですか?」
普通のものより明らかに小さい。見栄っ張りのアンナが、婚姻届けにこんなものを選んだという事実に、ソフィーは違和感を覚えた。
「紙や書式は関係ないのよ、ソフィー。2人のサインと、愛を誓う文言さえあれば受理されるの。世間には、良い紙が手に入らない方もいらっしゃるしね。愛に貴賤はないのよ」
「なるほど。おっしゃる通りです」
ソフィーは婚姻届けを応接室のテーブルに置くと、拡大鏡を取りだし、持参したビレット氏のサインの入った書類と見比べながら、詳細に観察した。
「何をしてるの? ソフィー」
「ちょっとサインの筆跡を見てるんです……」
「筆跡がわかるの? それも授業で習ったのかしら?」
「はい。細かく調べれば、筆跡の違いはわかるものなんです」
ソフィーは淡々と答え、長い間、サインの文字を調べていたが、やがて身を起こした。
「満足した?」
アンナが微笑んだ。
「はい、ガルウッドさん。たしかに、サインは本物です。この婚姻届けは有効ですね」
ソフィーは小さくため息をついた。
「もちろんよ」
ソフィーは婚姻届けを返した。受け取るアンナの顔は、どこか誇らしげに見えた。




