第十七部 粉挽き場の秤と、軽い銀貨の話 ④ 夜の来訪者
夜、診療所の裏庭で、リューリックは銀貨を分類していた。
粉挽き場で受け取った銀。
昨日の市で得た銅貨。
使えない削れ銀。
レヴォナ軽銀の見本。
それらを小さな布の上に並べている。
俺は寝台に座り、ニーナにもらった薬草茶を飲んでいた。
苦い。
だが、少し眠くなる。
痛み止めではない。
眠るための薬。
無茶をしないための薬。
俺には、たしかにそちらの方が必要なのかもしれない。
「殿下」
「何だ」
「レヴォナ軽銀の混入は、偶発ではない可能性がございます」
「だろうな」
「粉をまとめて買い、村の腹を押さえる。薬草や粉を、軽い銀で吸い上げる。重い銀を外へ出す。これが意図的であれば、単なる商売ではありません」
「貨幣戦争か」
「はい。少なくとも、貨幣を使った圧力です」
「レヴォナ自由都市がやっているのか」
「断定は危険です。自由都市の名を使う商人、ブリエン経由の流通、王国内の仲買、グランデル小銀の削れ。複数の線が混ざっております」
「混ざっていると、誰が得をしているか分かりにくい」
「その通りでございます」
リューリックは、軽い銀貨を一枚、指で弾いた。
音が高い。
中身が少ない音だ。
「この先、王国中央へ向かうにしても、ブリエン街道方面へ逸れるにしても、この線は無視できません」
「シーロへ行く前に、腹の中で揉めるわけか」
「ブリエンの南には海がございます。シーロへ出るにも、まずは腹と財布が持たねばなりません」
「地味だな」
「地味なものほど、国を長く削ります」
俺は茶を飲んだ。
苦い。
だが、体が少し温まる。
窓の外で、ニーナが居候老人と話している声がした。
「じいさん、明日の解熱薬、足りる?」
「足りん」
「言い方」
「足りないものは足りない」
「じゃあ、葛根と白根を混ぜる。効きは落ちるけど、熱を下げる補助にはなる」
「父親なら、そうする」
「……うん」
「お前なら、どうする」
「同じにする。でも、量を分ける。子ども優先」
「なら、そうしろ」
「うん」
短い会話。
だが、そこに父の空白があった。
老人は父ではない。
ニーナも、父の代わりを探しているわけではない。
ただ、父ならどうするかを通って、自分ならどうするかへ少しずつ進んでいる。
俺は、そういう会話を聞くと少し胸が痛くなる。
父。
ロダン王。
処刑台。
炎。
俺は、父ならどうするかを考えることを、どこかで避けてきた。
考えれば、自分が何もできなかったことに戻ってしまうからだ。
だが、ニーナは違う。
父の死んだ診療所で、父ならどうするかを毎日踏んでいる。
痛いはずだ。
それでも踏む。
俺は、茶碗を握った。
熱が手に残る。
「殿下」
リューリックが静かに言った。
「何だ」
「沈みかけておられます」
「椅子を減らすか」
「はい」
「なら、何か言え」
「本日の殿下の尊厳収支は、赤字です」
「もっと別の椅子を減らせ」
「しかし路銀収支は黒字でございます」
「帳尻が合ってるようで合ってない」
「人生とは、そういうものかと」
「急に雑な人生論にするな」
俺は笑った。
少しだけ沈みかけていたものが、茶の苦味と一緒に喉を通った。
リューリックは何も言わず、銀貨を布に包んだ。
◇
夜が深くなった頃、診療所の扉が叩かれた。
強い音ではない。
しかし、急いでいる音だった。
ニーナがすぐに出る。
俺とリューリックも、半歩遅れて診療所へ向かった。
戸口に立っていたのは、粉挽き場の下働きの少年だった。
息を切らしている。
「マルタさんが」
「怪我?」
ニーナが即座に訊く。
「違う。粉挽き場の裏に、さっきの商人が落としていった紙が。マルタさんが、ロドさんたちに見せろって」
少年は、油紙に包んだ小さな紙片を差し出した。
リューリックが受け取る。
開く。
そこには、短い符号と、地名らしきものがいくつか書かれていた。
レヴォナ。
ブリエン東口。
灰柳。
リンデン粉。
そして、最後に一つ。
青いインクで、小さく印が押されていた。
円ではない。
目でもない。
ヴィクトルが使っていた斜めの青い線三本でもない。
青いインクの、細い横線。
俺は、革袋の中の青い活字を思い出した。
真実、という意味の小さな鉛。
青いインク。
地下の印刷工。
だが、これはヴィクトルの線なのか。
それとも、別の誰かが青いインクを真似ているだけなのか。
分からない。
分からないことが、いちばん嫌な情報だ。
「リューリック」
「はい」
「青いインクか」
「断定はできません。正規網の印とは違います。ただ、偶然にしては、線が近すぎます」
ニーナが紙を見た。
「青いインクって、何?」
「地下の印刷屋で見た」
「地下?」
「ああ。国ではないが、人がいる場所だ」
ニーナは、少しだけ黙った。
粉。
薬。
銀。
青いインク。
小さなリンデンの夜に、大陸の線が集まってくる。
それは、大げさな陰謀の顔をしていなかった。
腹が空く。
薬草が買えない。
粉が足りない。
銀が軽い。
そういう、生活の顔をしていた。
「明日、マルタに詳しく聞く」
俺は言った。
「それと、灰柳とブリエン東口の意味も追えるかもしれない」
「はい」
リューリックが頷いた。
「殿下」
「何だ」
「王国中央へ向かう前に、リンデン周辺で少し調べる理由ができました」
「療養と路銀稼ぎのついでにか」
「はい。殿下の肩にも優しい調査です」
「本当か?」
「比較的」
「その比較対象は何だ」
「戦場です」
「ならだいたい優しいな」
ニーナが、俺を睨んだ。
「無茶は禁止」
「分かってる」
「実行」
「はい」
俺は紙片を見た。
青い細線。
軽い銀貨。
粉を押さえる商人。
薬を守るニーナ。
痛い肩。
空っぽの硝子管。
そして、少し戻った路銀。
次の道は、まだ見えない。
だが、道の下を水が流れ始めている。
地下水脈のように。
青いインクの色で。
──第十七話 了




