第十七部 粉挽き場の秤と、軽い銀貨の話 ③ 軽い銀貨
昼過ぎ、診療所からニーナがやってきた。
薬箱ではなく、布包みを抱えている。
中には昼飯が入っていた。
硬いパン。
豆の煮物。
薄い干し肉。
そして、薬草茶。
「差し入れ」
「優しいな」
「父さんの診療所に借りがあるって、マルタさんがくれた分もある」
「俺には?」
「悪い見本代」
「またその扱いか」
ニーナは粉挽き場の中を見た。
銀貨の皿。
秤。
赤い紐のついた順番札。
そして、俺の疲れた顔。
「大丈夫?」
「喋り疲れた」
「あんたの口でも疲れるんだ」
「俺の口は無限機関じゃない」
「少し安心した」
「なぜだ」
「疲れるなら、止まれるでしょ」
その言い方が、少しだけ胸に残った。
俺が疲れることを、彼女は安心材料にする。
倒れる前に止まれるという意味だろう。
痛いと言えるようになったこと。
疲れたと言えること。
それが、生きている側の証拠になる。
リューリックが茶を受け取りながら言った。
「ニーナ殿、先ほど、レヴォナ軽銀を大量に持ち込む商人が現れました」
「また?」
「はい。粉十袋の先買いを要求しました」
ニーナの顔が曇る。
「粉を押さえられると、診療所も困る。粥が作れない」
「やはり繋がりますね」
「薬も粉も、結局お腹に入るものだから」
「貨幣戦争というより、腹の戦争か」
俺が言うと、ニーナは頷いた。
「うん。お腹が空くと、人は薬の説明を聞けなくなる」
リューリックが、静かにその言葉を受けた。
「たいへん重要な観察です」
「そうなの?」
「はい。食えない地域では、軍も民も、判断が早く荒くなります。銀貨の軽さは、やがて人の判断まで軽くします」
「嫌な言い方」
「現実です」
ニーナは、少し考え込んだ。
手に持っていたパンを、半分に割る。
そのうち大きい方を、なぜか俺に渡した。
「食べて」
「俺の方が大きいぞ」
「あんた、口を使ったんでしょ」
「喋っただけだ」
「喋るのも体力使う」
「医療的判断か」
「うん」
俺はパンを受け取った。
硬い。
だが、うまい。
ニーナは、自分の分をかじりながら、銀貨の皿を見た。
「ねえ、レオン」
「何だ」
「お金が病気なら、薬ってあるのかな」
「リューリック」
「私に振られましても」
「家令の家系の副業で何とかしろ」
「貨幣制度は、家令の副業としてはやや広域です」
「珍しく弱気だな」
「専門外です」
ニーナが少し笑った。
「でも、あるなら見てみたい。お金の薬」
「たぶん、重さと信用だ」
俺は、思いつきで言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
「重さと信用?」
「ああ。軽い銀が嫌われるのは、重さが足りないからだ。名前が信用されないのは、誰が責任を持ってるか分からないからだ。なら、重さを量って、誰が保証するか決める。薬で言えば、成分と処方箋みたいなものだろ」
ニーナが、目を丸くした。
「……あんた、たまにまともなこと言うよね」
「たまに、は余計だ」
「ごめん。かなりたまに」
「増やすな」
リューリックが、口元をほんの少しだけ緩めた。
「殿下、今のご発言は記録価値がございます」
「やめろ。俺がまともだと後で使われる」
「使います」
「宣言するな」
粉挽き場に、少し笑いが戻った。
水車は回る。
銀貨は軽い。
村は不安だ。
それでも、パンを半分に割る手がある。
俺は、そういうものを最近よく見る。
国を語る時、昔の俺は大きな旗や軍の数を見ていた。
今は、パンの割り方を見る。
どちらが正しいかは分からない。
だが、たぶん今の俺の方が、国の腹に近いところを歩いている。
◇
夕方、粉挽き場の仕事が終わった。
銅貨と少しの銀貨が、俺たちの取り分として渡された。
多くはない。
だが、昨日より増えた。
路銀は、少しだけ息を吹き返した。
俺の尊厳は、さらに減った。
帳簿上は黒字。
心情上は、やや粉まみれである。
マルタが、俺たちに小さな粉袋を渡した。
「これも持っていきな」
「いいのか」
「ニーナの診療所に世話になった分の、端数だよ」
「俺たち宛てではないんじゃないか」
「あんたたちは、あの診療所の手伝いだろ」
「便宜上は」
「なら十分だ」
マルタは、俺の肩を見た。
「無理するんじゃないよ」
「今日は何人に言われただろうな」
「言われるうちは、生きてる」
ヘルマと同じことを言う。
エルゼとも似ている。
ニーナとも、少し。
働く女たちは、言葉の根っこがどこかでつながっているのかもしれない。
あるいは、生きた人間を毎日見ていると、同じ場所にたどり着くのか。
粉袋を受け取る。
軽い。
だが、これはちゃんと腹に入る重さだ。
銀貨より正直かもしれない。
粉挽き場を出る頃、空は薄く赤かった。
水車の音が背中で遠ざかる。
ニーナは、診療所へ戻る道で隣を歩いた。
リューリックは少し後ろ。
護衛というより、見守りの距離だ。
その距離感が少し面白くない。
見守るな。
いや、見守れ。
最近、俺の心は面倒だ。
「レオン」
「何だ」
「今日、ありがと」
「働いたからな」
「うん。働いた」
「死にかける以外で感謝されたのは久しぶりだ」
「それ、人生を見直した方がいいよ」
「そう思う」
ニーナは少し笑った。
その笑顔は、診療所で怒鳴っている時とは違う。
橋で痛み止めを折った時とも違う。
夕方の村道に合う、少し疲れた笑顔だった。
「でも、似合ってた」
「何が」
「悪い見本じゃなくて。村の人に笑われながら、ちゃんと間に立ってたところ」
「俺が?」
「うん」
「俺はただ喋ってただけだ」
「それで助かる時もあるんだよ」
ニーナは、前を見たまま言った。
「うちは薬を作る。父さんは昔、人を診た。じいさんは今も黙って手を貸す。マルタさんは粉を守る。リューリックさんは銀を量る。あんたは、場を少し笑わせる」
「俺だけ軽いな」
「軽いものがないと、重い場所って沈むよ」
俺は何も言えなかった。
ニーナは、時々こういうことを言う。
自分で言っておいて、照れる。
ほら、今も少し耳が赤い。
俺はそれを見て、少しだけ口元が緩んだ。
「何」
「いや」
「言いなさい」
「いいこと言うと耳が赤くなるな」
「うるさい」
ニーナは、俺の脇腹を小突こうとした。
すぐに手を止めた。
痛い場所を思い出したのだ。
その手が、空中で少し迷った。
そして、代わりに俺の袖を軽く引いた。
「そこ、段差」
「ああ」
段差を越える。
たったそれだけのことだ。
でも、袖を引いた手の温度が少し残った。
薬ではない。
包帯でもない。
ただ、段差を知らせる手。
そういうものが、一番危ない。
惚れるとか惚れないとか言う前に、体の方が先に覚える。
俺は、それが少し怖かった。




